翌日。
昼過ぎから俺は雑巾と掃除機を手に、家中を動き回っていた。
自分の部屋だけでなく、埃の被っていた廊下、広い茶の間……ほとんど誰もいない無機質な空間を片付けていく。
両親の部屋だけは触る気も起きなかったが、それ以外の場所はすっかり見違えるほど綺麗になっていた。
(今日もあまねちゃんが来たら、どうせまた掃除させられるからな。先にやっておけば文句も言わないだろ)
そんな魂胆で雑巾がけを終え、息をついていた夕方のことだ。
ピンポーン――。
チャイムが鳴り、ドアを開けると、そこにはジャージ姿のあまねちゃんが立っていた。
あまねちゃんは玄関から覗く整頓された廊下や茶の間を目にすると、少し目を見開き、感心したように頷いた。
「ほう……言われる前にここまで綺麗にしたのか。素晴らしいじゃないか、カイト!!」
まっすぐ褒められ、俺は照れくさくなり思わず顔を背けた。
「別に……昨日あまねちゃんにガミガミ言われたから、先にやっといた方がマシだと思っただけだ」
胸の奥でムズ痒いような、確かな嬉しさが込み上げてくる。
自分を肯定してくれる存在がいるというだけで、荒んでいた心がじんわりと温かくなる。
しかし、そんな時間は一瞬で砕け散った。
「よし、部屋が綺麗になったのなら次は体づくりだ。それじゃあ、走るぞ」
「……は?」
俺は思わず耳を疑った。
「えっ!?ちょっと待て!!走るって……」
「運動不足の体に喝を入れる……ほら、行くぞ!!」
「うおっ!!おい引っ張るな!!待てって!?」
俺はあまねちゃんに引っ張られるようにして外へ連れ出され、夕暮れの街を二人で長距離走る羽目になった。
「はっ…はっ…ふぅ!!あまねちゃん……ペース速すぎ!!」
「声が出ているうちはまだまだ余裕がある証拠だ!!足を止めるな、カイト!!」
あまねちゃんのブレないフォームと底知れないスタミナには脱帽するしかなかった。
俺は息を荒らし、汗だくになりながらも、なんとか離されまいと食らいついて走った。
ようやく走り終えた時には、俺はその場に膝をついて肩で息をしていた。
全身から汗が吹き出し、脚がガクガクと震えている。
「ふぅ……いい汗をかいたな。お疲れ様、カイト」
清々しい顔で汗を拭うあまねちゃんが、俺の手を引いて立たせた。
「死ぬ……本気で死ぬかと思った」
「この程度で何言ってるんだ……トレーニングの後は栄養補給だ。行くぞ」
あまねが連れてきたのは、ゆいの実家である定食屋『なごみ亭』だった。
暖簾をくぐると、香ばしい醤油とダシの香りが店内いっぱいに広がっていた。
注文を済ませ、運ばれてきたのはボリューム満点の夕食だ。
「いただきます」
汗を流し、極限までお腹を空かせた状態で、俺は温かい料理を口に運んだ。
「っ!?」
一口食べた瞬間、体中の細胞が歓喜するような感覚が奔走した。
温かい米、ジューシーなおかず、温かい味噌汁。
家で一人、インスタント食品を流し込んでいた時とはまるで違う。
「うまっ!!なにこれ!?めちゃくちゃ美味い!!」
「ふふっ、そうだろう。身体を動かした後の食事は格別だからな。しっかり食べるといい」
夢中で箸を進める俺を、あまねちゃんは優しい眼差しで見つめていた。
運動後の心地よい疲労感と、お腹を満たす温かい料理。
俺は久しく忘れていた感覚を噛み締めていた。
食後、『なごみ亭』を出るとすっかり夜の空気が広がっていた。
「ごちそうさま……生き返った」
「今日のメニューは以上だ。カイト、帰ったらちゃんとお風呂に入り、汗を流すんだぞ。それから夜更かしは厳禁だ。身体を休めるのもトレーニングのうちだからな」
手厳しいようで、自分の身体を気遣ってくれるあまねちゃんの言葉に、俺は苦笑しながら頷いた。
「はいはい、分かったよ。お風呂入ってすぐ寝ます」
「よろしい」
あまねちゃんは満足そうに頷くと、最後にいたずらっぽく微笑んだ。
「明日は休日だからな。午前中から来る。覚悟しておくように」
「えっ……午前中から!?」
「当たり前だ!!時間はたっぷりあるからな。では、おやすみカイト」
手を振って颯爽と歩き去っていくあまねちゃんの背中を、俺は呆然と見送った。
(明日もまたあまねちゃんが来るのか……)
その事実に「勘弁してくれよ」と心の中で呟きつつも、どこか楽しみにしている自分がいることに俺は気づいていた。
(風呂入って、早く寝るか)
夜風を心地よく感じながら、俺は我が家へと歩みを進めた。
休日の午前中。
