千貌の残星 作:無貌
EP3:お茶会(淑女編)
「そういえば……」
お茶会が始まってから、どれほど経った頃だったか。
三杯目の紅茶に砂糖を落としながら、少女ことコロンビーナが唐突に口を開いた。
「アテルラネとロザリンって、いつから仲良しなの?」
銀の匙が、カチン……と。
妙に大きな音を立てた。
「……誰と誰が?」
シニョーラが笑顔のまま聞き返す。
「ロザリンとアテルラネ」
「聞こえていたわ」
「じゃあ、どうして聞いたの?」
「あなたが言葉の意味を理解しているか確認しただけよ」
「仲良しじゃないの?」
「違うわ」
即答だった。
その向かい側でアテルラネが紅茶を飲んでいた。
今日は黒いドレス。
昨日までの姿とは違う化粧。
しかし顔だけは、いつもの中性的な男のものだった。
彼は何も言わない……ただ楽しそうにカップの縁へ口をつけている。
「否定しないのか?」
アルレッキーノが聞く。
「だって私に聞かれてないもの」
「なら私から聞くわ」
今度はサンドローネ。
「仲良しなの?」
アテルラネは考えた。
シニョーラを見る。
シニョーラもアテルラネを見る。
数秒。
「まあ――」
「違うわよ」
「まだ何も言ってないよ?」
「どうせ余計なことを言うでしょう」
「随分な信用だ」
「長い付き合いですもの」
そう言ってから、シニョーラが止まった。
少女が笑った。
「やっぱり仲良し」
「違うと言っているでしょう?」
「今、長い付き合いって」
「事実を述べただけよ」
「ねえ、いつ会ったの?」
「覚えていないわ」
「私は覚えてるよ」
アテルラネが言った。
シニョーラの視線が飛んでくる。
「余計なことを言ったら燃やすわよ」
「怖いなあ」
「どこで会ったの?」
コロンビーナは完全に興味を持ってしまったらしく、アテルラネとシニョーラを交互に見る。
サンドローネもいつの間にか手を止めている。
アルレッキーノは何も言わない。
ただ、聞く気はあるらしい。
シニョーラが小さく息を吐いた。
「……最初から嫌いだったわ」
「ひどい」
「当然でしょう」
「私、何かした?」
シニョーラはゆっくりとアテルラネを見る。
「したわよ」
「何を?」
「何もしなかったことよ」
「難しいね」
「黙りなさい」
少女が首を傾げた。
「どういうこと?」
淑女はしばらく答えなかった……やがて――。
「昔の話よ……」
そう言って、カップを置いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あの頃――。
『淑女』こと、ロザリン・クルーズチカ・ローエファルタは、まだ今ほどファデュイの外交網を自在に扱えてはいなかった。
弱かったわけではない。
むしろ逆だ――。
既に執行官第八位。
その名を聞けば、各国の外交官が表情を変える程度には知られている。
力もあり、頭も回る。
人を見る目もある。
何より……本人がそれをよく知っていた。
それが問題だった。
当時の任務は、フォンテーヌ北部にある港湾地区で行われた。
表向きは単純な外交交渉。
スネージナヤ企業の船舶が押収されたことについて、現地当局と話をつける……それだけだった。
もちろん、表向きのこと。
実際には、その船の積荷に一人の人間が紛れていた。
フォンテーヌの研究機関から逃亡した技師。
彼が持っていたのは、ある新型機構についての設計資料。
ファデュイはそれを欲しがっていた。
フォンテーヌ側も当然、それを取り戻そうとしていた。
ロザリンの仕事は、技師と資料を確保したまま……外交問題に発展させず……可能ならばフォンテーヌ側に――そもそも技師はスネージナヤへ渡っていない、と思わせることだった。
難しいが、彼女には十分可能な仕事に思えた。
そして実際……それはほとんど成功していた。
「明日の正午には出港できるでしょう」
ホテルの一室で部下が報告する。
ロザリンはソファへ腰掛けたまま、書類へ目を通していた。
