現代社会における万能チートの正しい使い方 作:寸劇の小人
会場に着いたのは、11時を少し過ぎた頃だった。
朝一から並ぶ人は、もうとっくに入場している時間だ。
友人と一緒ではなく一人ということもあり、学生時代のように始発で来る気力はさすがにない。
大学時代に何度か参加したときと同様に、準備はしっかりと整えてある。
今回は開場まで待つ必要が無いため折りたたみ椅子を抜いて、飲み物2本、塩分補給用のタブレット、タオル、冷却シートと冷感スプレー、ハンディファン、モバイルバッテリーといった具合。
準備だけならちょっとした遠足気分である。ただ目的地で待っているのは山でも川でもなく、数え切れないほどの本と人なのだが。
駅から会場まで歩いただけで、背中から汗が吹き出しており、既にタオルは必需品だった。
「覚悟はしてきたけどやっぱり暑いな……。風出すんじゃなくて物理的に温度を下げる服とかあったらほしい」
口に出しても涼しくはならない。
当たり前だが、出てしまうものは仕方がない。
飲み物は会場へ入る前から飲み過ぎても困るので少しだけにして、コンビニで印刷した配置図を確認する。
坂上繭子(逆紙サナギ)のほかにも、気になる作家が何人かリストに入っている。
世界一相性の良い女性を見に来たと思うと緊張するが、漫画を買いに来たついでに会うと考えればいくらかましになる。
実際、漫画を買うのだから嘘ではない。
SNSで公開されている過去作は普通に面白かったので新刊が楽しみである。
まあ、ある種の下心は普通にあるのだが。
入場口へ続く人の流れに乗り、建物の中へ入る。
冷房の空気へ触れた瞬間は涼しく感じたものの、中にも人が多く、すぐにそうでもなくなった。
「昔より冷房が効いてる気がするけど、大本の気温が上がってるから結局似たようなもんか」
前方の階段は上る側と下りる側に分けられ、係員が移動を管理している。
成実もリュックを身体の前へ寄せ、指示を待っていた。
「はい、こちら進んで大丈夫です!」
それを聞いて、成実を含めて一団が動き出す。
そんな中、少し上にいた年配の男性が、急に動き出した流れから一瞬だけ取り残され、慌てて足を動かす。
その足が、階段の縁を踏み外した。
「あっ」
男性の身体が後ろへ傾く。
手すりを掴もうとした手は届かず、踏み直そうとした足も空を切る。
このままでは背中から倒れ、下手をすれば大怪我の可能性もある。
男性の後ろにいた人は驚いて反射で身体を引いた。
自分に設定しておいた、能力がトリガーに従って起動する。
思考加速。
(成人男性、身長は自分と同じくらいで体重は60~70kg前後? だいぶ宙に浮くような感じで滑ってる。
足元は狭い階段で不安定。最近ちょっと運動してるけど俺の体力・筋力じゃおそらく支えきれない。
下手したら後ろも巻き込んじゃうだろうな。しかし見捨てるってわけにもいかないか)
そこまでごく一瞬で思考して、能力を使う。
男性が落ちる方向を、ほんの少し手すり側へ。
背中から倒れかけていた身体の角度を戻し、力の逃げ方を調整して勢いもわずかに弱める。
周囲から見て、明らかに物理的にありえない動きにならないよう、あくまで受け止めやすくする程度。
その間に足元を横に開いてしっかりと踏みしめ、さらに自分の脚と腰、肩、腕を強化。
落ちてくる右腕を男性の脇へ入れ、もう片方の手で腰を支える。
「うおっ……!?」
重い。
分かっていたが、体重そのものより落下してくる勢いが想像以上にある。
靴底が滑り、男性の体重と物理的な衝撃が腕から全身へ伝わる。
強化した脚でも完全には止めきれず、今踏んでいる階段から滑り落ちないように能力で靴と床の摩擦を上げ、必死に踏ん張る。
受け止めるところまでは成功。だがまだ位置エネルギーから変換された運動エネルギーで勢いがついている。
(νガンダムは伊達じゃない、やってみる価値はありますぜってところか……!)
