千貌の残星   作:無貌

3 / 3
アテルラネのボイスは思いついたときにのみ、追加します。


EP2:お茶会(女狐編)

EP2:お茶会(女狐編)

 

 

任務のために顔を変えることと、お茶会のために化粧をすることは、アテルラネにとってはまったく別の行為だった。

その違いを理解している者は、そう多くない。

 

「……これは、もう要らないな」

 

鏡の前で呟き、アテルラネは頬へ指を添えた。

そこに映っているのは、四十代半ばほどの男だった。

やや日に焼けた皮膚に太い鼻梁。

右眉の上には古傷。

酒焼けしたような声色。

北方の港湾都市で荷運びをしている男――という設定だった。

名前もある。

妻もいる。

二人の子供もいる。

十七年前に腰を悪くし、以来、冬になると右脚を引きずる。

好物は燻製肉で、酒は安いものしか飲まない。

賭け事は好きだが、決して大勝負には出ない。

もちろん……そんな男は、この世のどこにも存在しない。

アテルラネが作ったのだ。

三週間前に。

そして昨日、その男は役目を終えた――。

 

港の倉庫から、ある外交官の屋敷へ。

屋敷から、ある官僚の愛人へ。

愛人から、その兄へ。

兄から、とある反政府組織へ。

そこまで糸を辿れば十分だった。

最後の一人は今朝、雪原の中で死んだ。

事故ということになるだろう。

崖から転落した。

少なくとも、明日の新聞にはそう書かれる。

 

「三週間か」

 

アテルラネは顎を撫でた。

 

「悪くない顔だったんだけど」

 

惜しむほどではない。

指先に淡い風が絡んだ。

皮膚の下で何かが動く。

骨が僅かに軋み。

筋肉が縮み。

鼻梁が細くなる。

頬骨が変わる。

傷跡が消える。

首が少し細くなる。

肩幅が変わる。

それでも、性別は変わらない。

男のまま――。

 

数十秒後。

鏡の中には、先ほどまでとはまるで違う青年が座っていた。

いや……青年、と断じてしまうには少々曖昧だった。

柔らかく整った輪郭。

長い睫毛。

薄い唇。

少年のようにも見えるし、年若い貴婦人のようにも見える。

それでも骨格は確かに男性のものだった。

美しい男――それ以上でも、それ以下でもない。

アテルラネは鏡を見た――。

 

しばらく……何も言わない。

この顔を何年使っているのか、自分でもよく覚えていなかった。

十年か。

十二年か。

あるいはもっと短いかもしれない。

少なくとも、普段の任務では使わない。

同じ顔を二度使うことさえ避ける男が、この顔だけは捨てなかった。

理由は簡単だった。

これは誰かになるための顔ではないからだ。

本当の顔でもない。

本当の自分がどんな顔だったのか。

それをアテルラネは知らない。

覚えていない。

だから、この顔は自分で作った。

何者かを騙すためでも。

誰かに成り代わるためでもない。

ただ――自分が鏡を見たときに、これなら……自分だと思っても構わない。

そう、思える顔を作った。

最初はそれだけだった。

だが、今ではもう少し意味が違う。

この顔を知っている者がいる。

今日会う四人だ。

だから……茶会の日だけは、この顔に戻る。

 

「さて」

 

アテルラネは立ち上がった。

机の上に何着もの衣装が並んでいる。

深い青。

黒。

白。

薄紫。

フォンテーヌ風のものもあれば、古いスネージナヤ貴族が好む意匠のものもある。

今日選んだのは、黒を基調とした長いドレスだった。

胸元は高く閉じている。

腰を細く見せるよう仕立てられているが、女性の体型へ近づけるための細工はしていない。

当然だ――。

 

今日は……女になるつもりなどない。

男の身体にドレスを着る。

それだけである。

鏡台に座り直す。

薄く白粉を乗せる。

目元には僅かに銀。

口紅は暗い赤。

今日は少し強い。

 

「……うん」

 

悪くない。

髪は肩甲骨あたりまで伸ばす。

能力で伸ばすこともできるが、今日はそれを使わず、用意してあった髪を整える。

片側だけを銀細工の髪留めで留め、最後に耳飾りをつけた。

左右で違うものを選んで、しばらく考える。

やめた。

同じものに戻す。

 

