あれは腹痛の薬ではなかったのかと不死人は言う 作:カズヤミサワP
※追記:大協定について詳しく説明に変更しました。
最初に感じたのは、重さだった。
真継は自分の身体が何かに押しつけられていることに気づいた。背中には硬い感触があり、その上から暖かなものが全身を包んでいる。何だったか。あまりにも久しく感じていなかったため、すぐには思い出せなかった。
目を開くと、青い空があった。星々が無数に浮かぶ暗闇ではない。どこまでも青く、その中を白い雲がゆっくりと流れている。真継は長いこと空を見つめてから、ゆっくりと視線を横へ向けた。周囲には草が生えており、土があり、石があり、少し離れたところには低い木々も見える。
地面だった。そう認識するまでにも時間がかかった。
真継は起き上がろうとしたが、身体がひどく重かった。腕を地面につき、力を込める。それだけの動作が妙にぎこちない。長い間、重力のない場所を漂っていたせいだろう。筋肉そのものは死ぬたびに元へ戻っているはずだが、身体の動かし方まで完全に保たれているわけではないらしい。何度か失敗して、ようやく上半身を起こした。
そのとき、胸が動いた。
真継は自分の身体を見下ろした。胸が膨らみ、縮んでいる。何をしているのか分からなかった。もう一度胸が膨らみ、鼻と口から何かが入ってきたところで、真継は反射的に身体を強張らせた。
空気だった。そこでようやく思い出した。呼吸しているのだ。
真継はしばらく、自分が息をする様子を観察した。吸って、吐く。胸が動き、鼻を通って空気が入り、また出ていく。当たり前のことだったはずなのに、ひどく奇妙に感じた。最後に呼吸をしたのはいつだっただろうと思い出そうとして、やめた。数える意味のある時間ではなかった。
真継はゆっくり立ち上がった。足の裏に草が触れ、風が肌を撫でている。その感覚に思わず足元を見た。緑色の草だった。真継はしゃがみ込み、一本を指で摘んで引き抜いた。根元には湿った土がついている。
植物が生きている。それだけで、しばらく動けなかった。
地球を失ってから、どれほど経ったのか分からない。宇宙を漂い続け、凍り、焼かれ、窒息し、何度も死んだ。そのたびに目を覚まし、何もない暗闇を見て、また死んだ。途中からは時間を数えることもやめ、星の位置さえ少しずつ変わっていった。その果てに何かへ引かれ、真継の身体は落ち始めた。大気らしきものへ突入したところまでは覚えている。燃え、死に、その後は分からない。
どうやら、ここへ落ちたらしい。
真継は抜いた草を鼻へ近づけた。匂いがした。土の匂いもする。あまりにも久しぶりだった。真継は草を地面へ戻し、周囲を見渡した。なだらかな草原が続き、遠くには丘があり、そのさらに向こうには山らしき影も見える。空には鳥に似たものが飛んでいた。
少なくとも、生命の存在する星だった。
真継は自分の身体を見下ろした。何も着ていない。当然だった。地球とともに焼かれた衣服が身体と同じように蘇るはずもなく、その後は宇宙空間を漂っていたのだから、服を手に入れる機会などあるはずもなかった。
今さら裸を恥じる相手もいない。そう考えた直後、何かが聞こえた。
真継は顔を上げた。
風の音ではない。もう一度聞こえた。遠いが、知っている音だった。
人の声だ。
その瞬間、真継の身体から力が抜けそうになった。聞き間違いかと思ったが、また聞こえる。一人ではない。複数いる。
真継は声のする方角へ歩き始めた。最初はゆっくりだった。まだ足が重力に慣れておらず、何度か転びそうになった。それでも進むうちに身体の動かし方を思い出してきた。やがて歩く速度が上がり、声も近づいてくる。それとともに、別の音も聞こえるようになった。
蹄の音だった。馬だ。
その言葉を思い出したとき、真継は思わず笑いそうになった。人がいる。馬までいる。草原を越えて小さな丘へ登り、その向こう側を見たところで、真継は足を止めた。
人がいた。
十人以上いる。馬に乗った者たちで、革や毛皮を身につけ、弓や槍を持っている。馬から下りている者もいた。その周囲には、さらに多くの人間がいる。ただし、こちらは歩いていた。
縄で縛られて。
男もいる。女もいる。子供までいた。首や手を縄でつながれ、馬に乗った者たちに追い立てられている。
久しぶりに見つけた人間は、別の人間を捕まえていた。
