あまねちゃんと再会してから一週間が過ぎた。
昼過ぎまで寝てネットとゲームで時間を潰すだけだった俺の荒みきった日常は、あまねちゃんの手によって劇的に変えられていた。
早朝のランニングに規則正しい食事、そして二人きりの勉強会。
体を引き締め、止まっていた頭を動かすうちに、自分の中に少しずつ自信が戻ってくるのを感じていた。
以前よりもずっと、体も心も健康になっているのが自分でも分かった。
(あまねちゃんのおかげだな……)
そんなことを思いながら、今日も自分の部屋であまねちゃんに勉強を教えてもらっていた時のことだ。
ガチャリ、と重い玄関のドアが開く音が家中に響いた。
「カイト、誰か来たのか?」
「この音は……親父だ」
めったに帰ってこない足音に気づき、俺は呟いた。
リビングへと降りていくと、案の定、書類カバンを手にした父親が立っていた。
気づいたあまねちゃんは、すぐに背筋を伸ばして頭を下げる。
「こんにちは、お邪魔しております。カイトくんの友人で、菓彩あまねと申します」
礼儀正しく挨拶するあまねちゃんに対し、親父は眉をひそめ、冷ややかな視線を向けた。
「……どうも」
最低限の返答だけを口にすると、親父は俺の方を見ようともせずに書斎へ向かおうとする。
その背中に、俺は乾いた声をかけた。
「親父……急に帰ってくるなんて、珍しいな」
「必要な書類を取りに来ただけだ。すぐにまた出る」
どこまでも事務的で、息子への関心など微塵も感じられない冷たい声。
いつもの俺ならここで諦めて部屋に戻っていただろう。
だが、後ろで見守ってくれているあまねちゃんの存在が、俺の背中を強く押した。
あの日言われた言葉が頭をよぎる。――『逃げないでほしい』と。
俺は拳を握りしめ、勇気を振り絞って声を張り上げた。
「……待ってくれ!!進学のことについて、話があるんだ」
親父は面倒くさそうに足を止め、振り向いた。
「進学だと?今のお前にそんなものを考える余裕があるのか?
まあいい……ちょうどいい機会だ。
言っておくが、お前が中学を卒業したら、私と母さんは正式に離婚するつもりだ」
一切の躊躇もなく放たれた残酷な現実に、隣で聞いているあまねちゃんが息を飲む気配がした。
親父は冷淡な言葉を続ける。
「このままお前が不登校を続けるつもりなら、高校に進学させる気も、学費を払う気もない。
……だが、改心してちゃんと中学校に通い直すというなら、高校までの費用くらいは出してやる。
どうするんだ?」
条件は提示された。
だが、それは俺にとって一番突きつけられたくない選択肢だった。
あの嘘つきな女子生徒のせいで濡れ衣を着せられ、誰も俺を信じてくれなかったあの学校。
自分を責める教師やクラスメイト達の顔が脳裏に浮かび、足がすくみそうになる。
恐怖と屈辱で吐き気がした。
断ってしまおうか……。
そう思って横を見ると、あまねちゃんが心配そうな顔でじっと俺を見つめていた。
俺のためにここまで必死になってくれたあまねちゃん。
彼女とこれからも一緒にいるために、そして相応しい男になるために、ここで逃げるわけにはいかない。
深く息を吸い込み、俺は親父の目を真っ直ぐに見据えた。
「……分かった。学校に行く」
「そうか」
親父はそれだけ言うと、必要な書類をカバンに詰め込み、振り返ることもなく家を出て行った。
パタンと静かに閉まるドアの音だけが虚しく響く。
「カイト!!よく頑張ったな!!」
あまねちゃんが心底嬉しそうに、誇らしげに俺の肩を叩いて褒めてくれた。
その温かい笑顔を見るだけで、俺の決断は間違っていなかったと思える。
だけど――。
あまねちゃんの期待に応えたい一心で「行く」と答えてしまったものの、親父がいなくなった静かな家の中で、俺の心には黒い不安がむくむくと広がっていた。
(本当に俺はあの学校に戻れるのか?)
