魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
木曜日の夕方。
水野拓海は、自室の机の上で一つ大きなため息をついた。
机には、間取りがプリントされた紙、金属製の巻尺、スマートフォン、そして榊原教授と一緒に作り上げた『飛翔可能個体用・室内安全チェックシート』が広げられている。
拓海はチェックシートの最後の一項目に、赤ペンでチェックマークを書き込んだ。
「……よし」
これで、予定していた安全対策の第一段階は完了したことになる。
あの日――ルリが初めて机の上から空中へ飛び立った日曜日の午後から、拓海はケージ外探索を完全に休止していた。
「飛べる」という能力が確認された以上、机の上の平面図しか想定していなかった部屋は、危険だらけの立体空間へと変貌してしまったからだ。
ルリを部屋に出してやりたい気持ちはあったが、安全が確保できない状態での見切り発車は飼育者として失格だ。「飛べるようになったからこそ、逆に外へ出せない」というもどかしい数日間を、拓海はルリの安全対策のためのDIYに費やしていた。
月曜から水曜にかけて、拓海が施した対策は以下の通りだ。
まず、窓周辺。
窓の施錠、サッシの補助ロック、遮光カーテンの完全閉鎖はこれまで通り継続。
加えて、ルリがカーテン上部やレール周辺へ入り込めないよう処理を施した。ただし、巨大な板で窓全体を塞ぐような真似はしない。賃貸アパートである以上、原状回復は必須だ。
レール裏の狭い落ち込みや、カーテンボックスとの隙間など『小竜が入り込むと人間の手が届かなくなり、回収が困難になる箇所』だけを、軽量なプラスチック段ボールと養生テープを使った手作りの安全カバーで塞いだ。テープの粘着面や端部はルリ側へ露出させず、カーテンそのものの生地に爪や角が引っ掛かりやすい箇所がないかも確認済みだ。
エアコン周辺。
探索中は原則として電源を停止する。
上面や壁との隙間のうち、やはり入り込んだら人間の手が届きにくい場所に簡易的なネットガードを設置した。吹出口付近に直接止まれないようにも工夫してある。もちろん、四六時中エアコンを使えなくするわけではない。あくまでケージ外探索の時間中だけの運用だ。
本棚。
高い場所だから安全だろうと、今まで上に積んでいた空き箱や紙類、小物を全て撤去した。ルリが着地した拍子に倒れたり滑ったりする危険物をなくすためだ。
また、本棚と壁の間にあった、ルリの細い身体なら入り込めそうな微妙な隙間も、ウレタン製のクッション材で塞いだ。
壁掛け時計と天井照明。
時計の裏側の隙間をチェックし、問題ないと判断。天井照明の周辺も、熱の発生状況、配線の露出、潜り込める隙間を確認した。通常のLED照明自体が即座に危険というわけではないが、近づきすぎないよう注意が必要なポイントとして記憶する。
家具の上全般。
人間側が今まで「届かない場所だから」と適当に物置にしていた高い場所を、すべて整理した。飛翔能力を持つルリにとっては、すべての場所が「届く可能性がある場所」になるのだ。
そして。
今回の対策の要は、単に危険な隙間を塞ぐことだけではない。
『全部を壁で塞ぐだけじゃ駄目だよ』
と、安全対策を相談した際に榊原は言った。
『危険箇所をなくすんですよね?』
『危険箇所は減らす。でも、空を飛ぶ個体なのに、着地できる場所まで全部なくしてツルツルにしてしまったら、結局行き場がなくてパニックになるでしょ』
だから拓海は、部屋に三か所だけ、『安全な着地点』を新たに作った。
豪華なキャットタワーのようなアスレチックではない。まだ安全性の試験段階であるため、簡素なものだ。
【安全着地点A】
机より少し高い位置、壁際。無塗装の木材で作った幅十五センチ、奥行き十センチ程度の小さな棚。既存の家具を利用してクランプで固定しているため、壁に穴は開けていない。表面には滑りにくいコルクシートを貼り、角は丸く落としてある。
【安全着地点B】
本棚の中段から上段近く。本棚の上に直接乗るのではなく、本棚の側面を利用して安全に固定された、小さな足場。
【安全着地点C】
カーテンレール方向へ飛んだ場合に、その手前で着地できるような位置。前回、ルリが見上げた危険箇所の方向に、わざと『手前の安全な足場』を用意した。
「ここに必ず止まれ、って誘導するわけじゃない」
拓海は着地点Cの強度を確認しながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
「飛んで疲れたり、どこかに止まりたいと思った時に、安全な場所が一個もないよりはマシ、ってだけだ」
榊原からの釘刺しも忘れていない。
