『赫き日輪と紫電の如く〜最強無双の天然軍師、並行世界を征く〜』 作:夜幻
――藤襲山、最終選別四日目。
夜が来た。
だが。
今夜の藤襲山には、これまでとは違う空気が漂っていた。
「……来るぞ」
森の奥。
一体の鬼が、鼻をひくつかせる。
血の匂い。
人間の匂い。
そして――。
それとは別の、奇妙な気配。
「……あいつだ」
鬼の顔から笑みが消えた。
「竜牙十兵衛……」
その名前を口にしただけで。
鬼の背筋に悪寒が走った。
◇
「おい」
別の場所。
三体の鬼が集まっていた。
「聞いたか?」
「何をだ?」
「赤髪の剣士だ」
「……竜牙十兵衛か?」
「ああ」
一体の鬼が唾を飲み込む。
「昨日、あいつに遭遇した鬼が七体いた」
「七体?」
「全員――死んだ」
「…………」
「一体も逃げられなかった」
沈黙。
鬼たちは互いの顔を見る。
やがて。
「……なら、近づかなければいい」
誰かが呟いた。
「そうだ」
「人間なんて、他にもいる」
「わざわざ危険な奴を狙う必要はない」
「竜牙十兵衛には近づかない」
その言葉に。
全員が頷いた。
――それは。
鬼たちが自発的に作った、最初の禁忌だった。
◇
森の中。
十兵衛は歩いていた。
「……妙だな」
周囲に鬼の気配がある。
しかし。
近づいてこない。
「昨日までなら、向こうから襲ってきた」
十兵衛は立ち止まる。
「今日は逃げている」
少し考える。
「警戒されているのか」
彼は自分の刀を見る。
「……そうか」
十兵衛は納得した。
「昨日の戦闘が原因だな」
その結論に。
特に感慨はない。
ただ。
「なら、こちらから行くか」
十兵衛は歩き出した。
◇
「……来る」
一体の鬼が震えた。
「何が?」
「竜牙だ!」
森の向こう。
木々の隙間から。
赤い髪が見える。
「逃げろ!」
「待て!」
「でも!」
「散れ!」
三体の鬼が一斉に逃げる。
しかし。
そのうち一体が足を止めた。
「……待て」
「どうした?」
「三人で逃げれば、目立つ」
「だから?」
「一人が囮になれば――」
鬼は振り返る。
「俺が時間を稼ぐ」
「お前……」
「安心しろ」
鬼は笑った。
「俺は強い」
その自信は。
わずか数秒で砕かれた。
十兵衛が現れる。
「……」
「竜牙十兵衛!」
鬼が拳を構える。
「来い!」
十兵衛は首を傾げた。
「君は逃げないのか?」
「俺は他の鬼とは違う!」
「そうか」
「俺には血鬼術がある!」
「なるほど」
「お前を殺して――」
十兵衛の姿が消えた。
「――え?」
次の瞬間。
鬼の腕が落ちる。
「な……」
「雷の呼吸」
十兵衛の刀が閃く。
「弐ノ型――稲魂」
斬撃。
「参ノ型――聚蚊成雷」
さらに斬撃。
「肆ノ型――遠雷」
鬼の身体が切り刻まれる。
「ま、待て!」
「何を?」
「話を――」
「戦闘中に話す余裕はない」
「そんな……!」
十兵衛の刀が赫く染まる。
「日の呼吸――」
「ひっ……!」
「円舞」
――ズバッ!
鬼の首が落ちる。
消滅。
「…………」
十兵衛は刀を納める。
「……弱かったな」
その呟きが。
遠くにいた二体の鬼にも聞こえていた。
「…………」
「…………」
互いに顔を見合わせる。
「……逃げよう」
「同意する」
二体は全力で走った。
◇
別の場所。
鬼たちが集まっていた。
「駄目だ」
「何がだ?」
「もう、この山に安全な場所がない」
「どういう意味だ?」
「竜牙が動いている」
鬼の一体が地図を見る。
「南で一体」
「西で二体」
「北で三体」
「……全部、竜牙が倒した」
「ありえない」
「事実だ」
沈黙。
やがて。
「なら……」
若い鬼が呟いた。
「奴を倒せばいい」
周囲がざわめく。
「馬鹿!」
「無理だ!」
「だが、いつまでも逃げられるわけじゃない!」
「じゃあどうする!」
「…………」
誰も答えられない。
鬼は。
人間を恐怖させる側だった。
人間が鬼から逃げる。
それが当たり前だった。
なのに。
今夜は違う。
鬼が。
人間から逃げている。
その異常事態が。
藤襲山全体に広がっていた。
◇
「十兵衛」
木の上。
錆兎が声をかける。
「どうした?」
「鬼が逃げている」
「ああ」
「お前が怖いんだろうな」
「そうらしい」
十兵衛は真面目な顔で答えた。
「でも、それは困る」
「困る?」
「鬼が逃げると、参加者が戦う機会を失う」
錆兎は頭を抱える。
「……お前、そこまで考えるのか」
「最終選別だからな」
