千貌の残星 作:無貌
EP1:お茶会の招待状
「やあ、旅人……初めまして――と言っておこうか。私はアテルラネ。ファデュイ執行官……まあ、席次は気にしなくていい。『女狐』とでも呼んでくれれば十分さ……ん?男か女かって?ふふっ、初対面で随分と踏み込むね。今の私を見て、君が好きな方だと思えばいい。安心して。今日は君を殺せなんて命令は受けていないよ……今日は、ね」
初めまして……より
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
グルポフ。
スネージナヤ・グラードの喧騒からいくらか離れたその一帯は、ファデュイの軍靴と機械の駆動音が絶えることのない場所だった。
そんな場所のとある通路を、一人の若い女兵士が歩いている。
灰色がかった短い髪、色の薄い瞳。
鼻筋には薄くそばかすが散り、背丈も、体格も、声も、取り立てて目立つものではない。
制服の襟には、末端部隊の階級章。
どこにでもいるファデュイの下級兵。
少なくとも――そう見える。
「……やっぱり、この顔は少し地味すぎたかな」
誰にも聞こえないほど小さな声で、女兵士は呟いた。
その声さえ、普段のものとはまるで違う。
アテルラネは手袋越しに自分の頬へ触れた。
柔らかい……骨格も問題なし。
喉も、肺も、筋肉も、全てこの姿に合わせて組み替えてある。
鏡を持ってきたところで、元の姿との共通点を探す方が難しい。
このグルポフでは、もう何十回と姿を変えている。
老いた補給係になったこともある。
若い士官になったこともある。
荷運びの男にも、食堂の女給にも、果ては一度だけ雪かきをしていた老人にまでなった。
同じ姿を二度使わないことさえ珍しくないからこそ……。
「――そこの君」
背後から聞こえた声に、アテルラネは立ち止まった。
ほんの一瞬だけ……本当に、一瞬だけ顔が引きつる。
それから何事もなかったように振り返り――。
やはり……と思い、内心で舌打ちした。
そこに立っていたのは、白い外套を纏った長身の女。
黒と白の装い。
特徴的な瞳。
執行官第四位『召使』アルレッキーノ。
アテルラネは即座に背筋を伸ばした。
「召使様!」
右手を胸元へ。
それから模範的な敬礼。
「お疲れ様であります!」
完璧のはずだった。
声の震え、緊張した呼吸……そして何より、突然執行官に声をかけられた下級兵士が見せるであろう、わずかな強張り。
どれを取っても非の打ち所がない。
アルレッキーノは答えない。
ただアテルラネを見ていた。
「……」
「……?」
アテルラネは困惑した顔を作った。
「何か、自分に何か御用でしょうか?」
「いや」
アルレッキーノは淡々と言った。
「随分と似合っていると思ってね」
「……?」
「その制服だ」
アテルラネは自分の胸元へ目を落とす。
「は、はい。支給品ですので……」
「そうか」
アルレッキーノは歩み寄ってきた。
ヒールの音が大理石の廊下に、コツ、コツ、コツと響き渡る。
一歩。
また一歩。
アテルラネは動かない。
アルレッキーノが目の前で止まった。
「名前は?」
「第六兵站部隊所属、エレーナ・ザイツェワ二等兵であります!」
即答だった。
当然、その名の人間も存在する。
出生地もある。
家族もいる。
軍歴も用意してある。
上官の名前を聞かれても答えられる。
必要なら幼少期の思い出まで語れる。
「エレーナ」
「はい」
「良い名前だ」
「ありがとうございます」
「気に入っているのか?」
一拍。
「……はい?」
アルレッキーノの表情は変わらない。
「名前だよ」
「もちろんです。両親から頂いたものですので」
「なるほど」
アルレッキーノは小さく頷く。
「では、大切にした方がいい」
アテルラネは微笑んだ。
下級兵らしい、恐縮した笑顔。
「はい」
「名前というものは、不思議なものだ」
アルレッキーノはアテルラネの横を通り過ぎる。
「長く使っていると、それが本当に自分のものだったような気がしてくる」
アテルラネは振り返った。
「……召使様?」
アルレッキーノも振り返る。
「何かな、エレーナ二等兵」
「いえ……先ほどのお言葉の意味が、よく……」
「気にする必要はない」
「……そうですか」
「ああ」
視線が交わる。
数秒。
先に笑ったのは、アテルラネだった。
「それでは、自分は任務がありますので」
「待ちなさい」
「はい?」
「一つ、頼みがある」
アルレッキーノは懐から小さな封筒を取り出した。
雪のように白い紙。
中央に、精巧な機械仕掛けを思わせる封蝋。
見覚えがある。
見覚えどころではない。
アテルラネはそれを見るなり、内心で大きなため息を吐いた。
――傀儡。
アルレッキーノが封筒を差し出す。
アテルラネは受け取らなかった。
「……これは?」
「招待状だ」
「招待状?」
「傀儡からのね」
「……」
「近々、茶会を開くらしい」
アテルラネは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「あの……召使様。何かの間違いでは?」
「間違い?」
「自分は二等兵です。執行官様のお茶会など、とても……」
「そうだろうね」
「でしたら――」
「だから私も不思議に思っている」
アルレッキーノは、封筒を持ったまま言った。
「彼女から、『グルポフを歩いている者を一人、連れてきてほしい』と頼まれた」
