現代社会における万能チートの正しい使い方 作:寸劇の小人
金曜の定時後、18:42。
逢河成実(あいかわ なるみ)は勤怠管理の画面を開いた。
今月の残業累計、37時間20分。
「まあ……まだギリギリってほどじゃないか」
嫌な数字だが、総務から何か言われるほどではない。
残り1週間なら45時間以内には収まるだろう。
担当案件が燃えなければ、という条件つきではあるが。
画面を閉じて、共有フォルダへ戻る。
30歳。中小企業のSE。肩書はサブリーダー。
若手から質問が来れば答える。客との打ち合わせにも出る。
人が足りない案件があれば応援に入る。
肩書がつく前と比べて、給料が目に見えて増えた感じはしない。
一時間半ほど前。
17時を少し回った頃だった。
「逢河、悪い」
間藤(まとう)課長が印刷した紙を片手に席まで来た。
「これ、月曜の朝までに一回見といて」
「月曜ですか?」
「午前の打ち合わせで使うんだよ。数字合ってるか確認するくらいでいいから」
「ああ、はい。分かりました」
「頼むわ」
課長は17:50には帰った。
成実はまだ会社にいる。
「数字見るだけって言ったじゃん……」
共有フォルダには、それらしいExcelが3つ。
更新日時はどれも最近。
ファイル名は、
『最新』
『最新版』
『最新版2』
だった。
「最新版に数字付けたらもう最新版じゃないだろ」
一つ開く。違う。
次。これも怪しい。
元データを探して別フォルダへ移ったら、今度は権限がなかった。
成実はマウスから手を離した。
「……月曜でよくない? 終わんの何時だよ、もう」
ひとりごちた後、思わず机に突っ伏す。
実際、間に合う。
月曜の朝に少し早く来ればいい(家から会社までもそれほど遠くはない)。
ただ、もう手をつけてしまった。
ここで帰っても、土曜か日曜に一回くらい「あれ終わってないな」と思い出す。
脳内の一部が常にスペースを取られているような状況になるだろう。
それも嫌だった。
椅子に座り直す。
シャツの腹が少し張った。
体重は90kg手前。健康診断の結果はちょっと気になるが特に大きな病気をしているわけではない。
借金もない。一人暮らしで、ゲームや漫画に使う金くらいはある。
貯金はそれなりにある。仮に今会社を辞めても2年くらいは生活できる。
両親や姉夫婦との仲も普通だし、学生時代から続いている友人もいる。
彼女はいない。
不幸かと言われれば、全然違う。
たぶん世の中には、もっときつい会社も人生もいくらでもある。
でも来年もこの会社にいて、再来年も大きくは変わらず、何か燃えれば残業して。
体重は放っておけば増える。
彼女は放っておいてもできない。
5年。
10年。
そこまで考えたところで、成実は眉を寄せた。
(定年までこれがあと30年は、普通に嫌だな)
――19:31。
「……ん?」
顔を上げた。
PC右下の時計は18:43。
それなのに、頭の中には19:31という時刻が残っている。
何の数字かまで自然と分かる。
今まで通りのやり方でこの作業を続ければ、19:31に終わる。
「何だ今の」
感覚で見積もっても、そのくらいは掛かりそうではある。
たまたま頭の中で計算しただけかもしれない。
ただ、確信に近い予感というかそんな何かがあった。
成実は少し考えた。
(じゃあ、この仕事を一番早く。ミスなく終わらせるなら?)
次の瞬間、頭の中が埋まった。
「うっ」
使うファイル。元データの場所。見る必要のない項目。過去資料との差分。崩れている数式。間藤が月曜の打ち合わせで実際に使う箇所。
手順、その根拠、確認方法、その先まで。
「ちょ、待って」
額を押さえる。
「逢河さん?」
斜め前から後輩が振り返った。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫」
「頭痛ですか?」
「いや……なんか一気に考えすぎた」
「はあ」
「ほんと大丈夫」
後輩は少しいぶかしげな顔をして、モニターへ戻った。
痛くはないし吐き気もない。
ただ、今のは使えない。
質問一つに、百科事典を頭から流し込まれたみたいだった。
(もっと普通に出せないのか。検索して、必要なとこだけ見る感じで)
視界の中央に、白い長方形が出た。
成実は瞬きをした。
消えない。
検索欄が一つ。その下は空白。右上に小さい×。
(……もうちょい小さく)
縮んだ。
(背景、少し透けさせて)
半透明になる。
「UI自作できんのかよ……」
誰に言うでもなく呟いた。
さっきよりは使えそうだ。
問題は、出てくる答えが本物かどうか。
成実は机の上のスマホを伏せた。
(今のバッテリー、あと何パー残ってる?)
白い画面に数字が出る。
43%。
スマホをひっくり返す。
43%。
「これは……まあ、さっき見てたの覚えてたのかもしれないし」
もう少し自分が知らないもの。
そんなことを考えながら席を立つ。
「ちょっと飲み物買ってきます」
トイレに行ったあと自販機から戻る途中、給湯室の前で思いついた。
(冷蔵庫のペットボトル、何本入ってる?)
