ハードモードで始めるVtuber事務所経営物語 作:天ケ谷いろは
「…………へ?」
間の抜けた声が、冬の川辺に小さく響く。
凛はしばらく動かなかった。
現実離れした目の前の光景に、頭が完全にフリーズしていた。
そして数秒が経ち――凛の唇が、僅かに震える。
あまりにも自然だったから、気付くのが遅れた。
聞き間違えかと思った。
けど、もしそうじゃないのなら。
「……あ」
おそるおそる、口から息を吐く。
喉が震えた。痛みはなかった。
震えた振動が音となって、ちゃんと自分の耳へと返ってくる。
もう一度。
「あ……あー……」
綺麗な声だった。
前までは何度繰り返しても、掠れたノイズのような音しか出なかったはずなのに。
途切れない、苦しくもない。
咳き込むこともなければ、胸が締め付けられるような感覚もなかった。
ただ、自分の声だけが耳へ返ってくる。
「……喋れ、る」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥から何かが一気に込み上げてきた。
生まれてから一度も出来なかったことだった。
言葉を頭の中で作る事はできた。
伝えたいことだって、数え切れないほどあった。
けれど、それが声になることだけはなかった。
それなのに。
「……っ」
思わず口元を押さえる。
笑っているのか、泣きそうなのか。
自分でもよく分からない。
ただ嬉しかった。
どうしようもなく。
地面に水滴がぽとぽとと落ちた。
「喋れる……」
震える声でもう一度呟く。
今度は確認するためではなかった。
声が出た。声が出た。声が。
川辺に自分の声が響いている。
聞いたこともない、自分の声が。
凛は両手で口で押さえたまま、涙を流して笑った。
嗚咽交じりの、ひどく不格好な笑いだった。
何か面白いことがあったわけでもない。
なのに笑いが止まらなかった。
喉が震える。
息が乱れる。
それでも、苦しくない。
たったそれだけのことが、こんなにも楽しいなんて。
そうして……ひとしきり泣いて、笑って。
どれだけの時間が経っただろうか。
荒れていた呼吸が落ち着いた頃、凛は目元に残った涙を袖で拭った。
「ふぅー」
大きく息を吐く。
それだけのことが、まだ少しだけ嬉しい。
「…………」
そして、ふと気付いた。
何かがおかしい。
いや、最初から何もかもがおかしいのだけれど、その中でも今まで見落としていた何か。
凛はゆっくりと視線を落とした。
自分の両足が見える。
しっかりと地面を踏みしめている。
「……あれ?」
しばらく眺めて、ようやく気付いた。
――立っている。
自分はさっきからずっと、二本の足で当たり前のように立っていた。
続けて両手を見る。
先ほどまで散々、口元を押さえたり涙を拭ったりしていた手。
指を曲げたり、握って開いたりしてみても、何の痛みも抵抗もない。
それどころか、軽い。
身体が驚くほど軽かった。
以前なら、身体を起こすだけでも疲れた。
少し歩けば息が上がり、指先一つ動かすことさえ億劫だった。
なのに今は――。
「……動く」
一歩、前へ出る。
もう一歩。
身体は何事もなかったように、凛の意志についてきた。
痛くない。
苦しくない。
それなら。
凛は少しだけ歩幅を広げた。
さらに一歩。
気付けばそれは早足になり――。
「あはは、あははははは!!」
走っていた。
誰かに支えてもらう必要もない。
壁に手をつく必要もない。
自分の足だけで、好きなところへ行ける。
それでも身体は悲鳴を上げない。
胸も痛くない。眩暈もしない。息苦しくもない。
どこにも、あのいつもの苦しさがなかった。
「……っ」
寒さも忘れてしばらく走り回った後、凛は川のそばで足を止めた。
膝を曲げて、水面を覗き込む。
揺れる水面には、一人の少女が映っていた。
白く伸びた髪に、紅色の瞳。
色だけなら嫌というほど見慣れている。
しかし、そこに映っている少女は、凛が知っている『月坂凛』とはどこか違った。
相変わらず小柄ではある。
けれど、今にも折れそうな細腕でもなければ、骨が浮くほど痩せた身体でもなかった。
健康。
一言で表すなら、それが一番近かった。
「…………」
水面に映る自分をしばらく眺める。
見慣れているようで、見慣れていない。
痩せこけていない頬を指でつまんでみた。
「いひゃい」
当然のように痛い。
……夢じゃないよね?
