魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~   作:パラレル・ゲーマー

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第1話 大学教授に「変わった動物を飼ってみない?」と誘われたらしい

 十月も半ばを過ぎ、大学のキャンパスを吹き抜ける風にはっきりとした秋の冷たさが混じるようになってきた頃。

 水野拓海(みずの・たくみ)は、理学部棟の四階にある研究室で、マグカップから立ち上るコーヒーの湯気をぼんやりと見つめていた。

 三年生の後期。そろそろ来年度の研究室配属に向けた動きが本格化する時期であり、拓海も夏頃から研究室選びのために榊原のところへ何度か顔を出し、野外実習や簡単な資料整理を手伝っていた。周囲の友人たちも、進路について現実的な話をするようになってきている。

 拓海が今座っているのは、動物行動学や比較生理学を専門とする榊原宗一郎(さかきばら・そういちろう)教授の部屋だった。壁一面を埋め尽くす分厚い専門書、骨格標本、そして何かの培養液が入った無数の瓶。どこか雑然としているが、長年使い込まれた皮張りのソファーの座り心地は悪くない。

 

「それで、水野君さ」

 

 雑務の書類に目を通しながら、榊原教授がふと顔を上げた。白髪交じりの頭髪に、丸い銀縁眼鏡。御年五十六歳になる教授は、学生に対しても常に飄々とした、どこか掴みどころのない態度を崩さない人物だ。

 

「はい」

「君、動物好きだよねぇ」

 

 あまりにも直球で、かつ今更すぎる問いかけに、拓海は少しだけ苦笑した。

 

「……まあ、好きですね。生物学科にいるくらいですから」

「犬とか猫とか?」

「普通に好きですけど、それだけじゃないですよ」

 

 拓海は即答した。

 彼にとって「動物が好き」という言葉は、決して愛玩動物だけを対象にしたものではない。

 犬や猫はもちろん好きだ。しかし、カラスがゴミ捨て場で見せる驚異的な問題解決能力を観察するのも好きだし、爬虫類展で蛇の鱗の滑らかさに感心するのも好きだ。水族館に行けば、メインのイルカショーよりも、隅の水槽でじっと砂に潜っている底生魚の呼吸のリズムを三十分以上眺めてしまうタイプである。昆虫の複眼の構造美や、両生類の皮膚の湿度調整メカニズムにも心惹かれる。

 要するに、生きとし生けるもの、その生態系と生存戦略そのものに魅力を感じているのだ。

 ただ、一般的な「動物好き」と少し違うのは、彼が「何でもかんでも触りたがるタイプ」ではないということだ。

 可愛いからといって、いきなり手を伸ばすようなことはしない。対象が人間をどう認識しているか、触れられることでストレスを感じないか。まずは観察し、相手の領域を尊重する。それが拓海のスタンスだった。

 

「知ってる知ってる」

 

 榊原は眼鏡の奥で目を細め、書類にポンとハンコを押した。

 

「将来はやっぱり、そっち関連に進みたいのかな?」

「できれば、そうですね」

 

 拓海は少しだけ声を潜めた。現実的な壁は、常に頭の中にある。

 

「動物園の飼育員とか、水族館のキュレーターとか。あるいは野生動物の保護や生態調査に関わる仕事とか……。ただ、公立の動物園も水族館も、採用枠は毎年ごく僅かじゃないですか。かなりの狭き門だっていうのは分かってます。だから、絶対にそれ一本で行くって意固地になってるわけでもないんですけどね」

 

 夢を語りつつも、どこか諦観を交えた拓海の言葉に、榊原は特に否定も肯定もしなかった。ただ、「なるほどねぇ」と短く相槌を打ち、ペンをデスクに置く。

 

「じゃあさ」

「はい?」

「ちょっと、変わった動物の飼育員になってみない?」

 

 それは、本当に何気ない、天気の話でもするような口調だった。

 拓海はコーヒーを飲む手を止め、マグカップをテーブルに置いた。

 

「……変わった動物、ですか?」

 

 大学の教授からの提案だ。常識的に考えれば、大学の施設や関連する研究機関で飼育されている、何か特殊な実験動物や希少生物のことだろう。

 