7本。
コーヒーを台へ置き、冷蔵庫を開ける。
手前から数えた。
奥に横になっている分まで入れて7本。
「マジか」
冷蔵庫を閉め、何事もなかった顔で席へ戻った。
どうやら現在の情報が分かるらしい。
では、最初の19:31は何だったのか。
少し離れた席では田中がまだ仕事をしている。
(田中さん、次いつ席立つ?)
今度は一つの時刻ではなかった。
18:51~18:53 82%
18:54~18:57 11%
その下にも数字が続いている。
「確率?」
今は18:50。
成実はExcelを開いたまま、時々田中を見る。
18:51。
動かない。
18:52になって少しした頃、
「あー……」
田中が伸びをして立った。
スマホを持って、そのまま部屋を出ていく。
成実は時計だけ確認した。
まだ決まっていないことは、ぴったり一つの未来として見えるわけではないらしい。
最初に出た時間は代表値ってことかもしれない。
そこまで考えた後、成実は画面へ向き直った。
(この資料、最短でミスなく終わらせる手順)
今度は余計な情報を開かず、手順だけ見る。
参照ファイルの場所が一番上に出た。
「これ?」
さっき見ていた3つではない。
一階層上の別フォルダ。
分かりにくい名前が付けられていたせいで見落としていた。
開く。
「あった……」
元データが入っていた。
そこからは早かった。
不要な確認は飛ばし、元データとだけ突き合わせる。
数式が一か所ずれていたので直す。
最後は自分でも数字を見た。
能力だけに全部任せるには、まだ検証などがいろいろ足りない。
だが少なくとも今の時点でもかなり役には立つ。
(このまま月曜の打ち合わせで使って問題になるところは?)
なし。
18:58。
「早……」
間藤課長に向けたチャットの文面を作る。
『確認・修正しました。共有フォルダの資料を更新しています。月曜に必要なら補足します。』
送信。
1時間近くかかるつもりだった仕事が終わっている。
もし似たようなことが続くならこれだけでも、毎月かなりの残業が減らせるかもしれない。
PCを落としかけて、チャットツールに表示されている間藤の名前を見た。
(そういや、何で今日俺に振ったんだ?)
検索する。
月曜朝に自分で確認しても間に合う。
ただし面倒。
逢河なら、金曜中に手をつける可能性が高い。
終わっていれば、週末に気にしなくて済む。
「あー……そういうやつか」
嫌われているわけではない。
むしろ仕事は信用されている。
成実は空になった課長席を見た。
それならそれで腹は立つ。
(これ、人に何か起こしたりもできる?)
可能。
「できるんだ」
少し考える。
(間藤課長が今日、家で右足の小指を家具にぶつける)
可能。
(骨折なし。爪も割れない。しばらく痛いけど1時間後には気にならない。でもぶつけた瞬間はしっかり痛い)
これも可能。
さすがに一瞬迷った。
他人に怪我をさせる。
褒められたことではない。
ただ、金曜の17時過ぎに月曜期限の仕事を置いて本人は先に帰った男と、1時間後には治る小指。
「……小指くらいなら、まあ」
実行する。
会社では何も起きない。
課長はもう家にいる。
「ほんとにぶつけんのかな」
PCを落とし、鞄を持った。
◇
19:30を回ったスーパーは、総菜の値引きシールが増えていた。
弁当、唐揚げ、刺身、寿司、焼き鳥。
成実はカゴを持ったまま売り場を眺める。
ここでも使える。
(今ここで買えるもの。1,500円以内。今日の俺が一番満足する組み合わせ)
3品出た。どれも割引のシールが貼られているようだった。
パックに入った握り寿司。
焼き鳥盛り合わせ。
カットフルーツ。
「唐揚げじゃないんだ」
揚げ物の棚を見る。
試しに唐揚げと焼き鳥を交換してみたが、表示されている満足度の数値が少し下がる。
「今日は寿司か」
言われた通りにカゴへ入れる。
何でもできそうな能力を手に入れて、最初にやっていることが残業短縮と夕飯選びなのはどうかと少し思ったが、
便利なのは間違いなかった。
◇
家に着き、シャワーを浴びてから寿司を食べた。
「うま」
最初の一貫で、さっきの結果にはだいたい納得した。
焼き鳥も食べる。
最後に食べるまで冷蔵庫で冷やしたカットフルーツ。
確かにちょうどいい。
「これだけでも普通に良い能力だな」
箸を置いたところで、思い出した。
「……課長どうなったかな」
白い画面を呼ぶ。
現在の軽微な負傷。
右足第5趾、軽度打撲。
成実は思わず噴き出した。
「ぶっ」
発生は9分前。
ベッドの脚にぶつけている。
骨にも爪にも問題なし。
30分後にはほぼ気にならない。
状況を少しだけ見ると、着替えながら歩いて、そのまま角へ小指をぶつけていた。
「っはは」
ぶつけた直後に声を上げてしゃがみ込んでいる。
そこまで見て閉じた。
残業を減らせる。
晩飯も選べる。
離れたところにいる課長の小指までぶつけられる。
口に入れていた最後のフルーツを飲み込んでつぶやく。
「やべえな……。ガチのチートを手に入れてしまった」