真継はしばらくその光景を眺めてから、何か言おうとした。しかし声が出なかった。喉の使い方が分からない。舌をどう動かしていたのかも曖昧だった。
「……ぁ」
出てきたのは、小さな音だけだった。
真継は自分の喉へ手を当て、何度か口を動かした。
「……あ……あー……」
少しずつ音になった。発声というものを頭では覚えているが、実際に声を出すという行為がひどく遠い記憶になっていた。
「あ……お……おい」
ようやく言葉になった。嬉しかった。自分の声を聞いたことではなく、言葉を使えることが嬉しかった。
真継は丘を下りた。当然、すぐに気づかれた。
「止まれ!」
馬上の男が叫んだ。
真継は立ち止まった。
言葉が分かった。
そのことに気づくまで少し時間がかかった。男の発した音に覚えはない。真継は気の遠くなるほど長く生き、多くの言語を学んできたが、今の言葉を知っている記憶はなかった。それなのに意味が分かる。
真継は男を見た。男も真継を見ていた。正確には、全裸の真継を見ていた。
「何だ、こいつは」
「どこから出てきた?」
「一人か?」
別の男たちも集まってくる。真継は彼らの言葉を聞いていたが、やはりすべて理解できた。
「お前」
真継は喋ろうとしたが、舌がうまく動かない。
「ここ……は……」
男たちの表情が変わった。
「何を言っている?」
「頭がおかしいんじゃないか」
無理もない、と真継は思った。自分でも、まともに喋れている気がしない。真継は口を開閉し、舌を動かしてから、もう一度声を出した。
「少し……待て。喋り方を……思い出している」
男たちは黙った。一人が隣の男へ小声で言った。
「やっぱり頭がおかしいぞ」
真継にも聞こえていたが、反論する気にはならなかった。今の自分を客観的に見れば、その判断は正しい。
馬上の男が弓へ手を伸ばした。
「妙な真似をするな」
「しない」
今度は少し滑らかに言えた。
真継は男たちの武器を見た。弓、槍、短い剣。鉄らしきものも見える。少なくとも、真継が最後に知っていた人類文明とは比較にならないほど古い。
だが、人間だった。顔も身体も、自分が知っている人間とほとんど変わらない。真継はそれだけで十分だった。
「捕まえろ」
馬上の男が言った。
真継は抵抗しなかった。二人が近づき、警戒しながら腕を掴んで後ろへ回し、手首に縄を巻いた。ずいぶん懐かしい扱いだった。
「抵抗しないのか」
一人が不審そうに尋ねた。
「しない」
「なぜだ」
真継は少し考えた。
「人がいるからだ」
「……何だ?」
説明しても理解されないだろう。真継は黙った。男たちは互いに顔を見合わせ、やはり頭がおかしいと思ったらしい。
その後、真継には腰へ巻く粗末な布が与えられた。裸のまま連れていくのは都合が悪いのか、それとも商品として最低限の格好をさせただけなのかは分からない。真継にはどちらでもよかった。
捕らえられていた者たちの列へ連れていかれ、同じ縄につながれる。どうやら自分も彼らと同じ扱いになったらしい。
真継は前後を確認した。前には若い男がいて、後ろには日に焼けた中年の男がいた。四十を過ぎているように見え、粗末な衣服を着ている。手には長年働いてきた者らしい節があった。
農民だろうか。男は真継と目が合うと、困ったような顔をした。
「大丈夫ですか?」
真継は少し驚いた。捕らえられた直後の半裸の男に最初にかける言葉としては、随分まともだった。
「ああ。多分、大丈夫だ」
「多分?」
「久しぶりなのでな」
「何がです?」
真継は少し考えた。説明が難しかった。
「色々だ」
男はそれ以上尋ねなかった。賢明な判断だった。
列が動き始め、騎馬の男たちに囲まれながら捕虜たちは草原を歩かされた。真継は歩きながら周囲を観察した。空、草、馬、人間。どれも懐かしい。足の裏が地面に触れる感覚さえ面白かった。
しばらくして、真継は後ろの男へ話しかけた。
「聞きたいことがある」
「何でしょう」
「ここはどこだ」
男が怪訝そうな顔をした。
「どこ、と言われましても」
「土地の名でいい。国でもいい」
「この辺りなら、カリオン平原ですが」
知らない。当然のように思えた。
「お前は?」
「私ですか?」
「名だ」
「ダモンです」
「俺は真継だ」
「マツグ?」
「真継」
ダモンは何度か口の中で繰り返した。
「変わった名前ですね」
「俺の国ではそうでもなかった」
「どこの方です?」
「日本」
ダモンが首を傾げた。
「ニホン?」
「知らないか」