「少しやりすぎだな」

 

独り言が多い。

任務中はほとんど喋らないというのに、自分一人になるとアテルラネはよく喋った。

椅子の背に掛けてあった黒い外套を取ろうとして――やめる。

 

その前に鏡台の隅に置いてあったものへ手を伸ばした。

――神の目。

――風。

淡い翠色の光が、掌の中で静かに揺れた。

 

「……君も連れていこうか」

 

誰に言うでもなく呟く。

神の目は答えない。

当然である。

それでもアテルラネは時々、これを人間のように扱った。

いつ手に入れたのか。

それは覚えている。

何故手に入れたのか、それは分からない。

神の目を得る前のことは、ところどころ霧がかかっている。

――自分の名前。

――自分の顔。

――自分の故郷。

――自分が何者だったのか。

そこには、巨大な穴が空いている。

ただ一つ覚えているのは――。

ある時、自分が誰かに尋ねられたことだった。

――お前は何者だ。

その時……答えられなかった。

――名前はあった。

だが、それが本当に自分の名前なのか分からなかった。

――姿はあった。

だが、それが本当に自分の姿なのか分からなかった。

――過去もない。

――帰る場所もない。

ならば……自分を決めるものが何一つないのなら……好きに決めればいい。

そう、思った。

――誰かの名前でもなく。

――誰かの命令でもなく。

――誰かが望んだ姿でもなく。

自分が進む方向くらい、自分で決めてしまえばいい――。

 

その翌朝。

枕元に風の神の目があった。

 

「自由、ねえ……」

 

アテルラネは神の目を眺めた。

 

「随分と趣味の悪い冗談だ」

 

そう言いながら……捨てたことは一度もない。

 

執行官第零位。

女狐・アテルラネ。

その名前だけを聞けば、多くの者は勘違いする。

第一位より上。

十一人の執行官を超える、最強の存在。

秘密裏に置かれた女皇直属の最高幹部。

どれも違う――。

 

正確には……半分ほどしか合っていない。

零は、一より前にある数字ではない。

アテルラネに与えられた零……とは――数えないための数字だった。

十一人の執行官。

第一位から第十一位。

その十一人の中に、アテルラネはいない。

しかし執行官である。

権限を持つ。

執行官として会議へ出席することもある。

国家機密へ触れることもできる。

ファデュイの施設へ立ち入ることも許されている。

必要なら軍を一時的に動かすことすらできる。

だが――。

 

常設の軍団を持たない。

領地もない。

直属の大組織もない。

他の執行官へ常時命令する権限もない。

そして――他の執行官から命令される義務もない。

統括官からの命令でさえ、拒むことができる。

女皇からでさえ、命令不服従が適用される。

少なくとも形式上は。

もっとも……女皇はアテルラネへ命令したことがほとんどなかった。

――一つ、お願いがある、と頼むのだ。

そう言われれば、アテルラネは大抵――聞いてから決めるよ、と答える。

そして――大抵は引き受ける。

だから一部では忠犬とも呼ばれていた。

本人が聞けば非常に嫌な顔をするだろう。

女狐なのに犬扱いされてはたまらない。

彼の仕事は、執行官がするには表向きすぎる仕事だけではない。

軍を率いることでも。

外交をすることでも。

研究所を管理することでもない。

むしろ逆だ――。

ファデュイが関わったと知られてはならない仕事。

一人の人間を殺す。

一つの国家へ偽りの情報を流す。

反乱の種を撒く。

その反乱を潰す。

敵国の将軍へ成り代わる。

味方の裏切り者を見つける。

味方の裏切りを、裏切りそのものが存在しなかったことにする。

証拠を消す。

人を消す。

時には……国一つから、ファデュイの痕跡だけを消す。

そういう仕事だった――。

 

アテルラネはそれを好んでいるわけではない。

嫌っているわけでもない。

必要ならする。

気に入らなければしない。

その程度だった。

だからこそ扱いにくい。

だからこそ零だった。

誰の下にも置けない。

誰の上にも置く必要がない。

数えなければいい。

氷の女皇はそうした。

 

「便利な数字だよ、本当に」

 

アテルラネは招待状を指で回した。

傀儡から届いたものだ。

今日もまた、名前はない。

ただ――。

 

『十五時。遅刻厳禁』

 