「希少種ですか? 例えば、ワシントン条約で保護されていて、密輸から押収された個体とか」

「うーん、希少ではあるね。かなり」

「海外の動物とか?」

「海外にもいるといえばいる」

「じゃあ、爬虫類ですか?」

 

 榊原は少し首を傾げ、顎に手を当てて考え込んだ。

 

「……まあ、似てる部分はあるかな」

「鳥類?」

「それも、似てる部分はある」

「どっちなんですか」

「そこがねぇ」

 

 教授は困ったような、しかしどこか楽しんでいるような笑みを浮かべた。

 

「現在の生物学の分類を、そのまんま当てはめようとすると、ちょっと説明が難しいんだよね。界・門・綱・目・科・属・種ってあるでしょ? あれのどこに入れるかっていう議論から始めなきゃいけなくなる」

「分類が難しい……? 先生、俺に何を飼わせようとしてるんですか」

 

 未発見の新種だろうか。深海生物? それとも独自の進化を遂げた島嶼部の固有種?

 拓海の探究心が急速に刺激されていく。

 

「見る?」

 

 榊原が立ち上がりながら言った。

 

「え?」

「百聞は一見にしかず、だからね。見ればわかる」

 

 そう言われて、断る生物学徒がいるわけがない。

 

「……見たいです」

「じゃ、行こうか」

「今からですか?」

「今から」

 

 榊原は白衣を羽織ると、足早に研究室を出ていった。拓海も慌ててリュックを掴み、その後を追う。

 

 ***

 

 秋晴れのキャンパスを横切り、二人が向かったのは、大学の敷地の北の端にある建物だった。

 木々に囲まれ、少し奥まった場所にひっそりと建つ、灰色のコンクリート造りの二階建て。

 拓海もその建物の存在自体は知っている。表向きは『動物実験・飼育研究施設附属棟』。医学部や理学部が共同で管理している施設で、特別な許可を持つ教員や大学院生しか出入りできない。一般の学部生が立ち入る用事はまずない場所だ。

 

「ここだったんですか。変わった動物がいるのって」

「ここ」

「何回もこの前を通ったことはありますけど、全然気づきませんでしたよ。そんな希少生物がいるなんて」

「普通はそういうもんだよ。わざわざ『希少生物飼育中』なんて看板出すわけないでしょ」

 

 榊原は建物の裏手にある、目立たない従業員用のような扉の前に立った。

 壁に埋め込まれたカードリーダーに手を伸ばしかけ、ふと動きを止める。

 

「あ。その前に」

「はい?」

 

 振り返った榊原の表情から、いつもの飄々とした雰囲気がわずかに消えていた。

 ほんの少しだけ、空気が張り詰める。

 

「ここから先で君が見るものは、絶対に外で話しちゃ駄目だ」

「……そんなに、珍しいんですか?」

 

 念を押すような強い言葉に、拓海は少し身構えた。

 

「珍しいのもあるけど」

 

 榊原は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。

 

「存在そのものが、一般には公開されていないんだ」

「…………はい?」

 

 拓海の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

 存在が公開されていない?

 それはつまり、学会発表前の新種ということだろうか。あるいは、何か国家レベルの極秘プロジェクトに関わる遺伝子資源?

 

「あの、論文発表前の新種とか、そういうことですか?」

「もっと面倒」

「じゃあ、絶滅したと思われていた種の生き残りとか?」

「それとも違う」

「それじゃあ、何なんですか?」

「だから、見た方が早いんだって」

 

 榊原は苦笑して、再びカードリーダーに向き直った。

 

「とりあえず今の段階で君に言えるのは、国もその存在を把握し、厳重に管理している生物だということ。だから、勝手に写真を撮ったり、SNSに書き込んだり、友達や家族に話したりするのは絶対にやめてくれ。法的なペナルティもある。約束できる?」

「国が……」

 

 ただの飼育アルバイトの誘いかと思いきや、随分と話が大きくなってきた。

 しかし、好奇心は恐怖や面倒くささを上回る。

 

