あれは腹痛の薬ではなかったのかと不死人は言う   作:カズヤミサワP

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第8話 人がいるなら十分だ

 真継が次に目を覚ましたとき、頬に砂がついていた。

 

 しばらくのあいだ、自分がどこにいるのか分からなかった。身体の半分は冷たい水に浸かり、もう半分は浜へ乗り上げている。波が寄せては引き、そのたびに身体がわずかに揺れ、耳には一定の間隔で水の音が届いていた。海だった。

 

 真継は目を開き、ゆっくりと身体を起こした。空は明るく、太陽はすでにそれなりの高さまで昇っている。海上には昨日の戦いを思わせるものはほとんど残っておらず、沖にいくつか木片らしきものが漂っている程度だった。

 

 自分がどれほど流されたのかは分からない。船から海へ飛び込んだところまでは覚えている。その後もしばらくは泳いでいたはずだったが、身体には海戦で受けた傷が残っていたし、何より何億年ぶりかの泳ぎである。思っていたほど身体はうまく動かず、何度か海水を飲み、沈み、息が続かなくなった。最後には意識が途切れたので、おそらく一度か二度は死んだのだろう。

 

 今は傷も消えている。昨日、槍で貫かれた腹にも傷跡はなく、足もある。首もつながっている。身体に異常はなかった。

 

 異常があるとすれば、腹が減っていた。

 

「……腹が減ったな」

 

 声はもう普通に出た。この世界へ落ちた直後のように、喋り方を思い出す必要もない。呼吸もすっかり身体に馴染んでいる。人間としての暮らしを再開してから一月ほどしか経っていないはずなのに、何億年も忘れていた感覚が急速に戻ってきていた。

 

 真継は立ち上がった。腰には布が一枚残っている。ラケオンで与えられた粗末な服は、船内があまりに暑かったので脱いでいた。沈み始めた船から回収する余裕など当然なかったため、今の真継が身につけているものは腰布だけである。裸足で、武器も金も食料も水もない。

 

「まあ、いつものことか」

 

 真継にとっては、それほど珍しい状況でもなかった。何も持たずに生き延びたことなら何度もある。何より今回は空気があり、水があり、植物もある。人間までいることはすでに分かっている。宇宙よりは遥かに条件がいい。

 

 真継は浜を見渡した。砂浜はそれほど広くなく、その向こうには低い丘が続いている。斜面は乾いた草と灌木に覆われ、ところどころに背の低い木が見えた。海岸沿いには岩場も多く、波が白く砕けている。

 

 少し離れた場所に、人の手が入ったものが見えた。小さな船だった。浜へ引き上げられている。そのさらに向こうには低い石造りの家が何軒も並び、煙の上がっている家もあった。

 

 村だ。

 

 真継はそちらへ歩き始めた。砂の感触が足の裏に伝わり、潮の匂いがする。遠くからは鳥の声も聞こえた。それだけのことで、少し気分がよかった。

 

 

 

 

 村へ近づく前に、真継は見つかった。

 

 浜で網を広げていた男が顔を上げ、こちらを見た。その手が止まり、次に真継の腰布一枚という姿を見て眉をひそめる。

 

「おい」

 

 男が声をかけてきた。真継は立ち止まった。

 

「何だ」

 

「何だ、じゃない。そこで何をしている」

 

「歩いている」

 

「それは見れば分かる」

 

 男は網を置いて立ち上がった。年は四十をいくらか越えたくらいだろうか。肌は日に焼け、長年海で働いてきたことが分かる頑丈な身体をしている。短く切った髪にはわずかに白いものが混じっていたが、動きに衰えは見えない。腰には短い刃物を下げていたものの、今のところ抜くつもりはないらしい。

 

「どこから来た」

 

 真継は海を指した。

 

「あちらだ」

 

 男が海を見て、それから真継を見る。

 

「……海から?」

 

「ああ」

 

「船は?」

 

「沈んだ」

 

 男の表情が変わった。

 

「昨日の戦か?」

 

「多分な」

 

「どこの船だ」

 

「ラケオン」

 

 今度は明らかに警戒された。男の手が腰の刃物へ近づく。

 

「ラケオン兵か」

 

「違う」

 

「では何だ」

 

「奴隷だった」

 

 男はしばらく黙った。

 

「奴隷?」

 

「ああ。漕がされていた。船が沈んだので逃げた」

 

