魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
土曜日の午後。
水野拓海は、自室の机の上で紙のバインダーをパラパラと捲っていた。
探しているのは、先週の日曜日に記入した飼育記録のページだ。
「……あった」
拓海はそのページを指でなぞりながら、当時の記録を小声で読み上げた。
『浅型トレー。直径約十八センチ。深さ約二センチ』
『水深約五ミリ』
『水温二十五・一度』
『個体、自発的に四肢を水中へ――』
ページをめくると、自分がやらかした失敗の記録もちゃんと残っていた。
『初回設置時、個体接触によりトレーが約一センチ移動。担当者判断で一時撤去。底面に滑り止めおよび重量基部を追加して再設置』
「……これもちゃんと残ってるな」
拓海は苦笑した。飼育者としての失敗を隠さずに記録することも、重要な義務の一つだ。
さらに記録を追い、前回の行動パターンを脳内で反芻する。
最初は水皿で前脚を濡らすだけの行動から始まり、より大きな浅型トレーを提示したところ、四脚すべてが水に入り、腹面まで水に接触。前脚で水面を叩き、翼の先端を水に触れさせ、左右の翼を動かして水しぶきを飛ばした。
自発的に退出した後は全身を震わせて水滴を飛ばし、その後は通常通りの身繕い。健康上の明らかな異常はなし。
そして、その報告を受けた際の、榊原教授からのコメント。
『一回だけなら、まだ「水浴びが好き」とは言わない。数日空けて、似た条件でもう一度様子を見よう』
本来であれば数日後の水曜日か木曜日あたりに行う予定だったが、その後は認可端末の導入、おもちゃ(コルク片)の提示、初飛翔、そして飛翔対応の室内安全対策と、立て続けに新しい出来事が発生した。
新しい刺激を立て続けに重ねて観察条件を複雑にしないため、意図的にこの再確認を土曜日まで保留していたのだ。
「よし。今日は、前回と似た条件でもう一度出してみる」
拓海は気合を入れるように呟いた。
あくまで『水浴びをさせる日』ではない。『水場をもう一度選択肢として提示し、ルリがどう反応するかを観察する日』だ。
この線引きは、飼育者として絶対にブレてはいけない。
しかし。
拓海の視線は、机の端に置かれた黒い小型の物体――八咫烏認可の専用撮影端末へと吸い寄せられた。
「…………今度は、撮れる」
前回は、このカメラを持っていなかった。
鼻先に一滴だけついた水滴。翼でばしゃっ、と水を飛ばす瞬間。ぶるるるっと全身を震わせる姿。
あの時のかわいすぎる光景は、すべて拓海の記憶の中にしか残っていないのだ。
今日は違う。
「撮りたい」
一秒後。
「めちゃくちゃ撮りたい」
さらに一秒後。
「……いや、駄目だ。落ち着け俺」
拓海は顔を叩いて自制した。
つい先日、写真を撮るためにルリを動かそうとして失敗した教訓がある。
水へ入れるために餌で誘ったりしない。写真映えする位置へ無理に誘導したりしない。「こっち向いて」と無意味に名前を呼んだりもしない。
「水浴びをするかどうかを観察するのが先。写真はその結果だ」
拓海は自分に言い聞かせた。
「……まあ、それはそれとして、撮れたら最高なんだけど」
本音も少しだけ漏れた。
***
拓海はスマートフォンを取り出し、指定の暗号化アプリを開いた。
『先生。今日、浅型水場の再提示を行おうと思います』
すぐに榊原から返信が来た。
『前回との条件は?』
拓海は数値を打ち込んで送信する。
『トレーは同一の樹脂製のもの。固定方法も同じくシリコンマットと重量基部を使用。水深約5mm。水温は室温に近い25℃前後。設置場所もできるだけ前回と同じ机上の位置。通常の飲水用水皿は撤去しません。撮影端末は固定で設置。食物による誘導はなしです』
『いいと思う』
榊原からの許可が出た。そして、余計な一言が続く。
『今度は動画も写真も撮れるね』
『先生も、そこ一番期待してますよね?』
『研究記録としてね』
『今の返信速度じゃ説得力ないですよ』
いつもの軽いやり取りの後、榊原から一つだけ釘が刺された。
『ただし、水に入らなくてもそれが今日の結果だからね』
『分かってます。前脚だけ入れて終わるかもしれないし』
『うん』
『完全無視かもしれない』
『その通り』
『その場合でも、俺が手を出してトレーへ押し込んだりすることは絶対にしません』
拓海は即答した。
***
準備開始。
既存の予備飼育用品箱から、前回使ったのと同じ浅型トレーを取り出す。直径約十八センチ、深さ約二センチ。底面には細かな凹凸加工があり、滑りにくい形状だ。