「……分かりました。誰にも言いません」

「よし」

 

 ピッ、という電子音と共に、重厚な金属製の扉のロックが解除された。

 

 中に入ると、さらに二重扉になっていた。

 ここで専用の靴に履き替え、入念な手洗いと消毒を行う。エアシャワーを抜け、ようやく飼育エリアの廊下に出た。

 

「……思ったより、普通ですね」

 

 拓海は周囲を見渡して拍子抜けしたようにつぶやいた。

 もっとSF映画に出てくるような、青白い照明に照らされた無菌室や、巨大な培養槽が並ぶ秘密研究所のようなものを想像していたのだ。

 しかし目の前にあるのは、白い壁に、リノリウムの床。廊下の壁には温湿度計のデジタル表示が光り、奥の方には洗浄機材や、餌を保管するための大型冷蔵庫、体重計、清掃用のデッキブラシなどが整然と置かれている。

 大学や動物園の裏側にある、ごく普通の飼育施設そのものだった。

 

「飼育施設だからね。生き物を生かすための基本は、相手が何であれそう変わらないよ」

「それもそうですね」

 

 ただ、廊下を進んでいくうちに、拓海は妙な違和感に気づき始めた。

 各部屋の扉に貼られたラベルの表記だ。

 

 《第3飼育室 関係者以外立入禁止》

 

 これは普通だ。しかし、その隣の部屋には。

 

 《第4飼育室 高温環境区画(熱源注意)》

 

 高温? 熱帯産の爬虫類や昆虫用だろうか。

 さらに進むと。

 

 《第6飼育室 低照度・高湿度環境区画》

 

 深海生物か、夜行性の両生類か。

 ここまではまだ、拓海の知る生物学の枠内に収まっている。やっぱり珍しい爬虫類か何かだろう、と拓海は推測を強めた。

 

 《第8飼育室 標準環境区画》

 

 廊下の一番奥にある小さな部屋の前で榊原が立ち止まった。拓海が「標準環境?」とラベルを読むと、榊原は「この子は、人間が普通に生活できるくらいの温度と湿度で問題ないんだよ」と答えた。

 

「この子だよ」

「はい」

「この子ね、そろそろ家庭飼育環境での適応試験に移せそうで。今、その担当候補を探してるんだ」

「家庭飼育の、担当候補?」

「うん」

 

 榊原が扉のロックを解除し、ゆっくりと中に足を踏み入れた。拓海も息を潜めて後に続く。

 

 室内は広すぎず、四畳半ほどのスペースだった。

 中央には透明なアクリルガラスで囲まれた、一メートル四方ほどの飼育ケージが設置されている。ケージ脇には個体管理番号を記したプレートと、日々の状態を書き込む分厚い健康観察記録ファイルが置かれていた。

 温度と湿度が厳密に管理されているらしく、中には太い枝が複雑に組み上げられ、小さな足場や、隠れ家になるような寝床、そして綺麗な水が張られた平たい水皿が置かれていた。

 レイアウトとしては、樹上性のトカゲやヘビを飼うテラリウムに近い。

 

 しかし。

 

「……どこにいるんですか?」

 

 拓海はアクリルガラスに顔を近づけて目を凝らしたが、動くものの姿が見当たらない。

 

「そこ。一番太い枝の交わってるところ」

 

 榊原が指さした先。

 照明が少し落とされたケージの奥、枝のくぼみに、何かが丸まっていた。

 

 最初は、ただの岩か木こぶのように見えた。

 しかし、じっと見つめていると、それが一定のリズムでわずかに上下しているのがわかる。呼吸しているのだ。

 大きさは、成人男性の手のひらにすっぽりと収まる程度だろうか。

 四本のしっかりとした脚。

 先端に向かって細くなる短い尻尾。

 身体の表面は、滑らかで細かい鱗に覆われている。

 そして何より目を引くのが、背中に折りたたまれた、身体のサイズに対して少し大きめの『翼』だった。コウモリのような皮膜を持つ翼。

 頭部には、申し訳程度の小さな角が二本、ちょこんと生えている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…………」

 

