あれは腹痛の薬ではなかったのかと不死人は言う 作:カズヤミサワP
あれは確か、富士へ向かっていた日のことである。
伴真継は朝から腹の具合が悪かった。
都を出てから何日もかけて東へ進み、ようやく辿り着いた富士は、遠くから眺めていたときよりもはるかに大きかった。麓から見上げても頂は高く、白い雪を残した山肌が空へ向かって伸びている。山へ入ってからは道らしい道もなくなり、一行は木々の間を縫い、岩の多い斜面を選びながら少しずつ高度を上げていた。
真継はその一行の後ろについて歩いていた。
先頭にいるのは調石笠という男だった。帝から直接命を受けた者であり、その周囲を真継を含めた兵たちが固めている。
彼らが富士を登っている理由は、山賊を討つためでも、何かを探すためでもない。
物を焼くためだった。
それも、ただの物ではない。
月へ帰ったかぐや姫が帝に残した手紙と、不死の薬である。
かぐや姫については真継も知っていた。竹の中から見つかった美しい娘で、多くの貴族から求婚され、最後には帝まで心を寄せたという女だ。やがて月から迎えが来て、その者たちとともに天へ帰ったという。
真継自身が見たわけではない。
都ではずいぶんと騒ぎになっていたので、話だけなら嫌でも耳に入ってきた。
月に人が住んでいるという話をどこまで信じればいいのか、真継には分からなかった。もっとも、帝から直々に命令が下され、こうして自分たちが富士まで来ている以上、すべてが作り話というわけでもないのだろう。
かぐや姫は月へ帰る前、帝に不死の薬を残した。
それを飲めば死ななくなるという。
帝は飲まなかった。
かぐや姫のいない世でいつまでも生き続けたところで意味はない。そのように考えたのだと真継は聞かされている。
そこで帝は石笠を呼び、手紙と薬をこの国で最も天に近い場所まで運び、そこで焼くよう命じた。
その場所として選ばれたのが富士だった。
焼いた煙を天へ届けようということなのだろう。
真継には、帝ほど身分の高い男が何を考えているのか分からなかった。
好きな女がいなくなったから不死になりたくない、という気持ちもよく分からない。真継なら、本当に死ななくなる薬があるのなら、ひとまず取っておく。飲むかどうかはその後で考えればいい。
もっとも、それは真継には関係のない話だった。
彼は兵である。
命じられた場所へ行き、守れと言われた者を守る。襲ってくる者がいれば戦う。必要なら殺す。それで給金をもらって暮らしている。
帝の恋路について考えるのは仕事に含まれていなかった。それよりも今の真継には、もっと差し迫った問題があった。
腹が痛い。少し前から何度も腹を押さえている。原因については心当たりがあった。昨日食べた干し魚だ。
臭いが少しおかしいとは思った。それでも腹が減っていたし、見たところ腐っているわけでもなかったので、そのまま食べた。
どうやら判断を誤ったらしい。
腹の奥を強く握られているような痛みが、朝から繰り返し襲ってくる。しばらくすると治まるのだが、安心して歩いているとまた痛くなる。先ほどからは間隔まで短くなっていた。
それでも一行は進み続けた。
富士を登ること自体が容易ではない。
麓ではまだ大きな木々が生い茂っていたが、登るにつれて次第に数が減ってきた。斜面には岩が目立つようになり、足元も不安定になっている。振り返れば、つい先ほどまで自分たちが歩いていた森を遠く眼下に見ることができた。
空気も冷たくなっていた。
汗をかいている身体へ風が当たると寒いくらいだったが、腹を押さえて歩いている真継の額には別の汗が浮かんでいた。
「真継」
前を歩いていた兵の一人が振り返った。
「遅れているぞ」
「見れば分かる」
「なら早く歩け」
「腹が痛い」
「朝からずっとそう言っているな」
「朝からずっと痛いんだから仕方ないだろう」
相手は真継の顔を見て、呆れたように息を吐いた。
「途中で倒れても背負わんぞ」
「そのときは置いていけ」
「熊に食われるぞ」
「その前に腹が破れそうだ」
兵は笑いながら前へ戻っていった。真継には笑う余裕がなかった。
また痛みが来た。思わず足を止め、腹を押さえて身体を丸める。これは本当にまずい。
山を登っている場合ではないのではないかと思い始めたが、ここまで来て一人で引き返すわけにもいかない。そもそも真継一人では麓まで戻れる自信がなかった。
幸い、それから間もなく石笠が休息を命じた。
一行は風を避けられそうな場所を探して荷を下ろした。水を飲む者もいれば、その場へ座り込んで足を休める者もいる。
真継も岩に腰を下ろした。座っていれば少しは楽になるかと思ったが、期待したほどではなかった。
「薬……」
口に出してから思い出した。道中で怪我人や病人が出たときのため、薬もいくらか持ってきていたはずだ。どの荷に入っているのかまでは知らない。
真継は立ち上がった。少し離れたところでは、石笠が何人かの兵と山頂までの道について話している。腹薬がどこにあるか聞こうとも思ったが、わざわざ話を遮るほどのことでもない。
自分で探したほうが早い。真継は積まれている荷のところへ向かった。一つずつ中身を確かめていく。
最初の包みには食料が入っていた。次は替えの布だった。その隣には縄や火を起こすための道具が入っている。