前回の失敗を教訓に、今回は最初からシリコン製の滑り止めマットを敷き、重めのセラミックリング状の基部にトレーをはめ込んだ。
指で横から軽く押してみる。
「よし。ほぼ動かない。今回は最初から固定完璧」
少しだけ自分が成長したのを感じる。
水を入れる。深さは約五ミリ。
温度を確認する。小型温度計の表示は、25.0℃。前回の25.1℃に極めて近い。室温も通常範囲、湿度もマナ濃度も正常だ。
だが、拓海は『完全同条件』だとは考えない。
相手は生き物だ。時刻も違うし、その日の活動状態や直前の行動も違う。「似た条件であって、完全な再現実験ではない」。その慎重さを忘れてはならない。
最後に、撮影端末のセッティングだ。
今日は以前の教訓を生かす。最初から『固定動画』を主記録とする。
トレー全体とその周囲がしっかりとフレームに収まる位置に三脚を立てる。レンズをルリの顔に不自然に近づけたりはしない。フラッシュや補助光もオフだ。
拓海の手元には、三脚に固定した認可端末を動かさず、動画撮影中でも静止画を切れる付属のシャッターリモコンを置いた。
しかし、まずは固定動画が本命だ。
「俺が撮る写真は、あくまでおまけ」
そう自分に言い聞かせる。これなら、撮影に夢中になって安全監視の目が疎かになることもない。
***
安全対策を施した部屋で、ケージ外探索を開始する。
スライド窓のロックを外し、いつもの短い固定足場を設置した。
ルリが枝から降りてきて、固定足場をトテ、トテと歩く。
そして、机の上の観察マットへと降り立った。
「……飛べるのに、そこは本当に歩いて出るんだな」
拓海は軽くツッコミを入れた。もはや恒例の光景だ。
机の上には、浅型トレーが置かれている。
しかし、ルリは提示後しばらくトレーへ接近しなかった。
机の上を歩き、椅子の背もたれを見上げ、拓海が新設した安全着地点Aの方向を見やる。少しだけ翼を動かし、飛ぶような素振りも見せた。
浅型トレーは、いつもの探索範囲の中に置かれている。
それでも、ルリは行かない。
「…………」
拓海は黙って待った。
三分経過。五分経過。
「今日は、入らないか?」
期待はしている。どうしても、あの可愛い水浴びをもう一度見たいという気持ちはある。でも、動かさない。手で押したりしない。
「……まあ、それならそれでいいか。今日は入らない日かもしれないな」
拓海は結果をすんなりと受容した。
バインダーの記録用紙に、『提示後5分経過、接触行動なし』と事実だけを書く。
しかし、その後だった。
机の奥の方を探索していたルリが、向きを変えて戻ってきた。
その頭部が、まっすぐに水場の方向を向いている。
拓海は気づいたが、ピクリとも動かない。
ルリが、とて。とて。と、トレーへと近づいていく。
第一接触。
トレーの縁に、鼻先を寄せる。
すん。
水面をじっと見つめる。
そして。
右の前脚を少し上げ、トレーの縁を越えて。
浅い水の中へ。
ぺちゃ。
(……来た)
拓海は心の中で呟いたが、口には出さない。
続いて、左の前脚も。
ぺちゃ。
前回の小さな飲水用の小皿とは違う。最初から全身が入る大きな浅型トレーだ。胸が縁に引っ掛かって入れないという物理的な障害はない。
前脚二本を入れた状態で、ルリは少しの間静止した。
やがて。
右の後脚が一つ。
そして、最後の一本。左の後脚も。
四脚すべてが、浅い水の中に入った。
「…………入った」
拓海は極限まで声を落として呟いた。
しかし、まだ「水浴びの再現だ!」と喜ぶのは早い。
ただ水へ入っただけだ。偶然踏み込んだ可能性もゼロではない。
ルリは、水深五ミリのトレーの中で、身体を少し低く沈み込ませた。
クリーム色の腹面が、浅い水へと触れる。
ゆら、と水面が揺れる。
短い尻尾の先も、水に浸かっている。
ルリはそのまま、再び静止した。
拓海は息を殺して、ひたすらに見守る。
そして。
右の前脚が動いた。
水面を、前へ向かって。
ぱしゃ。
小さな水滴が跳ねる。
「……!」
拓海の心臓が跳ねる。
もう一度。
ぱしゃ。
左の前脚でも。
ぱしゃ。
少なくとも拓海の目には、水遊びを楽しんでいるようにしか見えない光景だった。
しかし、拓海の頭の中の飼育記録の文面は、あくまで『前肢による水面への接触行動を反復』という事実を中心に構成されている。
前脚が飛ばした水が、一滴。
ルリの鼻先に、透明な粒となってぴちゃん、と付着した。
大きな瑠璃色の瞳。鼻先の一滴。
拓海の脳内で、強烈な警報が鳴り響いた。
(撮りたい!!)
