千貌の残星 作:無貌
EP2:お茶会(女狐編)
任務のために顔を変えることと、お茶会のために化粧をすることは、アテルラネにとってはまったく別の行為だった。
その違いを理解している者は、そう多くない。
「……これは、もう要らないな」
鏡の前で呟き、アテルラネは頬へ指を添えた。
そこに映っているのは、四十代半ばほどの男だった。
やや日に焼けた皮膚に太い鼻梁。
右眉の上には古傷。
酒焼けしたような声色。
北方の港湾都市で荷運びをしている男――という設定だった。
名前もある。
妻もいる。
二人の子供もいる。
十七年前に腰を悪くし、以来、冬になると右脚を引きずる。
好物は燻製肉で、酒は安いものしか飲まない。
賭け事は好きだが、決して大勝負には出ない。
もちろん……そんな男は、この世のどこにも存在しない。
アテルラネが作ったのだ。
三週間前に。
そして昨日、その男は役目を終えた――。
港の倉庫から、ある外交官の屋敷へ。
屋敷から、ある官僚の愛人へ。
愛人から、その兄へ。
兄から、とある反政府組織へ。
そこまで糸を辿れば十分だった。
最後の一人は今朝、雪原の中で死んだ。
事故ということになるだろう。
崖から転落した。
少なくとも、明日の新聞にはそう書かれる。
「三週間か」
アテルラネは顎を撫でた。
「悪くない顔だったんだけど」
惜しむほどではない。
指先に淡い風が絡んだ。
皮膚の下で何かが動く。
骨が僅かに軋み。
筋肉が縮み。
鼻梁が細くなる。
頬骨が変わる。
傷跡が消える。
首が少し細くなる。
肩幅が変わる。
それでも、性別は変わらない。
男のまま――。
数十秒後。
鏡の中には、先ほどまでとはまるで違う青年が座っていた。
いや……青年、と断じてしまうには少々曖昧だった。
柔らかく整った輪郭。
長い睫毛。
薄い唇。
少年のようにも見えるし、年若い貴婦人のようにも見える。
それでも骨格は確かに男性のものだった。
美しい男――それ以上でも、それ以下でもない。
アテルラネは鏡を見た――。
しばらく……何も言わない。
この顔を何年使っているのか、自分でもよく覚えていなかった。
十年か。
十二年か。
あるいはもっと短いかもしれない。
少なくとも、普段の任務では使わない。
同じ顔を二度使うことさえ避ける男が、この顔だけは捨てなかった。
理由は簡単だった。
これは誰かになるための顔ではないからだ。
本当の顔でもない。
本当の自分がどんな顔だったのか。
それをアテルラネは知らない。
覚えていない。
だから、この顔は自分で作った。
何者かを騙すためでも。
誰かに成り代わるためでもない。
ただ――自分が鏡を見たときに、これなら……自分だと思っても構わない。
そう、思える顔を作った。
最初はそれだけだった。
だが、今ではもう少し意味が違う。
この顔を知っている者がいる。
今日会う四人だ。
だから……茶会の日だけは、この顔に戻る。
「さて」
アテルラネは立ち上がった。
机の上に何着もの衣装が並んでいる。
深い青。
黒。
白。
薄紫。
フォンテーヌ風のものもあれば、古いスネージナヤ貴族が好む意匠のものもある。
今日選んだのは、黒を基調とした長いドレスだった。
胸元は高く閉じている。
腰を細く見せるよう仕立てられているが、女性の体型へ近づけるための細工はしていない。
当然だ――。
今日は……女になるつもりなどない。
男の身体にドレスを着る。
それだけである。
鏡台に座り直す。
薄く白粉を乗せる。
目元には僅かに銀。
口紅は暗い赤。
今日は少し強い。
「……うん」
悪くない。
髪は肩甲骨あたりまで伸ばす。
能力で伸ばすこともできるが、今日はそれを使わず、用意してあった髪を整える。
片側だけを銀細工の髪留めで留め、最後に耳飾りをつけた。
左右で違うものを選んで、しばらく考える。
やめた。
同じものに戻す。
「少しやりすぎだな」
独り言が多い。
任務中はほとんど喋らないというのに、自分一人になるとアテルラネはよく喋った。
椅子の背に掛けてあった黒い外套を取ろうとして――やめる。
その前に鏡台の隅に置いてあったものへ手を伸ばした。
――神の目。
――風。
淡い翠色の光が、掌の中で静かに揺れた。
「……君も連れていこうか」
誰に言うでもなく呟く。