信じてくれなかった教師たち、好奇の目を向けてくるであろう生徒たち。
一度壊れてしまった場所へ戻ることへの恐怖が、ずっしりと胸に重くのしかかっていた。
翌朝、制服に袖を通した俺の家へ、あまねちゃんが心配そうに迎えに来てくれた。
「カイト……顔色が悪いぞ。本当に大丈夫か? 無理をする必要はない、別に今日じゃなくてもいいんだぞ」
玄関先で俺の表情を覗き込み、気遣うような優しい言葉をかけてくれるあまねちゃん。
だが、彼女の前に立つと、どうしても意地が勝ってしまう。
「何言ってるんだよ。学校くらい別に余裕だし……」
必死に口元を歪め、強がりを口にする。
あまねちゃんの前でだけは、これ以上情けない姿を見せたくない。
『相応しい男になる』と心に誓ったからこそ、平気なフリをするしかなかった。
校門をくぐり、校舎の中へと足を進める。
あまねちゃんは生徒会の仕事もあるだろうに、俺の2年の教室までついてこようとしてくれた。
「あまねちゃん、ここで大丈夫だ。ありがとう」
「しかし……」
「大丈夫だって。3年の生徒会長が2年のフロアまできたら余計目立つだろ」
そう言って断ると、あまねちゃんは少し心配そうに瞳を揺らしながらも、「……分かった。何かあったらすぐに私に連絡するんだぞ」と言い残し、3年生のフロアへと向かっていった。
一人になった途端、ずっしりとした重圧が襲いかかってきた。
ドクン、ドクンと心臓の鼓動が速くなり、冷や汗が背中を伝う。
たかが教室の扉を開けるだけなのに、足が地面に縫い付けられたように重い。
(くそ……情ねぇな、俺……)
自分の不甲斐なさに歯噛みする。
だが、脳裏に浮かんだのは、あの日まっすぐ俺の手を握ってくれたあまねちゃんの姿だった。
(逃げない……あまねちゃんに相応しい男になるんだろ、俺はっ!!)
腹にくっと力を入れ、覚悟を決めて教室の引き戸をガラガラと開けた。
――瞬間、ざわついていた教室が一気に静まり返った。
一斉に注がれるクラスメイトたちの視線。
興味、不審、恐怖、好奇。
様々な感情が含まれた視線の集中砲火に、俺の身体は金縛りに遭ったように固まってしまった。
一年前のトラウマが脳裏をよぎり、呼吸が浅くなる。
その時だった。
「あっ……一文字くん、おはよう!!」
真っ先に明るい声をあげて駆け寄ってきたのは、和実だった。
その隣には芙羽と華満も続いている。
「一文字くん、ほんとに来てくれたんだね、嬉しいな」
「おはよう、一文字くん。体調はもう大丈夫?」
「一文字くんおはよーっ!!席、あっちだよ……一緒にいこ!!」
3人が何事もなかったかのように自然体で囲んでくれ、俺の席まで案内してくれた。
噂や偏見の目を遮るように笑いかけてくれる彼女たちの存在に、突き刺さっていた周囲の視線がスッと遠のいていく。
「……お前ら」
浅くなっていた呼吸がゆっくりと整い、バクバクと暴れていた心臓が落ち着いていくのを実感した。
「……おはよう。和実、芙羽、華満」
少しぎこちないながらも挨拶を返すと、和実たちは嬉しそうに微笑んだ。
3人の温かい気遣いのおかげで、俺は冷め切っていた冷静さを取り戻すことができたのだった。
その後、朝のホームルームは何事もなく拍子抜けするくらい穏やかに終わった。
現在の担任教師は1年の頃とは別人で、俺の復帰に対しても特に触れず、ただ必要な連絡事項を淡々と伝えるだけだった。
配慮して触れないでおいてくれたのか、不登校の生徒一人に深い興味がないだけなのかは分からない。
だが、教師という存在そのものに強い不信感を抱いている俺にとっては、変にいじられることもなく、干渉されないこの距離感が何よりもありがたかった。
チャイムが鳴り、最初の休み時間になると、和実たちがすぐに俺の席へと集まってきた。
