あれは腹痛の薬ではなかったのかと不死人は言う 作:カズヤミサワP
真継は、不死の薬を飲んだことを誰にも話さなかった。
富士から都へ戻るまでの間にも、何度か自分の身体を確かめた。槍に貫かれたはずの胸にも腹にも傷はなく、残っているのは服に開いた穴と乾いた血だけだった。あれほど深く刺されたのだから、傷一つないはずがない。何より真継自身が、身体から力が抜け、息ができなくなり、意識が消えたことを覚えている。あれは気を失ったのではない。自分は確かに死に、そして蘇ったのだ。
理由は一つしか思い当たらなかった。かぐや姫が帝に残した不死の薬を、腹の薬だと思って全部飲んでしまったことだ。
真継は都へ戻ってからも黙っていた。帝の所有物を勝手に飲んだのである。腹が痛かったから間違えましたと言ったところで許されるとは思えない。そもそも石笠は、命じられたとおり不死の薬を焼いたと帝へ報告している。今さら自分が名乗り出れば、石笠や同行した者たちまで巻き込むことになる。
何より、真継自身にも分からないことが多すぎた。本当に不死なのか。不死だとして、どこまでの傷なら治るのか。首を落とされても生き返るのか。そこまで考えて、真継は試してみようとは思わなかった。死ぬのは痛い。一度経験すれば十分だった。
それからしばらく、真継は以前と変わらない生活を送った。兵として働き、酒を飲み、時には女を抱き、腹が減れば飯を食った。争いが起これば武器を手にし、仕事がなければ暇を持て余した。不死になったからといって、翌日から何かが変わるわけではない。真継自身も、次第に富士での出来事を意識しなくなった。
だが、年月だけは確実に流れていった。
♢
最初に異変を感じたのは、それから十年以上が過ぎたころだった。
真継は鏡に映った自分の顔を眺めていた。変わっていない。少しくらいは老けたのかもしれない。毎日見ている自分の顔なのだから、細かな変化に気づいていないだけとも考えられた。
だが、周囲の人間は違った。若かった同僚の顔には皺が増え、髪に白いものが混じる者もいる。子を持ち、その子が成人した者までいた。それなのに、真継だけがほとんど変わらなかった。
さらに十年が過ぎるころには、もう誤魔化せなくなっていた。かつて富士へ同行した者たちは老い、すでに死んだ者もいる。それでも真継は若いままだった。
ある日、昔から付き合いのある男に年齢を尋ねられた。真継は答えなかった。答えれば、それまで自分でも考えないようにしていたことを認めることになる気がした。
「昔から変わらんな、お前は」
「そうでもないぞ」
「いや、変わらん。俺がこの有様なのに、お前は初めて会ったころと同じだ」
男は白くなった自分の髪を摘まんで見せた。真継も笑ったが、それから間もなく都を離れた。誰にも事情は話さなかった。長く同じ場所にいれば、いずれ気づかれる。それならば移ればいい。
このときの真継は、それを何度繰り返すことになるのか知らなかった。
♢
人の一生は、思っていたより短かった。
親しくなった者が老いていく。子供だった者が大人になり、やがて老人になって死ぬ。真継だけは変わらない。最初のころは親しい者が死ぬたびに墓を訪れ、その子供たちとも付き合い、さらにその子供たちとも付き合った。だが、何代か過ぎるとやめた。
真継のことを知る者がいなくなるたび、別の土地へ移った。名も変えた。伴真継という名を捨てたことも一度や二度ではない。それでも自分の中では真継だった。どれほど別の名を使っても、富士へ登ったあの日の名前だけは忘れなかった。
国の姿も変わった。争いが起き、真継も何度となく戦った。刀で斬られ、槍に刺され、矢を受け、馬に踏まれたこともある。死ぬこともあったが、そのたびに蘇った。
最初のころは目を覚ますたびに安堵したが、やがてそれもなくなった。死ぬこと自体には慣れた。痛みに慣れたわけではない。斬られれば痛いし、焼かれれば熱い。息ができなければ苦しい。ただ、その先に何があるのか知ってしまった。しばらく待てば、また目を覚ます。それだけだった。
季節が巡り、人が生まれ、人が死ぬ。国が興り、国が滅びる。そのすべてが流れていく中で、真継だけが残った。
♢