「聞いたことがありません。東の国ですか?」
「昔はそうだった」
「昔?」
「気にするな」
ダモンはますます不思議そうな顔をした。
真継は歩きながら考えた。日本を知らない。カリオン平原という地名も知らない。空に見える太陽らしき恒星の大きさも、地球から見ていたものとはわずかに違うように思える。何より、自分は地球が失われたあと宇宙を漂っていた。ここが地球であるはずがない。
それでも人間がいる。馬もいる。
理解できないことばかりだったが、その中でも特に不可解なことが一つある。
「ダモン」
「はい」
「なぜ俺たちは話せる?」
「……はい?」
「お前の言葉を俺は知らない」
ダモンはしばらく黙った。
「ですが、話せていますよ」
「だから聞いている。なぜだ」
ダモンは何を言われているのか理解できないようだった。
「言葉は通じるものでしょう?」
「世界中でか?」
「ええ」
真継は黙った。今度はダモンのほうが不安そうになった。
「本当に、どこから来たんです?」
「遠くだ」
「どのくらい?」
「説明すると長いんだ」
実際、あまりにも長かった。ダモンは少し迷ってから言った。
「言葉が通じるのは、神々がそう定められたからです。百年ほど前に結ばれた、神々の大協定で」
「大協定?」
また知らない言葉が出てきた。真継が尋ねると、ダモンは少し驚いた顔をした。
「それも知らないんですか」
「知らん」
「……本当にどこから来たんでしょうね、あなたは」
「俺にも分からん」
これは嘘ではなかった。
ダモンはしばらく真継を見ていたが、やがて諦めたらしい。
「大協定には、大きく三つの定めがあります」
「三つ?」
「ええ。最初の一つは、神々が互いに直接争わないことです」
真継は眉を上げた。
「神同士で戦うな、ということか」
「そうです。神が自ら地上へ降りて別の神と戦ったり、その力を直接ぶつけ合ったりすることを禁じています。昔は、それで地上まで巻き込まれることがあったそうです」
「神の喧嘩に人間が巻き込まれたのか」
「簡単に言えば」
「迷惑な話だな」
「そういうことを平然と言うのはやめたほうがいいですよ」
「聞かれなければ問題ない」
「聞かれているかどうか分からないから言ってるんです」
真継は空を見上げた。雲一つない。
「それで、二つ目は?」
「人の言葉を互いに通じるものとすることです。どこの国の者でも、どんな民でも、口にした言葉は相手に意味が通じる。今こうして私とあなたが話せているのも、そのためです」
「文字もか?」
「いいえ。文字は別です。国や土地によって違いますよ」
「なるほど」
話せても読めるとは限らないらしい。妙なところで融通の利かない仕組みだった。
「三つ目が、地上の大きな戦を禁じることです」
「戦を?」
「国と国が軍を出して争うような戦です。これだけは期限が決められていて、大協定が結ばれてから百年のあいだとされています」
「なぜ百年だけなんだ」
「そこまでは知りません。ただ、戦が続きすぎたからだと言われています。人も国も減りすぎた。神々も争いを続ければ、世界そのものが立ち行かなくなると考えたのでしょう」
真継には覚えのある話だった。規模は違えど、似たようなことを人間は何度もやってきた。
「それで百年、国同士の戦を止めたのか」
「ええ。第三の定めを破れば罰が下ります」
「罰とは?」
「疫病、雷、飢饉。国によっては、町が一夜で焼かれたという話もあります」
真継はもう一度空を見上げた。神が実際に罰を下す。ダモンの口調からすると、比喩でも伝説でもないらしい。
「ずいぶん物騒な神だな」
「だから聞かれたら怒られますよ」
「聞いているのか?」
ダモンも空を見上げた。
「分かりません」
「なら問題ない」
「そういう問題でしょうか」
真継は少しだけ笑った。
「それで、戦は禁止されているんだな」
「今のところは」
真継は自分たちを囲んでいる騎馬の男たちを見た。
「では、これは何だ」
ダモンも同じ方を見る。
「奴隷狩りです」
「それは見れば分かる」
「戦ではありませんから。村同士の争いや盗賊、海賊、人攫いまで大協定が禁じているわけではありません。禁じられているのは、国が軍を動かして行う大きな戦です」
真継は少し考えてから納得した。神の決めたことにも境目はあるらしい。その境目を利用するのは、人間がどこにいても変わらないようだった。