「どうやって」

 

「泳いだ」

 

 足を切り落として拘束から抜けたことや、その後で首を切って死んだことまで説明する必要はない。真継も長く生きてきた。何でも正直に話せばいいわけではないことくらい知っている。

 

 男はなおも怪しんでいた。

 

「名前は」

 

「真継」

 

「どこの人間だ」

 

「遠いところだ」

 

「国は?」

 

「もうない」

 

 男はますます疑わしそうな顔をした。

 

「何一つ分からんな、お前は」

 

「俺もそう思う」

 

「自分で言うな」

 

 真継は少し考えた。

 

「ところで、何か食わせてもらえないか」

 

 男は完全に黙った。真継は腹に手を当てる。

 

「腹が減っている」

 

「……お前、自分が疑われているのは分かっているか?」

 

「分かっている」

 

「なら普通はもう少し――」

 

「疑われていることと腹が減っていることは別の話だろう」

 

 男は真継を長いこと見たあと、大きく息を吐いた。

 

「ついて来い」

 

「飯か」

 

「まず村長だ」

 

「飯は?」

 

「その後だ」

 

 真継は少し残念に思ったが、黙って従った。

 

 

 

 

 村は小さかった。海沿いの狭い土地に石造りの家々が並び、その背後には乾いた丘陵が迫っている。斜面にはオリーブらしき木が植えられ、小さな畑もあった。家々の間では魚が干され、網を繕う者や、木造の小舟を修理している者の姿も見える。

 

 真継が村へ入ると、当然のように注目された。腰布一枚だからである。子供がこちらを見て指を差し、その母親らしき女が慌てて手を下ろさせた。年寄りたちは露骨に怪しみ、男たちも何人か手を止めてこちらを見ている。

 

「拾った」

 

 真継を連れてきた男が言った。

 

「魚か?」

 

 別の男が尋ねた。

 

「人だ」

 

「見れば分かる」

 

 真継は何も言わなかった。どうやら、この村ではこういう会話が普通らしい。

 

 やがて村の中央近くにある、少し大きな家へ連れていかれた。中にいたのは白髪の老人だった。身体は細いが目には力があり、椅子に座ったまま真継をじっと見た。

 

「名前は?」

 

 また同じことを聞かれた。

 

「真継」

 

「出身は」

 

「遠い」

 

「どこだ」

 

「日本」

 

「知らんな」

 

「だろうな」

 

 老人の眉が動いた。

 

「昨日の海戦にいたそうだな」

 

「ああ」

 

「ラケオン兵か」

 

「奴隷だ」

 

「どうしてラケオンの奴隷になった」

 

 真継は少し考えた。

 

「最初はアテライに売られる予定だった。その途中で、俺たちを捕まえた連中が襲われた」

 

「それでラケオンへ?」

 

「ああ」

 

「運が悪いな」

 

「ダモンにも同じことを言われた」

 

「ダモン?」

 

「一緒に捕まっていた男だ」

 

「今は?」

 

「農園へ送られた」

 

 老人はそこでしばらく黙り、真継の顔や身体を観察した。

 

「お前、ずいぶん元気だな」

 

「そうか?」

 

「昨日、海戦で沈んだ船から泳いできた男には見えん」

 

 真継は答えなかった。これについて説明すると面倒になる。老人も何かを察したのか、それ以上は追及しなかった。

 

「ここはミュレアだ」

 

「ミュレア」

 

「アテライ領の南西にある漁村だ。大したものは何もない」

 

「人がいる」

 

「当たり前だ」

 

「俺には十分だ」

 

 老人は不思議そうな顔をした。

 

「お前、本当に何者だ」

 

「真継だ」

 

「それは聞いた」

 

 村長は額を押さえた。真継はどうも、この世界へ来てから同じような反応を何度も見ている気がした。

 

「それで、これからどうする」

 

 村長に尋ねられ、真継は少し考えた。

 

 自由だった。

 

 それに気づいたのは、聞かれてからだった。騎馬の奴隷狩りに捕まってからは、ずっと誰かに行き先を決められてきた。アテライへ売られることになり、途中で奪われ、ラケオンへ連れていかれ、荷を運ばされ、最後には船へ乗せられた。

 

 今は誰にも縄をかけられていない。どこへ行けとも言われていない。アテライへ向かってもいいし、神々について調べてもいい。この星のどこまで人間が住んでいるのか確かめてもいい。何もしなくてもいい。

