翌朝、俺は早朝に目を覚まし、自らジャージに着替え外へ出た。
朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、静かな街を走り出す。
教師に対する不信感は未だ消えず、学校へ戻る決心なんて到底つかない。
だけど……今の自分を変えたいという強い衝動が、身体を突き動かしていた。
(あまねちゃんにあんな風に言われたんだ。少しでも彼女に相応しい男に近づかないと……)
汗を流して帰宅した俺は、シャワーを浴びるとすぐに机へと向かった。
一年前からの遅れを取り戻すため、教科書と参考書を開く。
自分の心境の変化ゆえか、驚くほど勉強に集中できた。
俺は時間を忘れ、ただひたすらペンを走らせる。
気がつくと、部屋の中はすっかり夕暮れの橙色に染まっていた。
ピンポーン――。
チャイムの音にハッとして玄関へ向かうと、そこには約束通りあまねちゃんが立っていた。
「お邪魔するぞ、カイト」
部屋に入ったあまねちゃんは、机の上に積まれたノートと書き込みだらけのプリントを目にして息を飲み込んだ。
「これは……君が一人でやっていたのか!?」
「まあな、昨日のこともあったし……がんばってみようと思ってさ」
俺が照れくさそうに言うと、あまねちゃんの瞳がパッと輝いた。
「素晴らしいぞ、カイト……正直、驚いた!!」
あまねちゃんに褒められ、俺は顔が熱くなるのを隠すように背を向けた。
「べ、別に……大したことねぇよ」
すると不意に俺のお腹が『ぐぅぅ~』と大きな音を立てて鳴り響いた。
「あっ……」
「カイト、まさか昼食も摂らずに没頭していたのか?」
あまねちゃんは呆れたように溜め息をついたが、その表情はどこか優しかった。
「全く、集中するのは結構だが体調を崩しては元も子もない。仕方ない……今から『なごみ亭』へ行くぞ」
夕暮れ時の『なごみ亭』は、温かい出汁の香りと客の活気に包まれていた。
あまねちゃんと一緒に暖簾をくぐると、奥のテーブル席に見慣れない人物が座っているのが目に飛び込んできた。
華やかな服装に、独特の存在感を放つ背の高い人物――。
「あっ、あまねちゃん!!それに一文字くんも……いらっしゃい!!」
厨房から顔を出した和実が嬉しそうに声をかけると、そのテーブルにいた人物がくるりと振り返った。
「あら、あまね!!そちらの男の子が例の……?」
どこか上品で、けれど圧倒的な力強さを感じる声。
俺が思わず眉をひそめて凝視していると、あまねちゃんが隣で頷いた。
「ああ。カイト、紹介しよう。こちらはマリちゃん……ローズマリーさんだ」
「ローズマリー……さん?」
男性だけど女性っぽいような……今まで会ったことのないタイプの人間だ。
どう対応するべきか俺が困惑していると、ローズマリーさんはバッと立ち上がり、大袈裟なジェスチャーと共に優雅におじぎをした。
「初めまして一文字カイトくん、私はローズマリー。みんなからは『マリちゃん』って呼ばれているわ!!あまねから話は聞いているわよ~」
「は、はあ……ど、どうも」
独特すぎるテンションと圧倒的なオーラに押され、俺は引き気味になりながらも、軽く頭を下げる。
「なぁ、あまねちゃん。このローズマリーさんとはどういう関係なんだ?」
この人とあまねちゃんとの繋がりがまったく想像できない。
「マリちゃんは……まあ、友人というか、仲間というか、色々とお世話になっている人なんだ」
あまねちゃんが少し言葉を濁しながら説明していると、店の入り口の引き戸がカラカラと音を立てて開いた。
「おっ……なんだか今日は賑やかだな」
入ってきたのは、どこかクールな雰囲気を纏った俺と同い年くらいの少年だった。
「あら拓海くん、ちょうどいいところに来たわね~♪」
ローズマリーさんに呼ばれて近づいてきた少年を、あまねちゃんが紹介してくれる。
「カイト、彼は品田拓海だ。ゆいの幼馴染で、私と同じしんせん中学校の3年生……つまり、君の先輩にあたる」
「どうも、品田拓海だ。一文字のことは、ゆいから聞いているよ」
先輩と言われ、俺はいつもより丁寧な対応に切り替える。
「品田先輩、よろしくお願いします」
軽く挨拶を交わすと品田先輩は俺とあまねちゃんが並んで座っている構図を見て、意外そうに眉をひそめた。
「へぇ……あの生徒会長の菓彩が、男と二人で食事なんて珍しいな」
すると、あまねちゃんは即座に眉を吊り上げて反論する。
「め、珍しくなどない!!カイトとは昔からの幼馴染なんだから、一緒に食事をするくらい普通のことだ!!」
「はいはい、冗談だって……そんなに怒るなよ」
「むっ……別に怒ってなどいない」
仲がいいのか悪いのか……学校でも二人はこんな感じなのだろうか?