 拓海は言葉を失った。

 呼吸が止まり、瞬きすら忘れる。

 脳内の引き出しを猛烈な勢いでひっくり返し、これに合致する生物のデータを探す。爬虫類綱、有鱗目……いや、翼の構造は鳥類でも哺乳類でもない。そもそも四肢とは独立して、さらに一対の翼を持つ六肢構造? そんな脊椎動物は地球上に存在しないはずだ。

 

「これ」

 

 隣で榊原が静かに言った。

 

「…………」

「水野君?」

「起きてます」

「いや、君が固まってるから」

「起きてます。脳みそがフル回転して煙吹いてるだけです」

 

 拓海の声は、自分でも驚くほど震えていた。

 

 その声に反応したのか。

 枝の上で丸まっていた『それ』が、ゆっくりと動いた。

 小さな頭が持ち上がり、瞼が開く。

 薄暗いケージの中で、深い瑠璃色の瞳がキラリと光った。サファイアの原石のように澄み切った、知性を感じさせる美しい瞳。

 それはガラス越しに立つ拓海の方をじっと見つめると、首を傾げた。

 

「きゅぅ?」

 

 高すぎず、耳障りでもない。小鳥のさえずりと猫の喉鳴らしを合わせたような、小さな小さな鳴き声だった。

 

 拓海は、完全に硬直した。

 

「……え、竜なんですかこれ!?」

 

 数秒の沈黙の後、拓海の口から飛び出したのは、生物学徒としてはあまりにも間抜けな第一声だった。

 

「うん」

 

 榊原はあっさりと頷いた。

 

「竜!?」

「分類上は、小型竜だね」

「小型とかあるんですか!?」

「あるよ」

「竜に!?」

「そりゃあるでしょ。生物なんだから。大きいのもいれば小さいのもいる。ゾウがいればネズミがいるのと同じだよ」

「そこから分かんないですよ!!」

 

 拓海はガラスにへばりつくようにして、その信じられない生き物を凝視した。

 

「待って、本物ですか? これ」

「本物」

「アニマトロニクスとか、超精巧な模型じゃなく?」

「今、動いて息してるの見てるでしょ」

「じゃあ、トカゲの遺伝子を改変して翼みたいな器官を無理やり……」

「違う」

「だって、トカゲに翼が……」

「トカゲじゃない。竜」

「いや、竜って、ファンタジーの……」

「竜」

 

 榊原がキッパリと言い切る。

 

 ケージの中の小竜は、目の前で騒いでいる人間を不思議そうに見つめている。

 首を左右に振り、「きゅ?」と小さく鳴いた。

 怯えてパニックになっている様子はないが、かといって自分から愛想よく近づいてくるわけでもない。野生動物が未知の巨大な生物を前にして、警戒と観察を両立させている状態だ。

 

 拓海は深呼吸をして、沸騰しそうな脳を必死に冷ました。

 本物だ。目の前で呼吸し、動き、こちらを認識している。

 この世には、人類の常識から外れた生物が存在する。そして目の前の教授は、それを当たり前のように管理している。

 

「……これ、近づいて平気なんですか?」

 

 拓海はガラスから少し距離を取り、榊原に尋ねた。

 どんなに可愛くても、相手の性質が分からない以上、無闇に近づくのは危険だ。未知の毒を持っているかもしれないし、強い顎で指を噛みちぎられるかもしれない。

 

 その問いを聞いた瞬間、榊原の目がわずかに細くなった。口元に、満足げな笑みが浮かぶ。

 

「うん。だから君に声掛けたんだよね」

「え?」

「いや、後で話すよ。とりあえず、基本的なことを説明しておこうか」

 

 榊原はケージ脇のパネルを操作し、ケージ内の照明を少しだけ明るくした。

 

「この子は小型竜の幼体。まだ生まれて数ヶ月ってところかな」

「オスですか? メスですか?」

「まだ分からない」

「分からない?」

「うん。普通の動物みたいな雌雄の判定方法が使えないからね。成長段階でどう変化するか、まだ研究中なんだ」

「……何食べるんですか?」

 

