千貌の残星 作:無貌
・作者は原神の設定を細かく把握はしていません。
・タグの一部は保険です。
・数年ぶりにこの界隈に戻ってきた帰還者です。
・投稿感覚は不定期です。
・似たような作品があったらごめんなさい。
・批判コメントはなしでお願いします。
・感想返信は、次話投稿時のみに限ります。
EP0:執行官第零位
地下室にしては、随分と豪奢だった。
壁にはスネージナヤ産の赤絨毯。
棚の上にはフォンテーヌ製の機械式時計。
机には璃月から密輸された酒と、美術品が並んでいる。
そのどれ一つとして、彼の正規の給与で買える代物ではない。
「……遅い」
セルゲイ・アルダノフは苛立たしげに時計を見た。
彼はファデュイ特務部門、第三内務局副局長である。
少なくとも、昨日までは……。
今ではその肩書きすら危うく、入手した情報によると、近々ナドクライ派遣部隊の部隊長に任命されるとのことだ。
要は左遷である。
理由は幾つかある。
横領、密輸、人身売買、拷問、違法な研究への便宜供与に、証拠隠滅や部下の暗殺、外国勢力との内通が疑われているからだ。
そして何より……執行官への反逆。
決して最初から、そうだったわけではない。
かつてのアルダノフは忠実だった、忠実過ぎるぐらいだった。
命令を守り、成果を上げ、上官に従い、女皇への忠誠を疑われたこともなかった。
少しばかり野心が強い……その程度だった。
だが、一つ昇進するたびに彼は思った。
――なぜ、自分の上にあの程度の人間がいる。
また成果を上げる。
――なぜ、自分は執行官ではない。
また一つ勲章を得る。
――なぜ、あいつらが選ばれて、自分が選ばれない。
やがて、彼は一つの答えを出した。
自分に足りないのは能力ではなく、機会だと。
ならば作ればいい、と。
敵を失脚させ、競争相手を消し、その成果を奪う。
金を積んで情報を売り、必要なら味方すら殺す。
そうして手に入れたのが現在の地位だ。
そしていつの日か、執行官の空いた席に自分が座る。
そのはずだった――。
「……来たか」
扉が開いた。
入ってきたのは若い女だった。
黒い外套に、銀灰色の長い髪。
整った顔立ちではあるが、特別目立つほどではない。
アルダノフは眉をひそめた。
「誰だ」
女は静かに扉を閉めた。
「連絡役です」
「名前は」
「必要ですか?」
「……まあいい」
アルダノフは鼻を鳴らした。
近頃、仲介人は頻繁に変わる。
こちらも相手の素性など一々調べてはいない。
重要なのは金と情報だけだ。
「例の話は?」
「伺っています」
女は部屋を見回した。
「十一人の
アルダノフの口元が緩んだ。
「望んでいる、ではない」
グラスへ酒を注ぐ。
「いずれ座る」
女は少しだけ目を細めた。
「ずいぶんと自信がおありで」
「当然だ」
「では、どなたの席を?」
その質問に、アルダノフは笑った。
「席など空く」
「自然に?」
「空かなければ――」
酒を一口飲む。
「空ければいい」
女は何も言わなかった。
アルダノフはそれを畏怖と受け取った。
「執行官といえど人間だ――殺せる者もいるし、失脚する者もいる。当然、消える者もいる。重要なのは……その時に次の候補として名が挙がることだ」
「なるほど」
「私はその準備をしている」
女が言う。
「人を買い」
「ああ」
「人を売り」
「必要ならな」
「味方を殺し」
「無能なら」
「外国に情報を流し」
「使えるものは使う」
「女皇陛下の命令まで偽造した」
そこで……ほんの一瞬だけ、アルダノフの手が止まった。
「……何?」
女は相変わらず穏やかな顔をしている。
「去年十一月……北方第七補給隊に送られた命令書です」
女はどこからか書類を取り出した。
「女皇陛下直属の命令であると偽り、武器を横流しした……その武器の一部は山賊を経由し、最終的に反スネージナヤ勢力へ渡った」
「何の話だ」
「二月には第二内務局のベレゾフ隊長を暗殺。その罪を部下へ着せた」
「知らんな」
「五月。フォンテーヌ商人との取引を隠すため、運搬担当者六名を処分」
「……誰から聞いた?」
「八月には――」
「誰から聞いたと訊いている!」
アルダノフが机を叩いた。
女は口を閉じた。
――静寂。
それから、少し困ったように微笑んだ。
「本人からですよ」
「……何?」
「今夜までに、随分と話していただきました」
アルダノフの顔から表情が消えた。
「私は何も――」
「話しました」
女は棚に並べられた酒瓶の一本を指した。
「酒商人のミハイルに」
今度は机の上の帳簿を見る。