神の目は答えない。
当然である。
それでもアテルラネは時々、これを人間のように扱った。
いつ手に入れたのか。
それは覚えている。
何故手に入れたのか、それは分からない。
神の目を得る前のことは、ところどころ霧がかかっている。
――自分の名前。
――自分の顔。
――自分の故郷。
――自分が何者だったのか。
そこには、巨大な穴が空いている。
ただ一つ覚えているのは――。
ある時、自分が誰かに尋ねられたことだった。
――お前は何者だ。
その時……答えられなかった。
――名前はあった。
だが、それが本当に自分の名前なのか分からなかった。
――姿はあった。
だが、それが本当に自分の姿なのか分からなかった。
――過去もない。
――帰る場所もない。
ならば……自分を決めるものが何一つないのなら……好きに決めればいい。
そう、思った。
――誰かの名前でもなく。
――誰かの命令でもなく。
――誰かが望んだ姿でもなく。
自分が進む方向くらい、自分で決めてしまえばいい――。
その翌朝。
枕元に風の神の目があった。
「自由、ねえ……」
アテルラネは神の目を眺めた。
「随分と趣味の悪い冗談だ」
そう言いながら……捨てたことは一度もない。
執行官第零位。
女狐・アテルラネ。
その名前だけを聞けば、多くの者は勘違いする。
第一位より上。
十一人の執行官を超える、最強の存在。
秘密裏に置かれた女皇直属の最高幹部。
どれも違う――。
正確には……半分ほどしか合っていない。
零は、一より前にある数字ではない。
アテルラネに与えられた零……とは――数えないための数字だった。
十一人の執行官。
第一位から第十一位。
その十一人の中に、アテルラネはいない。
しかし執行官である。
権限を持つ。
執行官として会議へ出席することもある。
国家機密へ触れることもできる。
ファデュイの施設へ立ち入ることも許されている。
必要なら軍を一時的に動かすことすらできる。
だが――。
常設の軍団を持たない。
領地もない。
直属の大組織もない。
他の執行官へ常時命令する権限もない。
そして――他の執行官から命令される義務もない。
統括官からの命令でさえ、拒むことができる。
女皇からでさえ、命令不服従が適用される。
少なくとも形式上は。
もっとも……女皇はアテルラネへ命令したことがほとんどなかった。
――一つ、お願いがある、と頼むのだ。
そう言われれば、アテルラネは大抵――聞いてから決めるよ、と答える。
そして――大抵は引き受ける。
だから一部では忠犬とも呼ばれていた。
本人が聞けば非常に嫌な顔をするだろう。
女狐なのに犬扱いされてはたまらない。
彼の仕事は、執行官がするには表向きすぎる仕事だけではない。
軍を率いることでも。
外交をすることでも。
研究所を管理することでもない。
むしろ逆だ――。
ファデュイが関わったと知られてはならない仕事。
一人の人間を殺す。
一つの国家へ偽りの情報を流す。
反乱の種を撒く。
その反乱を潰す。
敵国の将軍へ成り代わる。
味方の裏切り者を見つける。
味方の裏切りを、裏切りそのものが存在しなかったことにする。
証拠を消す。
人を消す。
時には……国一つから、ファデュイの痕跡だけを消す。
そういう仕事だった――。
アテルラネはそれを好んでいるわけではない。
嫌っているわけでもない。
必要ならする。
気に入らなければしない。
その程度だった。
だからこそ扱いにくい。
だからこそ零だった。
誰の下にも置けない。
誰の上にも置く必要がない。
数えなければいい。
氷の女皇はそうした。
「便利な数字だよ、本当に」
アテルラネは招待状を指で回した。
傀儡から届いたものだ。
今日もまた、名前はない。
ただ――。
『十五時。遅刻厳禁』
それだけ。
「もう少し愛想よく書けないものかな」
時刻を見る。
十四時四十八分。
「……あ」
急いだ――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
十五時ちょうど。
扉が開いた。
「遅いわ」
開口一番だった。
「時間ぴったりだよ」
「私が待った時点で遅刻よ」
「君の時計が早いんじゃない?」
「あなたのを直しましょうか?」
「いや結構」
長い卓。
白いクロス。
