あれは腹痛の薬ではなかったのかと不死人は言う 作:カズヤミサワP
真継が奴隷になってから、三日が過ぎた。少なくとも、ダモンはそう数えていた。
真継自身は久しく日付というものを気にしていなかったため、太陽が昇って沈むという当たり前の現象に、まだ少し馴染めずにいた。夜になれば眠り、朝になれば起きる。腹が減れば食べ、喉が渇けば水を飲む。どれも遥か昔には当然だったことなのに、宇宙を漂っていた時間が長すぎたせいで、今では一つ一つが懐かしい習慣に思えた。
奴隷としての待遇は、当然ながら良くない。食事は日に二度、硬いパンのようなものと、豆や穀物を煮た薄い粥が与えられた。水も最低限で、歩みが遅ければ騎馬の男たちから怒鳴られる。逃げようとした者が一人いたが、馬で追いつかれ、ひどく殴られて戻ってきた。それ以降、逃亡を試みる者はいなかった。
真継は特に不満を言わなかった。食べ物がある。水がある。空気がある。夜になれば眠ることもできる。何より、周囲には人間がいる。これ以上何を望むのかとさえ思う。もちろん、縄でつながれていないほうがいいとは思っていた。
「あなた、随分と平気そうですね」
歩きながらダモンが言った。
「そう見えるか」
「見えますよ。皆、これからどうなるのか不安で仕方がないのに、あなたはずっと辺りを見ている」
「珍しいものが多いからな」
「草原が?」
「草原もだ」
ダモンは真継の顔を見たが、やはり理解できないらしい。
真継にとっては本当のことだった。地平線まで続く草原も、そこを吹き抜ける風も、空を飛ぶ鳥も珍しい。時折見かける虫さえ、つい目で追ってしまう。人間の暮らしが見えれば、なおさらだった。
道中、小さな集落をいくつか通った。日干し煉瓦や石を使った家々があり、畑では人が働いていた。羊や山羊に似た家畜もいる。こちらに気づいた村人たちは、騎馬の男たちと捕虜の列を遠巻きに眺めるだけで、近づいてはこなかった。
建物も農具も原始的だった。真継はかつて、空の彼方に都市が浮かび、人間が星から星へ渡る時代を知っている。その文明と比べれば、目の前にあるものはひどく素朴だった。だからといって見下す気にはならない。人間は最初から星へ行けたわけではない。石を積み、土を耕し、木を削るところから始めた。それを真継は知っている。
むしろ懐かしかった。
ただし、自分が知る古代と明らかに違うものもある。恩寵だ。
途中で通った畑では、農夫が手を触れると萎れていた植物がわずかに起き上がるところを見た。別の集落では、薪に指を向けただけで火をつける女もいた。どちらも大したことではない。少なくとも、真継が最後に知っていた文明の技術からすればそうだった。だが、機械も道具も使っていない。神から授けられた力を、この世界の人々は当たり前のものとして暮らしに使っている。
「恩寵を持つ者は多いのか?」
真継が尋ねると、ダモンは少し考えた。
「珍しくはありません。でも、誰でも授かるものではありませんよ」
「どうすれば貰える」
「神々がお決めになります」
「気まぐれか」
「そういう言い方はやめたほうがいいと思います」
「聞かれるからか?」
「だから、分かりませんって」
ダモンが困った顔をした。真継は少し笑った。
神という存在について、真継はこの数日ずっと考えていた。地球にも数え切れないほどの神がいた。人類が宇宙へ進出してからも宗教はなくならなかったし、人間とは違う形で神を捉える思想もいくつも生まれた。だが、真継が知る限り、神が人間へ直接このような力を与えたことはない。
それだけでも、この世界は地球とは違う。それなのにデメテルがいて、アテナがいる。真継はまだ答えを出せずにいたが、時間はいくらでもある。急ぐ必要はない。そう考えられるのは、不死人の数少ない利点だった。
♢