静止画チャレンジ第一弾。
拓海は手元のシャッターリモコンへ、ゆっくり指をかけた。認可端末は三脚に固定したままで、動画撮影を止めずに静止画だけを切る。
自分から構図は変えられない。固定画角の中で、ルリの顔と鼻先の水滴がきれいに収まる瞬間を待つだけだ。
(今だ!)
リモコンのシャッターボタンを押す。
カシャ。
電子音が鳴った、まさにその瞬間。
ルリが頭をスッと下げて水面を覗き込んだ。
プレビュー画面を確認する。
そこに写っていたのは、鼻先の水滴などではなく、ルリの赤銅色の『頭頂部』と、揺れる水面だけだった。
「…………」
相変わらず、まともな写真が撮れない。
「大丈夫。固定動画は確実に回ってる」
拓海は自分を慰めた。以前のように、焦って何度もシャッターを切るようなことはしない。これもまた、一つの成長だった。
ルリの行動は、さらに次の段階へと進む。
水の中で、身体を少しだけ持ち上げる。
背中に畳まれていた左右の皮膜の翼が、少しだけ外側へと開かれた。
翼の先端が、水面へと下りていく。
ぺちゃ。
反対側も。
ぺちゃ。
「来るか……?」
拓海は前回、自分がびしょ濡れになった光景を鮮明に覚えていた。
ばしゃっ!!
ルリの左右の翼が、大きく、力強く動いた。
水滴が勢いよく宙を舞う。
しかし今回は、拓海は前回よりも少しだけ距離を取って観察していた。顔面に直撃することは免れた。
だが、机の上の観察マットには、ぽつぽつと細かな水滴が飛び散っている。
「今度は距離取ってるからな!」
拓海は心の中で、ルリに対して謎の勝利宣言をした。
ルリの動きは止まらない。
左の翼で、ばしゃ。
右の翼で、ばしゃ。
水が、ぱっ、ぱっ、と弾け飛ぶ。
水滴の付いた翼膜。濡れて少し色濃く見える赤銅色の身体。クリーム色の腹面。そして、キラキラと輝く瑠璃色の瞳。
水しぶきの中で躍動するその姿は、めちゃくちゃに絵になっていた。
(これは無理だ。撮る)
拓海の撮影欲が再び爆発した。
静止画、二枚目。
カシャ。
画面を確認。
ピントがルリではなく、手前に飛んできた『水滴』の方に完璧に合ってしまい、肝心のルリがぼんやりとぼやけている。
「なんで水滴のピントに負けるんだよ!」
枝にピントを持っていかれた日の悪夢の進化版だった。
三枚目。
カシャ。
ルリが翼を閉じる瞬間にシャッターが落ち、片翼だけが不自然に写った謎の写真。
四枚目。
尻尾だけのアップ。
五枚目。
トレーの縁が主役。
「水浴びしてるだけなのに、写真難易度高すぎるだろこれ……!」
拓海は嘆いた。
そこで拓海は無意識に、より良い構図を求めて三脚の向きを少し変えようと、トレーの方へ身体を近づけそうになった。
――ピタッ。
拓海は踏み出した足を止めた。
前回の榊原の言葉。『撮るために行動させないこと』。
今度はもっと進んで、『撮るために自分やカメラの位置を変え、ルリの行動条件まで変えてしまう』危険性に気づいたのだ。
「……固定カメラで、最高の動画は撮れてるはずだ」
拓海は三脚へ伸ばしかけた手を戻し、リモコンからも指を離した。
「俺は、見る方に戻ろう」
***
やがて。
ルリが自発的にトレーから出た。
とて、とて。
コルクの安全着地点の近く、机の乾いた部分へと移動する。
全身には水滴が残り、翼膜にも少量の水分が付着している。
ぶるるるるるっ!
