『赫き日輪と紫電の如く〜最強無双の天然軍師、並行世界を征く〜』 作:夜幻
――鬼がいなくなった世界。
戦場を失った天才軍師・竜牙十兵衛には、最近、一つの問題があった。
「……」
蝶屋敷の廊下。
十兵衛は一人、立っていた。
右を見る。
廊下。
左を見る。
廊下。
正面を見る。
廊下。
「…………」
十兵衛は腕を組む。
「妙だな」
彼は真剣な顔で呟いた。
「確か、さっきまで庭にいたはずなんだが」
――迷子である。
◇
十分前。
しのぶから頼まれた十兵衛は、庭に置いてあった薬箱を倉庫へ運んでいた。
「倉庫はどこですか?」
「この廊下をまっすぐ行って、右です」
「分かった」
「本当に分かりました?」
「当然だ」
しのぶは少し不安そうな顔をした。
「……気をつけてくださいね」
「大丈夫だ」
十兵衛は自信満々に歩き出した。
そして。
三分後。
「……」
現在に至る。
◇
「さて」
十兵衛は冷静に分析を始めた。
「俺は庭から出た」
一歩進む。
「廊下を直進した」
さらに進む。
「右へ曲がった」
曲がる。
「その後、階段を下りた」
「……」
「だが、ここには見覚えがない」
十兵衛は眉を寄せる。
「つまり――」
そこで一つの結論に到達した。
「蝶屋敷の構造が複雑すぎる」
違う。
問題は屋敷ではない。
十兵衛である。
◇
その頃、庭。
「……遅いですね」
しのぶが時計を見る。
カナエが笑う。
「十兵衛さんなら、そのうち戻ってくるでしょう」
「そう思いますか?」
「ええ」
「どこから?」
「……」
カナエも少し考える。
「そこが問題ですね」
蜜璃が慌てて走ってくる。
「しのぶちゃん!」
「どうしました?」
「十兵衛さん、いません!」
「知っています」
「探した方がいいですよね?」
「ええ」
真菰も立ち上がる。
「また迷子かな?」
錆兎がため息をつく。
「またか……」
義勇が呟く。
「前より早い」
「何が?」
「迷子になるまでの時間」
「……確かに」
◇
その頃。
十兵衛は屋敷の一室にいた。
「……ここは?」
畳。
机。
棚。
窓。
そして。
「……薬?」
大量の薬瓶が並んでいる。
「なるほど」
十兵衛は頷く。
「医務室か」
――正解。
「ならば出口は――」
襖を開ける。
「……」
そこは別の部屋だった。
「……」
閉める。
反対側を開ける。
「……」
廊下。
「よし」
十兵衛は廊下へ出る。
そして左へ。
右へ。
さらに左。
階段を上る。
「……」
十兵衛は止まる。
「待て」
嫌な予感がした。
「今、同じ場所を通ったような気がする」
その瞬間。
「十兵衛さん?」
後ろから声。
「!」
振り返る。
そこには――カナヲ。
「カナヲ」
「はい」
「ちょうどいいところに来た」
「……?」
十兵衛は真顔で尋ねる。
「庭はどこだ?」
カナヲは一瞬固まった。
「……」
「どうした?」
「……十兵衛さん」
「なんだ?」
「また迷子ですか?」
「……」
十兵衛は沈黙する。
「違う」
「違う?」
「これは迷子ではない」
「……」
「状況確認だ」
カナヲの口元が僅かに緩む。
「そうですか」
「ああ」
「じゃあ、案内します」
「頼む」
カナヲが歩き出す。
十兵衛もついていく。
二分後。
庭に到着。
「着きました」
「……」
十兵衛は庭を見る。
しのぶ。
カナエ。
蜜璃。
真菰。
錆兎。
義勇。
全員がこちらを見ている。
「……」
十兵衛は堂々と歩いていく。
「戻った」
しのぶが微笑む。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「倉庫は?」
「……」
十兵衛は薬箱を見る。
「まだ持っている」