 

「まだ決めていない」

 

 真継は正直に答えた。

 

「行く場所がないのか?」

 

「あるかもしれないが、急いで行く必要もない」

 

「妙な言い方をする」

 

「急ぐのは苦手でな」

 

 真継には時間がある。一日も、一年も、場合によっては百年でさえ、大した違いではない。

 

 村長はしばらく考えていた。

 

「働けるか」

 

「ああ」

 

「漁は?」

 

「やったことはある」

 

「船は?」

 

「乗れる」

 

「網は?」

 

「多分使える」

 

「多分?」

 

「最後にやったのが昔だからな」

 

「どれくらい昔だ」

 

「忘れた」

 

 村長はまた額を押さえた。

 

「お前と話していると頭が痛くなるな」

 

「よく言われる」

 

「それもか」

 

「ああ」

 

 村長は真継を見たあと、諦めたように息を吐いた。

 

「しばらく村に置いてやる。ただし働け。食わせるだけの余裕はない」

 

「分かった」

 

 真継は即答した。

 

「寝る場所なら、空いている小屋がある。漁具を置いていたところだ。雨風くらいはしのげる」

 

「十分だ」

 

「それから」

 

 村長は真継の格好を見た。

 

「服を着ろ」

 

 真継も自分の身体を見下ろした。

 

「これでは駄目か」

 

「駄目だ。村の女たちが困る」

 

「分かった」

 

 議論するほどのことでもなかった。

 

 

 

 

 最初に真継へ飯を与えたのは、浜で彼を見つけた男だった。名をテロンといった。

 

 家の前へ座らされ、焼いた魚と平たいパン、それに薄めた葡萄酒を渡された。真継は魚を一口食べ、しばらく噛んだ。

 

「どうした」

 

 テロンが尋ねた。

 

「うまい」

 

「魚くらい食ったことあるだろう」

 

「ある」

 

「では何だ」

 

「久しぶりだからな」

 

「何年ぶりだ」

 

「数えるのをやめた」

 

 テロンは真継を見た。

 

「お前、やっぱり頭を打ってないか?」

 

「多分打った」

 

 大気圏突入と墜落のときには、確実に何度も壊れている。説明しても仕方がないので、真継はそのまま魚を食べ続けた。

 

 塩気があり、脂の味がする。葡萄酒には酸味があり、パンは硬かった。どれも美味かった。地球が滅びる遥か以前、真継はもっと複雑で、もっと洗練された料理をいくらでも食べてきた。人類が星々の間を行き交っていたころには、食材そのものを人工的に作ることさえ当たり前だった。

 

 それでも、今食べているただの焼き魚がひどく美味かった。

 

 食事とは、味だけで決まるものではないらしい。

 

 食べ終わるころ、一人の若い女が服を持ってきた。二十代ほどに見え、テロンとどことなく目元が似ている。

 

「父さんの古いのです」

 

 やはりテロンの娘らしい。真継へ差し出されたのは、使い込まれた簡素な衣服だった。膝丈の粗い布の服、腰を締めるための帯。それに古い革の履物もある。

 

「いいのか」

 

「その格好で村を歩かれるほうが困ります」

 

 村長と同じことを言われた。

 

 真継は服を受け取った。ラケオンでも衣服を与えられたことはあるが、あれは奴隷を働かせるためのものだった。身体を冷やして体調を崩せば労働力が落ちる。寒さで死なれても困る。家畜に餌を与えるのと、本質的には変わらない。

 

 これは違う。

 

 目の前の女は、真継が困るだろうと思って、ただ古着を持ってきてくれた。

 

「ありがとう」

 

 真継は言った。

 

 その言葉を、誰かの親切に対して使うのも久しぶりのような気がした。

 

 女は少し意外そうな顔をしたあと、笑った。

 

「どういたしまして」

 

 

 

 

 翌朝から、真継は働いた。

 

 最初の仕事は船を浜へ引き上げることだった。漁から戻った小舟を数人で引く。真継も縄を握り、周囲に合わせて力を込めた。

 

「もっとゆっくりだ!」

 

 テロンが叫んだ。真継は力を緩める。

 

「お前、一人で引くな!」

 

「早いほうがいいと思った」

 

「船が傷む!」

 

「そうなのか」

 