『止まり木を飛行訓練のコースにしないこと。飛んでくれないからって、着地点に餌を置いて誘導したりしない』
『分かってます。しません』
『使わなくても、すぐに撤去を急がないこと』
『……それ、寝床の時にも言われましたね』
これで準備は整った。
***
拓海は大きく深呼吸をした。
先週の木曜日、初めてルリを机の上に出した時とは、緊張の種類が全く違っていた。あの時は「初めて外に出す!」というワクワク感が先立っていたが、今日は完全な安全管理責任者としてのプレッシャーが勝っている。
窓のロックよし。
ドアの施錠よし。
キッチンの遮断よし。
エアコン停止、熱源なし、開放された水なし。
高所への侵入防止カバー、すべて設置よし。
安全着地点A、B、C、ぐらつきなし。
カメラの位置、よし。
認可撮影端末は、今回は机の上だけでなく、室内の広めの範囲がフレームに収まる位置に固定した。部屋の全てを一台で完璧に映すのは無理だが、ルリが向かう可能性が高い主要な空間はカバーできている。録画を開始する。
「……よし」
拓海はケージの前に立った。
「今日は、前よりは飛んでも大丈夫なはずだ」
と言ってから、すぐに首を横に振る。
「いや。“大丈夫”って断定するな、俺。……前よりは危険を減らした、だな」
拓海はスライド窓のロックを外し、短い固定足場をカチャリと設置した。
枝の上にいたルリが、窓が開いたことに気づく。
拓海は待った。
ルリは枝からするすると降りてきて、固定足場へと向かった。
とて、とて。
ルリは、ごく普通に固定足場を歩き、机の上の観察マットへと降り立った。
「……そこはまだ歩くんだな」
拓海は小さく呟いて、少しだけ肩透かしを食らった。
飛べるからといって、移動のすべてを飛翔に頼るわけではないらしい。少なくとも今のルリは、いつも通り固定足場を歩いていた。
最初は、見慣れた机の上の探索から始まった。
トテ。トテ。
マットの上を歩き、立ち止まり、すん、と匂いを嗅ぐ。向きを変えてまた歩く。
今日はペンなどの危険物もおもちゃも、水浴び用の皿もない。本当にただの空間探索だ。
新しく設置した壁際の安全着地点Aがルリの視界に入るように配置してあるが、拓海は手で指し示したり、呼んだりして誘導することはしない。
「…………かわいい」
拓海は小声で漏らした。飛ばなくても、歩いているだけでルリは十分にかわいいのだ。
探索開始から一分ほど経つと、ルリは机の端近くまで歩いていった。
そこから先の動きは、もう拓海にとって完全な初見ではない。
ルリは以前にも使った椅子の背もたれへ頭部を向け、身体を低くした。
翼が開く。
拓海は止めなかった。
飛翔経路と着地点だけを確認しながら、そのまま見守る。
(飛ぶ)
ぱっ。
「……よし」
以前なら声を上げていたところだが、今日は違った。
ぱたぱたっ。
ルリは机から椅子の背もたれへ短く飛び、危なげなく着地した。
前回にも使った、四十センチほど先の場所だ。
着地後の姿勢にも、外見上明らかな異常はない。
「……飛んだ」
声は自然と小さくなっていた。
前回のように大騒ぎする必要は、もうなかった。
それでも、拓海の口元は完全に緩んでいた。
ルリは椅子の背もたれをトテ、トテと歩き、やがて再び机へ短く飛んだ。
拓海は認可端末の画面をちらりと確認する。
(よし。着地も問題なし)
「……椅子の上だと、やっぱり異様に小さく見えるな」
人間用の家具と並んだ時だけ強調される、全長十から十二センチという小ささに、拓海は一人でほくそ笑んだ。
その後も、既知の場所での移動は続いた。
机へ戻ったルリはそのまま数歩歩き、ベッドの方向へ頭部を向ける。
身体が沈み、翼が開いた。
拓海は今回も止めず、着地点だけを見る。
(ベッドか)
ぱたぱた。
ルリはベッドの端へ飛び、柔らかなシーツの上へ着地した。
「……そこも前に行ったな」
飛翔能力そのものを改めて確認することは、もう今回の目的ではない。
ルリはシーツの上をとてとてと数歩歩き、前脚が少し沈んでも今回はそのまま進んだ。
「……そこはもう見慣れてきたな」
ルリがその場所をどう認識しているかは分からない。ただ、拓海にとっては見慣れ始めた行動だった。
そして今回は。
そこから先に、これまでにはなかった新しい選択肢が用意されていた。
壁際。
ベッドより少し高い位置。
拓海が新しく設置した、安全着地点Aだ。
ルリが頭部をそちらへ向ける。
拓海の呼吸が、ほんの少しだけ止まった。ここからが、今日初めて見る行動だった。
***
その直後だった。
ベッドの上にいたルリが、頭部を壁の方向へと向けた。
そこには、拓海が新しく設置した『安全着地点A』の小さな木棚がある。
拓海はじっと見守った。
(行くか?)
