ハードモードで始めるVtuber事務所経営物語 作:天ケ谷いろは
白い天井だった。
見慣れた、あまりにも見慣れ過ぎた天井。
月坂凛にとって、その景色は自宅の天井よりも、学校の教室よりも、どんな場所よりも長く見てきたものだった。
「…………」
ベッドに横たわりながら、凛はゆっくりと瞬きをする。
身体が重い。息をするだけで疲れる。指先に力を入れても、もう殆ど動かなかった。
ただ、機械の音だけが一定の間隔で鳴っている。
今日も来てくれる筈だった両親は、まだ来ていない。
最後に顔を見たかったけど、仕方ない。
恨んではいなかった。
二十年間。十分すぎるほど支えてもらった。
身体が弱く、声も出せない娘を、嫌な顔一つせず……ずっと。
大好きだった。
けど、だからこそ最後に会えないことだけが少し残念だった。
凛が僅かに視線を横へ向けると、今にも折れそうな枝のような左腕が目に映る。
そこには白い髪が数本垂れ落ちていて、それが病的な細さをいっそう際立たせていた。
生まれつき色素の薄い、アルビノと呼ばれる体質。
それに加えて、極端な虚弱体質と先天性声帯麻痺。
外へ出ることも、声を出すことも満足にできない。
ずっと、世界から一歩離れた場所で生きてきた。
話したいことは、たくさんあった。
伝えたい。
話したい。
笑いたい。
――誰かと。
声を出して会話してみたい。
けれど、それだけはどうしても叶わなかった。
「…………ぁ」
視線の先、小さなテーブルの上に端末が置かれている。
体調が悪化するまでは、毎日のようにあの画面を眺めていた。
漫画、アニメ、ゲーム、動画、配信。
学校にも満足に通えず、外にも出られない凛にとって、ネットだけは身体に関係なく何処へでも行ける場所だった。
その中でも、特に好きだったものがある。
Vtuber。
可愛いから。面白いから。歌が好きだから。声が好きだから。
理由はいくらでもあった。
けれど、一番好きだったのはもっと単純なことだった。
彼らは、みんな楽しそうだった。
勝手なことをして、馬鹿みたいな企画をやって、失敗したら大笑いする。
画面の向こう側にあるのは、凛の知らない賑やかな世界だった。
凛はそんな人たちを見るのがたまらなく好きだった。
自分のいる世界とは、まるで違う世界だった。
だから、憧れた。
自分もあちら側へ行ってみたいと、何度も思った。
けれど……そのたびに諦めた。
だって、無理だった。
身体が弱い。
長時間起きていることも難しい。
そして何より――声を出せない。
配信者になりたい。
Vtuberになりたい。
凛にとって、それは夢と呼ぶことすら躊躇うほど遠いものだった。
少しだけ……目を細める。
もし健康だったなら。
普通に学校に行って、友達を作って、好きなことに挑戦できていたなら。
自分はどんな人間になっていただろう。
配信者になっていたかもしれない。
結局、勇気が出ずに見る側のままだったかもしれない。
それでも――挑戦することくらいは、できた。
少しだけ、それが羨ましかった。
視界がゆっくりと滲んでいく。
いつもの眠気とは違うことを、凛はなんとなく理解した。
あぁ、これ多分……もう起きないやつだ。
不思議なくらい冷静だった。
けれど、怖くないわけではない。
死にたくない。
見たいアニメも、読みたい漫画も、追いたい配信も、まだまだたくさん残っている。
やりたいことだって、いくらでもあった。
それでも身体は、もう限界らしい。
凛は小さく息を吐いた。
ぼやけた視界の中に浮かんできたのは、楽しそうに笑うVtuberたちだった。
――もし、もう一度人生があるなら。
次は、もう少しだけあちら側へ近付いてみたい。
自分がVtuberになれなくてもいい。
配信者じゃなくてもいい。
何か一つでも、関われたなら。
誰かが楽しそうに笑っている場所を、もっと近くで見てみたい。
できることなら――自分で、そんな場所を作ってみたい。
何の根拠もない。
死ぬ直前の、ただの夢想だ。
それなのに……最後に少しだけ楽しい気持ちになった。
凛はほんの微かに笑う。
最後に浮かんだのは、両親の顔だった。
――ありがとう。
本当はそれを、一度くらい声に出して伝えてみたかった。
それだけが、少し心残りだった。
機械の音が遠くなる。
白い天井が色褪せていく。
やがて、何も見えなくなった。
そうして、月坂凛の人生は静かに終わった。
◇ ◇ ◇
――――寒い。
肌を刺すような冷たさに、凛は眉をひそめた。
寒い。
それに、何か音がする。
さらさら、ざあざあ。
……水の音?
駄目だ、頭が働かない。
一つだけわかることは、身体が寒さを訴えていること。
どうして病室なのに、こんなに寒いのか。
朧げな意識の中で、凛はゆっくりとまぶたを開いた。
「…………へ?」
間の抜けた声が、口から漏れた。
最初に目に入ったのは、白い天井ではなかった。
灰色の空。
冬枯れした木々。
風に揺れる草。
そして、目の前を流れている大きな川。
広々とした冬空の下で、凛はたった一人立っていた。
何もわからないまま。
ただ、冬の冷たい風の中。
死んだはずの少女が一人、名も知らぬ川辺に立っていた。