「本当に漁をしたことがあるのか?」

 

「ある」

 

「どこでだ!」

 

「色々だ」

 

「その答えは禁止だ!」

 

 真継は少し困った。本当に色々なのだから仕方がない。

 

 網の扱いでも同じことが起きた。真継は漁網を使った経験があるが、この土地の編み方や投げ方は、自分が知っているものと少し違っていた。最初に投げた網は半分ほど自分の足に絡まり、周囲の漁師たちから笑われた。

 

「お前、絶対に初めてだろう」

 

「道具が違う」

 

「網だぞ」

 

「網にも色々ある」

 

「言い訳するな」

 

 真継は黙ってもう一度やった。三度目にはだいぶ良くなり、十度目には普通に使えるようになった。

 

 テロンがそれを見て眉を上げる。

 

「覚えるのは早いな」

 

「昔からだ」

 

「何をやらせても昔からだな、お前は」

 

「昔が長いからな」

 

「また訳の分からんことを」

 

 そんな日が続いた。

 

 真継は漁に出て、網を引き、魚を運び、船の修理を手伝った。畑仕事に人手が必要ならそちらへも行き、家の壁が崩れれば石を運んだ。何でもできるわけではなく、知らないことも多かった。それでも、分からなければ覚えればいい。時間ならいくらでもあった。

 

 村人たちも最初は真継を警戒していた。ラケオンの船から流れ着いた、素性の知れない男である。当然だった。だが、一週間が過ぎても、村人たちが警戒していたような問題は何も起こらなかった。盗みもしない。喧嘩もしない。酒を飲んでも暴れない。働けと言われれば働き、頼まれれば重い荷物も運ぶ。

 

 ただ、ときどき妙なことを言う。それだけだった。

 

 やがて子供たちが真継へ近づくようになった。

 

「マツグ!」

 

 網を直していた真継が顔を上げる。

 

「何だ」

 

「海の向こうには何がある?」

 

「陸地だ」

 

「そうじゃない!」

 

「では何だ」

 

「怪物とか!」

 

 真継は考えた。記憶の中には、地球由来ではない生物まで大量にある。

 

「昔はいた」

 

「本当!?」

 

「多分な」

 

「どんなの?」

 

 真継はさらに考えた。

 

「大きい」

 

「どれくらい?」

 

「山くらいのだ」

 

 子供たちが歓声を上げた。

 

 少し離れたところからテロンが怒鳴る。

 

「子供に適当なことを吹き込むな!」

 

「嘘ではない」

 

「余計に悪い!」

 

 真継は首を傾げた。この村では、真実を話してもあまり信じてもらえないらしい。

 

 

 

 

 ミュレアに来て二週間が過ぎたころ、真継は村の外れにある小屋を自分で直し始めた。

 

 最初に与えられたときは、本当に漁具を置くだけの場所だった。屋根には隙間があり、壁の一部も崩れかけている。雨風をしのげれば十分だと思っていたが、暮らしているうちに少しずつ気になるところが増えた。

 

 屋根を直し、壁を積み直し、床を掃除した。古い寝台をもらって自分で補修し、テロンから余っていた壺を譲ってもらって水を入れた。誰かが古い机を持ってきて、別の家からは椅子も来た。

 

 真継が頼んだわけではない。

 

「使ってないから持っていけ」

 

 と言われただけだった。

 

 気がつけば、ただの物置だった小屋が、人の住む家らしくなっていた。

 

 その夜、真継は小さな灯りの前に座っていた。外からは波の音が聞こえ、風が屋根を撫でている。遠くでは誰かが笑っていた。

 

 人の声だった。

 

 真継はしばらくそれを聞いていた。

 

 地球を失ってから、帰る場所などなかった。宇宙では当然のこととして、それ以前からも真継は長く同じ土地へ留まらないことが多かった。自分だけが老いない以上、一つの場所にいればいずれ怪しまれる。だから移った。知り合いが老いれば別れ、家ができてもいつか捨てた。国さえ消えていき、最後には地球そのものがなくなった。

 

 ミュレアにいつまでいるのかは分からない。明日、気が変わって旅に出るかもしれない。一年いるかもしれない。それでも、今夜はここで眠る。

 

 真継は寝台へ横になった。屋根があり、壁があり、朝になれば人がいる。

 

 悪くない。

 

 それだけで、今の真継には十分だった。

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