千貌の残星 作:無貌
・作者は原神の設定を細かく把握はしていません。
・タグの一部は保険です。
・数年ぶりにこの界隈に戻ってきた帰還者です。
・投稿感覚は不定期です。
・似たような作品があったらごめんなさい。
・批判コメントはなしでお願いします。
・感想返信は、次話投稿時のみに限ります。
EP0:執行官第零位
EP0:執行官第零位
地下室にしては、随分と豪奢だった。
壁にはスネージナヤ産の赤絨毯。
机の上にはフォンテーヌ製の機械式時計。
棚には璃月から密輸された酒と、美術品が並んでいる。
そのどれ一つとして、正規の給与で買える代物ではない。
「……遅い」
セルゲイ・アルダノフは苛立たしげに時計を見た。
ファデュイ特務部門、第三監察局副局長。
少なくとも、三か月前までは。
今ではその肩書きすら危うい。
横領。
密輸。
人身売買。
拷問。
違法な研究への便宜供与。
証拠隠滅。
部下の暗殺。
外国勢力との内通。
そして――執行官への反逆。
最初から、そうだったわけではない。
かつてのアルダノフは忠実だった。
命令を守り、成果を上げ、上官に従い、女皇への忠誠を疑われたこともなかった。
少しばかり野心が強い……その程度だった。
だが、一つ昇進するたびに思った。
――なぜ、自分の上にあれほど人間がいる。
また成果を上げる。
――なぜ、自分は執行官ではない。
また一つ勲章を得る。
――なぜ、あいつらが選ばれて、自分が選ばれない。
やがて彼は、答えを出した。
自分に足りないのは能力ではない……機会だと。
ならば……作ればいい。
敵を失脚させ。
競争相手を消し。
成果を奪い。
金を積み。
情報を売り。
必要なら味方すら殺す。
そうしていつの日か、空いた席に自分が座る。
そのはずだった――。
「……来たか」
扉が開いた。
入ってきたのは若い女だった。
黒い外套。
銀灰色の長い髪。
整った顔立ちではあるが、特別目立つほどではない。
アルダノフは眉をひそめた。
「誰だ」
女は静かに扉を閉めた。
「連絡役です」
「名前は」
「必要ですか?」
「……まあいい」
アルダノフは鼻を鳴らした。
近頃、仲介人は頻繁に変わる。
こちらも相手の素性など一々調べてはいない。
重要なのは、金と情報だけだ。
「例の話は?」
「伺っています」
女は部屋を見回した。
「執行官の席をお望みだとか」
アルダノフの口元が緩んだ。
「望んでいる、ではない」
グラスへ酒を注ぐ。
「いずれ座る」
女は少しだけ目を細めた。
「ずいぶんと自信がおありで」
「当然だ」
「では、どなたの席を?」
その質問に、アルダノフは笑った。
「席など空く」
「自然に?」
「空かなければ――」
酒を一口。
「空ければいい」
女は何も言わなかった。
アルダノフはそれを畏怖と受け取った。
「執行官といえど人間だ――殺せる者もいる。失脚する者もいる。消える者もいる。重要なのは……その時に次の候補として名が挙がることだ」
「なるほど」
「私はその準備をしている」
女が言う。
「人を買い」
「ああ」
「人を売り」
「必要ならな」
「味方を殺し」
「無能なら」
「外国に情報を流し」
「使えるものは使う」
「女皇陛下の命令まで偽造した」
そこで……ほんの一瞬だけ、アルダノフの手が止まった。
「……何?」
女は相変わらず穏やかな顔をしている。
「去年十一月……北方第七補給隊に送られた命令書です」
女はどこからか書類を取り出した。
「女皇陛下直属の命令であると偽り、武器を横流しした……その武器の一部は山賊を経由し、最終的に反スネージナヤ勢力へ渡った」
「何の話だ」
「二月には第二監察局のベレゾフ少佐を暗殺。その罪を部下へ着せた」
「知らんな」
「五月。フォンテーヌ商人との取引を隠すため、運搬担当者六名を処分」
「……誰から聞いた?」
「八月には――」
「誰から聞いたと訊いている!」
アルダノフが机を叩いた。
女は口を閉じた。
――静寂。
それから、少し困ったように微笑んだ。
「本人からですよ」
「……何?」
「今夜までに、随分と話していただきました」
アルダノフの顔から表情が消えた。
「私は何も――」
「話しました」
女は棚に並べられた酒瓶の一本を指した。
「酒商人のミハイルに」
今度は机の上の帳簿を見る。
「帳簿係のアンナに」
壁へ視線を向ける。
「警備隊長のアレクセイに」
そして最後に。