ルリが小さな身体の全身を震わせた。前回と同じ行動だ。
水滴が放射状に飛び散る。
固定カメラは、その完璧な瞬間を真正面から捉えているはずだ。
「よし、撮れてるはずだ」
拓海はすぐにカメラの映像を確認に行きたかったが、我慢した。ルリはまだ行動中だ。観察を優先する。
しかも。
今日のルリの行動は、ここからが前回とは違っていた。
だが、この後に起きた行動は、前回の記録にはなかった。
ぶるると水を飛ばした後、ルリがそのまま身繕いへ移る――と、拓海は思っていた。
ところが。
ルリは、撤去せずに置いてある浅型トレーの方へ、再び頭部を向けたのだ。
そして、向きを変える。
とて。とて。
トレーの方へと、歩き戻っていく。
「…………え?」
ルリは、自分からまたトレーの縁に前脚をかけた。
右前脚、左前脚。
続いて後脚も。そして、腹面を水へ。
二回目の、自発的な入水だった。
これが、単なる「水浴びの再現」以上に強い観察事実だった。
同じ一回の提示時間内に、一度退出したにもかかわらず、また自ら水に入り直したのだ。
少なくとも、「偶然一度だけ水へ入った」という説明だけでは、かなり捉えにくくなった。
「……戻るの!?」
拓海は思わず声を漏らした。
「きゅ」
ルリは水の中から短く鳴いた。その声が何を意味するのかは分からない。
二度目まで自分から水へ戻っていく姿は、拓海にはどう見ても水浴びを楽しんでいるように見えた。
二回目は、前脚を入れるだけでなく、すぐに翼を使って水面を叩き始めた。
ぱしゃ。
ばしゃっ。
水滴が飛び、身体を低くし、少し止まり、またぱしゃ、と水を掻く。
この反復行動まで見ると、「偶然一度だけ水に触れた」という説明だけでは捉えにくくなっていた。
でもまだ、飼育記録上は「快楽目的である」「遊戯目的である」とは断定できない。
(これ、どう見ても楽しんでないか?)
拓海の心の声が響く。
(いや、記録には書かないぞ。絶対に書かない)
拓海は必死にセルフ制御を働かせた。
散々ばしゃばしゃと水を跳ね飛ばした後。
ルリの動きが、ふと止まった。
トレーの中央。
腹面を浅い水に浸し、四脚を少し曲げた姿勢。翼は背中にきっちりと沿わされている。
一瞬、ルリが完全に静止した。
鼻先には、小さな透明な水滴が一つだけ乗っている。
瑠璃色の大きな瞳が、静かに前方を見つめている。
水面には、細く美しい波紋が広がっている。
拓海は息を止めた。
手元のシャッターリモコンへ、今度こそ静かに指をかける。
固定画角の中で、偶然にも構図がきれいに整っていた。
カシャ。
一枚だけ。
今度は、うまく収まった気がした。撮れた。
だが、拓海はその場ではすぐに液晶画面のプレビューを確認しなかった。
撮影後すぐに画面を見るのではなく、ルリから目を離さず、安全監視と観察を優先する。これも飼育者としての基本だ。
その直後だった。
静止していたルリが、突然翼を大きく動かした。
ばしゃっ!!