「研究員は?」
「既に貨物船へ」
「資料は」
「別経路で運んでおります」
「愚問だったわね」
書類を閉じる。
「私が確認したのだから」
「はっ」
部下が頭を下げる。
ロザリンは窓の外を見た。
――雨、実にフォンテーヌらしい。
「現地当局は?」
「こちらの偽情報を信じています。逃亡者は南方へ向かったものと」
「当然でしょう」
ロザリンは立ち上がった。
「こちらが用意した証拠よ。疑う方が難しいわ」
「さすがでございます、『淑女』様」
「お世辞はいらないわ」
そう言いながらも……悪い気はしていなかった。
順調だった――。
それはあまりにも……順調だった――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日の夕方。
ロザリンは一人で街を歩いていた。
護衛はつけなかった。
必要がなかった。
傘を差し、濡れた石畳を歩く。
交差点の角。
一人の老婆が雨の中、花を売っていた。
「お嬢さん」
ロザリンが足を止める。
「何?」
「花はいかが?」
「いらないわ」
「綺麗なのに」
「私には必要ないと言っているの」
老婆は残念そうに笑った。
「では、せめて一つ」
「しつこいわね」
「白い花がお似合いですよ」
ロザリンの眉が僅かに動く。
「……何ですって?」
「いえ」
老婆は笑った。
「綺麗なお方ですから」
ロザリンは何も買わず、歩き去った。
ただ……妙な老婆だった。
――声か。
――目か。
何かが引っかかった。
だが、数歩進めば忘れていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌朝――。
ホテルの食堂にて、給仕をしていた青年が紅茶を運んできた。
「お待たせいたしました」
「置いて」
「はい」
若い……二十代前半ほど。
栗色の髪に痩せた身体。
どこにでもいる給仕……と判断し、ロザリンは新聞から目を上げない。
青年がカップを置く。
「本日は港が騒がしいようですね」
ロザリンの指が止まる。
「……何?」
「いえ。警察が随分と集まっていたものですから」
「客に余計な話をするのが、このホテルの教育?」
「失礼いたしました」
青年が頭を下げ、そして去っていった。
ロザリンは新聞を畳む。
港が騒がしい。
部下からは何も聞いていない。
すぐに確認させた。
結果――確かに警察官が増えている。
だが自分たちを探しているわけではない。
別件――倉庫で盗難があったという。
問題はない。
「……くだらない」
そう判断した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昼――。
船着き場。
今度は男だった。
太った商人が大声で港湾職員と揉めている。
ロザリンは横を通り過ぎた。
その時……男が振り返る。
目が合った。
ほんの一瞬だけだが、妙な感じがした。
――昨日の老婆。
――今朝の給仕。
――今の商人。
似ていなかった、何一つとして。
――髪も。
――顔も。
――性別も。
――年齢も。
共通点などない。
それなのに……なぜか、同じような不快感があった。
「……?」
立ち止まりかける。
だが……その時、部下が駆け寄った。
「『淑女』様」
「何」
「予定通りです。十分後に出ます」
ロザリンは商人から視線を外した。
「そう」
それで終わった。
船は予定通り出港した。
技師も乗っており、資料もある。
現地当局は騙されていて、追手はいない。
完璧だと、そう思っていた……。
三日後、スネージナヤへ到着するまでは――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ご苦労だった」
統括官『道化』ピエロは、書類から目を上げた。
ロザリンは彼の前に立っている。
「当然よ」
「成果は確認している」
「問題ないでしょう?」