どうやら、ここにいる少女が今の自分なのは間違いなさそうだった。
凛はゆっくりと立ち上がる。
その拍子に、身につけていた布が擦れる音がした。
「……そういえば」
薄手で飾り気のない、白い患者服。
自分が最後にいた場所も病院だった。
だから患者服を着ていること自体は分かる。
……問題は。
「わたし、どうなってるんだろう」
どうして川辺なのか。
どうして健康なのか。
どうして――死んだはずなのに、生きているのか。
周囲を見渡す。
遠くには建物らしきものが僅かに見えるけれど、病院らしいものはどこにもない。
そして凛は、自分が確かに死んだことを覚えていた。
機械の音が遠ざかっていく感覚も。
色褪せていった白い天井も。
最後に浮かんだ両親の顔も。
全部覚えている。
「考えてても仕方ないか……」
だけどいくら頭を捻ったところで、答えが出る気はしなかった。
死んだはずなのに生きていて、身体は健康になり、声まで出る。
目覚めた場所は見知らぬ川辺。
何一つ意味が分からない。
「……さむっ」
一際強い風が吹き抜け、首筋を冷たく撫でた。
興奮していて忘れていたけれど、季節はどう見ても冬だ。
しかも患者服一枚。
冷静に考えれば、さっきまで走り回っていた自分はだいぶおかしかったかもしれない。
でも仕方ないじゃん。嬉しくてどうしようもなかったんだから。
凛は寒気に腕を擦りながら、遠くの建物へ目を向けた。
「とりあえず、人がいるところに行こう」
考えるのはそれからでいい。
このままでは、せっかく健康になった身体で本当に風邪を引きかねない。
凛は川辺を離れ、人の気配がある方向へ歩き始めた。
◇ ◇ ◇
歩ける。
何歩進んでも、どれだけ歩いても、全然苦しくなかった。
こんな当たり前のことに、いちいち感動してしまう。
そのせいで歩くたびに何度も足元を見てニヤけてしまっていたから、道行く人からは不審な目を向けられていた。
恥ずかしい……けどやめられない。
まあ理由はそれだけじゃなくて、服装や外見の異質さも影響しているんだろうけど……。
冬の街。
患者服。
白い髪に紅い目。
おまけに一人で足元を見ながらニヤニヤしている。
うん、客観的に見て怪しすぎる。
とはいえ、どうにか街まで来られたことには安心した。
問題は、ここからどうするかだ。
病院へ行くべきだろうか。
けれど、ここがどこなのかすら分からない。
そもそも、自分がいた病院が今も存在するのかどうかすら怪しい。
目覚めてから少し時間が経ったせいか。
凛の中のオタク心が、さっきからどうにも騒がしかった。
――もしかして、これって転生とかそういうやつでは?