真継が生まれたころ、兵の腰にある刀はまだ真っ直ぐなものが珍しくなかった。それがいつしか美しい反りを持つようになり、戦い方も変わっていった。武士と呼ばれる者たちが力を持ち、都だけを見ていれば国が分かる時代ではなくなった。
真継は彼らに混じって戦った。どこかの主君へ一生の忠誠を誓うことはなかった。一生という言葉の意味が、自分と他人では違いすぎたからである。それでも気に入った者には仕え、気に入らない者とは戦った。何十年か経てば、どちらもいなくなった。
海の向こうから敵が来たこともあった。国中で武士たちが殺し合う時代もあった。昨日まであった城が焼け、今日まで生きていた男が明日には首だけになっている。真継には、すっかり見慣れた光景になっていた。
そのころには、自分が生まれた時代のことを知る者など一人もいなかった。それでも、かぐや姫の話だけは残っていた。
ある日、それを初めて物語として読んだ真継は、しばらく黙って頁を眺めていた。自分も知っている話だった。ただし、そこに伴真継という兵の名前はない。富士へ同行した兵の一人にすぎないのだから当然で、どうやら歴史とはそういうものらしい。
不死の薬は、富士で焼かれたことになっていた。
「そういうことにしておこう」
誰に言うでもなく呟いて、真継は書物を閉じた。そのほうが何かと都合がよかった。
♢
さらに時代が進むころには、真継も自分に時間があり余っていることを受け入れていた。
それまでにも文字は読めたし、生きていくのに必要な知識は身につけていた。だが、学問を仕事にするような人間ではなかった。あるとき、急ぐ必要がないのなら知らないことを学べばいいと思い立った。
最初は暇潰しだった。書物を読み、分からないことがあれば人に尋ねた。その人間が死ぬまで教わっても分からなければ、また別の者に尋ねた。十年かかる学問なら十年かけ、二十年必要なら二十年かけた。真継にとって、その程度は大した時間ではなくなっていた。
国の外へも出た。海を渡り、異なる言葉を覚え、異なる宗教や思想を知った。自分が生まれた国では想像もしなかったほど広い世界があることを知ると同時に、どこへ行っても人間はそれほど変わらないことも知った。
飯を食い、恋をし、子を育て、金を欲しがり、神に祈る。そして、気に入らない相手がいれば殺す。
最後の部分は真継にもよく理解できた。学問を身につけても、本人の気性まで別人になったわけではない。話し合いで済むならそれでいい。済まないのなら殴ればいい。何百年学んでも、その考えだけはなかなか抜けなかった。
♢
やがて戦場から刀が消え、代わりに銃が増えていった。
最初に火縄銃を手にしたとき、真継は便利なものだと思った。遠くの相手を殺すのに、わざわざ近づく必要がない。その程度の感想だった。
だが銃は恐ろしい速さで進歩した。一発撃つたびに時間をかけて弾を込めていたものが、何発も続けて撃てるようになった。大砲も船も変わり、やがて鉄の車が大地を走った。真継が生まれたころには、馬より速く移動する方法など考えもしなかった。
さらに時代が進むと、人間は空を飛んだ。
初めて飛行機に乗ったとき、真継は窓から地上を見下ろした。富士へ登ったときよりも、はるかに高い。あの日、天に最も近い場所だと思った山がずいぶん低く見えて、少し可笑しかった。
人間は変わった。少なくとも、人間が作るものは変わった。真継も新しいものが生まれるたびに学び、理解できないものがあれば時間をかけた。
そして人間は、殺し合う方法についても熱心だった。
戦争は大きくなった。真継が若かったころなら何千人も死ねば大きな戦だったものが、やがて何万人が死んでも終わらなくなった。真継もいくつもの戦争を見て、そのいくつかには参加した。銃弾を受け、砲撃に巻き込まれ、建物の下敷きになり、そのたびに死んでは蘇った。
人間はずいぶん賢くなった。
殺し合いをやめるほどではなかったらしい。
♢
さらに長い年月が過ぎると、真継は自分が生まれてから何年になるのか、正確に数えることをやめた。
暦そのものが何度も変わった。国境も国の名前も変わった。自分が生まれた国だけは長く残ったが、それも真継の知る日本とはまるで違うものになった。
やがて人間は地球だけに住む生き物ではなくなった。
月に恒久的な居住地が造られたとき、真継も月へ行った。降り立ってから、しばらく地球を眺めていた。かぐや姫のことを思い出したからである。