「ああ」
ピエロは書類を一枚めくった。
「研究員も資料も無事だ」
「なら、それで終わりね」
ロザリンが踵を返そうとする。
「ただし」
止まった。
「今回は危うかったな」
ロザリンが振り返る。
「……何が?」
ピエロは書類を置いた。
「女狐がフォローしてくれなければ、どうなっていたか」
沈黙。
「……誰?」
今度はピエロが少し黙った。
「女狐だ」
「それは聞こえたわ」
「なら何が分からない」
「何者なの、その女狐というのは」
本気だった。
ピエロはロザリンを見た。
ロザリンも見る。
やがて――。
「そうか」
ピエロが僅かに目を細める。
「君はまだ会ったことがなかったか」
「だから誰なの」
「ファデュイ執行官第零位『女狐』だ」
「……」
ロザリンは珍しく、完全に言葉を失った。
「何位?」
「零位だ」
「そんな席はないわ」
「ある」
「十一人でしょう?」
「十一人だ」
「なら零位を入れれば十二人じゃない」
「だから数えていない」
「……馬鹿にしているの?」
「していない」
「私はそいつを知らないわ」
「会っている」
再度、ロザリンが沈黙する。
「……は?」
「今回だけでも」
ピエロは淡々と言った。
「三度」
ロザリンの表情が消えた。
「……三度?」
「正確には四度だ」
「待ちなさい」
花売りの老婆、給仕の青年、港の商人。
なぜかその三人が浮かぶ。
そして――もう一人。
記憶を辿るが、思い当たらない。
「誰よ」
「答える義務はない」
「道化」
声が低くなる。
「説明なさい」
「では成果だけ説明しよう」
ピエロは新たな書類を取り出した。
「君の部下に一人、内通者がいた」
ロザリンの顔から……僅かに血の気が引いた。
「……何ですって?」
「現地当局へ情報を売っていた」
「あり得ない」
「事実だ」
「全員調べたわ」
「その調査方法まで把握した上で潜り込んでいた」
ロザリンは黙った。
「明日の正午」
ピエロは続ける。
「船が外海へ出た段階で、フォンテーヌ側が拿捕する予定だった」
「……追跡船はいなかった」
「いなくなった」
ロザリンが眉を寄せる。
「女狐が消した」
「……」
「内通者は?」
「死んだ」
「誰が」
答えを聞く必要すらない。
「偽情報を流したのも?」
「ああ」
「港の盗難騒ぎ」
「追跡部隊を別方向へ動かすためだ」
「なら……」
ロザリンは思い返す。
給仕の青年の――本日は港が騒がしいようですね。
あれは……警告だった?
いや、まさか――とロザリンは思う。
「私に知らせなかったの?」
「知らせる必要がなかった」
「必要がなかった?」
炎が一瞬だけ、部屋の空気を揺らした。
「私の任務でしょう!」
「だからだ」
ピエロは動じない。
「君の任務は成功した」
「裏で別の執行官を動かしておいて?」
「違う」
「何が」
「女狐は私の命令で動いたのではない」
「……?」
「偶然、別の任務でフォンテーヌにいた」
ロザリンの顔が引きつる。
「偶然?」
「ああ」
「それで勝手に?」
「君の作戦が崩れそうだったから直したらしい」
「……」
「報告は一行だけだ」
ピエロがメモ書きのような紙を渡した。
そこには……『第八位の任務に干渉。問題部分のみ処理。成果帰属は第八位』と。
それだけだった。
署名すらなかった。
ロザリンはしばらく紙を見ていた。
そして……震える指で紙を置いた。
「……気に入らないわ」
「そうか」
「何なの、こいつ」
「女狐だ」
「それは聞いた!」
その日。
ロザリン・クルーズチカ・ローエファルタは、まだ顔すら知らない執行官第零位を……心の底から嫌いになった――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「まあ、そういうわけ」
現在。
淑女は不機嫌そうに紅茶を飲んだ。
少女は楽しそうに笑っている。
「アテルラネ、嫌われてたんだ」