アルダノフを見る。
「三日前、貴方が自ら雇った娼婦にも」
沈黙。
アルダノフの顔が青ざめた。
女は首を傾げた。
「全員、覚えていませんか?」
「……まさか」
「悲しいですね」
銀灰色の髪を指先で弄ぶ。
「私としては、どの顔もそれなりに気に入っていたのですが」
アルダノフが椅子を蹴って立ち上がった。
「貴様……!」
女の瞳が……ほんの少しだけ細くなった。
それだけだったがアルダノフは、そこで初めて気づいた。
この女は美しい。
いや、美しすぎる。
派手ではない。
華美でもない。
なのに、目を逸らせない。
その瞳だけが、異様なほど完成されている。
まるで……誰かに見られることを前提として、最初から
そこでアルダノフはとある噂を思い出した。
そして……一つの結論に至った――。
「……女狐」
女が微笑んだ。
「正解」
アルダノフは即座に腰の銃へ手を伸ばした。
しかし、何も起こらない。
銃は抜けたし、照準も合った。
引き金も引いた。
ただし――弾が出なかった。
「……?」
女狐は首を傾げる。
「昨夜、手入れしておいたよ」
「な……ッ!?」
アルダノフは銃を投げ捨て、剣を抜いた。
床を蹴る。
決して遅くはない。
ファデュイの中級士官としてなら、十分に強い。
剣術も学んでいるし、実戦経験もある。
並の兵士五人程度なら、一人で相手にできる。
それでも……女狐は動かなかった。
剣先が喉元へ迫る。
あと半歩だった。
その瞬間――風が吹いた。
地下室ではあり得ないはずの風が。
「――っ!」
視界から女が消えた。
次の瞬間には背後にいる。
アルダノフは振り返った。
女狐は思う……遅い、と。
手首へ軽い衝撃。
剣が落ち、膝裏に何かが触れる。
身体が崩れ、気づけば床に膝をついている。
それだけだった――何をされたのかさえ分からない。
「……弱い」
女狐が呟いた。
嘲笑ではなかった。
ただ事実を確認するような声。
それが、余計にアルダノフを激昂させた。
「私は弱くなどない!」
女狐が瞬きをする。
「そう?」
「私は第三監察局の――」
「副局長」
「数十の作戦を成功させた!」
「成功率六十一パーセント」
「三十二人を粛清した!」
「そのうち十一人は無実だった」
「私は外国の高官とも繋がっている!」
「三人は二重間諜。一人は貴方から金を取っていただけ」
「私には部下が――」
「今夜、十九人が投降した」
アルダノフの口が止まった。
女狐は少し考えてから付け加える。
「残り六人は逃げたよ」
「……ッ!?」
「人望も中くらい、かな」
その言葉で、何かが切れた。
「貴様に何が分かる!」
アルダノフが叫んだ。
「私はここまで来た!誰よりも働いた!誰よりも女皇陛下に尽くした!それなのに執行官どもは――!」
「そこなんだよね」
女狐の声が、初めて少し冷たくなった。
アルダノフが黙る。
「君の一番、つまらないところ」
「……何?」
女狐はゆっくりとアルダノフを回るように歩く。
「悪人だからじゃない」
一歩。
「裏切ったからでもない」
一歩。
「人を殺したからでもない」
そして目の前で止まる。
「全部、中途半端なんだ――」
アルダノフの顔が歪んだ。
「……何だと」
「策略を巡らせるなら、もっと上手くやれ」
女狐は指を一本立てる。
「帳簿を残すな」
二本目。
「口封じをした人間の家族を放置するな」
三本目。
「買収した人間を信用するな」
四本目。
「自分より賢い人間を無能扱いするな」
五本目。
「そして何より――」
そこで手を下ろした。
「自分だけは特別だと思うな」
アルダノフは震えていた。
怒りなのか……恐怖からなのか……本人にも分からない。
「私は……執行官になる男だ」
女狐が止まった。
しばらくアルダノフを見る。
その顔には、本当に不思議そうな表情が浮かんでいた。
「まだ言うの?」
「私は……!」
「君は執行官というものを勘違いしている」
女狐はしゃがみ込み、アルダノフと目線を合わせる。
「犯罪を重ねればなれると思った?」
「……」
「人を殺せば?」
「……」
「味方を裏切れば?」
「……」
「手段を選ばなければ?」
そして――美しく笑った。
「そんなもの、ファデュイには山ほどいる」
アルダノフの目が揺れる。
「執行官が恐れられているのは、悪人だからじゃない」
声は穏やかだった。
「何か一つ、誰にも代われないものを持っているからだ」
