千貌の残星   作:無貌

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EP4:お茶会(少女編)

EP4:お茶会(少女編)

 

 

最初は……本当に、ただすれ違っただけだった。

その日のアテルラネは老人だった。

七十を越えた程度で、白髪。

少し曲がった腰に左目は濁らせ、右手の小指を一本短くしている。

歩幅は狭く、呼吸も浅い。

衣服には薬品と古紙の匂いを染み込ませていた。

設定は、ファデュイ所属の古参文書官。

名前、出身地、職歴、妻の死因、若い頃に患った病気など全部ある。

もちろん全部真実であり、同時に虚実でもある。

任務は既に終わっていた。

提出すべき書類も届けた。

あとはこの姿を捨て、宿へ戻るだけだった。

廊下を歩いていると、向こうから一人の少女が来た。

――黒い髪。

――伏せられた瞳。

――柔らかな足取り。

その姿を認識した瞬間、アテルラネは道の端へ寄った。

十一人のファトゥス、ファデュイ執行官第三位『少女(コロンビーナ)』。

直接話したことはないが、遠目に見たことなら数度ある。

それだけだった……だがアテルラネは老人らしく頭を下げる。

少女はその横を通り過ぎた。

何もない。

当然だ。

 

「……」

 

数歩。

アテルラネも歩みを再開した。

コロンビーナも止まらない。

ただ……すれ違った瞬間、少女の唇がほんの少しだけ、笑ったように見えた。

アテルラネは振り返らなかった。

気のせいだと思った。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

二度目……今度は女だった。

二十代後半の黒髪で細身。

フォンテーヌから来た技術者という設定。

一度目からは歩き方も変えたし、香りも変えた。

声帯も、骨格も、当然ながら、性別も変えた。

前回の老人と共通する特徴など一つもない。

アテルラネはグルポフの中央棟を歩いていた。

角を曲がると、向こうから……また、見覚えのある姿。

コロンビーナ。

 

「……」

 

アテルラネは内心で思った。

よく会うな、と。

だが、それ以上でもない。

頭を下げる。

 

「お疲れ様です、少女様」

 

声も完全に別人。

コロンビーナは何も答えずに通り過ぎた。

アテルラネも歩みを再開する。

一歩。

二歩。

三歩。

その時だった。

背後で足音が止まった。

 

「……」

 

アテルラネは歩き続ける。

五歩。

六歩。

振り返らない。

だが、分かる。

見られている……と。

妙な感覚だった。

十五歩ほど進んでから廊下を曲がった。

そこでようやく、アテルラネは壁の陰から、僅かに後ろを窺った。

コロンビーナがこちらを見ていた。

正確には……こちらが消えた廊下の角を。

ジッと見つめていた。

やがて……彼女は首を傾げる。

そして、何事もなかったように歩き去った。

 

「……」

 

アテルラネは自分の頬を触った。

――皮膚。

問題なし。

――髪。

問題なし。

――声。

問題なし。

――視線、歩行、匂い。

全部……問題なし。

 

「……なんだ?」

 

答えは出なかった――。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

三度目……今度は男。

十六歳程度で金髪碧眼。

新人兵士で、実際に配属されたばかりの若者から身分を借りている。

顔は似せていない。

ただ階級と所属だけを借用した。

 

アテルラネは廊下の窓際で資料を読んでいた。

そこへ、歌が聞こえた。

小さな鼻歌。

嫌な予感がした――。

視線を動かすと、コロンビーナだった。

まただ、と思う。

アテルラネは資料へ視線を戻した。

見ないし気づかない。

新人兵士として、執行官を正面から見つめるのは不自然だ。

足音が近づいてくる。

そのまま通り過ぎる……はずだった――。

彼女は止まった……しかも目の前で。

 

「……」

 

アテルラネはゆっくり顔を上げた。

 

「少女様?」

 

コロンビーナはジッと見ている。

 