それだけ。

 

「もう少し愛想よく書けないものかな」

 

時刻を見る。

十四時四十八分。

 

「……あ」

 

急いだ――。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

十五時ちょうど。

扉が開いた。

 

「遅いわ」

 

開口一番だった。

 

「時間ぴったりだよ」

「私が待った時点で遅刻よ」

「君の時計が早いんじゃない?」

「あなたのを直しましょうか?」

「いや結構」

 

長い卓。

白いクロス。

整然と並べられた茶器。

精巧な機械人形が、静かに茶を注いでいる。

そう呼ぶのは彼女には失礼か。

その奥に『傀儡』がいた。

サンドローネ。

 

彼女はアテルラネの姿を見ると、ほんの一瞬だけ視線を上下させた。

 

「今日は黒なのね」

「似合わない?」

「悪くないわ」

「それは光栄」

「ただし右肩の縫製が甘い」

「座る前にそれ?」

「事実よ」

 

左側から笑い声がした。

 

「ふふ」

 

『少女』コロンビーナ。

 

彼女は頬杖をつきながら、楽しそうにこちらを見ている。

 

「今日は口が赤いね」

「お気に召した?」

「前の方が好き」

「前回は薄い桃色だったかな」

「うん」

「覚えているんだ」

「アテルラネのことは、よく覚えてるよ」

 

何でもないことのように言う。

アテルラネは一瞬だけ黙った。

 

「……それは光栄だ」

 

『淑女』が鼻で笑った。

 

「この程度で喜ぶなんて、随分安い男ね」

「男に見える?」

「見えるわよ」

 

シニョーラは紅茶を口へ運びながら言った。

 

「ドレスを着た程度で性別まで分からなくなるほど、私の目は節穴じゃないわ」

「傷つくなあ」

「褒めているのよ」

「どのあたりが?」

「女になって誤魔化さなかったところ」

 

アテルラネは笑った。

 

「さすが淑女殿」

「その呼び方、やめなさい」

「じゃあロザリン?」

「もっと駄目よ」

「難しいな」

 

アルレッキーノは何も言わなかった。

ただ見ている。

その視線に気づき、アテルラネが首を傾げる。

 

「何?」

「いや」

「見惚れた?」

「その顔だったから安心しただけだ」

 

アテルラネの笑みが、僅かに止まった。

他の三人は何も言わない。

アルレッキーノは続けた。

 

「今日は誰かの顔を借りて来るのかと思っていた」

「茶会でそんな無粋なことはしないよ」

「その顔も本物ではないだろう」

「……」

「違うのか?」

 

数秒。

アテルラネは椅子を引いた。

 

「違うよ」

 

平然と答えた。

そして座る。

 

「本物じゃない」

「なら、何故その顔を使う?」

 

アルレッキーノの問いに、アテルラネはティーカップを取った。

 

「茶会だからさ」

「答えになっていない」

「私にとってはなっている」

 

そこで会話を切った。

 

サンドローネが紅茶を注ぐ。

香りを嗅ぐ――悪くない。

 

「それより」

 

シニョーラが言った。

 

「前から気になっていたのだけれど」

「嫌な予感がする」

「零席」

 

アテルラネの手が止まる。

 

「何?」

「結局、どういう意味なの?」

「今さら?」

「聞いたことがなかったもの」

「そうだっけ?」

「お前が毎回はぐらかしているだけだ」

 

アルレッキーノが補足した。

 

「そうだったかな」

「そうよ」

 

サンドローネまで頷く。

コロンビーナだけが楽しそうに笑ってから言った。

 

「零って、一より強いの?」

「ほら」

 

アルレッキーノが続く。

アテルラネは額を押さえた。

 

「これだよ……」

「違うの?」

「違う」

「じゃあ弱い?」

「それも違う」

「じゃあ戦ってみたい」

 

あまりにも自然に言われた。

アテルラネはコロンビーナを見る。

彼女は笑っている。

いつもの笑顔。

 

「嫌だよ」

 

即答。

 

「どうして?」

「怖いから」

 

シニョーラが眉を上げる。

サンドローネも顔を上げた。

アルレッキーノだけは、少し口元を緩めた。

コロンビーナが首を傾げる。

 

「私が?」

「もちろん」

「怖い?」

「怖いよ」

「ふふ」

 