整然と並べられた茶器。
精巧な機械人形が、静かに茶を注いでいる。
そう呼ぶのは彼女には失礼か。
その奥に『傀儡』がいた。
サンドローネ。
彼女はアテルラネの姿を見ると、ほんの一瞬だけ視線を上下させた。
「今日は黒なのね」
「似合わない?」
「悪くないわ」
「それは光栄」
「ただし右肩の縫製が甘い」
「座る前にそれ?」
「事実よ」
左側から笑い声がした。
「ふふ」
『少女』コロンビーナ。
彼女は頬杖をつきながら、楽しそうにこちらを見ている。
「今日は口が赤いね」
「お気に召した?」
「前の方が好き」
「前回は薄い桃色だったかな」
「うん」
「覚えているんだ」
「アテルラネのことは、よく覚えてるよ」
何でもないことのように言う。
アテルラネは一瞬だけ黙った。
「……それは光栄だ」
『淑女』が鼻で笑った。
「この程度で喜ぶなんて、随分安い男ね」
「男に見える?」
「見えるわよ」
シニョーラは紅茶を口へ運びながら言った。
「ドレスを着た程度で性別まで分からなくなるほど、私の目は節穴じゃないわ」
「傷つくなあ」
「褒めているのよ」
「どのあたりが?」
「女になって誤魔化さなかったところ」
アテルラネは笑った。
「さすが淑女殿」
「その呼び方、やめなさい」
「じゃあロザリン?」
「もっと駄目よ」
「難しいな」
アルレッキーノは何も言わなかった。
ただ見ている。
その視線に気づき、アテルラネが首を傾げる。
「何?」
「いや」
「見惚れた?」
「その顔だったから安心しただけだ」
アテルラネの笑みが、僅かに止まった。
他の三人は何も言わない。
アルレッキーノは続けた。
「今日は誰かの顔を借りて来るのかと思っていた」
「茶会でそんな無粋なことはしないよ」
「その顔も本物ではないだろう」
「……」
「違うのか?」
数秒。
アテルラネは椅子を引いた。
「違うよ」
平然と答えた。
そして座る。
「本物じゃない」
「なら、何故その顔を使う?」
アルレッキーノの問いに、アテルラネはティーカップを取った。
「茶会だからさ」
「答えになっていない」
「私にとってはなっている」
そこで会話を切った。
サンドローネが紅茶を注ぐ。
香りを嗅ぐ――悪くない。
「それより」
シニョーラが言った。
「前から気になっていたのだけれど」
「嫌な予感がする」
「零席」
アテルラネの手が止まる。
「何?」
「結局、どういう意味なの?」
「今さら?」
「聞いたことがなかったもの」
「そうだっけ?」
「お前が毎回はぐらかしているだけだ」
アルレッキーノが補足した。
「そうだったかな」
「そうよ」
サンドローネまで頷く。
コロンビーナだけが楽しそうに笑ってから言った。
「零って、一より強いの?」
「ほら」
アルレッキーノが続く。
アテルラネは額を押さえた。
「これだよ……」
「違うの?」
「違う」
「じゃあ弱い?」
「それも違う」
「じゃあ戦ってみたい」
あまりにも自然に言われた。
アテルラネはコロンビーナを見る。
彼女は笑っている。
いつもの笑顔。
「嫌だよ」
即答。
「どうして?」
「怖いから」
シニョーラが眉を上げる。
サンドローネも顔を上げた。
アルレッキーノだけは、少し口元を緩めた。
コロンビーナが首を傾げる。
「私が?」
「もちろん」
「怖い?」
「怖いよ」
「ふふ」
嬉しそうだった。
「女狐ともあろう者が、随分あっさり認めるのね」
シニョーラが言う。
アテルラネは肩をすくめた。
「恐怖を恥だと思うのは、死ぬのが早い人間だけさ」
「では戦闘力は大したことないと?」
「さあ」
「逃げるの?」
「必要なら」
「執行官なのに?」
アテルラネは紅茶を一口飲んだ。
「執行官だからだよ」
カップを置く。
「勝つために戦う必要があるなら戦う。戦わず勝てるなら、わざわざ剣を抜く理由がない」
「気に入らない考え方ね」
「君はそうだろうね」
零席……の名が、最強を意味するものではない。
アテルラネ自身、それを誇ったこともない。
戦えば強い。
少なくとも、並大抵では相手にならない。
執行官に選ばれるだけの力は持っている。
だが――真正面からの戦闘だけなら、自分より優れた者がいる。
そんなことは知っている。
そして……アテルラネ自身は何の問題もないと思っている。
「零というのはね」