「……何か御用でしょうか?」

「こんにちは」

「はい」

「こんにちは」

 

二度言われた。

 

「……こんにちは」

 

と返した。

少女が笑う。

 

「やっぱり」

 

アテルラネの心臓が……一度だけ、妙な跳ね方をした。

 

「……何がでしょう?」

「また会ったね」

 

沈黙。

アテルラネは新人兵士らしい困惑を作った。

 

「あの……自分は、少女様とは初対面ですが」

「そうなの?」

「はい」

「ふうん」

 

少女が顔を近づける。

アテルラネは動かない。

コロンビーナはというと……。

――右から見る。

――左から見る。

――少し屈む。

また戻る――。

 

「……」

「……あの」

「違う顔だね」

 

ゾクリ……と背中が僅かに冷えた。

しかし、表情は変えない。

 

「申し訳ありません。仰っている意味が……」

「前は女の人だった」

「……」

「その前は、おじいちゃん」

「……」

 

笑っている。

冗談を言っているような声。

でも――当たっている。

完全に。

 

「少女様」

 

アテルラネは少し困ったように笑った。

 

「人違いではないでしょうか」

「そうかな?」

「ええ」

「そっか」

 

あっさり引いた。

それが逆に怖い。

コロンビーナは横を向き、そのまま歩き始める。

数歩。

そして、振り返らないまま――。

 

「じゃあ、またね」

 

と言った。

アテルラネは、しばらく動かなかった。

 

「……」

 

手元の資料を見る。

一文字も頭に入ってこなかった――。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

その日の夜。

鏡の前でアテルラネは自分を調べた。

――髪。

違う。

――目。

違う。

――瞳孔。

違う。

――鼻、顎、頬、耳、歯並び。

――指、爪、体温、体臭、呼吸。

――歩幅、姿勢、声、イントネーション、癖。

全部違う。

 

「……何だ?」

 

目だけ……と考えた。

自分はどんな姿でも、人を惹きつけるように目を作ってしまう。

それは自覚してからもなかなか直らない。

だが……コロンビーナの場合は?

最初の老人の時から?

あの姿の目は、意図的に濁らせていた。

美しさなどほとんど残していない。

 

「……違う」

 

なら――と思う。

――神の目?

しまっていた。

――風元素の気配?

抑えていた。

――匂い?

違う。

――歩き方?

違う。

――邪眼?

違う。

 

「……」

 

分からない。

分からないことが……アテルラネは嫌いだった――。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

四度目……今度は実験だった。

アテルラネは、徹底的に自分らしさを消した。

三十代の男で、小太りで禿げ上がった頭。

肌は荒れており、前歯を一本欠けさせた。

猫背で目元には疲労。

左脚を僅かに引きずる癖をつけた。

汗、安い煙草、機械油、全て不快なほど丁寧に再現した。

何より……美しく作らなかった。

アテルラネにとっては、かなり苦痛だった。

 

「……よし」

 

鏡を見る。

 

「酷いな」

 

完璧だ。

目的はただ一つ。

少女の前を歩く……それだけ。

自分でも馬鹿げていると思う。

だが、試さずにはいられなかった。

場所も選んだ。

コロンビーナが時折一人で通る回廊。

時間も確認済み。

 

やがて時間になると、彼女は来た。

歌――。

小さな鼻歌――。

 

アテルラネは壁際に立ち、書類を運ぶ下級職員を演じる。

コロンビーナが近づく。

十歩。

五歩。

三歩。

そしてすれ違う。

何もない……アテルラネは内心で、ほんの少しだけ安心した。

――やはり偶然か。

その瞬間、袖を摘ままれた。

 

「……」

 

アテルラネの身体が止まった。

ゆっくり……横を見る。

コロンビーナが、服の袖を二本の指で摘まんでいる。

 

「少女様?」

「みーつけた」

「……」

「今日は」

 

コロンビーナがじっくり見上げてくる。

そして……ニコリ、と笑った。

 

「かわいくないね」

「…………」

 