ルリの身体が沈み込む。翼が、ぱっ。
ぱたぱた。
とす。
見事な着地だった。
ルリは、拓海が用意した新しい安全着地点Aの上に、自発的に飛んで降り立ったのだ。
「…………使った」
拓海は思わず声を漏らした。
「そこなら、いいぞ!」
自分が設置した安全設備を、ルリが自発的な着地点として利用した。その事実だけで、三日間の作業が少し報われた気がした。
ルリは着地点のコルクの上を歩き、表面へ鼻先を寄せて匂いを嗅いだ。
そして。
着地点の端、すぐ横の壁にある隙間を塞ぐために拓海が設置した『安全カバー』に気づいた。
ルリは頭を向け、安全カバーに鼻先を近づけた。
すん。
そして、右の前脚を上げて。
ちょい。
安全カバーを軽く突いた。
カバーはしっかりと固定されているため、動かない。
「……いきなりそこ確認するのかよ」
拓海は呆れたように呟いた。
ルリの行動は、ここから奇妙な方向へ進み始めた。
安全着地点Aから、本棚の側面に固定した安全着地点Bへと飛翔する。
Bの周囲は、以前あった段ボール箱などを撤去し、足場から壁際まで余計な物がない状態にしてある。
ルリはBの上を壁際までトテトテと歩き、本棚と壁の『狭い隙間』を塞いだ部分の前へ来た。
今は、ウレタンのクッション材でしっかりと塞いである。
ルリは近づき、クッション材の匂いを嗅ぐ。
すん。
右の前脚で、ちょい。
またしても動かない。
「……そこも見るのか」
拓海はツッコミを入れた。
ルリは塞がれた隙間の前で、こてっ、と首を傾げた。
「いや、前はそこに入ったことはないからな?」
拓海はルリが「前は通れたのに」と思っていると解釈しそうになり、すぐに打ち消した。
「今日初めて見て、素材の違いが気になってる可能性だってあるんだからな」
と、セルフツッコミで冷静さを保つ。
そして、三か所目。
カーテンレールの方向。
ここが今回の小さな山場だった。
前回、ルリがこの方向を見上げただけで、拓海は危険を感じて予定より早く探索終了を判断したのだ。
ルリが本棚の近くから、上を見た。
拓海は反射的に身体が硬くなる。
「…………」
でも今回は、違う。
カーテンレールそのものへ到達する少し手前に、『安全着地点C』が設置してある。
ルリの身体が沈み込む。翼が、ぱっ。
拓海は、止めなかった。
「待って」と声をかけることもなく、安全条件を整えた自分の対策を信じて、じっと見守った。
ぱたぱた。
ルリは空を切り裂き、見事に安全着地点Cの上へと着地した。
拓海は大きく息を吐き出した。
「…………そこなら、いい」
この一言は、拓海にとって非常に重要だった。
安全対策とは「飛ばせない」ことではない。「飛んでもいい場所を作ること」なのだと、実感として理解できた瞬間だった。
ルリは着地点Cの上をトテトテと歩き、カーテンレール側を見た。Cの端から届く範囲には侵入防止カバーがある。
そこには、ルリが入り込めないように施した侵入防止処理のプラスチック段ボールがある。
ルリは近づける限界まで近づき、鼻先を近づけた。
すん。
右の前脚で。
ちょい。
「またか!」
拓海はついに笑い出してしまった。
拓海が三日かけて対策した場所を、ことごとく、匂いを嗅ぎ、前脚で触り、上から覗き込んでいる。
「お前、この三日で俺が触ったところばっかり見てない?」
もちろん理由は不明だ。新しい素材の匂いなのかもしれないし、単に部屋の中で形状が変化した部分に新奇の刺激を感じているだけかもしれない。
「きゅ?」
「点検業者かよ、お前」
ルリは拓海の方へ頭部を向けた。
カメラは、その『点検作業』の一部始終を完璧に録画し続けていた。
安全カバーをちょい。別のカバーをすん。棚をトテトテ。
めちゃくちゃかわいい。
ただし、一か所だけ、拓海が最も緊張する瞬間があった。
ルリが、エアコンの方向へ頭を向けたのだ。
「そこは、頼むからやめてくれ」
エアコンは停止しており、周囲も対策済みだが、精密機械と配線が絡む場所だけに最も不安が大きい。
ルリは見上げたまま数秒間静止していたが。
やがて、安全着地点の方へ向きを変え、そちらへ飛んだ。
「そっち選んだか……」