 動物好きとして、そして生物学を専攻する者として、最も気になるのが食性だ。

 

「雑食」

「肉?」

「食べる」

「果物とか?」

「食べる」

「昆虫は?」

「食べるね。割と何でも口にする」

「じゃあ、主食の餌は何を用意すればいいんですか? 配合飼料? それとも生餌?」

 

 榊原は淡々と答えた。

 

「別にいらない」

「…………はい?」

「この子、食べなくても生きられるから」

 

 拓海は瞬きをした。

 

「……いや、待ってください。生き物ですよね? エネルギーを消費して生命活動を維持してるんですよね?」

「うん」

「じゃあ、栄養を摂取しないと死にますよね?」

「普通はね。でも、こういう特殊な生物は、空気中のマナを取り込んで生命活動を維持するんだよ」

「…………マナ」

「マナ」

「……ゲームとかファンタジー小説に出てくる、あのマナですか? 魔力とか気とかそういう……」

「まあ、名前だけならだいたいその認識でいいよ。空間に偏在する不可視のエネルギー。それを吸収して変換してる」

「本当にあるんですか、マナなんて」

 

 榊原は顎で小竜をしゃくった。

 

「その子が証拠でしょ。マナがあるから、彼らは存在できている」

 

 反論しようのない物理的(?)証拠だった。

 しかし、拓海の生物学的な常識が悲鳴を上げる。

 

「じゃ、じゃあ代謝は!?」

「するよ。細胞は更新されてる」

「エネルギー保存の法則は!?」

「そこは絶賛研究中」

「身体を構成する物質、タンパク質とかカルシウムはどうやって作られてるんですか!?」

「そこも研究中だねぇ。マナから物質への変換プロセスは非常に興味深い」

「分かってないじゃないですか!!」

「だから大学で研究してるんだよ。我々が知っている科学の枠組みに、どうやって彼らを当てはめるか。あるいは、科学の枠組みそのものをどう拡張するかをね」

 

 あまりにも堂々とした態度に、拓海は頭を抱えそうになった。

 

「じゃあ……食べない?」

「食べなくても死なない」

「でも雑食なんですよね?」

「うん。肉も果物も食べる」

「食べなくていいのに?」

「食べるよ」

「なんでですか?」

 

 榊原は少し考えてから、ふふっと笑った。

 

「楽しいからじゃない?」

「……楽しい」

「味も分かるし、食感も楽しむ。個体によって好みもある。甘いものが好きな子もいれば、肉の脂身が好きな子もいる」

「生きるために食べるんじゃなくて……」

「水野君だって、夕飯でお腹いっぱいでも、食後のデザートにケーキを食べることあるでしょ? あれと同じだよ。娯楽としての食事」

 

 拓海はケージの中の小竜を見た。

 小竜はこちらを見つめ返し、「きゅ?」とまた小さく鳴く。

 

「……じゃあ、おやつみたいな感覚で、色々あげてもいいってことですか?」

「ただし、だからって勝手に何でも与えないこと」

 

 榊原の声が少しだけ厳しくなった。

 

「食べられる物でも、ですか?」

「食べられることと、安全であることは別だ。普通の動物でもそうでしょ? 犬にネギ類やチョコレートが駄目なように、彼らにも未知の有害物質があるかもしれない。そもそも生命維持に食事が必要ないんだから、影響が分からないなら与えない。それが一番安全だ」

「……納得です」

 

 拓海は深く頷いた。

 

「それと、もう一つ質問いいですか」

「何?」

「……トイレは、どうなるんですか?」

 

 食事の話が出れば、当然排泄の話になる。

 

「食べなければ、しない」

「え?」

「物質として何も食べてないなら、基本的に排泄物も出ないよ。マナを吸収して消費するだけだからね」

「マナの残りカスみたいなのがウンチになったりは……」

「マナはウンチにはならない」

「先生」

「何?」

「ものすごいSFチックな話を、急に小学生みたいな雑な言い方で説明しないでくださいよ」

「分かりやすいでしょ」

 

 榊原は肩をすくめた。

 