「ですが、それも最近になって急に増えました」
「なぜだ」
ダモンの表情が曇った。
「第三の定めが終わるからです」
「大協定そのものではなく?」
「ええ。神々が直接争わないという定めも、言葉が通じるという定めも残ります。終わるのは、百年間の戦争禁止だけです」
「あとどれくらいだ」
「一月ほどです」
真継は前を向いた。騎馬の男たちは弓や槍を携え、捕らえた人々を追い立てている。
「百年も戦を禁じられていたのに、終わると分かった途端にこれか」
「どこの国も兵を集めています。武器も食料も。奴隷の値も上がっているそうです」
「戦か」
「皆、そのつもりでしょう」
真継は納得した。
「人間らしいな」
「褒めてはいませんよね?」
「もちろんだ」
しばらく歩いたところで、一行は休息を取った。捕虜たちは草の上へ座らされ、騎馬の男たちは馬へ水を飲ませている。人間に配られた水は少なかった。
真継は久しぶりに水というものを見た。飲みたいとは思ったが、身体がどの程度水分を必要としているのか自分でもよく分からない。死ねば元に戻る以上、飲まなくても生きてはいける。それでも、喉が渇くという感覚は懐かしかった。
隣に座ったダモンが地面へ手を置いた。
何をしているのかと見ていると、指先の下に湿り気が生まれた。土の間から水が滲み出し、やがて小さな窪みに溜まっていく。ダモンは周囲を確認し、手ですくって口へ運んだ。
「今のは何だ」
真継が尋ねると、ダモンは驚いてこちらを見た。
「見ていたんですか」
「ああ」
「黙っていてください。知られると面倒なので」
「何をした」
ダモンは少し迷ってから答えた。
「恩寵です」
「恩寵?」
「デメテル様からいただいたものです。地中の水を少しだけ引き上げられます」
真継は黙った。今度は地名ではなかった。聞き覚えがある。
「……デメテル?」
「はい」
真継はダモンの顔を見た。
デメテル。豊穣を司る女神。遥か昔、地球の一地方で信仰されていた神の名だった。確かギリシア神話だったか。
「そのデメテルというのは、豊穣の神か」
「もちろんです」
真継はしばらく何も言わなかった。偶然と考えることはできる。音がたまたま似ているだけかもしれない。
だが、この星には人間がいる。馬がいる。言葉は神々の力によって誰とでも通じる。そして、地球に存在した神と同じ名を持つ神がいる。
偶然として片づけるには、少し多い。
ダモンはそんな真継を不思議そうに見ていた。
「どうしました?」
「いや。続けてくれ」
「何をです?」
「水だ」
「飲みますか?」
「ああ」
ダモンはもう一度地面へ手を置いた。ゆっくりと水が滲み出してくる。真継はそれを手ですくって飲んだ。
冷たかった。味がある。ただの水だったが、それがひどく美味かった。
「大したものだな」
「これがですか?」
「水を得られる」
「畑では役に立ちましたけどね。戦えるような恩寵ではありません」
「水がなければ人は死ぬ。槍より役に立つこともある」
ダモンは少し意外そうな顔をした。
「変な人ですね、あなた」
「よく言われた」
いつの時代にも言われてきた言葉だ。
休息が終わり、再び歩かされた。日が傾き始めている。
真継はこの世界について、まだほとんど何も知らなかった。神々がいる。恩寵という力がある。百年続いた大協定が一月後に終わる。そして、その終わりを待ちきれない人間たちが、すでに戦の準備を始めている。
どうやら、随分と面倒な時期に落ちてきたらしい。
「ダモン」
「今度は何です?」
「俺たちはどこへ連れていかれる」
「聞いた話では海の方です。そこから売られるんでしょう」
「どこへ?」
「おそらくアテライです」
真継は足を止めかけた。
「何だって?」
「アテライ。知らないんですか?」
「知らん。どんな場所だ」
「大きな都市ですよ。海の向こうまで船を出していて、商人も多い。奴隷も大勢います」
「ほかには?」
ダモンは少し考えた。
「女神アテナ様に守られた都市です」
今度こそ、真継は黙った。前を歩いていた捕虜に縄を引かれ、再び足を動かす。
アテナ。
その名も知っていた。戦と知恵を司る女神。真継が生まれるより遥か以前から、地球で語られていた神だった。
真継は空を見上げた。青い空が広がっている。地球ではない。そのはずだった。
それなのに、人がいて、馬がいて、デメテルがいて、アテナがいる。
何が起きているのか、真継にはまだ分からなかった。