アテルラネは指を一本立てた。
「一より上という意味じゃない」
「じゃあ?」
コロンビーナが聞く。
「数えられていないという意味だよ」
四人の視線が集まる。
「十一人の執行官は、十一人で完成している。そこへ私を入れれば十二人になるだろう?」
「当たり前ね」
「だから入れなかった」
「……それだけ?」
サンドローネが呆れた顔をする。
「それだけ」
「馬鹿みたい」
「私もそう思う」
「それで零なの?」
「ああ」
アルレッキーノが腕を組んでいう。
「だが権限は執行官相当」
「そう」
「序列外」
「そう」
「統括官の命令を拒否できる」
「できる」
「我々の命令も」
「もちろん」
シニョーラが目を細めた。
「女皇陛下の命令も?」
一瞬――アテルラネの目から笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。
「……形式上はね」
「形式上?」
シニョーラが問う。
「陛下は私に命令しない」
「何故?」
アルレッキーノが問う。
「知らない」
「嘘ね」
サンドローネが指摘する。
「本当さ」
「なら、何と言われるの?」
コロンビーナが首を傾げる。
アテルラネは少し考えた。
「頼まれる」
「それで?」
アルレッキーノが続きを促す。
この手のことを短くまとめ、続きを切るのがアテルラネの常套手段だった。
「内容を聞く」
「それから?」
「気が向けば受ける」
シニョーラの眉間に皺が寄った。
「陛下に対して?」
「うん」
「不敬ね」
「知ってる」
「処刑されないのが不思議だわ」
サンドローネが言った。
「私も時々そう思う」
「でも断ったこと、あまりないよね?」
コロンビーナが言った。
アテルラネがそちらを見る。
「……よく見てるね」
「うん」
「怖いなあ」
「女皇陛下が好き?」
「その聞き方はもっと怖い」
小さな笑いが起きる。
アルレッキーノだけは笑わない。
「忠誠ではないのか」
「どうだろう」
「答えろ」
「茶会で尋問?」
「お前が普段、人を尋問しているだろう」
「私はもっと優しいよ」
「嘘ね」
サンドローネ。
「嘘だわ」
シニョーラ。
コロンビーナは笑っているだけ。
アテルラネは四対一になったことを確認して、諦めたように息を吐いた。
「忠誠なんて大層なものじゃないさ」
少しだけ視線を落とす。
翠色の神の目が、胸元で微かに揺れていた。
「拾ってもらった恩がある」
それ以上は言わない。
拾われる以前。
――どこで。
――どんな姿で。
――何をしていたのか。
誰も知らない。
知っている者がいるのかもしれない。
だが……少なくとも、この席でアテルラネ本人が語ったことはない。
シニョーラが神の目を見る。
「そういえば」
「今度は何?」
「それ」
「これ?」
神の目を摘まむ。
「風なのよね」
「ああ」
「似合っているような、似合っていないような」
「どういう意味?」
「自由を象徴する元素を、女皇陛下の暗殺者が持っている」
「私は暗殺者だけじゃないよ」
「謀略家」
「悪化した」
「詐欺師」
「もっと悪い」
「変質者」
サンドローネが言った。
アテルラネが振り向く。
「それはどの意味?」
「身体構造」
「ああ。それなら否定しづらいな」
コロンビーナが神の目へ顔を近づける。
「どうして風なの?」
「知らない」
「本当に?」
「神の目を配っている奴に聞いてくれ」
「貰った時、何してたの?」
アテルラネは答えようとして……止まった。
しばらく――。
ティーカップの水面を眺めた。
「……何者にもなれなかった」
四人が静かになる。
「名前があっても、それが自分のものだという気がしなくて。顔があっても、それが自分の顔だと思えなくて」
淡々としている。
いつもの調子だ。
「だったら」
アテルラネは笑った。
「誰かに決めてもらう必要もないかな、と思った」
「それだけ?」
「それだけ」
「その翌日に?」
「神の目があった」
コロンビーナが嬉しそうに言う。
「自由になりたかったんだね」
「そういう詩的な解釈は嫌いだな」
「でも風だよ?」
「元素に性格診断をされても困る」
シニョーラが鼻で笑った。
「随分と風らしい答えじゃない」
「君まで?」
「諦めなさい」
サンドローネが淡々と言った。
アテルラネは天井を見た。
