『赫き日輪と紫電の如く〜最強無双の天然軍師、並行世界を征く〜』 作:夜幻
――あの夜から、数日が経った。
蝶屋敷の庭には、穏やかな春の風が吹いていた。
かつては傷ついた隊士たちが運び込まれ、慌ただしい声が飛び交っていた場所。
今は、鳥の声と少女たちの笑い声が聞こえるだけだった。
鬼はいない。
戦いもない。
誰かが命を落とすこともない。
そんな平和な日々の中で――。
胡蝶しのぶは、一つの決意を固めていた。
「……今日こそ」
縁側で小さく呟く。
昨日も。
一昨日も。
言おうと思っていた。
けれど。
「十兵衛さん」
と呼びかけるたびに、胸が高鳴ってしまう。
「……本当に、困った人です」
しのぶは苦笑する。
あれほど戦場では冷静な人なのに。
恋愛のことになると、どうしてこうも鈍感なのだろう。
「でも……」
しのぶは胸に手を当てる。
「もう、逃げません」
◇
「しのぶ」
「……!」
振り返る。
そこには十兵衛が立っていた。
「こんなところにいたのか」
「はい」
「何か考え事か?」
「少しだけ」
「そうか」
十兵衛は隣に腰を下ろす。
「今日は天気がいいな」
「そうですね」
二人並んで庭を見る。
しばらく沈黙が続く。
けれど。
その沈黙は、不思議と心地よかった。
「十兵衛さん」
「なんだ?」
「以前、私がお願いしたことを覚えていますか?」
「もちろん」
「……本当に?」
「ああ」
十兵衛は迷いなく答えた。
「これからも隣にいる、という約束だろう?」
「……」
しのぶの頬が赤くなる。
「覚えていてくれたんですね」
「忘れるわけがない」
「……そうですか」
しのぶは嬉しそうに笑った。
「では」
少しだけ間を置いて。
「もう一つ、お願いしてもいいですか?」
「構わない」
「今度のお願いは……」
しのぶは十兵衛を見る。
「もっとわがままです」
「それでも聞こう」
「……」
しのぶは深呼吸した。
そして。
「ずっと隣にいてください」
「……」
十兵衛は黙った。
しのぶの心臓が大きく跳ねる。
「……嫌、ですか?」
「いや」
十兵衛は首を横に振る。
「嫌ではない」
「では……」
「ただ」
十兵衛は少し考える。
「ずっと、というのはどのくらいだ?」
「……」
しのぶの表情が固まる。
「……本当に、そういうところですよ」
「?」
「なんでもありません」
しのぶは小さく笑った。
「ずっとです」
「ずっと?」
「はい」
「明日も?」
「はい」
「来年も?」
「はい」
「十年後も?」
「……はい」
「その先も?」
「……はい」
しのぶは恥ずかしそうに頷く。
「私が……ずっと隣にいてほしいと思う限り」
十兵衛は静かにしのぶを見る。
そして。
「ああ」
短く答えた。
「分かった」
「……」
「俺もそうする」
「……本当に?」
「ああ」
「どうして?」
十兵衛は少し考えてから答える。
「しのぶの隣は、居心地がいいからだ」
「……」
「それに」
十兵衛は微笑んだ。
「俺も、しのぶのことを大切に思っている」
しのぶの瞳が揺れる。
「……大切に?」
「ああ」
「それは……」
聞きたい。
けれど。
怖い。
だから、しのぶはあえて聞かなかった。
今は。
この言葉だけで十分だった。
「……ありがとうございます」
しのぶは笑う。
「私も、十兵衛さんを大切にします」
◇
少し離れた場所。
「……!」
蜜璃が木の陰から二人を見ていた。
隣には真菰。
さらにカナヲ、禰豆子、カナエ、産屋敷四姉妹。
「言った……」
蜜璃が小声で呟く。
「しのぶちゃん、言ったよ!」
真菰が微笑む。
「うん」
カナヲはじっと二人を見る。
「……羨ましい」
「カナヲちゃん!?」
蜜璃が驚く。
カナヲは少し頬を赤くした。
「私も……いつか」
「うん!」
蜜璃が力強く頷く。
「みんなで頑張りましょう!」
「はい」
「ん!」
禰豆子も頷く。
カナエは妹の姿を見ながら、優しく微笑んでいた。
「しのぶ」
「……」
「よかったですね」
◇
夕方。
しのぶと十兵衛は庭を歩いていた。
「今日は、ありがとうございました」
「何のことだ?」
「……もう」
しのぶは笑う。
「私のお願いを聞いてくれたことです」
「当然のことをしただけだ」
「それでもです」
しのぶは立ち止まる。
「十兵衛さん」
「なんだ?」
「私……昔は、未来なんていらないと思っていました」
「……」
「姉さんを失ったら、私も鬼を倒すためだけに生きて……最後には」
言葉を止める。
「でも」
しのぶは空を見る。
「今は違います」
「……」
「明日が楽しみです」
「それはよかった」
「明後日も」
「ああ」
「来年も」
「ああ」
「十年後も」
「ああ」
しのぶは微笑む。
「……ずっと」
十兵衛が頷く。
「ああ」
「ずっとですからね」
「約束する」
その言葉を聞いた瞬間。
しのぶはそっと目を閉じた。
「……ありがとうございます」
心の中で。
もう一度だけ呟く。
――私は、あなたの隣で生きたい。
復讐ではなく。
怒りでもなく。
誰かを守るために自分を犠牲にするのでもなく。
ただ、一人の少女として。
好きな人の隣で。
笑っていたい。
◇
その夜。
しのぶは自室の机に向かっていた。
一枚の紙を取り出す。
そこには。
今日の日付。
そして、一言。
『ずっと隣にいてください』
しのぶはそれを見つめて、微笑む。
「……願いが一つ、叶いましたね」
窓の外には、月。
静かな夜。
そして――。
明日という未来。
かつてのしのぶなら、想像すらできなかった未来だった。
けれど今は。
その未来を、一緒に歩いてくれる人がいる。
「十兵衛さん」
小さく名前を呼ぶ。
「これからも……よろしくお願いします」
――戦いの時代は終わった。
だから今度は。
守るために戦うのではなく。
幸せになるために、生きていく。
その隣には。
竜牙十兵衛。
そして。
胡蝶しのぶ。
二人の新しい物語が、静かに始まっていた。