「帳簿係のアンナに」
天井へ視線を向ける。
「ここの警備隊長のアレクセイに」
そして最後にアルダノフを見る。
「三日前、貴方が自ら雇った娼婦にも」
沈黙。
アルダノフの顔が青ざめた。
女は首を傾げた。
「全員、覚えていませんか?」
「……まさか」
「悲しいですね」
銀灰色の髪を指先で弄ぶ。
「私としては、どの顔もそれなりに気に入っていたのですが」
アルダノフが椅子を蹴って立ち上がった。
「貴様……!」
女の瞳が……ほんの少しだけ細くなった。
アルダノフはそこで初めて気づいた。
この女は美しい……いや、美しすぎる。
派手ではないが華美でもない。
なのに、目を逸らせない。
その瞳だけが、異様なほど完成されている。
まるで……誰かに見られることを前提として、最初から
そこでアルダノフはとある噂を思い出した。
そして、先ほどのどの顔も気に入っているという一言と、その噂を重ねたとき、そこから導き出される結論が一つあった。
「……女狐」
女が微笑んだ。
「正解」
アルダノフは即座に腰の銃へ手を伸ばした。
しかし、何も起こらない。
銃は抜けたし、照準も合った。
引き金も引いた。
ただし――弾が出なかった。
「……?」
女狐は首を傾げる。
「昨夜、手入れしておきましたよ」
「な……ッ!?」
アルダノフは銃を投げ捨て、剣を抜いた。
床を蹴る。
決して遅くはない。
ファデュイの中級士官としてなら十分に強い。
剣術も学んでいるし、実戦経験もあった。
並の兵士五人程度なら、一人で相手にできる。
剣先が喉元へ迫る。
それでも……女狐は動かなかった。
あと半歩だった。
その瞬間――風が吹いた。
地下室ではあり得ないはずの風が。
「――っ!」
視界から女が消え、次の瞬間には背後にいた。
アルダノフは振り返った。
女狐は思う……やはりこの程度か、と。
手首へ軽い衝撃。
剣が落ち、膝裏に何かが触れる。
その瞬間、全身から殆ど力が抜け、彼の体制が崩れる。
気づけば床に膝をついているという事実――何をされたのかさえ分からない。
「……弱い」
女狐が呟いた。
嘲笑ではなかった。
ただ事実を確認するような声。
それが、余計にアルダノフを激昂させた。
「私は弱くなどない!」
女狐が瞬きをする。
「そう?」
「私は第三内務局の――」
「副局長」
「数十の作戦を成功させた!」
「成功率六十一パーセント」
「三十二人を粛清した!」
「そのうち十人は無実だった」
「私は外国の高官とも繋がっている!」
「三人は二重間諜。一人は貴方から金を取っていただけ」
「私には部下が――」
「今夜、十九人が投降した」
アルダノフの口が止まった。
女狐は少し考えてから付け加える。
「残り六人は逃げたよ」
「……ッ!?」
「人望も中くらい、かな」
その言葉で、何かが切れた。
「貴様に何が分かる!」
アルダノフが叫んだ。
「私はここまで来た!誰よりも働いた!誰よりも女皇陛下に尽くした!それなのに執行官どもは――!」
「そこなんだよね」
女狐の声が、初めて少し冷たくなった。
アルダノフが黙る。
「君の一番、つまらないところ」
「……何?」
女狐はゆっくりとアルダノフを回るように歩く。
「悪人だからじゃない」
一歩。
「裏切ったからでもない」
一歩。
「人を殺したからでもない」
そして目の前で止まる。
「全部、中途半端なんだ――」
アルダノフの顔が歪んだ。
「……何だと」
「策略を巡らせるなら、もっと上手くやれ」
女狐は指を一本立てる。
「帳簿を残すな」
二本目。
「口封じをした人間の家族を放置するな」
三本目。
「買収した人間を信用するな」
四本目。
「自分より賢い人間を無能扱いするな」
五本目。
「そして何より――」
そこで手を下ろした。
「自分だけは特別だと思うな」
アルダノフは震えていた。
怒りなのか……恐怖からなのか……本人にも分からない。
「私は……執行官の席に座る男だ」
女狐が止まった。
しばらくアルダノフを見る。
その顔には、本当に不思議そうな表情が浮かんでいた。
「まだ言うの?」
「私は……!」
「そもそも、君は執行官というものを勘違いしている」
女狐はしゃがみ込み、アルダノフと目線を合わせる。
「犯罪を重ねればなれると思った?」
「……」
「人を殺せば?」
「……」
「味方を裏切れば?」
「……」
「手段を選ばなければ?」
そして――美しく笑った。
「そんなもの、ファデュイには山ほどいる」
アルダノフの目が揺れる。
「執行官が恐れられているのは、悪人だからじゃない」