ずいぶん昔、月には人が住んでいると聞かされた。当時は半信半疑だったが、今では本当に人が住んでいる。もっとも、かぐや姫を知っている者はいなかった。真継も一度は調べてみたものの、彼女や月から迎えに来た者たちの痕跡は何も見つからなかった。
それから人間はさらに遠くへ進んだ。火星へ、外惑星へ、そして太陽系の外へ。
真継も何度か地球を離れたが、それでも戻ってきた。理由を尋ねられてもうまく答えられなかったが、おそらく故郷だからなのだろう。
初めて酒を飲んだ場所も、初めて女を知った場所も、初めて死んだ場所も、腹痛で不死の薬を飲んだ場所も、すべて地球にあった。
だから、ときどき帰った。
♢
それからどれほどの時間が流れたのか、真継にも分からない。
人間の寿命は伸びた。百年を越え、二百年を越え、さらに長く生きる者も現れた。それでも真継ほどではなかった。人間の姿そのものも少しずつ変わり、生まれたままの身体で生涯を終える者が珍しくなった時代さえあった。
それでも真継は真継だった。
身体を変える必要がない。壊れても元に戻る。人間が寿命を克服しようとしているのを眺めるたび、真継は時々妙な気分になった。
自分は腹が痛かっただけなのだ。
やがて、人類は地球からほとんど姿を消した。滅んだのではなく、もっと住みやすい世界へ移っていったのである。地球は人類発祥の地として保存されるようになったが、さらに時が過ぎれば、その意味さえ薄れていった。
人類は遠くへ行った。真継には追えないほど遠くへ。
それでも彼は、ときどき地球へ戻った。そのたびに海岸線が変わり、山が消え、新しい山が生まれていた。かつて都市だった場所は大地へ戻り、最後には自分がどこで生まれたのかさえ、地形から判断できなくなった。
富士も、いつかなくなった。それを知ったときだけは、少し寂しかった。
♢
さらに気の遠くなるような時間が過ぎた。
地球に人間はいなくなった。遠い星々に人類の末裔がいるのかもしれないが、それを確かめる術を真継はすでに失っていた。文明も永遠ではなかった。連絡は途絶え、航路は失われ、地球へ戻ってくる船もなくなった。
真継は一人になった。
それでも地球は残っていた。真継より遥かに長く存在してきた星なのだから、自分より先になくなるなど、昔の彼なら考えもしなかっただろう。
だが、その地球にも終わりが来た。
そのころには、真継が知っていた青い星の面影はほとんど残っていなかった。海はとうに失われ、大気も薄く、地表は焼けていた。生き物の姿などどこにもない。
空を見上げれば、赤く膨れ上がった太陽が大きく広がっていた。地表はもはや人間が生きられる環境ではなく、真継も焼かれては死に、蘇ればまた焼かれることを繰り返していた。
それでも地球を離れなかった。
もう船もなければ、逃げる場所もない。それに最後くらいは見届けようと思った。
この星で生まれ、ここで育った。あまりにも多くの人間と出会い、別れた。文明が生まれ、消えていくのを見た。地球はそのすべてを真継とともに見ていた。いや、自分が生まれる遥か以前から、もっと多くのものを見てきたのだろう。
真継は焼けた大地に立った。
どこが日本だったのかは、もう分からない。まして都や富士がどこにあったのかなど、今の地形から判断できるはずもなかった。それでも、おおよその方角だけは覚えていた。
真継はそちらを眺めた。
「長かったな」
答える者はいない。
少し考えてから、もう一度口を開いた。
「世話になった」
別れの言葉など、ほかには思いつかなかった。
やがて空が赤く染まり、大地が裂け始めた。地表そのものが崩れていく中で、真継は逃げなかった。逃げる意味もなかった。
熱と光が身体を包んだ。
真継は死んだ。
♢
そして、目を覚ました。
最初に見えたのは星だった。上下も分からず、足元に地面もない。息を吸おうとしても何も入ってこない。
真継は、自分が宇宙空間にいることを理解した。
地球は見えなかった。砕けた星の一部とともに放り出されたのか、それとも別の何かが起きたのか。それを調べる方法はなかった。
やがて身体が死に始めたが、真継は抵抗しなかった。どうせ蘇る。
意識が暗くなり、真継は死んだ。
そして再び目を覚ます。
星々は、少しも動いていなかった。