「でも、普通は鬼を倒したいと思うだろ」
「倒している」
「そうだけど!」
真菰が笑う。
「十兵衛らしいですね」
「そうか?」
「はい」
十兵衛は少し考えた。
「では、鬼を参加者のところへ誘導するか」
「それは危険じゃない?」
真菰が尋ねる。
「もちろん危険だ」
「なら――」
「だから、強い参加者のところへ誘導する」
錆兎が目を丸くする。
「……なるほど」
「俺たちがすべて倒してしまえば、他の参加者は成長できない」
十兵衛は地図を広げた。
「なら、鬼の動線を操作する」
「鬼まで戦術に組み込むのか……」
「敵も駒だ」
「鬼を駒扱い……」
錆兎は呆れたように笑う。
「本当に軍師なんだな」
十兵衛は頷く。
「ああ」
その時。
「十兵衛様!」
遠くから声がした。
一人の参加者が駆けてくる。
「どうした?」
「鬼が……!」
「数は?」
「三体です!」
「位置は?」
「西の沢!」
十兵衛は即座に立ち上がる。
「錆兎、真菰」
「ああ!」
「はい!」
「君たちはここで待機」
「また一人で行くのか?」
「今回は違う」
十兵衛は参加者を見る。
「君を連れて行く」
「俺を?」
「ああ」
十兵衛は地図を指す。
「君はこの三日間、生き残っている」
「……」
「なら、十分に戦える」
参加者は拳を握った。
「……はい!」
十兵衛は頷く。
「行こう」
◇
西の沢。
三体の鬼が人間を追い詰めていた。
「喰わせろ!」
「逃げても無駄だ!」
その時。
「――そこまでだ」
声が響く。
鬼たちが振り返る。
「……!」
「竜牙……!」
十兵衛が立っている。
その隣には。
一人の参加者。
「今度は二人か」
「俺たち三体だぞ!」
「問題ない」
十兵衛は参加者へ言う。
「右の一体を任せる」
「俺が……?」
「ああ」
「でも、鬼は……」
「恐れるな」
十兵衛は刀を抜いた。
「俺が残り二体を止める」
鬼が襲いかかる。
「行け!」
「はい!」
参加者が踏み込む。
十兵衛も同時に動く。
「雷の呼吸――」
紫電。
「拾壱ノ型――紫電一閃!」
一瞬。
二体の鬼の間を通り抜ける。
「な――」
鬼の腕が落ちる。
「今だ!」
参加者が斬り込む。
「うおおおっ!」
――ズバッ!
鬼の首が落ちた。
「やった……!」
その瞬間。
残った二体が十兵衛へ襲いかかる。
「日の呼吸――」
赫い刃。
「伍ノ型――火車」
空中を舞う。
鬼の背後へ。
「六ノ型――灼骨炎陽」
炎のような斬撃が走る。
鬼たちが崩れ落ちる。
「……」
戦闘終了。
参加者は震える手で刀を握っていた。
「俺……」
「よくやった」
「……俺が鬼を倒した」
「ああ」
十兵衛は頷く。
「君自身の力だ」
参加者の目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます!」
「礼はいらない」
十兵衛は歩き出す。
「生きて帰れ」
◇
夜明け前。
藤襲山の鬼たちは。
すでに理解していた。
竜牙十兵衛は。
ただ強い剣士ではない。
「奴は……」
一体の鬼が震える。
「俺たちの行動を読んでいる」
「どこへ逃げても先回りされる」
「仲間を集めても、全部まとめて殺される」
「戦えば負ける」
「逃げても追いつかれる」
「なら……」
誰かが呟く。
「どうすればいい?」
答えは。
誰にも分からなかった。
鬼たちは。
初めて経験していた。
――絶望というものを。
そして。
その中心にいる男は。
そんな鬼たちの恐怖など知る由もなく。
「……少し疲れたな」
木の根元に座っていた。
「団子でも食べたい」
「…………」
隣にいた錆兎が無言になる。
「……お前、本当に緊張感がないな」
「そうか?」
「鬼が逃げ惑ってるんだぞ」
「なら、良いことじゃないか」
「そういうところだよ……」
真菰がクスクス笑う。
「でも、十兵衛がいるなら安心です」
「そうか」
十兵衛は空を見上げる。
東の空が少しずつ明るくなる。
あと二日。
最終選別は続く。
だが。
この日を境に。
藤襲山の鬼たちは、夜になるたびに怯えるようになった。
人間が鬼を恐れるのではない。
鬼が。
一人の剣士を恐れる。
その名は――。
竜牙十兵衛。
雷のように現れ。
日輪の如く鬼を焼き尽くす男。
そしてその夜。
鬼たちの間に、一つの噂が生まれた。
「赤い髪を見たら逃げろ」
「紫の雷が見えたら終わりだ」
「奴に遭ったら――」
――もう、生きて帰れない。
藤襲山に。
新たな恐怖が刻まれた。