「悲しいなあ」
「当然でしょう?」
シニョーラが睨む。
「私の任務へ勝手に入り込んで、勝手に修正して、説明もしない」
「成功したじゃないか」
「そういう問題ではないわ」
「じゃあどういう問題?」
「私が何も気づかなかったことよ!」
言ってから……シニョーラが自分で少し嫌そうな顔をした。
アテルラネは笑った。
「ああ」
「何よ」
「そこなんだ」
「何が」
「君らしい」
「燃やすわよ」
「やめて。今日のドレス高かったんだから」
サンドローネが口を挟む。
「それで、どうして仲良くなったの?」
「なってない」
「話が進まないわ」
「別に仲良くなっていないわよ。ただ――」
シニョーラの動きが止まる。
「ただ?」
アルレッキーノが聞く。
「……慣れただけ」
アテルラネが笑った。
「嬉しいね」
「黙って」
シニョーラは目を閉じて思い出す。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから何度か、二人は同じ任務へ就いた。
最初は最悪だった。
「そこへ立たないで」
「どうして?」
「邪魔よ」
「私はまだ何もしてないよ」
「存在が邪魔」
「ひどい」
また別の任務。
「何故あなたがいるの?」
「散歩」
「ここは敵国の軍事施設よ」
「随分物騒な散歩道だね」
「帰りなさい」
「じゃあ帰る」
「待ちなさい」
「どっち?」
その次。
「あなた、昨日どこにいた?」
「宿」
「嘘」
「市場」
「嘘」
「劇場」
「嘘」
「君、私のこと好きなの?」
炎が飛んできた。
「危なっ!」
「次は当てるわ」
そんなことを繰り返した。
だが、徐々にロザリンは分かってきた。
女狐は、決して自分の功績を奪わない。
自分の名前を使って成果を誇らない。
助けたことすら報告しない場合がある。
失敗しそうだから手を出すわけではない。
自分ができることには決して口を挟まない。
逆に……自分に見えていない穴だけを勝手に塞ぐ。
そして、そのことについて恩を売らない。
一度、ロザリンが聞いたことがある。
「どうして?」
「何が?」
「私を助ける理由よ」
「同僚だから」
「それだけ?」
「それ以外必要?」
「あなた、他人に興味なんてないでしょう」
「失礼だな」
「否定しないのね」
アテルラネは考えた。
「君は優秀だから」
「……」
ロザリンの眉が動いた。
「お世辞?」
「私はお世辞ならもっと上手に言うよ」
「では何」
「失敗して消えるには惜しい」
あまりにも……あっさりと言った。
ロザリンは少しだけ、返答に困った。
「……生意気ね」
結局、そう返した。
アテルラネは笑った。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
決定的に印象が変わったのは、とある晩餐会だった。
任務でも何でもない。
執行官同士が顔を合わせる必要があっただけの、退屈な夜。
ロザリンは新しいドレスを着ていた。
深紅に黒の刺繍に金の装飾。
会場に入れば何人もの視線が向いた。
当然だと思った。
彼女は美しい。
当然その自覚もある。
アテルラネは、その日は男性だった。
珍しく――。
変装らしい変装をしていない。
いつも性別も、声も、体格も、性格すら変わる。
だが、今日は何故かそれがアテルラネだと、瞬時に理解できた。
アテルラネは壁際で酒を飲んでいた。
ロザリンが横を通る。
「似合ってる」
突然だった。
ロザリンが足を止める。
「……何?」
「そのドレス」
アテルラネはグラスを少し上げた。
「いいね」
「あなたが?」
「何?」
「人の服装を褒めるなんて」
「私を何だと思ってるの」
「暗殺者」
「それは職業」
「詐欺師」
「技能」
「変人」
「個性」
「女狐」
「愛称」
「誰が愛称よ」
少しだけ……ロザリンが笑った。
多分、それが最初だった。
