あれは腹痛の薬ではなかったのかと不死人は言う 作:カズヤミサワP
初夏は、いつの間にか終わっていた。空から降り注ぐ日差しは日に日に強くなり、昼になると白い道が眩しく照り返すようになった。雨の降る日は減り、海から吹いてくる風も、以前ほど涼しくは感じられない。ミュレアにも、本格的な夏が来ていた。
季節が変わるまでの間、真継が大人しく村で暮らしていたわけではない。漁に出て、網を直し、荷を運ぶ。そうした村の仕事をしながら、アテライへ行けば街道の噂を聞いた。盗賊が出た、旅人が襲われた、奴隷狩りを見た者がいる。そんな話を聞けば、真継は暇を見つけて出ていった。新しく手に入れた曲刀を腰に差し、時には一人で、時にはガレネを連れて。
あるときは街道沿いの林に潜んでいた盗賊を潰し、またあるときは小さな集落を襲った奴隷狩りを追いかけた。さらに別の日には、捕らえた人々を縄で繋いで移動していた一団を見つけ、その頭目から先に斬った。どれも長い戦いにはならなかった。指揮をしている者を先に倒せば、残った者は大抵迷う。迷えば逃げる者が出る。逃げずに向かってくるなら、その次を倒すだけだった。
戦いが終われば、残った馬や武器、金、食料を回収し、それから捕らえられていた者たちの縄を切る。解放された者の多くは、それぞれの故郷へ帰っていった。馬が余っていれば渡し、食料も持たせた。
だが、全員が帰れるわけではない。村を焼かれた者、家族を失った者、故郷が遠すぎる者、帰ったところでもう何も残っていない者。そういう者には、真継は決まって同じことを聞いた。
「行くところはあるか」
ない、と答えれば、
「ならミュレアに来るか」
それだけだった。
そして、そういうことが何度か続いた。
♢
「……マツグ」
ある日の夕方、村へ戻ってきた真継を見て、テロンが低い声で呼んだ。
「何だ」
真継の後ろには九人いた。男が六人、女が二人、それにまだ幼い少年が一人。少し離れたところには、真継が連れて帰った馬も二頭いる。テロンは真継を見たあと、その後ろを見て、もう一度真継へ視線を戻した。
「増えてるな」
「ああ」
「何でだ」
「奴隷狩りを倒した」
「それは聞いてない」
真継は少し考えた。
「帰るところがないらしい」
「それも見ればだいたい分かる」
テロンは大きく息を吐いた。
「お前、人が増えれば面倒も増えるって分かったんじゃなかったのか?」
「分かってた」
「じゃあ何で増やしてるんだよ」
真継は振り返った。新しく連れてきた者たちは、少し離れたところで不安そうにこちらを見ている。
「街道に置いてくるわけにもいかんだろう」
「……それを言われると困るんだよ」
テロンが頭を掻いた。助けるな、と言いたいわけではないのだろう。真継にもそれくらいは分かった。だからといって、行き場のない者をそのまま放っておく気にもならない。
「とりあえず村長のところへ行くぞ」
「分かった」
「その前に何人いる?」
真継は振り返った。
「九人だ」
「珍しく覚えてるな」
「数えた」
「成長したじゃないか」
「俺を何だと思っている」
そこへ蝋板を持ったガレネが歩いてきた。
「マツグ、お帰りなさい」
「ああ」
ガレネは真継の顔を見たあと、その後ろに並ぶ人々を見た。笑顔が少し引きつる。
「……またですか?」
「まただ」
「何人です?」
「九人」
ガレネが数える。
「九人ですね」
「合ってるだろう」
「どうして得意そうなんです?」
「覚えていたからな」
「それは普通です」
ガレネはため息をつくと、新しく来た者たちのところへ向かった。
「名前と出身、それからできる仕事を聞きます。怪我をしている人がいたら、それも教えてください」
すでに慣れたものだった。村長を呼ぶより先に、ガレネは必要なことを聞き始める。真継はその横で見ていたが、途中でテロンに肩を叩かれた。
「お前も手伝え」
「何をだ」
「荷物を運べ」
「分かった」
人が増えれば、仕事も増える。そのことくらいは、真継もすでに知っていた。
♢
ミュレアは変わった。以前は空いていた家のほとんどに誰かが住み、使われていなかった倉は中を片づけられて寝泊まりできるようになった。新しく来た大工たちは、村人と一緒になって粗末ながらも新しい小屋を建て始めている。
畑も少し広がった。農業の経験がある者が増え、耕せる土地を見つけては土を起こしている。漁師も増えたことで、一度に海へ出られる人数にも余裕ができた。網を繕う者、布を織る者、荷を運ぶ者、子供の面倒を見る者。それぞれが、できる仕事を見つけていた。