俺は「学校でのあまねちゃん」が気になってしまう。
「あの品田先輩。学校でのあまねちゃんって、どんな感じなんですか?」
「カ、カイト、なぜそんなことを品田に聞くんだ!?」
焦ったように口を挟むあまねちゃん。
「いやさ、二人が話してるのを見てたら学校でのあまねちゃんがどんな感じなのか気になってさ……俺、もっとあまねちゃんのことを知りたいんだ」
「っ~~~!?」
俺がそう言うと、あまねちゃんはなぜか真っ赤になって黙ってしまった。
「あらあら♪拓海くん、彼に教えてあげたら?」
ローズマリーさんが、そう言うと……。
あまねちゃんは品田先輩に対し、「余計なことを言ったら承知しない」と言わんばかりの強い鋭い視線を送る。
「そ、そうだな……学校での菓彩は、成績優秀、スポーツ万能で、文武両道を地で行くようなタイプだ。全校生徒や教師からの信頼も厚くて、本当に隙がない理想の生徒会長って感じだよ」
品田先輩のその話に俺は「へぇ、やっぱりすごいんだな」と感心する。
「でも……昔からの幼馴染の前では、随分と表情が豊かみたいだけどな。そんな風に顔を赤くしてる菓彩なんて、学校じゃ絶対に解禁されないレアものだぞ」
そう言って品田先輩はニッと笑みを浮かべる。
「し、品田ぁ!! 余計なことを言うなと言っただろう!!」
声を張り上げて怒るあまねちゃん。
「いや、言ってはいないだろ」
品田先輩がそう突っ込むと、今度はローズマリーさんが楽しそうに割り込んでくる。
「今のあまね、とっても乙女で可愛らしいわよ~、ふふっ、青春ねぇ♪」
「マリちゃんまで……二人とも、いい加減にしろぉ!!」
俺との関係をからかわれて全力で照れまくり、必死に抗議するあまねちゃん。
そんな姿を見て俺は「やっぱりあまねちゃんはかわいいな~」と思うのだった。
『なごみ亭』からの帰り道。
空はすっかり暗くなっていた。
「もうこんな時間か……」
時計を確認しながら、あまねちゃんがぽつりと呟く。
あの後、和実も加わって、気がつけば随分と長い時間が経っていた。
「ローズマリーさんも品田先輩も、いい人そうだったな」
最初は戸惑ったけれど、ローズマリーさんは話してみると意外なほど気さくで、大人の押し付けがましさがなく、自然と言葉を交わせるタイプだと思った。
品田先輩も、一見クールかと思いきや、冗談を言ったり親しみやすいところもあるし、歳が近い同性ということもあって、俺としては話しやすく感じた。
「品田はともかく……マリちゃんはいい人だと思うぞ」
あまねちゃんは、品田先輩にからかわれたことをまだ根に持っているようだ。
「だが、カイトに友人が増えるのはいいことだ」
ふっと表情を和らげたあまねちゃんの言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
まだ友人と呼べるほどの関係ではないけれど、また『なごみ亭』で二人に会ったら話してみよう。
暗い帰り道を歩きながら、俺はそんなことを考えていた。