ハードモードで始めるVtuber事務所経営物語 作:天ケ谷いろは
その後のことを一言で表すなら。
――とにかく、大変だった。
警察署で「何も覚えていません」と口走ったあの日。
まさかそこから、あれほど面倒なことになるとは思ってもいなかった。
当然ながら、色々と聞かれた。
名前は、住所は、家族は。
どこから来たのか、どうして患者服姿で川辺にいたのか、何か覚えていることはないのか。
その度に「分かりません」と答える。
正確には分からないのではなく、答えられなかったが正しいのだが。
まさか「未来から来ました」なんて言えるわけないのだから、仕方ない。
ただ唯一、名前だけは何とかなった。
警察署では名前すら分からないと言ってしまったものの、幸い患者服には『月坂凛』と書かれた名札が付いていた。
おかげで、名前だけは月坂凛のまま通すことができた。
だが、そのせいで余計に話がややこしくなったとも言える。
苗字も名前も分かっているのに、どれだけ調べても身元不明のままなのだ。
当然だけど不思議がられ、調査にも時間がかかった。
そして警察署での問答が終わると、次は病院。
身体を調べられ、また事情を聞かれる。
さらに別の日には役所へ行き、そこでも同じような質問をされた。
……担当者が違うため仕方ない。仕方ないのだが。
何処へ行っても同じことばかり聞かれるものだから、途中から半分BOTみたいな返答になっていた気がする。
けれどそれだけやっても、「月坂凛」という20歳の女性を知る人間は一人として見つからなかった。
当たり前だ。
なにせこの時代にはまだ自分は生まれてすらいないのだから。
それからも、警察、病院、役所。
相談、確認、また相談。
そして、書類、書類、書類。全部終わったと思ったら、また新しい紙が出てくる。
「もう書類見たくない……」
そんなことを何度思っただろう。
読み書きや計算はできる。
一般的な知識だって、学校へ通えなくなってからも両親や家庭教師から教わっていた。
けれど、知識として知っていることと、自分で経験することは全然違った。
一人で役所へ行き、知らない大人と話す。
説明を聞き、自分で判断して書類に名前を書く。
どれも、前世ではほとんど経験できなかったことだ。
そんな初めてだらけの毎日を送りながら、色々な人に助けてもらい、色々な手続きをして。
どうにかこうにか、凛はこの時代で生きていくための足場を手に入れることができた。
住む場所ができて、最低限のお金を渡してもらった。
そして、働ける身体もある。
ならば当然。次にやることは一つだった。
◇ ◇ ◇
「凛ちゃん、そっち焼き上がったよ!」
「あ、はいっ!」
店の奥から飛んできた先輩の声に、凛は慌てて振り返った。
焼きたてのパンが並んだトレーから、香ばしい匂いが漂ってくる。
暖かな店内を店員たちが忙しなく動き回り、その中を凛も小走りで駆けていく。
「それこっちでいいですか?」
「うん、それ終わったら次はこっちお願い」
「わかりました!」
――返事をする。
自分の声が、小さなパン屋の中に響く。
「……ふふ」
思わず声が漏れる。
「凛ちゃん?」
「あっ、なんでもないです!」
いけない。
また笑ってしまった。
働き始めて少し経った今でも。
誰かに呼ばれて、それに声で返事をする。
ただそれだけのことが、時々どうしようもなく嬉しくなる。
前世では出来なかったことだ。
「いらっしゃいませ!」
それがいまでは、こうして当たり前のように声を出して働いてすらいる。
人生、何があるかわからない。
とはいえ。
「はぁ~……疲れたー!」
休憩室の椅子に座った瞬間、凛は机に突っ伏した。
――働くというのは、想像していたよりずっと大変だった。
パンの名前や商品の場所を覚える。
掃除、品出し、接客。
忙しい時間になれば、自分で次に何をするか考えなければならない。
間違えれば当然、注意もされる。
「仕事って大変なんだね……」