四日目の夕方、一行は小さな川の近くで野営することになった。騎馬の男たちは慣れた様子で馬を休ませ、火を起こした。捕虜たちは少し離れた場所へ集められ、長い縄で互いにつながれたまま座らされた。
真継はここ数日で、彼らが何者なのか少しずつ理解していた。草原を移動して暮らす騎馬の民らしい。弓の扱いに長け、馬上からでも正確に射る。統一された国に属しているわけではなく、いくつもの氏族や部族に分かれているという。
ダモンは彼らをスキリア人と呼んでいた。もっとも、真継にとっては名前を知ったところで、まだそれ以上の意味はない。地球のスキタイに似ているとは思ったが、デメテルやアテナの例がある以上、安易に同じものだと決めつける気にはならなかった。
「あと何日だ」
真継が尋ねると、隣に座っていたダモンが顔を上げた。
「アテライまでですか?」
「ああ」
「港までなら、あと二日か三日でしょう。そこから船だと思います」
「船か」
「乗ったことは?」
「ある」
「海を渡るような船ですよ?」
「それもある」
ダモンは少し疑わしそうな顔をした。
「どんな船でした?」
真継は答えに困った。木造帆船も知っている。蒸気船も知っている。巨大な貨物船も潜水艦も知っている。空を飛ぶ船にも乗ったし、最後には船という言葉で呼んでいいのか分からないものにまで乗った。
「色々だ」
「またそれですか」
「説明しても信じない」
「話してみてくださいよ」
「星まで行く船だ」
ダモンは真継を見た。
「……そうですか」
「だから言っただろう」
「ええ。聞いた私が悪かったです」
ダモンはそれ以上聞かなかった。真継としては本当のことしか言っていない。
「アテライでは、俺たちはどうなる」
話を戻すと、ダモンは少し表情を曇らせた。
「分かりません。買った人次第です。畑かもしれないし、工房かもしれない。港で荷を運ばされるかもしれません」
「お前は?」
「私も同じですよ」
「水の恩寵があるだろう」
ダモンは周囲を確認した。
「声が大きいですよ」
「知られるとまずいのか」
「値が上がります」
「いいことではないのか?」
「売る側にとってはね」
なるほど、と真継は納得した。
ダモンは膝を抱えた。
「でも、アテライなら……まだ運がいいほうかもしれません」
「奴隷になるのに運があるのか」
「ありますよ」
ダモンは即答した。
「ずいぶん違うのか」
「誰に買われるかで人生が変わります。家の中で働く者もいれば、商人の手伝いをする者もいる。読み書きや計算ができれば、それを使う仕事を与えられることもあります」
「鉱山もあるだろう」
真継が言うと、ダモンは嫌そうな顔をした。
「あります」
「そこに送られたら?」
「運が悪かったと思うしかありません」
「やはり当たり外れがあるな」
「だから言ったでしょう」
真継は少し考えた。奴隷制度そのものは珍しくない。真継が生きてきた長い時間の中で何度も見てきた。文明が進めば消え、形を変えて戻ったこともあり、そしてまた消えた。人間は同じようなことを何度も繰り返す。今さら腹を立てるほど新鮮なものではなかった。
「アテライというのは豊かなのか」
「この辺りでは一番と言ってもいいでしょう。港には色々な国から船が来ますし、銀もあります。食べ物も集まります」
「戦も強い?」
「海なら」
ダモンはそう答えてから、声を落とした。
「百年の停戦が終われば、どうなるか分かりませんけどね」
あと一月ほど。
真継はその言葉を思い出した。百年間止められていた戦争が再び始まる。人間たちは、それを恐れながら待っている。あるいは楽しみにしている者もいるのだろう。真継には、そちらの人間の気持ちも分からなくはなかった。
♢
その夜、真継はふと目を覚ました。宇宙を漂っていたころには眠る必要さえほとんどなかったが、地上へ戻ってからは夜になると自然に意識を休めるようになった。身体が昔の習慣を思い出しているのかもしれない。