「今日は分が悪い」
そう言いながら。
少しだけ笑っていた――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
お茶会は続いた。
傀儡は新しく作った機構の話をした。
淑女はモンドの酒を酷評した。
少女は途中で歌い始めた。
召使は何度かこちらを見ていた。
誰も……アテルラネがどこから来たのかを聞かなかった。
あるいは……聞かないことにしているだけなのかもしれない。
今はそれでいい。
何故なら彼自身……まだ答えを持っていないのだから――。
「ねえ」
コロンビーナが突然言った。
「何?」
「今度、本当に戦ってみようよ」
「嫌だ」
「一回だけ」
「嫌だよ」
「少しくらい」
「君の少しは信用できない」
「じゃあ指一本」
「もっと信用できない」
シニョーラが呆れたように言う。
「情けない零席ね」
「命を大切にしていると言ってほしいな」
「執行官が言う台詞ではないわ」
「執行官だって死ぬよ」
一瞬――何故か空気が止まった。
アテルラネはそれに気づかなかったふりをした。
「それに」
紅茶を飲む。
「私と戦いたいなら、まず私を捕まえてからにしてくれ。
コロンビーナが微笑む。
「捕まえたら?」
「逃げる」
「捕まえたのに?」
「もう一度」
「また捕まえたら?」
「別の顔になる」
「それでも分かったら?」
アテルラネが笑う。
「……その時は考えるよ」
アルレッキーノが静かに言った。
「私は分かるがな」
アテルラネの手が止まった。
「何が?」
「お前が顔を変えても」
「へえ」
「分かる」
「随分な自信だ」
「事実だ」
アテルラネはしばらく彼女を見た。
それから……にっこりと笑った。
「なら今度試してみようか」
「構わない」
「後悔するよ」
「どちらが?」
「さあね」
二人の間に、少しだけ妙な空気が流れる。
シニョーラがため息をついた。
「始めるなら外でやりなさい」
「戦わないよ」
「お前たちの場合、別の意味で面倒なのよ」
「心外だなあ」
「自覚しなさい」
サンドローネが卓を指で叩く。
「それより」
「何?」
「その顔」
アテルラネを見る。
「次も同じ?」
質問の意味を理解するまで、一秒かかった。
アテルラネは自分の頬へ触れる。
「……ああ」
「服は?」
「変える」
「化粧は?」
「もちろん」
「髪も?」
「そのつもり」
「でも顔だけ同じ」
「そうだね」
サンドローネは何か考えるようにアテルラネを見た。
「変ね」
「知ってる」
「普段は同じ顔を使わないのに」
「よく知ってるね」
「前に調べたもの」
「私を?」
「身体を」
「やっぱり変質者は君の方じゃない?」
「黙りなさい」
コロンビーナが笑う。
シニョーラは紅茶を飲む。
アルレッキーノだけが、またアテルラネの顔を見ていた。
「本当の顔ではない」
「そうだよ」
「だが毎回その顔で来る」
「ああ」
「何故だ?」
先ほどと同じ質問だった。
今度は――少しだけ違う答えを返した。
アテルラネは自分の顔に触れた。
――本物ではない。
――記憶にもない。
――誰にも似せていない。
自分で選んだだけの顔。
「本当の顔を見せられない人間にも」
少し笑う。
「礼儀くらいはあるのさ」
誰も何も言わなかった。
アテルラネは続ける。
「少なくとも、君たちの前でまで別人になる必要はないだろう?」
シニョーラの眉が僅かに動いた。
サンドローネは視線を逸らした。
コロンビーナは嬉しそうに笑った。
アルレッキーノは何も言わなかった。
それがよかった。
アテルラネはティーカップを持ち上げる。
千の顔を持つ。
名も。
性別も。
声も。
必要なら、昨日までの人生さえ変えられる。
執行官第零位・女狐。
それでも……この席に座る時だけは――。
毎回違うドレスを着て。
毎回違う化粧をして。
毎回違う髪を飾りながら。
同じ男の顔で笑う。
本物ではない。
けれど――。
今のアテルラネが持っている中では。
それが最も。
素顔に近かった。
「さて」
アテルラネは笑った。
「今日は誰の悪口から始める?」
「あなた」
「あんた」
「君だ」
「君だね」
四人の声が。
ほとんど同時に重なった。
「……帰っていい?」
「「「「駄目」」」」
今度は本当に。
五人とも笑った――。