拓海は安堵した。ただし、「ルリが安全な方を理解して選んだ」とは記録に書かない。単にそこへ飛んだという事実だけだ。でも、人間としては素直に嬉しい。
***
その後もルリは、椅子の背、ベッド、安全棚A、本棚側のB、安全棚C、そして机の上を、飛ぶ、歩く、止まる、嗅ぐ、という動作を繰り返しながら自由に移動した。
決して飛びっぱなしではなく、歩いている時間の方がずっと長かった。
その理由を拓海は断定しない。そういう行動パターンが観察されたというだけだ。
やがて、ルリは机の上に戻ってきた。
ふと、例のコルクのおもちゃなどが入った箱の方向を見る。
「今日はコルクは出さないぞ」
ルリは箱には近づかず、マットの上で前脚を舐めたり鱗の表面を整えたりし始めた。
「……分かってて言ってないよな、俺」
拓海は自分のおかしな会話に苦笑した。
探索時間が、そろそろ終了予定の時刻に近づいていた。
前回は危険を感じて予定より早く探索終了を判断したが、今回は予定時間まで安全に観察を続けることができた。これが今日最大の成果だ。
「今日はここまでにしよう」
拓海は呟き、待機に入った。もちろんルリへの命令ではない。
しかし。
ルリは帰らなかった。
机の上から安全着地点Aへ歩き、そこから飛んで椅子へ移動する。
「…………帰らないな」
だが拓海は焦らない。
固定足場は設置されたままだし、ケージの窓も開いている。安全な帰還経路は完全に確保されている。ルリを無理やり捕まえたり、餌で釣って誘導したりは絶対にしない。
ただ待つ。
ルリはもう一周、椅子から机、そして安全棚へと探索を続けた。
「いや、終わる気ないな、お前?」
「きゅ」
もちろん、その声の意味は分からない。
そして、さらに五分後。
ついにルリが机の上へ戻り、ケージの前までやってきた。
(今日はどっちだ?)
前回は机からケージ内の枝へ直接飛翔して帰還している。拓海は黙って行動を見守った。
ルリは、固定足場の前に立った。
そして。
とて、とて。
ごく普通に、足場を歩いてケージの中へと入っていった。
「…………今日は歩いて帰るんかい!」
見事な肩透かしに、拓海は最高に間の抜けた声を上げた。
ルリはケージ内の枝に座り、「きゅ」と一声鳴いた。
拓海はすぐにスライド窓を閉鎖し、確実にロックをかけ、固定足場を撤去した。
健康確認。呼吸、翼、脚、姿勢、すべて明らかな異常はなし。
拓海は、安全対策を施した自分の部屋を見渡した。
前回は、どこもかしこも危険だらけに見えて絶望した。
今日は、全部が完全に安全とは言えないかもしれないが、少なくとも「危険を減らした状態」で、最後までルリの探索を見守り切ることができた。
それが、少しだけ誇らしかった。
***
拓海は認可端末を取り出し、動画の確認を行った。
ルリが安全棚Aに降り立ち、カバーに前脚をちょい、と乗せるシーン。
「ここからかよ」
次に本棚のカバーに、ちょい。
「そこも」
カーテン側のカバーの匂いを嗅ぎ、ちょい。
「全部見てるじゃん」
もちろん「点検している」わけではない。でも、そう見えてしまうのが愛おしい。
拓海はバインダーを引き寄せ、死ぬほど真面目な文章で正式な記録を書き始めた。
『飛翔対応後、初の室内ケージ外探索を実施』
『飛翔可能性を前提とした侵入防止および高所安全対策(暫定)の施工後に実施』
『個体、机・椅子・寝具上、および新設の安全着地点複数箇所を自発的に利用して探索』
『歩行および短距離飛翔を併用。新設安全着地点A/B/Cへの着地を確認』
『安全対策により形状・配置を変更した箇所への鼻先接近、前肢接触を複数回確認。当該行動の目的は不明』
これだ。目的は不明、と書くことが重要だ。
『カーテンレール・エアコン周辺などの危険高所への直接侵入はなし』
ただし、「対策のおかげで侵入しなかった」という因果関係の断定は避けた。
『探索終了予定時刻後も、しばらく室内移動を継続。担当者による追跡・捕獲・食物等による誘導は一切なし』
『最終的に、固定足場を経由して自力での歩行帰還を確認。帰還後ロック。外見上明らかな異常なし』
拓海はペンの先を少し浮かせた。
『安全設備を点検するような――』
そこまで書きかけて、ピタッと止まる。二重線で綺麗に消す。
「違う違う。そう見えるだけだ。危ない危ない」