「ただし、普通の食べ物を食べた場合は別だ。消化管に入った物理的な物質は、ちゃんと消化吸収されて、残った分は普通に排泄される」

「そこは普通なんだ……」

「そこは割と普通。だから、おやつをあげるってことは、それだけ掃除の手間が増えるってことでもある」

「なるほど。……そういえば、ケージに水皿がありましたけど、水は必要なんですか?」

 

「生命維持のためには必須じゃないよ。でも飲むことはあるし、水浴びに使う個体もいる。湿度の調整にも役立つ。食事と同じで、『なくてもすぐ死なない』と『飼育環境からなくしていい』は別の話だね」「……なるほど」拓海はまた一つ、普通の動物とは似ているようで根本から違う飼育条件を頭に刻んだ。

 

「さて」

 

 榊原がアクリルガラスの小さなスライド窓を開けた。

 

「近づいてみる?」

「いいんですか?」

「ゆっくりならね」

 

 榊原はいくつか注意点を与えた。

 上から手を被せるように掴まないこと。

 いきなり頭を撫でようとしないこと。

 相手が逃げたら、絶対に追わないこと。

 

 拓海は小さく深呼吸をして、スライド窓の前にしゃがみ込んだ。

 顔の高さが、枝の上にいる小竜と同じくらいになる。

 アクリル越しではない、生の小竜の姿。

 細かい鱗は光の加減で微かに色を変え、瑠璃色の瞳は宝石のように澄んでいる。

 手のひらに収まるサイズ感。丸みを帯びたフォルム。

 

(…………可愛い、なんてもんじゃないぞ、これ)

 

 心臓が早鐘のように打つ。

 触りたい。

 その小さな翼がどんな感触なのか。鱗は冷たいのか、温かいのか。あの短い尻尾を指で撫でてみたい。

 動物好きの根源的な欲求が、拓海の内側で暴れ回っていた。

 

 だが。

 拓海は、手を伸ばさなかった。

 スライド窓の前にしゃがみ込んだまま、ただじっと、静かに小竜を見つめ続けた。

 

 相手はまだ自分を知らない。

 自分という巨大な生物が、敵なのか味方なのか判断できていないはずだ。

 そんな状態で、人間の都合で触れようとすれば、間違いなく恐怖を与える。

 だから、動かない。

 

 数十秒の沈黙が流れた。

 

「……触らないの?」

 

 背後から榊原が尋ねてきた。

 

「いや」

 拓海は小竜から目を離さずに答えた。

「この子、俺のこと知らないじゃないですか。無理に手を出して嫌がられたら逃げるだろうし、ストレスをかけるだけです。こっちから触る必要は、今はないかなって」

 

 その言葉を聞いて、榊原は小さく笑った。

 

(やっぱり、この学生で正解だったな)

 

 一方、ケージの中の小竜は、目の前の人間がピクリとも動かず、自分を捕まえようともしないことに興味を惹かれたらしかった。

 首を傾げ、喉の奥で小さく「ぐるぅ」と鳴く。

 そして。

 枝の上を、小さな爪を立てて一歩、前へ進んだ。

 もう一歩。

 

 拓海は息を殺した。

 

 小竜が、開いた窓のすぐ近くまでやってくる。

 鼻先を少し伸ばし、空中の匂いを嗅ぐように、すん、すんすんと鼻を動かす。

 対象は拓海の指先ではなく、袖口のあたりだった。

 

(かわいいいいいいいいいいい!!!!)

 

 拓海の内心では絶叫が響き渡っていたが、表面上は石像のように動かない。

 

 小竜が、さらに顔を近づける。

 そして。

 

 右の前脚をそっと上げ。

 拓海のジャージの袖口を、ちょん、と触った。

 

 ほんの一瞬の接触。

 すぐに前脚を引っ込め、小竜はこちらの反応を窺う。

 

 拓海は、もはや呼吸の仕方を忘れていた。完全に硬直している。

 

「水野君」

「……はい」

「息してる?」

「してます」

「そうは見えないけど」

「ギリギリしてます」

 

 人間が怒らない、危害を加えないと判断したのか。

 小竜はもう一度前脚を伸ばし、今度は少し長めに、袖口をちょんちょんと叩いた。

 