目を開けても暗く、火は小さくなっていた。騎馬の男たちの何人かが見張りに立ち、捕虜たちは眠っている。真継は身体を起こさず、目だけを動かした。
何かがおかしい。
しばらくして、虫の声が消えていることに気づいた。
次の瞬間、見張りの男が倒れた。真継には何が起きたのか見えなかったが、その首元から棒のようなものが伸びている。
矢だった。
「敵だ!」
叫び声が上がるのとほぼ同時に、暗闇から何本もの矢が飛んできた。野営地が一気に騒がしくなり、眠っていた男たちが飛び起きて武器へ手を伸ばす。馬が暴れ、捕虜たちから悲鳴が上がった。
「何ごとです!?」
隣でダモンが目を覚ました。
「襲撃だ」
「見れば分かります!」
騎馬の男たちが弓を取り、暗闇へ矢を返し始めたが、相手の姿はほとんど見えない。真継は地面に伏せ、ダモンにも伏せるように促した。直後に矢が頭上を通り、捕虜の一人が肩に矢を受けて悲鳴を上げた。
真継は伏せたまま周囲を見た。逃げようと思えば逃げられる。縄を切る道具はないが、騒ぎに乗じて武器を奪えばいい。何人か殺せば、自分一人ならどうとでもなる。
だが、逃げたところで行く場所がない。この世界について何も知らない。地理も知らなければ国も知らない。何より、せっかく人間を見つけたばかりだった。
真継は伏せたまま様子を見ることにした。
戦いは思ったより短かった。襲撃した側は最初から野営地の位置も人数も把握していたらしい。暗闇の中から矢を射かけ、混乱したところへ馬で突入してきた。
夜襲。
真継には懐かしい戦い方だった。文明がどれほど進んでも、奇襲が有効であることは変わらない。
やがて馬上の男が一人、捕虜たちの近くへ飛び込んできた。見慣れない装備だった。スキリア人とは違い、丸い盾を持ち、頭には金属製の兜をかぶっている。
「動くな!」
男が叫んだ。
真継は動かなかった。少し離れた場所ではまだ戦いが続いていたが、次第に声が少なくなり、やがて武器を捨てろという叫びが聞こえた。生き残ったスキリア人たちが降伏したらしい。
「終わったのか?」
ダモンが小声で尋ねた。
「多分な」
「助かった……」
「そうか?」
真継は周囲を見た。武装した男たちが野営地を歩き回り、倒れた者を確認し、生きているスキリア人から武器を取り上げ、馬を集めている。
そして、捕虜たちの縄は解かれなかった。
ダモンもそれに気づいた。
「……ああ」
「助かっていないようだな」
「そうみたいですね」
真継は少し笑った。人間は変わらない。
♢
朝になると、襲撃者たちは夜のうちに奪ったものを整理していた。馬、武器、食料、そして人間。生き残ったスキリア人まで縛られている。昨日まで奴隷を売る側だった者が、一晩で売られる側になったらしい。
真継はそれを眺めながら硬いパンを食べていた。
「奴隷狩りを襲って、奴隷を奪ったわけか」
隣にいたダモンが頷いた。
「奴隷狩り追いですね」
「そんなものがいるのか」
「いますよ。自分で村を襲うより、集め終わった連中を襲うほうが楽ですから」
「合理的だな」
「感心しないでください」
真継は硬いパンを噛みながら、襲撃者たちを観察した。装備はスキリア人とは明らかに違う。騎馬だけで戦う者たちではなく、盾と槍を持った歩兵が多く、装備にもある程度の統一がある。少なくとも、ただの盗賊には見えなかった。
「こいつらは何者だ」
「分かりません。でも、スキリア人ではありませんね」
真継にもそれは分かった。
昼前になると再び移動が始まったが、今度は昨日までとは違う方角へ進み始めた。太陽の位置を確認した真継は、すぐに気づいた。
「ダモン」
「はい」
「海はあちらではないだろう」
ダモンも空を見た。
「……そうですね」
「アテライへ向かっていないな」
ダモンの顔から、わずかに血の気が引いた。
「まずいか?」
「分かりません」
「顔はまずいと言っている」