記録には、あくまで『形状変更箇所への接近・接触』とだけ残す。
***
拓海は認可端末から動画を転送し、スマホの指定アプリを開いた。
『先生』
『どうだった?』
『安全対策した場所を、片っ端から見に行きました』
『それは水野君の感想?』
『はい』
『じゃあ、正式な記録には?』
『「形状変更箇所への接近・接触を複数回確認」です』
数秒の間。
『よろしい』
『試験みたいに言わないでくださいよ』
榊原からの返信が続く。
『新しく形が変わった場所の視覚的変化とか、新しいカバー素材の匂いとかが気になった可能性はあるね』
『やっぱりそうですよね』
『でも、本当の理由はまだ分からない』
『分かってます』
動画についての話題に移る。
『動画ある?』
『あります』
『送って』
『もう記録システムに上げてあります』
『早いね』
『先生が絶対に見たがると思ったので』
数分後。
『かわいいね』
『どこがですか?』
『侵入防止カバーを前脚で触るところ』
『やっぱり点検業者に見えるじゃないですか』
『それは水野君の感想でしょ』
見事に逆に返された。最近、教授とのこういう軽いやり取りが完全に自然になっている。
榊原のメッセージが、重要なまとめに入った。
『安全対策って、動物を動かなくさせることじゃないからね』
『はい』
『危険な選択肢を減らして、その代わりに安全に選べる場所を増やしてやる。その方が、飼育環境としてはずっといい』
拓海は、新しく設置した安全着地点の動画を見返した。
ルリが机から椅子へ、そして棚へ、ベッドへ、自由に自分の行きたい場所を選んでいる。
『……前より、ルリが動ける場所、増えてますもんね』
『そういうこと』
ただし、榊原は最後に釘を刺すのを忘れなかった。
『今日、たまたま問題が起きなかったからといって、これで安全対策が完成したわけじゃないよ』
『ですよね』
今後も、ルリが安全着地点をどれくらい利用するか、想定外の飛行経路を通らないか、手作りカバーの劣化はないか、着地点の固定は安定しているか、そして成長による体格や飛行能力の変化はないか。
観察し、評価し続ける項目は山ほどある。
『……これ、終わらないですね』
『飼育ってそういうものでしょ』
それ以上ないほど簡潔な答えだった。
***
夜。
拓海は自室の椅子に座り、壁に設置された安全カバーや小さな棚を見つめた。
昨日までとは、部屋の見た目が少し変わっている。
「俺の部屋、ちょっとずつルリ仕様に侵食されてきてるな……」
もちろん、賃貸アパートである以上、原状回復可能な固定方法にはこだわっている。壁に直接ネジを大量に打ち込んだりするような馬鹿な真似はしない。既存の家具や突っ張り式のポールなどを利用した、スマートな対策だ。
ケージの中では、ルリが屋根の上でいつものように丸くなっている。
「今日、お前、俺が必死に変えたところばっか触ってたよな」
「きゅ」
「だから、何の意味があって触ってたのかは分からんけどさ」
拓海は自分で自分を律することができるようになっていた。
拓海は認可端末を操作し、今日の動画をもう一度再生した。
安全カバーにルリの前脚が、ちょい、と触れるシーン。
画面の端に表示されたタイムスタンプを確認する。探索開始から、七分四十二秒。
「俺が三日かけた安全対策、十分もしないうちに触られたのか……」
拓海は苦笑した。
でも、ルリが触っても、カバーは壊れたり外れたりすることはなかった。
「……まあ、触られても壊れないために頑丈に付けたんだから、大正解か」
安全対策は、ルリを動けなくするためのものではない。
危険な場所へ行かなくても、ルリ自身が選べる場所を増やすためのものだ。
その意味では、探索開始から十分もしないうちに前脚を乗せられてもビクともしなかった手作りの侵入防止カバーは、どうやら初日の厳しい実地試験には見事合格したらしい。
なお、部屋中の対策箇所を一通り入念に確認して回ったようにしか見えなかったルリ本人は、拓海に何の点検報告書も提出することなく、いつもの屋根の上ですでにすやすやと眠っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!