以前より声が多い。夕方になれば、あちこちの家から炊事の煙が上がり、子供の声が聞こえる。真継はその光景を嫌いではなかった。
ただし、困っている者もいた。
「増えました」
ガレネが言った。
「何がだ」
「これです」
真継の前に蝋板を並べる。一枚、二枚、三枚。以前より明らかに増えている。
「増えたな」
「誰のせいだと思ってるんです?」
「俺か?」
ガレネが少し驚いた顔をする。
「そこは分かるんですね」
「最近分かるようになった」
「成長しましたね」
「馬鹿にしてるのか?」
「少しだけ褒めてます」
蝋板には人の名前だけではなく、村で扱った金、買った物資、戦利品、アテライへ売った魚なども記されている。真継には読めないため、ガレネが何を書いているのか、横から見ても分からない。
「大変か?」
「大変ですよ」
「そうか」
「他人事みたいに言わないでください」
「手伝おうか」
ガレネが真継を見る。
「字、読めます?」
「読めん」
「書けます?」
「ここの字は無理だ」
「計算は?」
「できる」
「今、村にどれくらいお金があるか分かります?」
「知らん」
「では、今まで通りでお願いします」
「そうする」
真継は素直に引き下がった。分からないことは、分かる者に任せる。それで問題はなかった。少なくとも、そのときまでは。
♢
水の異変に最初に気づいたのは、真継ではなかった。
昼過ぎ、漁から戻った真継は喉が渇き、村の井戸へ向かった。井戸の周りには何人かの村人が集まっており、そのうちの一人が桶を落としている。縄はいつもより長く伸びていた。
真継は横から覗いた。
「深くなったな」
桶を下ろしていた男が振り返る。
「井戸が深くなったわけじゃねえよ」
「そうなのか」
「水が下がってんだ」
言われて、真継は井戸の底を見る。暗くてはっきりとは分からないが、確かに以前より水面が遠い。
「いつからだ」
「少し前からだよ。今日はまた下がってる」
桶がようやく水へ届いた音がした。男が縄を引きながら続ける。
「泉の方も減ってるらしい」
「雨が降ってないからか」
「それもあるだろうな」
真継は空を見た。青く、雲はほとんどない。夏なのだから暑いのは当然だと思っていたし、雨が少ないことも特に珍しいとは感じていなかった。だが、人が暮らすには水がいる。それも、大勢いれば大勢いるだけ。
「村長が話をするってよ」
「そうか」
「お前も来いってさ」
「俺もか?」
「人を増やした本人だからな」
「なるほど」
「納得するんだな」
真継は桶から水を一杯もらい、それを飲み干した。いつもと変わらない水だった。ただ、その水自体が減っているらしい。
♢
その日の夕方、村長の家に何人かが集まった。村長、テロン、ガレネ、真継、それに水場の管理を手伝っている村人が数人。
話は単純だった。
「水が足りなくなり始めている」
村長が言った。
「井戸はまだ使える。泉も枯れてはいない。だが、このまま雨が降らなければまずい」
「去年もこうだったのか?」
真継が聞く。
「暑い夏なら何度もあった。雨が少ない年もな」
村長は真継を見る。
「だが、その頃は今ほど人がおらん」
「人が増えたからか」
「それだけではないがな」
飲み水、料理、身体や衣服を洗うための水、畑に使う水、馬に飲ませる水。一人増えれば一人分、十人増えれば十人分が必要になる。それが何度も積み重なっていた。
「……増えすぎたか」
真継が言うと、テロンがこちらを見る。
「今さら気づいたのか」
「前から増えてるとは思っていた」
「人数の話じゃねえよ」
ガレネは蝋板を見ながら言った。
「今すぐ水がなくなるわけではありません。ただ、このまま暑い日が続いて、雨も降らなければかなり厳しくなります」
「あと何日だ」
「分かりません」
「記録してるんだろう」
「井戸の下にどれだけ水があるかまでは書けません」
「そうか」
「そうです」
真継は腕を組んだ。
「別の井戸を掘ればいいんじゃないか」
「掘って水が出ればな」
村長が答える。
「水のある場所が分かるのか?」
「分かれば苦労せん」
「泉を探す」
「近くに都合よく湧いていればいいがな」
「アテライから運ぶ」
ガレネが首を振った。
「一日だけならできます。毎日、村全員が使う量を運ぶのは無理です」