「……随分と曖昧なご指示ですね」
「私もそう思った」
「特徴などは?」
「特には」
「では、別人では?」
「その可能性もある」
「ならば――」
「ただ」
アルレッキーノの目が細くなる。
「『顔は教えても意味がない』と言われた」
沈黙。
雪が降る。
遠くから機械の駆動音が聞こえてくる。
アテルラネは瞬きを一つした。
「……変わったお方ですね。傀儡様は」
「ああ。本当に」
「自分には心当たりがありません」
「そうだろうね」
「ですので、他を――」
「それから」
アルレッキーノは続けた。
「性別も教えてもらえなかった」
「……」
「年齢も」
「……」
「髪の色も」
「……」
「瞳の色も」
アルレッキーノが一歩近づく。
「身長すらね」
アテルラネは困ったように笑った。
「それでは探しようがありませんね」
「私もそう思った」
「では――」
「だが、見つけた」
「…………」
「不思議なものだ」
「……何を、でしょう?」
アルレッキーノは僅かに首を傾けた。
「人間は顔を変えられる」
静かな声だった。
「声も変えられる。歩き方も、癖も、名前も、立場も――その気になれば過去さえ変えられる」
「……」
「それでも」
アルレッキーノの赤黒い瞳が、まっすぐアテルラネを射抜く。
「変わらないものもあるらしい」
一瞬――風が吹いた。
二人の間をそれが横切る。
アテルラネは、しばらく黙っていた――やがて……。
「……なるほど」
そう言って、笑った。
しかしそれはアテルラネの笑みではない。
あくまで、エレーナ二等兵の笑顔だった。
「勉強になります、召使様」
「そうか」
「ですが……自分には少々難しいお話でした」
「構わない」
「自分は学がありませんので」
「そうだったね」
「はい」
「エレーナ二等兵」
「はい」
「君は嘘が上手いな」
「……お褒めに預かり光栄です」
「褒めてはいない」
「これは失礼しました」
アルレッキーノは封筒をもう一度差し出す。
「受け取りなさい」
アテルラネは封筒を見る。
だが受け取らない。
「命令でしょうか?」
「いや」
「でしたら、お断りしても?」
「もちろん」
「では――」
「もっとも」
アルレッキーノは淡々と続けた。
「断った場合、私は傀儡にこう報告することになる」
「……」
「『君が探していた客人は、今日に限って二等兵だった』と」
アテルラネの笑顔が止まった。
一秒。
二秒。
そして――
「はぁ……」
初めて。
エレーナ二等兵なら絶対に吐かないようなため息が漏れた。
アルレッキーノの口元が、ほんの僅かに緩む。
アテルラネはすぐに咳払いをした。
「……失礼しました。寒さで」
「そうか」
「ええ。スネージナヤの冬は身体に堪えますので」
「君が言うと説得力があるな」
「生まれも育ちもスネージナヤですから」
「そうだったね」
「ええ」
「両親から貰った大切な名前もある」
「……」
「エレーナ・ザイツェワだったか」
「…………ええ」
しばし沈黙。
アテルラネはアルレッキーノを見る。
アルレッキーノもアテルラネを見る。
やがてアテルラネは諦めたように封筒を受け取った。
「……お茶会は、何時からですか?」
「午後三時」
「場所は?」
「中に書いてある」
「服装の指定は?」
アルレッキーノは少し考えた。
そして。
「その姿で行けばいいんじゃないか?」
「……」
アテルラネの目が細くなる。
「趣味が悪いですよ、召使
一瞬。
初めて『様』が消えた。
アルレッキーノはそれを聞き逃さなかった。
「ようやく二等兵をやめたか?」
「何のことでしょう」
「いや」
アテルラネは封筒を制服の内側へ仕舞う。
「では、任務がありますので失礼します」
「ああ」
数歩進む。
「エレーナ」
呼ばれて、アテルラネが止まった。
「……まだ何か?」
アルレッキーノは背を向けたままだった。
「茶会には遅れない方がいい」
「なぜです?」
「傀儡は時間に厳しい」
「承知しました」
「それと」
「……?」
アルレッキーノは僅かに振り返る。
「次に会う時は、もう少し似合う顔にしてくれ」
アテルラネは目を瞬いた。
「今の顔は、お気に召しませんか?」
「悪くはない」
アルレッキーノは答えた。
「ただ――」
その視線が、アテルラネの顔をゆっくりとなぞる。
「君にしては、少し無害すぎる」
そして何事もなかったかのように歩き去っていった。
「……」
アテルラネはその背中を見送った。
十秒。
二十秒。
完全に姿が見えなくなってから。
片手で自分の顔を覆う。
「…………最悪だ」
地声だった。
低く、中性的な男の声。
「いつから気付いてたんだ、あの女……」
返事はない。
ただ冷たい風だけが通り過ぎていく。
アテルラネは懐から先ほどの招待状を取り出した。
封蝋を指で弄びながら、目を細める。
「……傀儡も傀儡だ」
封筒の表には、たった一言だけ書かれていた。
『貴方の席は、いつも通り空けてあるわ』
名前はない。
肩書きもない。
性別すら書かれていない。
アテルラネはしばらくそれを眺め――やがて、狐のように笑った。
「まったく……」
風が吹く。
その瞬間。
灰色だった髪が一瞬だけ別の色へ変わり……次の瞬間には元へ戻った。
「私を見つける奴ばかり増えて、困るね」
そう呟いた。
名もなき二等兵は、グルポフの人混みへと消えていった――。