 拓海は絶対に手を握り返したり、捕まえたりしなかった。ただ、その触覚を全身で受け止める。

 

「水野君」

「はい」

「やっぱり、君に声かけてよかったかもね」

 

 榊原が背後から穏やかな声で言った。

 

「何がですか?」

 拓海は小竜から目を離さずに答える。

「家庭飼育の担当候補」

「…………」

 

 拓海はしゃがんだ姿勢のまま、なるべく小竜を驚かせないように、榊原の方へ顔だけを向けた。

 

「いや、待ってください。さっきの話、本気だったんですか?」

「本気だよ。冗談でこんな極秘施設に学生を連れ込んだりしない」

「俺が、これを飼うんですか?」

「正確には、まず『飼育協力』だね」

 

 榊原は腕を組み、真面目なトーンで説明を始めた。

 

「彼らは国や研究機関側で保護、管理されている個体だ。君の所有物になるわけじゃない。ただ、こういう魔法生物――特に知性の高い種族は、施設で何十匹も一括管理するよりも、特定の飼育者と一対一で安定した生活を送った方が、良好な心理状態を保ち、健康に育つというデータが出ている。この小型竜もその傾向が強い」

「はあ」

「だから、適性があると見込んだ個人に預けて、『家庭飼育環境での適応試験』を行う場合があるんだ。もちろん、国からの正式な支援と監視の元でね」

「家庭……?」

 

 拓海の胸が高鳴った。

 それは嫌な予感などではない。大学近くで一人暮らしをしている自分の1DKに、この信じられないほど愛らしい未知の生物がいる光景を想像し、最高の予感に震えたのだ。

 

「試しに、飼ってみる?」

 

 榊原の言葉が、部屋に響いた。

 拓海は再びケージの中を見た。

 小竜は窓の縁に前脚を乗せ、拓海の袖口の匂いをまだ少し気にしている。

 

「…………」

「もちろん、今日いきなり持って帰れって話じゃないよ」

 榊原が慌てたように付け加える。

「正式な契約の説明もあるし、君の自宅の飼育環境の確認も必要だ。秘密保持に関する厳密な研修も受けてもらうし――」

「やります」

 

 食い気味の即答だった。

 

「……まだ説明終わってないんだけど」

「聞きます」

「聞いてから判断しようか」

「聞きますけど、やりたいです。やらせてください」

 

 榊原は苦笑した。

 しかし、すぐに表情を引き締め、念を押す。

 

「かわいいから、物珍しいから、だけじゃ駄目だよ」

「……はい」

「この子の命と生活を、君が預かることになる。犬や猫とは生態も違うし、分かっていないことも山ほどある。突然具合が悪くなるかもしれない。いくら世話をしても、君に懐かないかもしれない。君が思っているような、都合のいいペットみたいな反応をしないことだってある。それでも?」

 

 拓海は小竜の瑠璃色の瞳を見つめ返した。

 

「それでもいいです」

「懐かなくても?」

「別に、俺を懐かせるために飼うわけじゃないですよね。この子が健康で安全に生きられる環境を作るのが飼育員なら、俺はやります」

 

 その言葉に、榊原は少しだけ沈黙し、深く頷いた。

 

「うん。……君なら、そう言うと思った」

「先生?」

「前の野外実習のこと、覚えてる?」

「はい?」

 

 唐突な話題の転換に、拓海は首を傾げた。

 

「夏合宿で山に入った時だよ。怪我をして警戒してる野鳥を見つけて、他の学生たちが『可愛い』『助けなきゃ』ってワーワー騒いで近づこうとした時。君一人だけが『これ以上近づかない方がいい、ストレスで死ぬぞ』って止めてたでしょ」

「あー……ありましたね、そんなこと」

「君は、動物が嫌がったらちゃんと離れることができる。自分が『好きだから近づきたい、触りたい』という欲求よりも先に、『向こうが今どうしたいか、どうされるのが一番安全か』を第一に見ることができる」

 

 榊原はケージの中の小竜に優しい視線を向けた。

 