放物線を描いて飛んできた水滴のいくつかが、拓海の着ているパーカーの胸元に、ぽつ、ぽつ、とシミを作った。
「……結局、こっちにも飛んでくるのかよ!」
拓海は苦笑いした。
今回は距離を取っていたため、びしょ濡れにはならなかった。数滴だけのお裾分けだ。
***
数分後。
ルリは自発的にトレーから出た。今度はもう戻らない。
机の乾いた部分へ移動し、自分の前脚をぺろぺろと舐め、鱗の表面へ鼻先を寄せ、翼を少し開いては閉じる。身繕いと思われる動作だ。
拓海は、すぐにトレーを撤去しなかった。
三回目の再入水があるかもしれないと考え、数分間待機する。
しかし、動きはない。
十分間観察を続け、追加の再入水が確認されなかったところで、初めて『水場提示終了』とした。
トレーを静かに撤去する。
ケージへの帰還。
飛ぶか、歩くか。
ルリは、短い固定足場をトテ、トテと、ごく普通に歩いて帰っていった。
「今日は歩くんだな」
もう恒例のツッコミになった。
スライド窓を閉め、ロックをかける。足場を撤去する。
健康確認。呼吸、姿勢、鱗と翼膜の状態、四肢、歩行のふらつき。明らかな震えなどはない。外見上、明らかな異常はなし。
室温は変えない。タオルで無理に捕まえて拭いたりもしない。標準の環境設定を維持し、行動と外見を観察する。異常があれば榊原へ連絡する。
すべての安全確認を終えてから、拓海は初めてカメラの確認に入った。
まずは認可端末の固定動画から。
ルリが前脚で、ぱしゃ、と水を跳ねる。
「……かわいい」
翼で、ばしゃっ、と水を飛ばす。
「かわいい」
自発退出してからの、ぶるるるっ。
「かわいい」
そして、二回目の入水シーン。
拓海は動画を一時停止し、少しだけ巻き戻した。
「……戻ってる」
拓海が今回もっとも注目したのは、ここだった。
再生する。退出。ぶるる。数十秒後。またルリが自分から水へ入っていく。
「自分から、二回目……」
次に、静止画の確認だ。
失敗1、頭頂部。失敗2、水滴にピント。失敗3、翼切れ。失敗4、尻尾。失敗5、トレーの縁。
「相変わらずだな俺……」
ため息をつきつつ、最後の一枚を表示させる。
あの一枚。
浅い水の中央にいる、小さな赤銅色の小竜。
腹面だけが少し水に浸かり、翼は自然に畳まれている。
大きな瑠璃色の瞳。鼻先に光る一滴。水面に広がる細い波紋。
全身もほぼフレーム内に収まり、水深やトレーのサイズ感もよく分かる。
ただ可愛いだけでなく、記録写真としても非常に優秀な『ベストショット』だった。
「…………」
拓海は無言で画面をズームし、また戻す。
「……撮れた」
前回は自然な枝の上の写真だった。今回は、水場利用中の完璧な一枚。
だが、拓海の中で迷いが生じた。
最高にかわいいのは、本当にこの一枚だろうか?
拓海は動画から切り出せる静止画を探し始めた。
ぶるるっと震える直前、顔がブルブルと振動してちょっとおかしなことになっている瞬間の画像。
「…………これも、捨てがたいな」
拓海は一人でニヤニヤと笑った。
***
紙の記録バインダーに向かう。
正式な記録は、どこまでも慎重に書く。
『浅型水場を再提示』
『前回と同一の樹脂製トレーを使用。水深約5mm、水温約25.0℃。シリコン製滑り止めマットとセラミック基部で固定』
『通常の飲水用水皿は継続設置』
『提示後、個体が自発的に接近。前肢、後肢の順に自発的入水。腹面の水面接触を確認』
『前肢による水面接触・水滴飛散を複数回確認』
『膜翼先端の水面接触、および翼運動に伴う水滴飛散を複数回確認』
『自発退出後、全身振動に伴う水滴飛散を確認』
そして、今日もっとも重要だった記録を続ける。
『退出後、個体は自発的に再度トレーへ進入』
『二回目の進入後も、同様の前肢および翼による水面接触行動を確認』
『最終的に自発退出』
『担当者による入水誘導、食物による誘導、身体拘束は一切なし』
『観察終了後、外見上明らかな異常はなし』
拓海はペンを止めた。
「水浴び」と書くべきだろうか?