アテルラネは……初めて、何も返せなかった。

 

「どうして?」

 

コロンビーナが聞く。

 

「え?」

「今日は、わざと?」

「……」

「目も」

 

アテルラネの顔を見る。

 

「口も」

 

頬。

 

「指も」

 

手。

 

「ぜんぶ、かわいくない」

「……」

「どうして?」

 

アテルラネは負けた。

それはもう完全に。

 

「あの……」

 

地声が出そうになり。

慌てて戻す。

 

「少女様。人違いでは……」

「またそれ?」

「……」

「つまんない」

 

袖を離した。

そしてそのまま、少しだけ前へ進む。

アテルラネが聞いた。

 

「……どうして分かるんです?」

 

コロンビーナが止まって振り返る。

 

「何が?」

「私が」

 

そこまで言って……己で気づく。

認めている。

コロンビーナが嬉しそうに笑った。

 

「やっぱり」

「……あ」

 

やられた。

 

「君」

 

アテルラネはもう演技を捨てた。

声もほんの少し戻る。

 

「今の誘導?」

「誘導?」

「……」

 

分かっていない。

多分、本当に分かっていない。

それが一番怖かった。

 

「まあいい」

 

アテルラネは額を押さえる。

 

「教えて」

「何を?」

「どうして私だって分かる?」

 

コロンビーナは考えた。

かなり真剣な様子だった。

 

「……うーん」

「うん」

「分かんない」

「……」

「でも、アテルラネでしょ?」

「…………」

「ね?」

 

アテルラネは深いため息を吐いた。

 

「君、本当に嫌いになりそうだよ」

「うそ」

「どうして否定できる?」

「だって楽しそう」

 

その通りだった。

だから……余計に腹が立った――。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

数日後……アテルラネは珍しく自分から姿を現した。

場所は、グルポフ中枢部の最上層。

扉を開ける。

 

「失礼」

 

部屋には二人いた。

 

「道化」

 

そして。

 

「隊長」

 

ピエロは書類を読んでいる。

十一人のファトゥス、執行官第一位『隊長(カピターノ)』。

彼はいつものようにそこにいるだけで、部屋の空気を重くしていた。

 

「珍しいな」

 

ピエロが言う。

次の言葉をカピターノが紡ぐ。

 

「君がその姿で報告に来るとは」

 

アテルラネはその日……中性的な男の姿だった。

茶会で使う顔ではないが、男とも女とも取れる顔で、もう少し年上に見える。

だが明らかに、アテルラネが好む変装らしい変装ではない。

 

「ちょっとね」

「報告書なら置いていけ」

「今日は口頭」

 

ピエロの手が止まる。

カピターノも僅かにこちらへ顔を向けた。

 

「珍しい」

「今日は珍しいが多いな」

 

アテルラネはピエロの正面の椅子へ座る。

勝手に。

だがそれを咎めるものはいなかった。

 

「例の件」

「ああ」

「終わった」

「首謀者は?」

「生きてる」

 

カピターノが口を開く。

 

「生かしたのか」

 

低い声。

 

「君にも聞いてもらいたかったのはそこ」

 

アテルラネは、懐から小さな紙を取り出す。

卓上に置く。

 

「彼は表向き、北部部隊の将校だった。でも実際には三年前から国外勢力と繋がってる」

 

カピターノが紙を見る。

 

「我が部隊から情報が漏れたのか」

「本人じゃない」

「では」

「副官」

 

沈黙。

 

「ただし副官は二重」

 

アテルラネが指を滑らせる。

 

「国外勢力に情報を渡してたけど、同時に別の執行官にも情報を流してる」

 

ピエロが目を細める。

 

「誰だ」

「まだ言わない」

「理由は」

「確証がない」

「疑いは?」

「ある」

「なら」

「だから言わない」

 

アテルラネは平然としていた。

 

「疑いだけで執行官の名前を出したら、余計な火種になる」

 