20歳になって初めて知った。
朝は眠いし、足も疲れる。
覚えることも多いし失敗すれば注意される毎日だ。
忙しい時なんて、頭も身体もずっと動かしてなければならない。
前世で思い描いていた「働く」というものは、もう少しこう……なんか大人っぽくて、格好いい何かだった。
けど実際には、汗水垂らして働く毎日で、想像していたよりもずっと泥臭くて現実的だった。
年齢だけなら立派な大人の筈なのに、気分としては社会科見学に来た子供みたいだった。
「世の中の人ってすごいなぁ……」
心の底からそう思う。
そして今は、自分もその一員だった。
自分の足で仕事へ行き、働いて誰かの役に立つ。
その対価として、お金をもらう。
前世ではアルバイトすら出来なかった凛には、その全てが新鮮だった。
だから大変でも、疲れても。
こうして普通に働けることが、嬉しかった。
「よし」
机から勢いよく顔を上げる。
休憩時間がもうすぐ終わろうとしていた。
部屋の向こうから、慌ただしそうな音が聞こえてくる。
「午後も頑張ろ」
凛は楽しそうに笑って、席を立った。
◇ ◇ ◇
――とはいえ。
いつまでもこの生活を続けるつもりはなかった。
「……さて」
その日の夜。
紹介されて住むことになった小さな部屋の片隅で、凛は最近手に入れた中古のノートパソコンをぱかっと開く。
続けて電源ボタンを押すと、少ししてモニターが明るくなって青色の画面が映り始めた。
この世界に来てから、もう二カ月近く経つ。
身元に関する手続きが一段落したのは、あの日から三週間ほど後だった。
その後は職業相談所へ通い、最近ようやく近所のパン屋さんで働き始めたところだ。
年も明け、現在は2014年2月の中旬。
部屋には最低限の家具と家電しかない。
自分の物と呼べるものも、まだほとんどなかった。
ノートパソコンが立ち上がると、凛はふうと息を吐きながらカチカチとマウスを動かし始める。
そして、ここ最近ずっと考えていたことを思い浮かべた。
自分は、これから何をするのか。
何をしたいのか。
二度目の人生。
健康な身体と声を手に入れた。
そして、自分にはもう一つ。
未来を生きた記憶がある。
だったら今度こそ、やりたいことをやってみたい。
「…………Vtuber」
ぽつりと口にする。
この時代には、まだ存在しない言葉。
けれどこれから数年後。
その言葉は急速に広まり、やがて誰もが名前くらいは知っている巨大な文化へ成長していく。
前世でVtuberばかり追いかけていた凛は、その歴史も大まかには知っている。
黎明期に何が起こったのか。
何が流行り、どんな存在が人気になったのか。
なにせ前世では学校に行くこともなく時間が有り余っていたのだ。
Vtuberの歴史みたいな解説動画や昔のアーカイブも、暇に任せて散々見た。
つまり。
これから何が起こるのかを、普通の人より遥かに多く知っている。
「…………」
凛はマウスを動かす手を止めて、椅子へ深く腰掛けた。
未来を知っている。
それは普通の人間なら絶対に持てない情報だろう。
そしてそうなると当然、こんな考えが頭をよぎる。
あれ? これってもしかして、ものすごく有利なのでは?
例えば、漫画や小説なら、ここから一気に大金持ちになるだろう。
未来で上がる株を買う。暗号通貨を買う。競馬で大穴を当てる。宝くじの番号を知っている。
そして大量の資金を手に入れて、やりたいことを始める。
うん、凄い。
見事なサクセスストーリーだ。
…………で、凛の場合は?
――株。
「どれ……?」
有名な会社の名前くらいなら知っている。
でも「この先大きく伸びる会社」と限定した場合、その幅は限りなく狭められる。
ただのオタク少女だった凛に思い浮かぶ企業なんて、ゲーム会社とかアニメ会社くらいしかなかった。
しばらく考えていれば一社くらいは買い得の企業を思いつくかもしれないが、それはそれで問題がある。
株っていつ買えばいいの? そして何年待つべき?