「重いからか」
「重いですし、お金も人手もかかります」
真継は少し考えた。
「海ならいくらでもある」
「海水は飲めませんよ」
「真水にはできる」
ガレネが真継を見る。村長もこちらを向いた。
「できるのか?」
「ああ」
「どうやってです?」
「沸かす」
ガレネが瞬きをする。
「海水を?」
「蒸気にして、冷やす。出てきた水を集めれば塩は残らん」
海水から真水を得る方法など、真継にとっては珍しいものではなかった。もっと効率のいい方法も知っているが、そのための設備はここにはない。今のミュレアでできる方法となれば、火を使って海水を蒸留する程度になる。
「なら、それをすればいいのではないか?」
村長が言う。
「無理だな」
「なぜだ」
「燃やすものが足りん」
村中の人間が毎日使う水を作ろうとすれば、海水を大量に沸かし続けなければならない。当然、薪や炭が大量に必要になる。しかも一日で終わる話ではない。料理にも火は使い、鍛冶にもいる。冬になれば暖を取る必要もある。水を作るためだけに燃料を使い続ければ、今度はそちらが足りなくなる。
「一人か二人、死にそうな奴に飲ませる程度ならできる」
真継は言った。
「村全部となると、割に合わん」
「できるけど、使えないんですね」
ガレネが言う。
「そういうことだ」
村長が唸った。
「結局、今ある水を節約しながら、別の水場を探すしかないか」
「井戸を掘る人手なら増えたぞ」
真継が言う。
テロンが真継を見る。
「原因も増やしたがな」
「働く奴も増えた」
「そういう問題なのか?」
「違うのか?」
「……もういい」
テロンが疲れたように手を振った。
真継は黙って考えた。水、井戸、地面の下。どこかで似た話を聞いた気がする。ずっと昔ではない。この世界へ来てからだ。まだ、ここへ流れ着くより前。奴隷狩りに捕まった頃、鎖に繋がれ、荷物のように運ばれていたとき。その隣にいた農民の男。
真継は眉を寄せた。
「……そういえば」
ガレネが顔を上げる。
「何です?」
「水を出せる奴がいたな」
部屋にいた者たちの視線が集まった。
「水を出せる?」
「ああ」
真継は記憶を辿る。
「正確には違う。地中にある水を引き寄せて、地表へ湧かせる」
村長が目を見開く。
「そんなことができるのか?」
「デメテルの恩寵だと言っていた」
ガレネが身を乗り出す。
「その人、どこにいるんです?」
「ラケオン」
部屋が静かになった。
「ダモンという男だ。俺と一緒に奴隷だった」
「……今も奴隷なんですか?」
「たぶんな」
ラケオンへ着いたあと、ダモンは農園へ送られた。それ以来会っていない。生きているなら、今もどこかの農園で働かされている可能性が高い。
「連れてこられるんですか?」
ガレネが聞いた。
「本人が来るならな」
「そういう意味ではなくて」
ガレネは額に手を当てた。
「奴隷なら、勝手に連れてこられないでしょう?」
「なら買えばいい」
ガレネが黙った。
「……いくらすると思います?」
「知らん」
「でしょうね」
村長が腕を組む。
「金で済むなら、その方がいいだろう」
「ああ」
真継も同意した。最初から揉める必要はない。売ってくれるなら買えばいい。そのあと自由にすればいい。
「でも、売ってくれなかったら?」
ガレネが聞く。
真継は少し考えた。
「そのとき考える」
ガレネの顔が曇った。
「その言い方、嫌な予感しかしないんですけど」
「まだ何もしてない」
「『まだ』って言いましたよね?」
「言ったか?」
「言いました」
真継は覚えていなかった。
♢
夜。真継は一人で井戸の前に立っていた。昼の暑さは薄れ、海から涼しい風が吹いている。井戸の縁から中を覗くと、暗くて水面はほとんど見えなかった。
その暗さを見ながら、真継はダモンのことを思い出していた。この世界へ落ちてきて間もない頃、何も知らなかった真継へ、神々のことを教えた。大協定のことを教え、恩寵についても教えた。奴隷として運ばれながら、それでも妙に穏やかな男だった。
「ダモンか」
真継は呟いた。
ラケオンへ戻ること自体に抵抗はなかった。奴隷として鎖に繋がれたことも、ガレー船で漕がされたことも覚えている。だが、それはもう終わったことだ。
今度は自分の足で行く。そして、一人連れて帰る。
井戸の底から、かすかに水の揺れる音がした。
「まだ生きてるといいんだが」
真継はそう言って、暗い井戸から顔を上げた。