カピターノが頷く。

 

「妥当だ」

「でしょ?」

 

アテルラネが少し嬉しそうにする。

ピエロは何も言わない。

 

「だから首謀者は生かした。泳がせる」

「期間は」

「長くても二か月」

「必要な支援は」

「なし」

「我が部隊は?」

「今まで通り。むしろ動かないで」

 

カピターノがしばらく考えて答えた。

 

「あい分かった」

「助かる」

 

これで本題は終わり。

アテルラネは立ち上がる。

そして、ふとあることを思い出した。

 

「そうだ」

 

ピエロが嫌そうな顔をした。

 

「まだあるのか」

「仕事じゃない」

「なら帰れ」

「ちょっと聞きたい」

「断る」

「まだ内容言ってないよ?」

「君がそう言う時は面倒な話だ」

「ひどいな」

 

アテルラネはカピターノを見る。

 

「隊長は?」

「内容による」

「ほら」

 

椅子へ戻る。

 

「少女のこと」

 

ピクリ、とほんの僅か、ピエロの目が動いた。

カピターノは無言。

アテルラネは気づいた。

 

「……何、その反応」

「続けろ」

「最近ね」

 

アテルラネは指を三本立てる。

 

「三回」

 

止める。

 

「いや、四回か」

「何が」

「見抜かれた」

 

沈黙。

 

「誰に?」

「だから少女」

「……」

 

ピエロが目を閉じた。

カピターノは少しだけ、考えるように顔を上げた。

アテルラネは二人を見る。

 

「待って」

 

何かおかしい、そう思った。

 

「その顔、何?」

「どの顔だ」

 

ピエロ。

 

「今、二人とも絶対に何か分かった顔したよね?」

「気のせいだ」

「道化」

「何だ」

「私、君と結構長い付き合いだよね?」

「それがどうした」

「君が誤魔化す時の顔くらい分かる」

「顔で判断するな」

「私はそれが仕事なんだけど」

 

カピターノが僅かに、肩を揺らした。

笑った?

アテルラネがそちらを見る。

 

「今笑った?」

「いや」

「笑ったよね?」

「本題に戻れ」

「二人して!」

 

机を叩く。

 

「本当に分からないんだって!」

 

声が少し大きくなる。

アテルラネにしては珍しい。

 

「老人」

 

指一本。

 

「女」

 

二本。

 

「少年」

 

三本。

 

「最後は完全に美意識まで捨てて作った冴えない男」

 

四本。

 

「全部見抜かれた」

 

ピエロが……最後だけ少し眉を上げた。

 

「そこまでしたのか」

「そこ?」

「いや」

「笑うな」

「笑っていない」

「で」

 

アテルラネが身を乗り出す。

 

「どうして?」

「本人に聞け」

「聞いた」

「何と」

「分からないって」

「なら分からないのだろう」

「そんなわけある?」

 

カピターノが静かに言った――。

 

「あるのではないか」

「隊長まで?」

「少女が意図して見抜いているとは限らん」

 

アテルラネが止まる。

 

「……どういう意味?」

 

カピターノは黙った。

 

「今の続き」

 

黙ったまま。

 

「隊長」

 

無言。

 

「道化」

 

ピエロも。

書類へ視線を戻した。

 

「仕事は終わったのだろう」

「終わったけど」

「なら帰れ」

「答えてから」

「帰れ」

「……」

 

アテルラネは二人を見る。

ピエロにカピターノ。

明らかに何かを知っている。

少なくとも……何かを察しているようだが、なのに教えない。

 

「……君たち」

 

アテルラネは立ち上がった。

 

「本当に性格悪いな」

「言われる筋合いはない」

 

ピエロが即答した。

 

「それはそう」

 

認めた。

扉へ向かう……だが、開ける直前振り返った。

 

「最後に一つ」

 

二人を見る。

 

「私は」

 

少し真面目な声。

 

「少女を警戒した方がいい?」

 