嬉しそうだった。

 

「女狐ともあろう者が、随分あっさり認めるのね」

 

シニョーラが言う。

アテルラネは肩をすくめた。

 

「恐怖を恥だと思うのは、死ぬのが早い人間だけさ」

「では戦闘力は大したことないと?」

「さあ」

「逃げるの?」

「必要なら」

「執行官なのに?」

 

アテルラネは紅茶を一口飲んだ。

 

「執行官だからだよ」

 

カップを置く。

 

「勝つために戦う必要があるなら戦う。戦わず勝てるなら、わざわざ剣を抜く理由がない」

「気に入らない考え方ね」

「君はそうだろうね」

 

零席……の名が、最強を意味するものではない。

アテルラネ自身、それを誇ったこともない。

戦えば強い。

少なくとも、並大抵では相手にならない。

執行官に選ばれるだけの力は持っている。

だが――真正面からの戦闘だけなら、自分より優れた者がいる。

そんなことは知っている。

そして……アテルラネ自身は何の問題もないと思っている。

 

「零というのはね」

 

アテルラネは指を一本立てた。

 

「一より上という意味じゃない」

「じゃあ?」

 

コロンビーナが聞く。

 

「数えられていないという意味だよ」

 

四人の視線が集まる。

 

「十一人の執行官は、十一人で完成している。そこへ私を入れれば十二人になるだろう?」

「当たり前ね」

「だから入れなかった」

「……それだけ?」

 

サンドローネが呆れた顔をする。

 

「それだけ」

「馬鹿みたい」

「私もそう思う」

「それで零なの?」

「ああ」

 

アルレッキーノが腕を組んでいう。

 

「だが権限は執行官相当」

「そう」

「序列外」

「そう」

「統括官の命令を拒否できる」

「できる」

「我々の命令も」

「もちろん」

 

シニョーラが目を細めた。

 

「女皇陛下の命令も?」

 

一瞬――アテルラネの目から笑みが消えた。

ほんの一瞬だった。

 

「……形式上はね」

「形式上?」

 

シニョーラが問う。

 

「陛下は私に命令しない」

「何故?」

 

アルレッキーノが問う。

 

「知らない」

「嘘ね」

 

サンドローネが指摘する。

 

「本当さ」

「なら、何と言われるの?」

 

コロンビーナが首を傾げる。

アテルラネは少し考えた。

 

「頼まれる」

「それで?」

 

アルレッキーノが続きを促す。

この手のことを短くまとめ、続きを切るのがアテルラネの常套手段だった。

 

「内容を聞く」

「それから?」

「気が向けば受ける」

 

シニョーラの眉間に皺が寄った。

 

「陛下に対して?」

「うん」

「不敬ね」

「知ってる」

「処刑されないのが不思議だわ」

 

サンドローネが言った。

 

「私も時々そう思う」

「でも断ったこと、あまりないよね?」

 

コロンビーナが言った。

アテルラネがそちらを見る。

 

「……よく見てるね」

「うん」

「怖いなあ」

「女皇陛下が好き?」

「その聞き方はもっと怖い」

小さな笑いが起きる。

 

アルレッキーノだけは笑わない。

 

「忠誠ではないのか」

「どうだろう」

「答えろ」

「茶会で尋問?」

「お前が普段、人を尋問しているだろう」

「私はもっと優しいよ」

「嘘ね」

 

サンドローネ。

 

「嘘だわ」

 

シニョーラ。

コロンビーナは笑っているだけ。

アテルラネは四対一になったことを確認して、諦めたように息を吐いた。

 

「忠誠なんて大層なものじゃないさ」

 

少しだけ視線を落とす。

翠色の神の目が、胸元で微かに揺れていた。

 

「拾ってもらった恩がある」

 

それ以上は言わない。

拾われる以前。

――どこで。

――どんな姿で。

――何をしていたのか。

誰も知らない。

知っている者がいるのかもしれない。

だが……少なくとも、この席でアテルラネ本人が語ったことはない。

シニョーラが神の目を見る。

 

「そういえば」

「今度は何?」

「それ」

「これ?」

 

神の目を摘まむ。

 

「風なのよね」

「ああ」

「似合っているような、似合っていないような」

「どういう意味?」

「自由を象徴する元素を、女皇陛下の暗殺者が持っている」

「私は暗殺者だけじゃないよ」

「謀略家」

「悪化した」

「詐欺師」

「もっと悪い」

「変質者」

 

