『赫き日輪と紫電の如く〜最強無双の天然軍師、並行世界を征く〜』 作:夜幻
――夜。
蝶屋敷は静かだった。
昼間まで聞こえていた少女たちの笑い声も、今はない。
皆が眠りについた屋敷の縁側で、胡蝶しのぶは一人、月を見上げていた。
鬼はもういない。
姉・カナエも生きている。
カナヲも、真菰も、錆兎も、蔦子も。
誰も失われていない。
あの日々を思えば、奇跡のような未来だった。
「……」
それでも。
しのぶには、一つだけ胸の奥に残っている願いがあった。
「十兵衛さん……」
小さく名前を呼ぶ。
「私は……欲張りなんでしょうか」
答える者はいない。
しのぶは膝を抱えるように座った。
「みんなが生きている」
「鬼もいない」
「戦う必要もない」
「それだけで、十分幸せなはずなのに……」
胸に手を当てる。
「それでも私は……」
少しだけ頬を赤くする。
「あなたの一番近くにいたい」
それが。
しのぶの願いだった。
◇
「眠れないのか?」
「……!」
突然、背後から声がした。
しのぶが振り返る。
そこにいたのは――十兵衛だった。
「十兵衛さん?」
「ああ」
「どうしてここに?」
「水を飲みに来た」
「……そうですか」
十兵衛はしのぶの隣に座る。
「何か考え事か?」
「……少し」
「話したくなければ、話さなくてもいい」
「……」
しのぶは少し迷った。
けれど。
今なら。
言えるかもしれない。
「十兵衛さん」
「なんだ?」
「一つ、お願いがあります」
「願い?」
「あまり大したことではありません」
「俺にできることなら聞こう」
しのぶは月を見る。
「これからも……私の隣にいてくれますか?」
十兵衛は一瞬だけ黙った。
「……それだけか?」
「え?」
「もっと難しい願いかと思った」
「……」
しのぶは苦笑する。
「十兵衛さんらしいですね」
「?」
「でも」
しのぶは改めて彼を見る。
「本当に、約束してくれますか?」
十兵衛は迷わなかった。
「ああ」
「……」
「これからも隣にいる」
「ずっと?」
「ずっとだ」
その言葉に。
しのぶの胸が大きく鳴った。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
「でも、嬉しいんです」
しのぶは微笑む。
「とても」
◇
十兵衛はしのぶの表情を見る。
いつもの笑顔。
けれど。
その奥に、少しだけ寂しさがある。
「しのぶ」
「はい?」
「何か他にもあるのか?」
「……」
しのぶは少しだけ迷う。
「あります」
「言ってみろ」
「……笑わないでくださいね」
「笑わない」
しのぶは深呼吸する。
「私の……一番の願いです」
「……」
「これから先」
「うん」
「誰かを守るために、自分を犠牲にするのではなく」
「……」
「自分自身も幸せになりたいんです」
十兵衛は黙って聞いている。
「姉さんが生きている」
「はい」
「カナヲもいる」
「うん」
「みんなが笑っている」
「そうだな」
「だから私も」
しのぶは胸に手を当てる。
「笑って生きていたい」
十兵衛は静かに頷いた。
「それがいい」
「……」
「しのぶは、もっと自分のために生きていい」
その言葉に。
しのぶの瞳が少し潤む。
「……本当に?」
「ああ」
「私が、自分の幸せを願っても?」
「当然だ」
「わがままでは?」
「違う」
十兵衛は真っ直ぐに答える。
「生きている人間が幸せを願うのは、わがままじゃない」
「……」
「むしろ、それを願ってほしい」
しのぶは俯く。
そして。
小さく笑った。
「……ずるい人ですね」
「なぜ?」
「そんなことを言われたら」
「?」
「もっとあなたの隣にいたくなるじゃないですか」
「……」
十兵衛は少し考える。
「それなら、いればいい」
「……」
しのぶは目を丸くする。
「本当に……鈍感なんですね」
「?」
「なんでもありません」
◇
そこへ。
「……しのぶ?」
廊下から声がする。
二人が振り返る。
カナエだった。
「姉さん?」
「こんな時間に何をしているの?」
「少し話をしていました」
カナエは二人を見て。
微笑んだ。
「そう」
「……姉さん?」
「何でもありませんよ」
カナエは楽しそうに笑う。
「しのぶ、顔が赤いですよ」
「……!」
「月が綺麗だからでしょうか?」
「姉さん……」
「ふふっ」
十兵衛は二人を見比べる。
「姉妹というのは仲がいいんだな」
「……」
カナエとしのぶが同時に思う。
――本当に、この人は。
◇
翌朝。
蝶屋敷の庭。
しのぶは花壇の手入れをしていた。
「しのぶちゃん!」
蜜璃が駆け寄ってくる。
「昨日、十兵衛さんと二人で何を話していたんですか?」
「……」
「何かありました?」
「特には」
「本当ですか?」
「ええ」
蜜璃がじっと見る。
「……顔、嬉しそうです」
「そうですか?」
「はい!」
しのぶは少し考えて。
「……願いを聞いてもらったんです」
「願い?」
「はい」
「どんな?」
しのぶは微笑んだ。
「秘密です」
「えぇー!」
蜜璃が頬を膨らませる。
そこへカナエがやってくる。
「蜜璃さん、あまり聞いてはいけませんよ」
「でも気になります!」
「ふふっ」
しのぶは花を見る。
その表情は穏やかだった。
「……私は」
小さく呟く。
「これからも、みんなと一緒に笑っていたい」
そして。
もう一つ。
胸の奥にしまっている願い。
――十兵衛の一番近くで。
同じ未来を見ていたい。
◇
昼。
十兵衛が庭にやってくる。
「しのぶ」
「はい?」
「昨日の約束だが」
「……」
しのぶの心臓が跳ねる。
「何でしょう?」
「今日は薬草園の整理をする予定だ」
「はい」
「手伝ってくれるか?」
「……もちろん」
「助かる」
十兵衛は笑う。
「これからも一緒にやろう」
「……はい」
しのぶも笑う。
その笑顔は。
復讐のための笑顔ではなかった。
姉から受け継いだ、誰かを安心させるためだけの笑顔でもない。
自分自身が。
心から幸せだからこそ浮かべる笑顔。
「十兵衛さん」
「なんだ?」
「私、今……とても幸せです」
「そうか」
「はい」
「なら、よかった」
十兵衛はそれだけ言って、薬草園へ向かう。
しのぶはその背中を見つめる。
そして。
小さく呟いた。
「……これからも、よろしくお願いします」
――戦いは終わった。
鬼もいない。
復讐する理由もない。
だからこそ。
しのぶはこれから、自分自身の幸せを探していく。
そしてその隣には――。
いつだって、竜牙十兵衛がいる。
それが。
胡蝶しのぶが願った未来だった。