目的のものが見つからない。腹が痛む。とても痛む。
「どこに入れたんだ……」
誰に対してというわけでもなく文句を言いながら、さらに荷を探した。やがて、ほかの荷よりも丁寧に包まれている小さな包みを見つけた。
真継はそれを手に取った。軽い。包みを開くと、中には小さな器が入っていた。
真継は少しだけ首を傾げた。ずいぶんと大事そうに包まれている。
だが、薬は貴重なものだ。道中で使う薬を湿気や汚れから守るため、丁寧に包んでいても不思議ではない。
何より腹が痛かった。真継は器の蓋を開けた。中には見慣れない薬が入っている。臭いを確かめてみたが、それで何の薬なのか分かるはずもなかった。
本当に腹の薬だろうか。一瞬だけ、そんな疑問が浮かんだ。だが、ほかに薬らしいものは見当たらない。腹の痛みも、もう我慢の限界だった。
「これだろう」
真継はそう結論づけた。
どれだけ飲めばいいのか分からなかったので、とりあえず口へ入れた。
苦かった。ひどい味だった。顔をしかめながら水で流し込む。
少し残ったが薬を残しても仕方がない。また腹が痛くなっても困る。真継は残りも口へ入れ、水を飲んだ。これで器は空になった。
勝手に薬を使ったことは後で話しておけばいい。腹を壊した兵が薬を飲んだくらいで、そうひどく怒られることもないだろう。
真継は空になった器を包みに戻した。できるだけ元と同じ形になるよう包み直し、荷の中へ置いておく。それから岩へ戻って腰を下ろした。
しばらく待った。不思議なことに、本当に腹が楽になってきた。
最初は痛みの波がたまたま引いただけだと思った。しかし、いつまで待っても次の痛みが来ない。それどころか、腹に残っていた重苦しさまで少しずつ消えていった。
真継は自分の腹を撫でた。
「よく効くな」
これほど効く薬なら、もう少し持ってきてもらいたかった。その程度に考えていた。
休息が終わった。真継は何事もなかったように立ち上がり、一行とともに再び富士を登り始めた。腹の痛みが消えただけで、身体が驚くほど軽く感じられた。
高度が上がるにつれて景色はさらに変わった。木々はほとんど見えなくなり、黒っぽい岩と砂が地面を覆っている。場所によっては雪も残っていた。遮るもののない風が山肌を吹き抜け、時折、足を取られそうになるほど強く身体へぶつかってくる。
誰も余計な話をしなくなった。ただ山頂を目指して歩いた。
真継も黙って石笠の後を追った。やがて長い登りの先で、一行の足が止まった。
ついに頂へ辿り着いた。真継は息を整えながら周囲を見渡した。
「高い」
当然のことなのだが、それ以外に言葉が浮かばなかった。
遠くまで連なる山々が、自分たちよりも下に見える。雲まで眼下を流れているように思えた。見上げれば空がどこまでも広がり、都で眺めていたものよりも、わずかに近く感じられる。
なるほど、ここなら天に最も近い山と呼ばれるのも分かる。
石笠もしばらく黙って景色を見ていた。やがて振り返り、兵たちへ火を用意するよう命じた。真継も作業を手伝った。
山頂で火を起こすのは簡単ではなかった。風を避けられる場所を選び、持ってきた薪を組み、何人かで囲いながらようやく炎を安定させる。
火が十分に大きくなったところで、石笠が荷の前へ進んだ。まず取り出したのは、帝から託された手紙だった。月へ帰ったかぐや姫へ宛てたものだという。そこに何が書かれているのか、真継は知らない。知ろうとも思わなかった。
石笠は手紙をしばらく見つめていたが、やがて静かに炎の中へ入れた。紙に火が移り、端から黒くなり文字も紙も形を失っていく。煙が風に乗って空へ昇っていった。
続いて石笠が取り出したものを見て、真継はどこかで見たような気がした。
小さな包みだった。しかし、どこで見たのかまでは思い出さなかった。
「あれが、不死の薬か」
近くにいた兵が小声で言った。真継はそこで初めて、その包みをまじまじと見た。石笠が手にしているのは、かぐや姫が帝に残したという不死の薬。飲めば死ななくなるという、到底信じがたい品である。
真継は少し興味を覚えた。どんなものなのか、中を見てみたい気もした。だが石笠が包みを開くことはなかった。帝より預かった品である。
中身を確かめる必要などない。帝はこれを焼けと命じた。それならば、預かったままの姿で焼くのが当然だった。
石笠は包みを炎の中へ入れた。布へ火が移った。炎に包まれたそれを見ながら、真継はようやく思った。
どこかで見た包みだ。だが、それ以上考える前に布は焼け落ち、中に入っていた小さな器も炎の中へ沈んだ。
周囲にいた兵たちは黙ってその光景を見守っていた。誰一人として異変に気づかなかった。
石笠も気づかなかった。
真継も気づかなかった。
彼らは帝から託された手紙と不死の薬を、命じられたとおり富士の頂で焼いた。少なくとも、その場にいた全員がそう信じていた。空の器を包んでいた布が燃え尽き、煙となって天へ昇っていく。その煙を見上げながら、真継は腹に手を当てた。
朝から続いていた痛みは、完全に消えていた。ずいぶん効き目のいい薬だった。あとで、何という薬だったのか聞いておこう。
真継が考えていたのは、その程度のことだった。