背中にスラスターが付くイメージで、斜め前から来る運動エネルギーに力を向けて相殺する。
勢いがほぼ殺されたところで成実は身体を手すり側へ寄せ、肩を押しつけるようにして支えながら、最後に残った力が足元から逃げるように調整した。
宙に浮いていた男性の身体がようやく落ち着き、足が地面に着く。
まだ体重はこちらへかかっているが、少なくとも一緒に転げ落ちる状態ではなくなった。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。すまない」
「手すり、掴めます?」
男性が手すりを握った。すぐには腕を離さず、自分で立てているのを確かめてからゆっくりと身体を離す。
少し遅れて周囲がざわつき、近くにいた係員が階段を上がってきた。
「大丈夫ですか!? 怪我は!?」
「私は大丈夫だ。こちらの方が支えてくれた」
「俺も平気です」
男性は頭を打ったりはしていない。
足首や腰にも大きな問題はなく、このあと急に倒れるような異常もなさそうだった。
自分の身体にも、今すぐ治す必要がある怪我はない。
能力を使ったが、物理的に不可能な動きを看破できるほどわかりやすく大げさな形ではない。
変な形で周囲の印象にも残ることもないだろう。
係員が道を開けるように誘導し、男性を壁際まで案内する。
成実も念のため一緒についていった。
「一回座って休んだ方がいいですよ。水、持ってますか?」
「ああ、持っている。本当に助かった。君がいなければ、下まで落ちていたかもしれない」
「たまたま近くにいたんで。それより、急に立たない方がいいと思います」
リュックの中から冷却シートを1枚取り出す。
「気休めですけど、一応使ってください」
「こういったものも持ってくるのだね」
「人によると思いますけど、久しぶりでつい、いろいろ買ってしまって」
男性は受け取った冷却シートを額へ貼り、自分の鞄から出した水をゆっくり飲んだ。顔色も落ち着いてきている。
「映像で見たことはあったが、実際に来てみると人の量も暑さも想像以上だね」
「そうですね。ここ最近は昔に比べると暑くなってるというのもありますし」
何の目的で来たんだろう?
そう思わないでもなかったが、最近はいろいろな商品がアニメとコラボしているのもあるし、どこかの企業の偉い人なのかもしれない。
「私はこういう催しは初めてでね。やはり漫画が多いのかな」
「漫画が一番多いですね、あと小説とかゲームとかCDとかグッズとか。意外と知られてない所だと評論とか研究っぽい本もありますね」
ほお、と少し意外そうな顔。
「評論なんて物もあるのか」
「エンジニアの技術系のとか多いですし、趣味に関する自由研究が大掛かりになったようなものとか、普通に研究者が興味のある事や自分の専門について書いていたりもよく出てますね」
そんな感じでしばらくやり取りを続けた。
少し話し過ぎたかもしれない、そろそろ落ち着いたと思うので自分も目的地に向かって良さそうだ。
「一通り漫画を見たら評論をちょっと見てから帰るのも楽しいですよ」
「なるほど。思ったよりいろいろな楽しみ方があるものだね」
男性は会場の方へ目を向けた。評論の本を本当に探すのか、それとも結局漫画を見るのかは分からない。
成実も、そこまで相手に興味を持っているわけではなかった。
「じゃあ、自分はそろそろ行きます。休んだら無理せず楽しんでください。お祭りなんで」
「……ああ。君も無理をしないように。ありがとう」
もう一度礼を言われ、成実は会場の中へ向かった。
まだ1冊も買っていない。
イベントへ来て最初にしたことが、人を助けることになるとは思わなかった。
普通は一生のうちに何度も階段から落ちる人を受け止めたりはしないので、これはたぶん今日に限った話だろう。
タブレットを口に入れ、水を二口飲み、ポケットにしまっておいた地図を開く。
「今日のメインは5番目か」
目的の本を効率よく買える順番をあらかじめ考えてきている。
なるべく人の波に合わせて進み、ところどころで曲がって目的地を目指す。
そして目をつけていたサークルで本を買う。
近頃は大手は電子版を出しているところが多いので、今回は紙で買う所のみに絞っており小規模な所が中心。
各サークルでほぼ並ばなくて良いのでそういう面でも楽だ。
次の場所では見本を少し読んでから予定になかった委託の作品も1冊買い、折れ曲がらないようにファイルケースに詰めてリュックの中に入れた。
「やっぱりこういう予期しない本との出会いがイベントの醍醐味だよな。めっちゃ楽しいわ」