部屋が静かになる。

カピターノが答えた。

 

「既にしているだろう」

「……」

「なら、それでいい」

 

答えになっていない。

だが、アテルラネはそれ以上聞かなかった。

 

「分かったよ」

 

扉を開ける。

 

「じゃあね」

 

閉める。

その後、廊下を歩きながら小さく……。

 

「……全然分からないけど」

 

呟いた――。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

現在に戻る。

 

「それで?」

 

お茶会にて、アテルラネはコロンビーナを見ていた。

彼女はケーキを食べている。

実に幸せそうだ。

 

「何?」

「何、じゃない」

「ケーキいる?」

「後で」

「じゃあ何?」

「答え」

「何の?」

 

アテルラネの眉が、僅かに引きつる。

 

「私を見分けられる理由」

「あぁ……」

「あぁ、じゃない」

「まだ気にしてたんだ」

「気にするよ!」

 

シニョーラが面白そうにカップを置いた。

 

サンドローネもこちらを見ている。

アルレッキーノは明らかに興味がある。

アテルラネは指折り数える。

 

「顔じゃない」

「うん」

「声でもない」

「たぶん」

「匂い?」

「違うと思う」

「歩き方」

「知らない」

「神の目」

「見てない」

「元素の気配」

「よく分かんない」

「目?」

「目?」

「私には目を綺麗に作る癖がある」

 

シニョーラが少し嫌そうな顔をした。

 

「自分で言うのね」

「事実だから」

 

アルレッキーノは静かに言った。

 

「私はそれで分かる」

「君の話は今、してない」

「そうか」

 

少し楽しそう。

アテルラネは再び少女を見る。

 

「じゃあ何?」

 

コロンビーナはフォークを置いた。

真剣に考える。

 

「うーん……」

 

待つ。

十秒。

 

「……雰囲気?」

 

沈黙。

アテルラネは……瞬きをした。

 

「雰囲気?」

「うん」

「……雰囲気」

「たぶん」

「それで私の変装を全部突破したの?」

「変装?」

「……」

 

コロンビーナが首を傾げる。

 

「だって、アテルラネはアテルラネでしょ?」

「それを隠してるんだよ!」

「どうして?」

「仕事だから!」

「大変だね」

「君が大変にしてるんだよ」

 

シニョーラが堪えきれずに笑った。

 

「ふふっ」

 

アテルラネが見る。

 

「何?」

「いえ」

「笑ってた」

「あなたにも天敵がいたのね」

「第四位殿と第三位殿の二人いる」

「私を入れるな」

 

アルレッキーノ。

 

「君もかなり厄介だよ」

「光栄だ」

「褒めてない」

 

サンドローネがコロンビーナを見る。

 

「本当に雰囲気だけ?」

「うん」

「例えば?」

「例えば……」

 

コロンビーナがアテルラネを見る。

ジッと見る。

その視線は……顔を見ているようで、顔ではない。

身体を見ているようで、身体でもない。

目を見ているようで、目でもない。

心の奥底を、見抜かれてしまいそうだった。

 

「……歌みたいな?」

 

アテルラネの笑みが……僅かに止まった。

 

「歌?」

「うん」

「私、歌ってないよ」

「知ってる」

「じゃあ?」

 

コロンビーナは、自分の胸元へ指を置いた。

 

「聞こえないけど」

 

そして、アテルラネを指す。

 

「ここにいるって分かる感じ」

「……」

「だから」

 

笑う。

 

「顔が違っても、アテルラネ」

 

誰も、すぐには口を開かなかった。

アテルラネは少しだけ視線を逸らした。

理解できない――。

理屈がない――。

分析できない――。

そういうものが……アテルラネは嫌いだった。

 

「……気持ち悪いなあ」

「ひどい」

「褒めてる」

「ほんと?」

「半分」

「じゃあ半分嬉しい」

 

コロンビーナはまたケーキを食べ始めた……何事もなかったように。

アテルラネはまだ見ている。

 