今のところ、確証はない。
けれど死んだ記憶があって、知らない場所で健康な身体になっている。
可能性として考えるには、十分すぎる気もする。
「どうしよ……」
凛はその場で頭を抱えた。
そういえば、街へ入ってから何となく違和感もある。
看板。
道行く人の服装。
走っている車。
どれも微妙に、自分の知っているものと違うような。
「…………いや」
今はそれどころではない。
まずは自分自身をどうにかしなければ。
このまま街中をうろついていても何も解決しない。
「警察、かなぁ……うん。警察に行こう」
結局、それ以外思いつかなかった。
現在地もわからない、財布もない、身分証もないのだ。
それにもし病院から忽然と消えていたなら、大騒ぎになっているかもしれない。
これが一番まともな選択だろう。
凛は近くを歩いていた人に勇気を振り絞って声を掛ける。
「あ、あの!」
自分の口から声が出ることに、また少しだけ嬉しくなる。
道を尋ね、分からなくなればまた誰かに聞く。
そうして何度か迷った末に、ようやく凛は目的の建物へ辿り着いた。
警察署。
こうして建物を見上げると、妙に緊張する。
考えてみれば凛は、これまで外を出歩いた経験すらほとんどない。
喋れないため知らない人と会話することもなかったし、こうした建物に一人で入ることそのものが人生において初である。
緊張するのも当たり前だった。
「よし、よしよし。行くぞわたし!」
自分に言い聞かせて中へ入る。
少し先には受付が見えた。
ここまで来れば、あとは事情を説明すればいい。
病院にいたこと。
気付いたら川辺にいたこと。
自分が月坂凛であること。
それから――。
「…………ん?」
そうして受付へ向かおうとしたところで、すぐそばにある掲示板が目に入った。
いくつもの案内や注意書きが並んでいる。
その中に、一枚。
日付が書かれた掲示物があった。
『平成25年12月16日』
凛の足が止まった。
何となく目に入っただけだった。
だからそのまま通り過ぎそうになったが、頭の中で何かが引っかかった。
そして遅れて……。
「平成?」
綺麗な二度見だった。
見間違いかと思って目を擦ってみるも、悲しいことに文字列が変わることはない。
頭の中で計算する。
えっと、平成元年が確か……1989年だったはずだから、そこから数えれば…………。
「……にせん、じゅうさんねん?」
――2013年。
2013年12月16日。
凛は掲示板を見つめたまましばらく固まっていた。
「ちょ、ちょっと待って」
頭が回り始める。
いや、回り始めたというより大量の情報が一気に流れ込んできた。
街に感じた違和感。少し古く見えた車。街行く人が持っていたスマートフォン。
ここに来るまでに見かけて違和感を覚えていたそれら全てが、唐突に意味を持ち始めた。
けど、おかしい、おかしすぎる。
自分が死んだのはもっと未来だ。
凛が死んだ年代とは明らかに違う。
二十年以上も前。
自分がまだ生まれてすらいない時代。
「…………過去に、転生した?」
ただ生まれ変わっただけではなかった。
過去に、それも二十年以上前の世界に転生していた。
そして凛は、それに気付くと共にもう一つの事実を導き出していた。
2013年ということは、そうだ。
Vtuberは――
「すみません」
「ひゃいっ!?」
背後から突然声をかけられ、凛は飛び上がった。
振り返ると、警察官らしき男性が怪訝そうにこちらを見ている。
「大丈夫ですか?」
「…………ぁ」
終わった。
凛の頭の中にそんな言葉が浮かんだ。
いや別に悪いことはしていない。
していないのだが。
何と説明する?
未来から来ました? 死んだら2013年でした? 病院はたぶん未来にあります?
そんなこと言ったらどうなる。
身分証はない。住所もおそらく存在しない。自分が誰なのかを証明するものもない。
「その恰好、病院から来たんですか?」
「え、あ……」
考えろ。
何か、何か言わないと。
「名前はわかりますか?」
名前、月坂凛。
それは覚えている。けれど……。
自分の生年月日は未来基準。
住所を言っても、家族を言っても、おそらく今は存在しない。
説明すればするほどおかしくなる。
「…………わかり、ません」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「え?」
「何も、覚えてなくて」
言ってしまった。
言った瞬間、凛の頭の中で警報が鳴り響く。
やった。絶対に面倒なことになる。
けど、もう引き返せなかった。
「気が付いたら、川の近くにいて……」
警察官の表情が変わる。
「以前のことは?」
「……覚えていません」
凛は内心で頭を抱えた。
こうして。
二度目の人生における、最初の大嘘が完成した。