『水浴びを――』
書きかけて、ペン先を浮かせる。
前回の榊原の言葉。一回ならまだ水浴び好きとは言わない。
でも今回は、別日の再提示で、自発的に入水し、水を飛散させる行動を反復し、さらには一度退出した後に再入水までしている。
「“前回と類似する水浴び様行動を別日に再確認”……くらいか」
拓海は頷き、正式記録として書き残した。
『前回観察された水浴び様行動と類似する一連の行動を別日に再確認』
さらに、念押しで一文を添える。
『ただし、当該行動の生物学的機能や動機については未確定』
記録にはそう書いたが。
拓海個人の感想としては。
「いや、でもどう見ても楽しそうだったよな……」
口に出して呟いてしまう。
「きゅ」
ルリが鳴く。
「記録には書かないからいいんだよ」
***
拓海は認可端末から動画とベストショットの静止画を指定のシステムへ安全転送し、スマホから榊原へテキストを送った。
『先生』
『どうだった?』
『再現しました』
『何を?』
『前回の水浴び様行動です』
榊原からの返信が、珍しく食いつき気味だった。
『本当に?』
『動画と写真、上げてあります』
しばらくの間。榊原が動画を確認している時間だ。
『ああ、これは面白いね』
『ですよね』
榊原の文面が、完全に研究者モードに切り替わる。
『別日の再提示でも、自発的に入水した』
『はい』
『前肢と翼を使った水面接触もまた出た』
『はい』
『しかも一度出た後、また自分から入り直した』
『そこが一番驚きました』
榊原からの評価は明確だった。
『別日にも類似する一連の行動が出た。少なくとも、「前回は一度だけ偶発的に水へ入った」という説明はかなり弱くなったね』
それは大きな進歩だった。ただし。
『だからといって、「水浴びが大好きな個体だ」と感情で確定させるのはまだ早いよ』
『分かってます』
だが、榊原は呼称については一歩譲歩してくれた。
『日常会話や軽い報告の中なら、「水浴び」って呼んでもいいと思うよ』
『いいんですか?』
『飼育管理上の便宜的な呼称としてね。正式な行動分類や、なぜ水浴びをするのかという機能面は、また別の難しい問題だから』
これで、今後は「水浴び」と普通に呼びやすくなる。拓海にとってはかなり有難い言葉だった。
水浴びの動機について、榊原は断定を避けつつもいくつかの可能性を提示した。
鱗や翼膜の汚れを落とす体表管理、体温や体表温度に何らかの影響を与える行動、単純な感覚刺激、遊戯的行動、あるいはそれらの複合。
しかし、相手は魔法生物だ。一般の鳥類や爬虫類の知識をそのまま単純に当てはめることはできない。
『今のところ、理由を推測するより先に、行動の事実を積み上げよう』
そして、話題は写真へ移る。
『ところで、静止画も見たよ』
『はい』
『鼻の先に水滴が乗ってるやつ』
『…………』
『かわいいね』
『先生、絶対それ言うと思いましたよ』
『かわいいからね。しょうがない』
さらに、榊原の「お気に入り」は意外な一枚だった。
『俺はこっちの写真も好きだな』
榊原が言及したのは、拓海が迷ったもう一枚。ルリがぶるるっと震える直前の、振動で顔がちょっと崩れている瞬間の画像だ。
『先生、それ、ルリの顔がすごいことになってますよ』
『そこがいいんだよ』
二人とも、この瞬間だけは研究者と飼育担当というより、ただの『かわいいもの好き』になっていた。
しかし、撮影記録としての意味は大きい。
今回の写真は可愛いだけではなく、ルリの入水深度、腹面の水濡れ具合、翼膜への水滴の付着状態、水中での姿勢、水場との体格比較など、多くの情報を視覚的に残せる。これまでの撮影で積み重ねた経験が、ようやく行動記録として形になった。
***
夜。
拓海は認可端末の液晶画面に、あのベストショット――鼻先に一滴の水滴を乗せたルリの写真を映し出していた。
「…………壁紙にしたい」
また同じ台詞を言ってしまう。
「くそっ、セキュリティ……」
だが、ルールは絶対に守る。自分の個人的な欲求で情報を持ち出すような真似はしない。
ケージの中では、ルリがいつもの高所休息棚の屋根の上で、今日二度も水へ入ったことなど全く関係ないかのように、いつも通りに丸くなっている。
「ルリ」
「きゅ?」
「お前、水浴び好きなのか?」
拓海は問いかけ、一秒後に自分で訂正した。
「……いや。まだ好きかどうかは分からんか」
でも。
「今日、二回も入ったけどな」
「きゅ」
ルリの短い声が何を意味するのかは、相変わらず分からない。
拓海は再び、端末の中のベスト写真を見つめた。
鼻先の水滴。瑠璃色の目。赤銅色の身体。
写真の中にいるルリは、拓海に無理やり水へ入れられたわけでも、カメラの方へ向かされたわけでもない。
水場を置いて待っていたら、ルリが自分から二度も入っていった。その結果として、この完璧な一枚が残ったのだ。
その事実の積み重ねが、拓海には何よりの喜びだった。
なお、その日のベストショット選考作業は、それから三十分経っても拓海の中で決着がつかなかった。
鼻先に一滴乗せた完璧な可愛さと、ぶるるる直前の振動でブレた妙な顔が、あまりにも甲乙つけがたかったからである。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!