紙の本は、数冊なら何でもないのに増えると急に重くなる。
三冊目か四冊目辺りから急に主張を始める感じがする。
次の列へ向かう途中、足も妙に重くなっていることに気づいた。
最近はウォーキングとエアロバイクを続けている。
以前よりは体力がついているはずだが、まだまだ肥満の部類だし、真夏に歩いて人混みの中を移動しているのだ。
大学時代以来のイベントというのも大きいだろう。たぶん。
邪魔にならない場所で水を飲み、少し休んだ。
やはり立ったままだと足は回復しない。
空いている椅子でもあれば座りたかったが、そう都合よく空いていないし、逆紙サナギのスペースはそこからあまり離れていなかったので先に行くことにした。
目当ての場所へ近づくと、テーブルの向こうには2人の女性がいた。
オリジナルで全年齢向けなので、ある程度知名度があってもまったりした感じ。
先に目へ入ったのは、客へ見本誌を案内している方だった。
100人いたら100人が美人というような女性だ。
髪を軽く染めた清楚系ギャルといった印象。
「よろしかったら見て行ってくださいね」
成実が探していたのは、その隣に座っている女性の方である。
繭子は、子供向けの磁石式お絵描きボードへ何かを描いていた。
灰白色の画面へ磁石のペンで線を引き、下についているレバーを動かせば消せるやつだ。
首元の汗をタオルで拭い、何やらガサガサと取り出している。
「キンキンに冷えてやがる……!」
「はいはい」
目を(>ω<)こんな風にしながら梅が印刷されたペットボトルを首元に当てたり頬ずりしたり。
しばらくそうしてからおもむろにキャップを開けて飲む。
(やっぱり「犯罪的だ・・・」とか言うのかな)
そんなことを思っていると、繭子は一度天を仰いだ後、一筋涙を流した。
そして口を開く。
「クリスぅ、ドリンクのメニュー入れ替えるね」
「またフルコース変えたの……!?」
隣の女性がツッコむ。トリコのメニューがめちゃくちゃ軽率に入れ替えられている。
何か思ったよりかなり変な人なのかもしれない。
いつまでも見ていてもしょうがないのでスペースに進む。
すると繭子は自分の前に人が来たことに気づき、顔を上げた。
事前に能力で調べた写真と同じ顔だった。
ちらりと目に入った飲み物を飲む前にボードに描いてた絵、なんか線がガタガタだな、とぼんやり思った。SNSで見る画力はかなり高くラフも綺麗な線だったが……。
なんだろうと思っていると、声がかかる。
「イラャッシャセー」
気の無い店員がとりあえず声を出してみたというような感じ。
飲み物を置いて手が自由になる。
「えっと、新刊一冊ください。サナギ先生ですか?」
「はい。逆紙サナギです」
一言目とは違ったはっきりとした口調。
目と目が合う。なんて言おう。
「SNSで漫画、読んでます。頑張ってください」
「ありがとうございます」
思ったより普通の返答だった。
先ほどの妙なシーンを見たあとだと多少緊張はほぐれたが、とはいえ急には言うべきことが思いつかない。
結局無難な言葉しか出なかった。
テーブルを見渡す。
「あ、キャッシュレスできるんすね」
「はい、有名どころはだいたい使えますよ」
リーダーが古いスマホに繋がれて置いてある。
(仕事だけ見るとエンジニアってわけでもないのにこういうイベントでも普通の人が使うようになってるんだな、結構意外だ)
そんなことを考えながらポケットからスマホを取り出し、PayPayを起動してかざす。
まあ普通の挨拶はできたし、結局本を買っただけで帰宅ということになりそうだ。
「あれ?」
数秒かざすが、読み取りの画面から処理が先に進まない。
しばらくすると、エラーの音が鳴った。
「ん~? すみません、もう一度いいですか?」
繭子にそう言われて思わず慌ててスマホをかざす。
数秒待って再度同じエラーが表示された。
「おっかしいなあ……」
(どうやら俺の方の不具合じゃなさそうだな)
隣の女性が自分のスマートフォンを取り出し、通信状態を確認する。
「さっきクリスが会計したときは使えてたよね?」
「こっちは使えてたよ。リーダーも接続済みになってる」
繭子が隣の女性に確認し、リーダーを繋いでいるスマホの決済アプリを閉じ、もう一度開く。
しかし表示は変わらない。
SEをしているからといって、機械やPCやコンピュータになんでも詳しいわけではない。
だがこういう場合の対処はだいたい相場が決まっているし、何より今の自分には能力があった。
(このエラー、端末再起動したら直る?)
もしかしたら会話のきっかけができるかもしれない。