予告通り、あまねちゃんは俺の家へとやってきた。
「今日はカイトに勉強を教える」
綺麗になった机の上に参考書を並べながら言いきるあまねちゃん。
「おいおい、あまねちゃんは中学三年で受験生だろ。俺の勉強なんか見てる場合なのか?」
「問題ない。私にとっても基礎の復習になるからな。むしろ効率が良い」
さらりと返されたが、俺の胸にはどうしても申し訳なさが残る。
自分が彼女の負担になっているのではないかという罪悪感。
この数日で彼女が一度決めたら簡単に引き下がらない頑固な性格だということは分かっている。
「はぁ……分かったよ、やればいいんだろ」
せめて真面目に取り組むとしよう。
ノートを開き、あまねちゃんから出された問題を解いていく。
「素晴らしいぞ、カイト!!キミは理解が非常に早いな」
たった数問解いただけで、誇らしげに頷き、まっすぐに褒めてくるあまねちゃん。
「べ、別にこれくらい普通だろ」
素直な称賛が照れくさくて、ついぶっきらぼうな態度をとってしまう。
「ふふっ…それじゃあ次の問題は……」
あまねちゃんは俺が照れてることに気づいたのか、嬉しそうに次の問題を出すのだった。
お昼時になり、あまねちゃんは持参していた重箱を取り出した。
中には丁寧に作られた数種類のサンドイッチが綺麗に並べられている。
「手作りか……。なんか、あまねちゃんには世話になりっぱなしで悪いな」
「気にするな。私がやりたくてやっていることだ」
サンドイッチを一口頬張ると、卵とハムの優しい味が広がる。
「うん、美味い!!」
「そうか!!たくさんあるから、どんどん食べてくれ!!」
あまねちゃんに進められるまま俺はサンドイッチを食べていく。
そんな俺を見て、微笑んでいたあまねちゃんだが……ふと静かな家の中に目をやり、素直な疑問を口にした。
「そういえば……ご両親の姿が見えないが、今日も仕事なのか?」
俺はなんと答えたらいいか迷い、口を開く。
「仕事っていうか……居ないんだよ」
「居ない?」
「俺が不登校になった後さ……両親がお互いに不倫してることが分かって大喧嘩になったんだ。
それ以来、二人とも家にほとんど帰ってこなくなってさ……どうしてるかわからないけど、不倫相手の家にでもいるんじゃないか」
俺がそう言うと、あまねちゃんは息を飲み、ショックを受けたのか黙ってしまった。
「まあこんな話されても困るよな……ごめん」
不登校になった俺の気持ちを理解してくれなかった両親。
俺が助けて欲しいと思ってるときに不倫して喧嘩して……そんな両親の姿を見せられて俺は期待するのをやめてしまった。
「その……ご両親はカイトのことをどう思ってるんだ?」
少し聞きづらそうにあまねちゃんが聞いてくる。
「たぶん邪魔だと思ってるんじゃないか……今後、不倫相手と再婚するとして、俺みたいな子供がいたら普通に邪魔だろ」
「それは……」
もし俺に対して愛情があるなら普通に家に帰ってきてるだろうし、放置してるってことは、そういうことなのだろう。
「まあ口座に生活費を振り込んでくれてるから生きていけてるけどな。
でも、あの二人が離婚したらどうなるか分からないか……
今更真面目に勉強したところで、高校に行かせてもらえないかもな」
俺が自嘲気味にそう言うと……。
「だったら……一緒に考えよう」
「えっ?」
あまねちゃんの表情は真剣そのものだった。
「カイト、君は将来やりたいことはないのか?」
「やりたいこと?特にないな……」
普段してることと言えば、ネットとゲームくらいだし……。
俺には自慢できる特技もない。
将来の夢といったら、幼い子供の頃にあまねちゃんと結婚したいと思ったくらいだ。
「そりゃあ高校くらいは出ておいたほうがいいと思うけどさ」
「進学したいという意思があるのなら、奨学金や通信制など、選択肢はいくらでもある。だが……まずはご両親がどう考えているのか、一度しっかりと話し合ったほうがいい」
「話し合うって……俺があの2人とか?」
嫌悪感を隠さず顔をしかめる俺に、あまねちゃんは、静かな、しかし強い口調で言った。
「気が進まないのは分かっている。嫌かもしれないが……これは君の将来に関わる大切なことだ。逃げないでほしい、カイト」
その言葉は俺の胸に重く、けれど深く突き刺さった。
「分かった……考えておくよ」
俺の答えを聞いたあまねちゃんはそれ以上追求することなく、「分かってくれればいい」とだけ言って、優しく微笑んだのだった。