サンドローネが言った。

アテルラネが振り向く。

 

「それはどの意味?」

「身体構造」

「ああ。それなら否定しづらいな」

 

コロンビーナが神の目へ顔を近づける。

 

「どうして風なの?」

「知らない」

「本当に?」

「神の目を配っている奴に聞いてくれ」

「貰った時、何してたの?」

 

アテルラネは答えようとして……止まった。

しばらく――。

ティーカップの水面を眺めた。

 

「……何者にもなれなかった」

 

四人が静かになる。

 

「名前があっても、それが自分のものだという気がしなくて。顔があっても、それが自分の顔だと思えなくて」

 

淡々としている。

いつもの調子だ。

 

「だったら」

 

アテルラネは笑った。

 

「誰かに決めてもらう必要もないかな、と思った」

「それだけ?」

「それだけ」

「その翌日に?」

「神の目があった」

 

コロンビーナが嬉しそうに言う。

 

「自由になりたかったんだね」

「そういう詩的な解釈は嫌いだな」

「でも風だよ?」

「元素に性格診断をされても困る」

 

シニョーラが鼻で笑った。

 

「随分と風らしい答えじゃない」

「君まで?」

「諦めなさい」

 

サンドローネが淡々と言った。

アテルラネは天井を見た。

 

「今日は分が悪い」

 

そう言いながら。

少しだけ笑っていた――。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

お茶会は続いた。

傀儡は新しく作った機構の話をした。

淑女はモンドの酒を酷評した。

少女は途中で歌い始めた。

召使は何度かこちらを見ていた。

誰も……アテルラネがどこから来たのかを聞かなかった。

あるいは……聞かないことにしているだけなのかもしれない。

今はそれでいい。

何故なら彼自身……まだ答えを持っていないのだから――。

 

「ねえ」

 

コロンビーナが突然言った。

 

「何?」

「今度、本当に戦ってみようよ」

「嫌だ」

「一回だけ」

「嫌だよ」

「少しくらい」

「君の少しは信用できない」

「じゃあ指一本」

「もっと信用できない」

 

シニョーラが呆れたように言う。

 

「情けない零席ね」

「命を大切にしていると言ってほしいな」

「執行官が言う台詞ではないわ」

「執行官だって死ぬよ」

 

一瞬――何故か空気が止まった。

アテルラネはそれに気づかなかったふりをした。

 

「それに」

 

紅茶を飲む。

 

「私と戦いたいなら、まず私を捕まえてからにしてくれ。

 

コロンビーナが微笑む。

 

「捕まえたら?」

「逃げる」

「捕まえたのに?」

「もう一度」

「また捕まえたら?」

「別の顔になる」

「それでも分かったら?」

 

アテルラネが笑う。

 

「……その時は考えるよ」

 

アルレッキーノが静かに言った。

 

「私は分かるがな」

 

アテルラネの手が止まった。

 

「何が?」

「お前が顔を変えても」

「へえ」

「分かる」

「随分な自信だ」

「事実だ」

 

アテルラネはしばらく彼女を見た。

それから……にっこりと笑った。

 

「なら今度試してみようか」

「構わない」

「後悔するよ」

「どちらが?」

「さあね」

 

二人の間に、少しだけ妙な空気が流れる。

シニョーラがため息をついた。

 

「始めるなら外でやりなさい」

「戦わないよ」

「お前たちの場合、別の意味で面倒なのよ」

「心外だなあ」

「自覚しなさい」

 

サンドローネが卓を指で叩く。

 

「それより」

「何?」

「その顔」

 

アテルラネを見る。

 

「次も同じ?」

 

質問の意味を理解するまで、一秒かかった。

アテルラネは自分の頬へ触れる。

「……ああ」

「服は?」

「変える」

「化粧は?」

「もちろん」

「髪も?」

「そのつもり」

「でも顔だけ同じ」

「そうだね」

 

サンドローネは何か考えるようにアテルラネを見た。

 

「変ね」

「知ってる」

「普段は同じ顔を使わないのに」

「よく知ってるね」

「前に調べたもの」

「私を?」

「身体を」

「やっぱり変質者は君の方じゃない?」

「黙りなさい」

 