「行き先によります」
その答えは夕方になって判明した。襲撃者の一人と、生き残ったスキリア人が話しているのをダモンが聞いたらしい。
休息に入ったところで、ダモンが真継のそばへ来た。
「マツグ。行き先が分かりました」
「どこだ」
ダモンは嫌そうな顔をした。
「ラケオンです」
真継には当然、聞き覚えがなかった。
「どこだ、それは」
「南西にある国です。山に囲まれた盆地を中心にしていて……軍事国家ですよ」
「軍事国家」
「男は幼いころから兵として育てられる。国のことも暮らしのことも、すべて戦を基準に考えるような連中です」
「強いのか?」
「陸では、おそらく一番です」
真継は少し興味を持った。
「面白そうだな」
「何で嬉しそうなんですか。私たちは戦いに行くんじゃありません。奴隷として売られるんですよ」
「そうだったな」
真継は忘れていたわけではないが、大した問題とも思っていなかった。ダモンは深く息を吐いた。
「アテライのほうがよかった」
「昨日は奴隷にも当たり外れがあると言っていたな」
「言いました」
「ラケオンは外れか」
「大外れです」
即答だった。
「そんなに違うのか」
「天と地ほど違いますよ」
ダモンによれば、アテライでは奴隷も財産として扱われる。もちろん主人次第で酷い目に遭うことはあるが、技術を持つ者には仕事を与えられ、商売を任される者さえいる。金を貯め、いつか自由を買い戻す者もいるという。
ラケオンは違う。国そのものが、多数の隷属民に支えられている。畑を耕す者、家畜を育てる者、武器を作る者、荷を運ぶ者。戦士たちが戦うことへ専念できるよう、それ以外の仕事をする人間が必要になる。そのためラケオンでは、奴隷や隷属民に対する扱いが他国より遥かに厳しいという。
「逃げれば殺されます」
「普通では?」
「反抗しても殺されます」
「それも珍しくない」
「働けなくなっても殺されることがあります」
「なるほど」
「それだけですか?」
「まだ行ってもいないからな」
噂だけで判断する気はなかった。真継は長く生きてきた。恐ろしい国だと聞いて行ってみれば案外まともだったこともあれば、楽園と呼ばれていた国で死体が積み上がっていたこともある。自分の目で見るまでは分からない。
「それに、停戦が終わるでしょう」
「ああ」
「ラケオンは戦を始めます」
「アテライも始めると言っていただろう」
「意味が違います」
ダモンは首を振った。
「アテライは戦争に備えている。ラケオンは、戦争ができる日を待っているんです」
真継はその言葉を気に入った。
「なるほど」
「だから、何で嬉しそうなんですか」
「嬉しいわけではない」
「笑っていますよ」
指摘され、真継は口元へ触れた。確かに少し笑っていた。
何億年もの間、死んでは蘇り、何もない宇宙を漂い続けた。ようやく辿り着いた星には人間がいた。神々がいて、奇妙な力があり、百年間封じられていた戦争がもうすぐ始まる。そして自分は、その中でも特に戦好きな国へ奴隷として売られようとしている。
随分な巡り合わせだった。
「まあ、何とかなるだろう」
真継が言うと、ダモンは呆れたようにこちらを見た。
「何を根拠に言ってるんです?」
真継は少し考えた。自分は死なない。それを説明するわけにもいかない。
「長年の経験だ」
「おいくつなんです?」
「忘れた」
「真面目に聞いています」
「俺も真面目に答えている」
ダモンは何か言おうとして、結局やめた。
再び歩けという命令が飛んだ。二人は立ち上がり、捕虜たちの列へ戻る。真継は縄につながれたまま、まだ見ぬラケオンの方角へ歩き始めた。
アテライには行けなくなった。アテナについて調べるつもりだったので、それだけは少し残念だったが、時間ならいくらでもある。いずれ行けばいい。
真継はそう考えながら、前を歩く奴隷に続いた。
隣ではダモンが、ひどく重い溜息をついていた。