アテルラネに向かって、敵意ではなく笑ったのは――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
現在。
「というわけで」
アテルラネが得意げに言う。
「私の魅力に負けた」
「殺すわよ」
「違った?」
「どこをどう聞けばそうなるの」
「途中から態度が柔らかくなった」
「あなたが多少マシな人間だと理解しただけ」
「ほぼ告白じゃない?」
炎が灯った。
アテルラネが椅子ごと下がる。
「冗談!」
コロンビーナが楽しそうに笑う。
サンドローネも、僅かに口元を緩めていた。
アルレッキーノは紅茶を飲んでいる。
「でも」
コロンビーナが言った。
「アテルラネは、ロザリンのこと好きなんだね」
「嫌いではないよ」
今度は即答だった。
シニョーラが僅かに目を見開く。
「……随分素直ね」
「茶会だからね」
アテルラネはカップを置いた。
「それに」
シニョーラを見る。
「能力もある」
「当然」
「綺麗だし」
「当然ね」
「頭もいい」
「今さら気づいたの?」
「仕事もできる」
「もっと褒めてもいいわよ」
「ただ」
そこで……シニョーラの笑みが止まった。
「……何?」
「悪い癖もある」
「聞かなくていいかしら?」
「聞いてほしいな」
「嫌よ」
「じゃあ勝手に言う」
「燃やすわよ」
無視してアテルラネは続けた。
「君はプライドが高い」
「知っているわ」
「高すぎる」
「それの何が悪いの」
アテルラネは少し考えた。
「自信があることじゃない」
「なら?」
「自分の判断が正しいと思った時」
アテルラネの口調からほんの少しだけ……いつもの軽さが消えた。
「君は、退路まで正しいと思い込む」
シニョーラが黙る。
「どういう意味?」
「勝つと決めたら、勝つことしか考えない」
「当然でしょう?」
「違う」
アテルラネは首を振った。
「勝つ人間ほど、負けた時の逃げ道を作っておくものだよ」
「私は負けないわ」
すぐに返ってきた。
アテルラネが少しだけ困ったように笑った。
「ほら」
「何よ」
「それ」
「……」
「君の一番悪いところ」
シニョーラの眉が寄る。
「私より弱い相手に負ける可能性まで考えろと?」
「違うよ」
「では何?」
「相手を見て、自分の方が強いと判断する。それ自体はいい」
アテルラネは指を一本立てた。
「でも君は一度そう判断すると、その後に状況が変わっても評価を直すのが遅い」
「……」
「最初に下した判断を」
指先で卓を軽く叩く。
「自分の誇りと結びつけてしまうんだ」
シニョーラの目が細くなった。
「随分偉そうに分析するのね」
「仕事だからね」
「あなた自身はどうなの?」
「私は逃げるよ」
即答。
「情けない」
「生き残る方が大事」
「執行官の癖に」
「執行官だからさ」
前にも同じことを言っていた。
アテルラネは紅茶を飲む。
「負けそうなら逃げる」
「私は嫌ね」
「勝てないなら交渉する」
「屈辱だわ」
「それも無理なら頭を下げる」
「死んでも嫌」
「……そういうところなんだよなあ」
額を押さえた。
シニョーラは鼻で笑う。
「あなたとは永遠に理解し合えなさそうね」
「そのくらいが丁度いい」
「でも」
アルレッキーノが口を開いた。
全員が見る。
「アテルラネの言うことにも一理ある」
シニョーラが嫌そうな顔になる。
「あなたまで?」
「お前は挑発されると乗る」
「乗ってあげているだけよ」
「同じだ」
「違うわ」
サンドローネまで加わる。
「それに、負けず嫌い」
「何なの今日は」
コロンビーナが笑う。
「ロザリン、怒ってる?」
「怒ってないわよ」
「怒ってる」
「怒ってない」
「ふふ」
シニョーラは深く息を吐いた。
そして、アテルラネを睨む。
「では覚えておきなさい」
「何を?」
「私は、あなたが心配するような失敗はしない」
「そう?」
「ええ」
絶対の自信だった。
疑いなど一欠片もない。
「相手が誰であろうと」