声は穏やかだった。
「何か一つ、誰にも代われないものを持っているからだ」
女狐は自分の胸に指を当てる。
「力でもいい」
一言。
「知性でもいい」
二言。
「技術でも」
三言。
「狂気でも、信念でもいい」
そしてアルダノフの額を指先で軽く叩いた。
「君には何もない」
「……」
「策略は二流」
「……黙れ」
「戦闘能力も二流」
「黙れ……!」
「人を惹きつける器もない」
「黙れ!」
「忠誠すら捨てた」
まだ腕は動く――アルダノフが女狐へ掴みかかった。
女狐は避けない。
その手が首へ届く直前……風が止まった。
本当に、止まった。
部屋の空気そのものが、一瞬だけ静止したようだった。
アルダノフの身体も止まり、目だけが動く。
女狐が立ち上がった。
「だから君は」
耳元へ顔を近づけて、囁く。
「悪党にすら……なりきれなかった――」
アルダノフの顔が絶望に染まった。
「待て」
初めて声が震えた。
「待ってくれ」
女狐は離れる。
「情報がある」
「知ってる」
「金もある!」
「場所も知ってる」
「協力者を売る!」
「もう喋ったよ」
「違う!まだある!私は使える!零席なら分かるだろう!私のような人間は使い道が――ッ!」
「あるよ」
アルダノフの表情が明るくなる。
ほんの一瞬だけ、女狐は微笑んだ。
「だから今日まで生かしておいた」
表情が凍りついた。
「……今日まで?」
「うん」
女狐は懐から小さな紙を取り出した。
そこには複数の名前が並んでいる。
アルダノフが見知った名前ばかりだった。
取引相手に協力者、内通者や賄賂を受け取った役人……秘密を共有していた者たち。
「君は本当に便利だった」
紙を半分に折る。
「少し刺激すると一人に会い」
また折る。
「不安になると別の一人へ連絡し」
また折った。
「追われていると思えば金を移し」
そして懐にしまう。
「最後には、全員を一ヶ所に集めてくれた」
アルダノフの唇が震える。
「……最初から」
「うん?」
「最初から……私を泳がせて……」
女狐は楽しそうに笑った。
「気づくのが遅いよ」
「……」
「執行官を目指すには、だいぶ……ね?」
アルダノフの目から、最後の虚勢が消えた。
「誰の……命令だ」
「さて」
「道化か」
返事はない。
「女皇陛下か?」
女狐の笑みが少しだけ薄くなった。
「君は最後まで、自分を高く見積もりすぎる」
「……何?」
「女皇陛下は」
一拍。
「君の名前をご存じない」
アルダノフの視線が消沈から落ちる。
それまでのどんな言葉よりも、その一言が深く彼に突き刺さった。
「……嘘だ」
「本当」
「私は……私はこれだけ……」
「うん」
「これだけのことを……」
「そうだね」
「執行官になるために……」
声が掠れていく。
女狐は静かに見下ろした。
そこにはもう、怒りも侮蔑もなかった。
少しだけ……哀れむような色があった。
「それが君の失敗だったんだろうね」
「……」
「席を見すぎた」
アルダノフが視線を上げる。
「席に座る自分ばかり想像して」
女狐はその瞳を覗き込んだ。
「何者になって、その席に座るのかを一度も考えなかった」
沈黙――。
地下室の時計が鳴った。
一回。
二回。
三回。
女狐が背を向ける。
「さようなら、アルダノフ副局長」
「待て……」
歩き出す。
「待ってくれ!」
扉へ。
「零席!」
そこで女狐は止まった。
「頼む!」
振り返らない。
アルダノフは叫んだ。
「私はまだ役に立つ!」
数秒。
女狐が答えた。
「もう役目は終わったよ」
風が吹いた。
蝋燭が消え、暗闇になり、何かが床へ落ちる音が一つした。
そしてなぜか再び灯りが戻った時……地下室には、アルダノフだけが倒れていた。
女狐の姿は既にない。
机の上には一枚の紙があった。
ファデュイの紋章も、署名もなく、ただ一行だけ……整った文字が残されていた。
『粛清完了。執行官候補――該当せず』
その夜、セルゲイ・アルダノフという男の存在は、ファデュイの記録から静かに消えた――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌朝。
グルポフの食堂では、一人の若い女給が同僚に話しかけていた。
「ねえ、昨日の夜、何かあったの?」
「知らないの?第三内務局で大騒ぎだったらしいよ」
「へえ……」
自ら話を振ったはずの女給は、興味なさそうに紅茶を注ぐ。
「怖いね」
そう言って笑った。
何の変哲もない顔。
何の変哲もない声。
ただ、その瞳だけが……場違いなほど、美しかった――。