女狐は自分の胸に指を当てる。
「力でもいい」
一言。
「知性でもいい」
二言。
「技術でも」
三言。
「狂気でも信念でもいい」
そしてアルダノフの額を指先で軽く叩いた。
「君には何もない」
「……」
「策略は二流」
「……黙れ」
「戦闘能力も二流」
「黙れ……!」
「人を惹きつける器もない」
「黙れ!」
「忠誠すら捨てた」
まだ腕は動く――アルダノフが女狐へ掴みかかった。
女狐は避けない。
その手が首へ届く直前……風が止まった。
本当に、止まった。
部屋の空気そのものが、一瞬だけ静止したようだった。
アルダノフの身体も止まり、目だけが動く。
女狐が立ち上がった。
「だから君は」
耳元へ顔を近づけて、囁く。
「悪党にすら……なりきれなかった――」
アルダノフの顔が絶望に染まった。
「待て」
初めて声が震えた。
「待ってくれ」
女狐は離れる。
「情報がある」
「知ってる」
「金もある!」
「場所も知ってる」
「協力者を売る!」
「もう喋ったよ」
「違う!まだある!私は使える!零席なら分かるだろう!私のような人間は使い道が――ッ!」
「あるよ」
アルダノフの表情が明るくなる。
ほんの一瞬だけ。
女狐は微笑んだ。
「だから今日まで生かしておいた」
表情が凍りついた。
「……今日まで?」
「うん」
女狐は懐から小さな紙を取り出した。
そこには複数の名前が並んでいる。
アルダノフが見知った名前ばかりだった。
取引相手。
協力者。
内通者。
賄賂を受け取った役人。
秘密を共有していた者たち。
「君は本当に便利だった」
紙を半分に折る。
「少し刺激すると一人に会い」
また折る。
「不安になると別の一人へ連絡し」
また折った。
「追われていると思えば金を移し」
そして懐にしまう。
「最後には、全員を一ヶ所に集めてくれた」
アルダノフの唇が震える。
「……最初から」
「うん?」
「最初から……私を泳がせて……」
女狐は楽しそうに笑った。
「気づくのが遅いよ」
「……」
「執行官を目指すには、だいぶ……ね?」
アルダノフの目から、最後の虚勢が消えた。
「誰の……命令だ」
「さて」
「道化か」
返事はない。
「女皇陛下か?」
女狐の笑みが少しだけ薄くなった。
「君は最後まで、自分を高く見積もりすぎる」
「……何?」
「女皇陛下は」
一拍。
「君の名前をご存じない」
アルダノフの視線が消沈から落ちる。
それまでのどんな言葉より。
その一言が深く刺さった。
「……嘘だ」
「本当」
「私は……私はこれだけ……」
「うん」
「これだけのことを……」
「そうだね」
「執行官になるために……」
声が掠れていく。
女狐は静かに見下ろした。
そこにはもう、怒りも侮蔑もなかった。
少しだけ……哀れむような色があった。
「それが君の失敗だったんだろうね」
「……」
「席を見すぎた」
アルダノフが視線を上げる。
「席に座る自分ばかり想像して」
女狐はその瞳を覗き込んだ。
「何者になって、その席に座るのかを一度も考えなかった」
沈黙――。
地下室の時計が鳴った。
一回。
二回。
三回。
女狐が背を向ける。
「さようなら、アルダノフ副局長」
「待て……」
歩き出す。
「待ってくれ!」
扉へ。
「零席!」
そこで女狐は止まった。
「頼む!」
振り返らない。
アルダノフは叫んだ。
「私はまだ役に立つ!」
数秒。
女狐が答えた。
「もう役目は終わったよ」
風が吹いた。
蝋燭が消え、暗闇に。
何かが床へ落ちる音が一つした。
そして……なぜか再び灯りが戻った時。
地下室には、アルダノフだけが倒れていた。
女狐の姿はない。
机の上には一枚の紙。
ファデュイの紋章も。
署名もない。
ただ、一行だけ。
整った文字が残されていた。
『粛清完了。執行官候補――該当せず』
その夜。
セルゲイ・アルダノフという男の存在は、ファデュイの記録から静かに消えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌朝。
グルポフの食堂では、一人の若い女給が同僚に笑いかけていた。
「ねえ、昨日の夜、何かあったの?」
「知らないの?第三監察局で大騒ぎだったらしいよ」
「へえ」
女給は興味なさそうに紅茶を注ぐ。
「怖いね」
そう言って笑った。
何の変哲もない顔。
何の変哲もない声。
ただ――。
その瞳だけが――。
場違いなほど、美しかった――。