「飼育においてはね、そういう『自分の欲求を我慢できる』という、一見大したことじゃないような資質が、一番大事なんだよ。だから君を選んだ」

 

 拓海は少し居心地が悪くなり、頭を掻いた。

 そんな大層な信念があったわけではない。ただ、嫌がる生き物に無理強いしたくなかっただけだ。

 

 二人が話している間。

 小竜が、さらに一歩、前へ出た。

 今度は袖口ではなく、拓海の開いた掌の方へ。

 慎重に、ゆっくりと。

 右の前脚を、拓海の掌の縁にそっと乗せる。

 

 拓海は動かない。

 やがて、左の前脚も乗せてきた。

 だが、全部は乗らない。後脚はしっかりとケージの枝を掴み、いつでも逃げられる体勢を保っている。

 小竜は少し伸び上がり、拓海の指の匂いをすんすんと嗅いだ。

 

「きゅ」

 

 指先に伝わる、小さな爪の硬さと、微かな体温。

 拓海は、限界だった。

 

「……かわいい」

 

 声が漏れた。

 

「うん。かわいいよ」

 

 横で榊原も、深く同意するように頷いた。

 研究対象だからといって、冷徹に観察するだけではない。この教授もまた、魔法生物の造形美や愛らしさを純粋に愛でる人間なのだ。

 

「じゃあ」

 榊原が、小竜を驚かせない静かな声で話を切り替えた。

「とりあえず君の意思は確認できた。次は正式な説明と手続きだね」

「何が必要なんですか?」

「色々あるよ。秘密保持契約書へのサイン、魔法生物に関する基礎知識の講習、飼育者としての法的義務の確認、緊急時の連絡網の設定、病気や怪我の際のプロトコル、君の自宅の環境チェック、外へ連れ出す際の厳格なルール、逃走時の対応マニュアル、来客があった時の偽装方法、マナ環境の測定……それと、毎日の健康観察記録の付け方も覚えてもらう」

「多いですね!?」

「当たり前でしょ。国の機密扱いになってる未知の生き物を個人の家に置くんだから」

「それはそうですけど……」

 

 拓海は名残惜しそうに、掌の上の小さな前脚を見つめた。

 

「今日、持って帰れないんですよね」

「今日持って帰れると思ってたの?」

「いや……ちょっとだけ」

「駄目」

 即答だった。

「ですよね」

「まず君の家を確認して、適切な飼育用品を準備しないといけない。それに」

 

 教授は小竜に視線を移した。

 

「この子の方が、君を嫌がってないかも、もっと時間をかけて見極めないとね。君だけが選ぶんじゃない。この子も君を選ぶんだから」

「……はい」

 

 拓海はそろそろ離れようと、ゆっくりと掌を引いた。

 小竜は前脚を離し、枝の上に戻る。

 少しだけ寂しさを感じながら、拓海はそろそろ立とうと片膝に手をついた。

 

 その時。

 小竜が、拓海の袖口を、前脚でちょん、と引いた。

 

 拓海が振り返る。

 小竜はこちらを見上げ、首を傾げていた。

 

「きゅ?」

 

 引き止めたのか。ただ動いた袖が気になっただけなのか。

 理由は分からない。だが、拓海にとっては、その仕草だけで十分すぎるほどだった。

 

「じゃ、明日からこの施設で飼育実習ね」

 横から榊原が言った。

「明日!?」

「やりたいんでしょ?」

「やります」

「朝八時」

「来ます」

「早いなあ、返事が」

 

 帰り際、部屋を出る前にもう一度振り返る。

 小竜は枝の上にちょこんと座り、こちらを見ていた。

 拓海は小さく手を振った。もちろん、その意味が通じているかは分からない。

 小竜は「きゅ」と一声鳴いた。

 

 重い扉が閉まる。

 廊下に出た拓海は、その場で数秒間停止した。

 左右を見渡し、誰もいないことを確認してから。

 

「…………めちゃくちゃ、かわいかった……」

 

 深いため息と共に漏れたその言葉が、彼と魔法生物たちの、騒がしくも愛おしい日々の始まりだった。




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