「では、どこに行っていたんですか?」
「屋敷内の構造を確認していた」
「ほう」
しのぶの笑顔が深くなる。
「迷子になったんですね?」
「違う」
「カナヲさん」
「はい」
「十兵衛さん、迷子でしたか?」
「はい」
即答。
「カナヲ……」
「事実です」
「……」
蜜璃が吹き出す。
「ふふっ……」
真菰も笑いをこらえている。
錆兎は顔を背ける。
義勇は真顔。
「……迷子だったな」
「義勇まで」
◇
「でも」
カナエが優しく言う。
「どうして十兵衛さんは、戦場ではあれほど正確なのに、屋敷では迷子になるんでしょう?」
「簡単だ」
十兵衛が答える。
「戦場では地形を記憶している」
「はい」
「敵味方の位置も把握する」
「はい」
「さらに、目的地までの経路を事前に設定する」
「なるほど」
「だが、蝶屋敷では」
十兵衛は屋敷を見る。
「似たような廊下が多い」
「……」
「部屋も多い」
「……」
「そして」
十兵衛は真顔で言った。
「俺は道を覚えるのが苦手だ」
全員が沈黙。
しのぶが笑う。
「開き直りましたね」
「事実だからな」
「ふふっ」
◇
すると蜜璃が手を挙げる。
「じゃあ、地図を作りましょう!」
「地図?」
「はい!」
蜜璃は紙を広げる。
「蝶屋敷の地図です!」
十兵衛の目が輝く。
「それはいい」
「ですよね!」
「これなら迷わない」
しのぶが笑う。
「十兵衛さん」
「なんだ?」
「その地図、持ち歩くんですか?」
「ああ」
「……」
「何か問題が?」
「いえ」
しのぶは微笑んだ。
「とても似合っていると思いますよ」
◇
数日後。
蝶屋敷。
十兵衛は廊下を歩いていた。
手には――地図。
「……」
角を曲がる。
地図を見る。
「右」
右へ。
また地図を見る。
「直進」
直進。
「階段」
階段を下りる。
「よし」
そして。
「庭だ」
到着。
十兵衛は満足そうに頷いた。
「完璧だ」
その後ろから、しのぶがやってくる。
「十兵衛さん」
「なんだ?」
「地図、役に立ちましたね」
「ああ」
「これで、もう迷子になりませんね」
「当然だ」
しのぶが微笑む。
「それなら安心です」
――その日の夜。
「……」
十兵衛は屋敷の廊下に立っていた。
手には地図。
「……」
地図を見る。
「……」
周囲を見る。
「……」
もう一度、地図を見る。
「……おかしい」
どうやら。
今度は地図を持ったまま迷子になったらしい。
「……」
そこへ。
「十兵衛さん?」
しのぶが現れる。
「……しのぶ」
「何をしているんですか?」
「……」
十兵衛は地図を見せる。
「この地図は間違っている」
「え?」
「俺はこの場所にいるはずがない」
しのぶが地図を見る。
そして周囲を見る。
「……十兵衛さん」
「なんだ?」
「地図を上下逆さまに持っています」
「…………」
沈黙。
「……なるほど」
しのぶはとうとう笑い出した。
「ふふっ……あはは……!」
「笑うな」
「だって……!」
「軍師にも間違いはある」
「ええ、そうですね」
しのぶは涙を拭きながら笑う。
「戦場では完璧なのに」
「……」
「蝶屋敷では、本当に困った人ですね」
十兵衛は少しだけ苦笑する。
「そういうこともある」
「ふふっ」
そして。
しのぶが手を差し出す。
「行きましょう」
「どこへ?」
「部屋です」
「……案内してくれるのか?」
「もちろん」
「助かる」
二人は並んで歩き始める。
しのぶは楽しそうに笑っていた。
――鬼のいない世界。
戦いもない。
命を懸ける必要もない。
だから今度は。
迷子になった軍師を、誰かが迎えに行けばいい。
そんな平和な日常が。
蝶屋敷には、今日も流れていた。