「ねえ」

「何?」

「最初に会った時から?」

「うん」

「老人の時?」

「うん」

「その時、私だって分かってた?」

「たぶん」

「たぶん?」

「名前は知らなかった」

「……ああ」

 

そこでアテルラネは、ようやく理解した。

最初のすれ違い……コロンビーナはアテルラネという名前を知らなかった。

零席だとも、女狐だとも知らない。

ただ――この人……という何かだけを覚えていた。

――二度目。

また同じ何かを感じた……だから振り返った。

――三度目。

確信して声をかけた。

――四度目。

もう、見つけること自体を楽しんでいた。

 

「……なるほど」

 

アテルラネは背もたれへ沈む。

 

「何?」

 

コロンビーナ。

 

「いや」

「分かった?」

「全然」

「そっか」

「でも」

 

アテルラネは笑った。

 

「君が私の顔を見てないってことだけは分かった」

 

コロンビーナも笑う。

 

「うん」

「それ」

 

アテルラネは指を向けた。

 

「結構怖いからね」

「どうして?」

「私の商売を全否定してる」

「そう?」

「何百通り顔を作っても意味がないんだから」

「じゃあ」

 

コロンビーナは少し身を乗り出す。

 

「作らなくてもいいよ」

「……は?」

「私の前では」

 

静かだった。

軽い口調で、深い意味があるのか……或いはないのか。

本人にすら、多分分かっていない。

アテルラネはしばらく少女を見た。

そして――。

 

「……それは困るな」

「どうして?」

「君にそれを許すと」

 

自分の頬を触る。

今日の顔……茶会でだけ使う、自分で選んだ、中性的な男の顔。

 

「本当に、何も隠せなくなりそうだから」

 

コロンビーナは少しだけ、嬉しそうに笑った。

 

「もう隠せてないよ?」

「……」

 

シニョーラが吹き出した。

サンドローネも口元を押さえている。

アルレッキーノははっきり笑っていた。

アテルラネは三人を順番に見る。

 

「……帰っていい?」

「駄目」

 

今日も……声が重なった――。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

お茶会が終わりかけた頃――少女が小さな声で歌っていた。

意味のない旋律。

歌詞もない。

アテルラネは紅茶を飲みながらそれを聞いている。

 

「ねえ」

「何?」

「私にも」

 

コロンビーナが歌いながら答える。

 

「何かあるの?」

「何が?」

「君が私を見つけるもの」

「……?」

「歌みたいなもの」

 

コロンビーナは少し考える。

 

「あるよ」

「どんな?」

「教えない」

 

アテルラネが目を見開いた。

 

「君までそれやる?」

「何が?」

「道化と隊長にも同じことされたんだけど!」

 

コロンビーナが笑う。

 

「ふふ」

「もしかして三人で示し合わせてる?」

「違うよ」

「本当?」

「うん」

「じゃあ教えて」

「嫌」

「何で?」

「だって」

 

コロンビーナは微笑んだ。

 

「知らない方が」

 

一拍。

 

「アテルラネ、ずっと私のこと気にしてくれるでしょ?」

「……」

 

完敗だった――。

アテルラネは何も言わず、ティーカップを持ち上げた。

シニョーラが横から一言。

 

「女狐が弄ばれているわね」

「うるさい」

「珍しいものが見られたわ」

「本当にうるさい」

 

コロンビーナが楽しそうに歌っている。

アテルラネはその横顔を見ながらふと思った。

彼女に自分が……果たしてどんなふうに見えているのだろう……と。

――男か。

――女か。

――老人か。

――少年か。

――零席か。

――女狐か。

――暗殺者か。

あるいは……そのどれでもない。

もっと……別の何か――。

 

「……まあ」

 

考えるのをやめた。

分からないものを無理に理解する必要も、時にはないのかもしれない。

少なくともこの茶会の席では……。

今日もコロンビーナは、一度もアテルラネの顔を見間違えなかった――。

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