コロンビーナが笑う。

シニョーラは紅茶を飲む。

アルレッキーノだけが、またアテルラネの顔を見ていた。

 

「本当の顔ではない」

「そうだよ」

「だが毎回その顔で来る」

「ああ」

「何故だ?」

 

先ほどと同じ質問だった。

今度は――少しだけ違う答えを返した。

アテルラネは自分の顔に触れた。

――本物ではない。

――記憶にもない。

――誰にも似せていない。

自分で選んだだけの顔。

 

「本当の顔を見せられない人間にも」

 

少し笑う。

 

「礼儀くらいはあるのさ」

 

誰も何も言わなかった。

アテルラネは続ける。

 

「少なくとも、君たちの前でまで別人になる必要はないだろう?」

 

シニョーラの眉が僅かに動いた。

サンドローネは視線を逸らした。

コロンビーナは嬉しそうに笑った。

アルレッキーノは何も言わなかった。

それがよかった。

アテルラネはティーカップを持ち上げる。

千の顔を持つ。

名も。

性別も。

声も。

必要なら、昨日までの人生さえ変えられる。

執行官第零位・女狐。

それでも……この席に座る時だけは――。

毎回違うドレスを着て。

毎回違う化粧をして。

毎回違う髪を飾りながら。

同じ男の顔で笑う。

本物ではない。

けれど――。

今のアテルラネが持っている中では。

それが最も。

素顔に近かった。

 

「さて」

 

アテルラネは笑った。

 

「今日は誰の悪口から始める?」

「あなた」

「あんた」

「君だ」

「君だね」

 

四人の声が。

ほとんど同時に重なった。

 

「……帰っていい?」

「「「「駄目」」」」

 

今度は本当に。

五人とも笑った――。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

そして、あなたと____(作者:うらみ草)(原作:ブルーアーカイブ)

PSO2NGSをプレイ後、就寝した”あなた”は気が付くと学園都市キヴォトスに自キャラ転移をしていた。しかし、ブルーアーカイブ未履修の”あなた”はどうやら盛大な勘違いをしているようで…?▼これは、盛大な勘違いと自キャラロールプレイを楽しむがあまりに周りにも勘違いを振りまく、青春の物語。


総合評価:13/評価:-.--/連載:2話/更新日時:2026年08月19日(水) 07:47 小説情報

雪国の聖女ちゃんは頑張る!(作者:えり〜ぜ)(原作:原神)

▼執行官女子会に脳を焼かれたので。▼執行官が執行官する話です。▼気分でかきます。▼pixivにも投稿してます▼*ストーリーのネタバレも含みます。▼


総合評価:652/評価:8.76/連載:13話/更新日時:2026年07月12日(日) 00:00 小説情報

一般ファデュイはただ帰りたかっただけ。(作者:モラがない)(原作:原神)

もしも私が私ではなかったなら。平凡という名の幸福を喪失する痛みにさえ、人生における代償として受け入れられたのだろうか。


総合評価:298/評価:8.38/連載:6話/更新日時:2026年07月17日(金) 00:28 小説情報

S級ヒーロー 七曜のパチュリー(作者:とんこつラーメン)(原作:ワンパンマン)

これまたよくある二番煎じな作品ですが、今回のは完全な自己満足作品になっているので、そこまで過度な期待はしないでください。▼タグにもあるように、オリ主は原作の知識は持っていない上に、パチュリーと言うキャラの事もよく把握していませんので、見た目だけと思っていてください。▼東方原作に出てきたスペルカードなどは一切登場しませんので、そこの所はご了承ください。▼完全に…


総合評価:11133/評価:7.98/連載:81話/更新日時:2026年08月18日(火) 20:52 小説情報

詠う小鳥は夜の魔王に出会う(作者:リョウ77)(原作:転生したらスライムだった件)

小鳥に転生した私が出会ったのは、月が似合う女神様でした。▼小鳥に転生した女オリ主が趣味に生きつつルミナスと百合百合するお話です。▼時系列は原作本編から3000年くらい前です。▼なお作者は転スラはアニメ・漫画勢なので、どこかしら齟齬があった場合は指摘していただけると助かります。


総合評価:1427/評価:8.76/連載:21話/更新日時:2026年08月18日(火) 00:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>