そもそも2014年時点で上場してるの?
そして何より……元手がありません。
はい終了。
次。
――暗号通貨。
「わかんない……」
ビットコインくらいならもちろん知っている。
未来でとんでもなく値上がりする! 買っておけば大金持ち!
何となくだがそれくらいのイメージはあるし、実際初期にビットコインを買っていた人が大金持ちになっている話は未来でも有名だった。
それで?
ビットコインが始まった年に買うのならともかく、いまは始まってからしばらく経った2014年。
上昇を辿っていた初期ならともかく、これくらいの時期に買っていいものなのか。
たぶん乱高下してるよね?
仮に買うとしても。
いくらの時に、どこで、どうやって買う?
何年にどれくらい上がった?
はい、知ってるわけがありません。
次。
――競馬。
「な、なんだったっけ……」
ネットで調べてみると某有名ゲームで名前を知っている馬がチラホラいたが、何となくでプレイしていた凛にとって「この馬がこのレースで勝つ」といった具体的な記憶があるわけもなかった。
冷静に考えて、どのレースで、どの馬が、何着だった、なんてわざわざ覚えている筈がないだろう。
漫画やアニメで描かれていたレースなら、うろ覚えながら着順を思い出せるものもあった。
ただしそれらは、登場キャラの元ネタとなった馬が走っていた年代が今よりも古く、すでに終わったレースばかりなので使えなかった。
この中では一番可能性がありそうだったが、結果は惨敗。
次。
――宝くじ
「これに関しては無理では?」
普通に考えて当選番号なんて覚えてるわけがない。
というかそもそも今はまだ生まれてないし、宝くじとか買ったことすらなかった。
以上。
「………………」
おかしい。
こんなはずでは。
未来知識って、もっとこう……便利なものではなかったのか。
創作とかでは簡単に使いこなして無双しているイメージしかなかったが、現実となると中々に理不尽なところが見えてくる。
けれど、よく考えれば当たり前だった。
株取引とかをしていた人ならともかく、普通の生活をしてきた一般人が過去の株価をわざわざ覚えているわけがない。
競馬の結果だって、宝くじの番号だって、暗号通貨の細かな値動きだって。
覚えていなければ意味がない。
凛は未来で生きた記憶を持っている。
それは確かだ。
けど、未来の百科事典を頭の中に入れてきたわけではない。
「……使えない」
この二カ月間。
色々と未来知識の使い方を考えてきたが、何一つこれだと思えるものは見つからなかった。
もちろん、未来に流行するもの。
大きな社会現象、人気になったサービス。
そういったものならある程度覚えている。
Vtuberもその一つだ。
でも、それを知っているからといって明日から億万長者になれるわけではない。
凛は机の端に目を向ける。
そこには、働いてようやく手に入れた僅かな給料が置かれていた。
生活していけば、それも当然減っていく。
転生してから、凛には一つの夢があった。
――自分だけの、理想のVtuber事務所を作りたい。
口にするだけなら簡単だ。
けれど、それを実現するのは決して簡単なことではない。それくらいは凛にも当然分かっていた。
そもそも一人のVtuberを作るためにいくら必要なのかもわからない。
モデル、機材、人、技術、場所。
必要そうなものなら、なんとなく思いつく。
だけどそれぞれ何をどこまで揃えればいいのか、具体的なことは何一つ分からなかった。
しかし、ただ一つだけ。
確実に分かることがある。
……お金がいる。絶対にいる。
それもたぶん、いっぱい。
凛は椅子に深く腰かけながら、ゆっくりと天井を見上げた。
健康な身体に声まで手に入れ、そのうえ未来のことも知っている。
ここまで揃っているのなら、もう少しくらいイージーモードでもいいのではないだろうか。
そんなことを考えながら、凛は深く、本当に深くため息を吐いた。
「……どうやったら、お金稼げるんだろ」
どうやら二度目の人生も、そう簡単にはいかないらしい。