シニョーラは優雅にカップを持ち上げる。
「私が自分より下だと判断したのなら」
口元へ運ぶ。
「その判断を覆されることなどないわ」
アテルラネは何も答えなかった。
「何よ」
「いや」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「言ったら怒るから」
「既に腹が立っているわ」
「なら言うけど」
少しだけ身を乗り出す。
「君は」
笑わなかった。
「負けることより」
一拍。
「自分が負けたと認めることの方が、苦手なんだと思うよ」
静かになった。
コロンビーナも。
サンドローネも。
アルレッキーノも。
誰も何も言わない。
シニョーラだけがアテルラネを見る。
「……随分と知ったような口を利くのね」
「長い付き合いだから」
先ほど、シニョーラ自身が使った言葉……それを返された。
「だから忠告してる」
「余計なお世話よ」
「うん」
「私は自分の力を知っている」
「知ってる」
「自分より格下の相手も分かる」
「そうだね」
「なら問題ないでしょう?」
アテルラネはほんの僅かに目を伏せた。
「……相手を格下だと思った時ほど」
静かな声。
「逃げ道だけは残しておきなよ、ロザリン」
シニョーラの目が動く。
アテルラネが、彼女を名前で呼んだからだ。
普段なら……。
――淑女殿。
――第八位。
あるいは……面白半分の敬称。
だが……今だけは、ロザリン、と。
「忠告はそれだけ?」
「ああ」
「なら無駄ね」
シニョーラは笑った。
いつもの傲慢で、華やかで、美しい笑み。
「私が逃げなければならない相手など、そうはいないもの」
「……そう」
アテルラネも、いつもの笑顔へ戻った。
「ならいい」
「何よ、その言い方」
「別に」
「腹が立つわね」
「知ってる」
「その顔も」
「今日は結構気に入ってるんだけど」
「顔じゃなくて表情よ」
「もっと傷ついた」
お茶会は、またいつもの調子へ戻った。
コロンビーナが笑い。
サンドローネが茶を入れ直し。
アルレッキーノが呆れ。
シニョーラがアテルラネを罵り、それを笑って当人は受け流す。
いつも通りだった。
だから誰も、その会話を特別なものだとは思わなかった。
アテルラネ自身も……そうだった――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
お茶会が終わる。
最初に席を立ったのはシニョーラだった。
「もう帰るの?」
「仕事があるのよ」
「大変だね」
「あなたも少しは働きなさい」
「昨日まで働いてたよ」
「どうせまた誰かになって遊んでいたのでしょう」
「酷い言われようだ」
シニョーラは外套を羽織って、扉へ向かう。
そして……途中で止まった――。
振り返らない。
「ねえ」
「何?」
「さっきの話」
アテルラネが見る。
「逃げ道を残せ、とかいうくだらない忠告」
「うん」
「一応」
少し間があった。
「覚えておいてあげるわ」
アテルラネは笑った。
「光栄だ」
「でも」
シニョーラが振り返る。
「使う機会はないでしょうけど」
美しい。
自信に満ちた笑顔だった。
「私は淑女よ」
それだけ言って、扉が閉まった。
アテルラネはしばらく……その扉を見ていた。
「……どうしたの?」
コロンビーナの声。
「いや」
アテルラネは目を逸らす。
「何でもない」
胸元で……風の神の目が、ほんの僅かに揺れた。
窓は閉じている。
風など吹くはずがないのに、アテルラネはそれを指で押さえた。
「……変なの」
それ以上考えなかった。
この時のアテルラネは知る由もなかった。
やがて『淑女』が遠い雷の国へ渡り……天守閣で……一人の旅人を。
自分より下だと判断することも。
その判断を覆す機会を。
最後まで自らへ与えないことも。
そして――。
退路の存在しない御前試合を……その誇りゆえに受けることも。
――まだ。
――何一つ。
知らなかった――。