「一文字くん、体調は悪くなってない?困ったことがあったら何でも言ってね」
和実が笑顔で覗き込んでくる。
その存在に救われながら、俺はふと疑問を口にした。
「なぁ……お前らは俺が今日学校に来ることを知ってたのか?」
「あまねちゃんから聞いてたんだよ『今日はカイトが登校するかもしれないから、よろしく頼む』って、すごく心配そうに頼まれちゃってさ」
華満が身を乗り出して教えてくれた言葉に、胸の奥が熱くなる。
あまねちゃんは、俺が一人で孤立しないように、事前に頼んでおいてくれたのだ。
「そうだったのか。正直、お前たち3人がいてくれて本当に助かったよ……ありがとう」
柄にもなく素直に感謝を口にすると、和実たちは「えへへ」「お役に立ててよかった」と嬉しそうに顔を見合わせた。
だが、そんな穏やかな雰囲気を破るように、一人の女子生徒がこちらへ近づいてきた。
一年の頃の事件を知っているのか、その瞳にはあからさまな警戒心と強い敵意が宿っている。
「ちょっと、ゆいちゃんたち……大丈夫なの? その人、一年の時に女子生徒に大怪我させたって……」
ヒソヒソと交わされる問いかけ。
昔の俺なら、嫌気と怒りで視線をそらし、心を閉ざしていただろう。
だが、和実たちが間髪入れずに声を上げてくれた。
「大丈夫だよ、一文字くんは全然怖くないよ。噂なんて嘘……本当はすごく優しくて、いい人なんだから!!」
「ええ。私たちが保証するわ。一文字くんは信頼できるクラスメイトよ」
和実と芙羽が毅然と言い切り、華満も強く頷く。
3人の迷いない言葉と真剣な表情に押され、その女子生徒は毒気を抜かれたように目を丸くした。
「そ、そうなの? ゆいちゃんたちがそこまで言うなら……。変な疑い方して、ごめんなさい」
ペコリと頭を下げて席に戻っていく女子生徒の背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
その後も休み時間のたびに和実たちが楽しそうに話しかけてくれたおかげで、教室内を包んでいた嫌な緊張感は徐々に氷解し、他のクラスメイトからの刺さるような警戒心も薄らいでいった。
あっという間に昼休みになり、俺は購買でお弁当を買って、日当たりのいい中庭で和実たちと昼食をとることにした。
ベンチに腰掛け、パンを口に運んでいると――
「カイト!!」
バタバタと急いた足音が響き、息を弾ませたあまねちゃんが姿を現した。
「大丈夫だったか!? 誰かに良からぬ因縁をつけられたり、いじめられたりしていないか!?」
「おいおい……大袈裟だな、見ての通り大丈夫だよ」
あからさまにオロオロと過保護を発揮するあまねちゃんを見て、華満がくすくすと意地悪そうに笑った。
「あはは、あまねん、なんだか心配性のお母さんみたい♪」
「なっ……誰がお母さんだ!! 私はただ、生徒会長として……いや、幼馴染として心配しただけであって……」
「お母さん」という単語に即座に顔を真っ赤にしてツッコミを入れるあまねちゃん。
慌てて言い訳する姿に、和実も芙羽もクスクスと声を漏らしている。
あまりにも賑やかで、どこまでも優しい空間。
一人で暗い部屋に閉じこもっていた頃からは想像もつかなかった光景。
気付けば、俺の唇からも自然と穏やかな笑みがこぼれていた。
「あまねちゃん……心配してくれてありがとな。でも、本当に大丈夫だ。和実たちのおかげで、ちゃんとやっていけそうだよ」
あまねちゃんの瞳を真っ直ぐに見つめて伝えると、彼女は一瞬驚いたように目を見開き、やがてホッとしたように胸をなでおろした。
「そうか。なら、よかった……本当によかった」
嬉しそうなあまねちゃんの表情を見つめながら、俺は学校に来て良かったと思うのだった。