魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~   作:パラレル・ゲーマー

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第16話 手のひら小竜を初めて外へ連れ出したら、草一本から先へ進まなかったらしい

 土曜日の朝。午前八時を少し回ったところだ。

 水野拓海は、1DKの自室の机に並べられた荷物と、ケージの中を交互に見比べていた。

 

 机の上には、昨夜のうちに用意しておいた『初めての屋外環境馴化』のためのアイテムが整然と並んでいる。

 ルリを運ぶための指定キャリーケース、認可撮影端末、記録用の紙バインダー、マナ簡易測定器、温湿度計、ルリ専用の超軽量ハーネス、非常に細い安全索(リード)、予備の固定具、清潔な布。そして、八咫烏指定の緊急連絡アプリが入ったスマートフォン。

 

「…………やっぱり、多くないか?」

 たかが全長十センチから十二センチの小さな生き物を一匹、安全な施設へ連れ出すだけなのに、ちょっとした登山の装備みたいな量になっている。

 

 その大騒ぎの中心にいる当のルリ本人はといえば、ケージの高所休息棚の屋根の上で、お気に入りのいびつなコルク片の隣に座り、前脚を舐めたり、鼻先を鱗へ寄せたりして身繕いをしていた。

 

 ハーネスは、さきほど拓海が装着したばかりだ。キャリーの手前で最後の一歩だけ妙に高く脚を上げ、拓海に「まだやるんかい」と突っ込まれたものの、その後はもう普段に近い歩き方へ戻っている。

 拓海はその姿を見ながら、思い出し笑いを堪えた。

「今日はもう、その歩き方しなくていいからな」

 

 ルリは「きゅ」と短く鳴いた。

 その声が何を意味するのかは、もちろん分からない。

 

 机の上を数歩歩くルリの足取りは、少なくとも今のところ大きく乱れてはいなかった。

 とて。

「……さっきの一歩で終わりか」

 拓海は少しだけ残念そうに呟いた。初装着時の四本の脚をいちいち高く持ち上げる歩容変化は、少なくとも今日は長く続いていない。

 

 机の上で準備を整え、拓海は指定キャリーの扉を開けた。

 ルリを掴んで中に押し込んだりしない。いつものように、ルリが自分で判断して動くのを待つ。

 

 ルリはキャリーの入り口に近づき、すん、と匂いを嗅いだ。

 右の前脚を中に入れ。

 続いて左前脚、そして後脚も。

 するり、と完全に自発的にキャリーの中へと入っていった。

 

「よし」

 拓海は静かに扉を閉め、ロックをかけた。これもまた、これまでに積み重ねてきた『選択を強制しない』という飼育姿勢の成果だった。

 

 ***

 

 ピンポーン。

 アパートのインターホンが鳴り、拓海が外へ出ると、榊原教授が車で迎えに来ていた。

 

「おはよう、水野君」

「おはようございます。……先生、普通の車ですね」

「何を期待してたの? 黒塗りの防弾車?」

 

 榊原が乗ってきたのは、見た目はごく一般的な大学の研究用ワゴンだった。

 これから向かうのは、表向きも大学の施設である。怪しげな車で行く必要はないのだ。

 

「いや、荷物が多いんで、もしかしてそういうのもありかなって」

「初回だからね。念には念を入れる」

 

 拓海は後部座席に乗り込み、キャリーケースを専用の固定ベースにしっかりと固定した。

 車が発進する。

 キャリーは秘匿の観点から外からは中が見えにくくなっているが、完全な暗室ではなく、通気孔と一部遮蔽された観察用のスリットがある。

 車の振動とエンジン音が響く中、キャリーの奥で、ルリが「きゅ」と小さく鳴いた。

 

「一時間弱かかりますよね」

「うん。もし途中でルリに異常や強いストレス反応があれば、いつでも車を止めて引き返すから。よく観察しておいて」

「了解です」

 車での移動自体は、ルリを迎えた日に大学から拓海の部屋へ運ばれて以来の二回目だ。それをことさらに大事件として騒ぐ必要はない。

 

 ***

 

 車は市街地を抜け、山裾に広がる広大な敷地へと入っていった。

 外観は、少し古びたコンクリート造りの研究棟。

 入り口には『〇〇大学 野生動物行動・環境適応研究センター』という看板が掲げられている。

 

「……普通ですね」

「表向きは、ごく普通の野生動物研究・リハビリ施設だからね。大学の演習林との連携もやっている」

 

 駐車場には、他の教職員や学生のものらしき車も停まっている。

 施設全体が秘密基地というわけではない。だからこそ怪しまれない。

 

 しかし、榊原は研究棟の正面玄関ではなく、裏手の職員用通路へと回った。

 カードキーで認証し、さらに奥の区画へ。

 普通の『関係者以外立入禁止』のプレートがかかった扉。八咫烏の紋章がでかでかと描かれているような漫画的な演出はない。

 だが、その扉を開けた先のセキュリティは、一般施設とは明らかに一線を画していた。

 

「ここからですか?」

「ここからだ」

 

 二重、三重のゲートを抜ける。

 そして。

 最後の重い扉を開けた先には、本物の『空』が広がっていた。

 

「…………広っ」

 拓海は思わず声を漏らした。

 

 そこは《屋外環境馴化区画》と呼ばれる場所だった。

 広さは二十メートル四方ほど。高さは八から十メートルはあるだろうか。

 遙か頭上には、視界を完全に遮らない程度の細く高強度なネットが張られ、上部も外周も完全に閉鎖されている。飛翔能力を持つ魔法生物が、絶対に施設外へ逸走しないための区画だ。

 中には、草地、土が剥き出しの裸地、数本の低木、倒木、大小の石、木陰、そして人工的だが自然に近い形状の浅い水場が配置されている。

 

 拓海の六畳の1DKから、一気にこの広大な屋外環境へ。

 

「今日は、この空間全部を使わなくていいからね。ルリのペースに合わせるんだ」

 榊原の言葉で、拓海は我に返った。

 

 ルリはまだキャリーの中だ。

 まずは人間側が環境の安全確認を行う。

 

 拓海は温湿度計とマナ簡易測定器を取り出した。

「気温二十二・四度。湿度も通常範囲です。……今日は季節のわりに暖かいですね」

「初回には助かるね。マナは?」

「……うちの部屋より、少し高いですね」

「山裾の自然環境に近いからね。でも、この程度の差で急に何かが変わるわけじゃない。許容範囲だ」

 

 さらに区画内の点検。

 ネットの破損なし。二重ゲートの施錠確認よし。水場の状態よし。危険な有毒植物の混入なし。他の実験個体の残留なし。飛来物なし。野生の捕食者(ヘビや猛禽類など)の侵入なし。風は穏やかな弱風で、突風の危険はない。

 

 すべての安全確認が完了した。

 

 ***

 

 拓海はキャリーケースを、草地と裸地の境界付近の平坦な場所にそっと置いた。

 キャリーの扉はまだ開けない。

 その状態で、スリットから手を入れて、ルリのハーネスに細い安全索をカチャリと接続した。

 

 拓海は安全索の余った部分(余長)を手元でふんわりとまとめるように持った。

「昨日まで、部屋で練習したのと同じですね」

「そう。絶対に引かない。ピンと張らせない。危なそうなら、安全索を引っ張るより先に、人間が動いてルリの前に回り込む」

「了解です」

 

 榊原が頷き、言った。

「それと、扉を開けても、君の手で外へ出さないでね」

「分かってます」

 

 拓海はゆっくりと、キャリーの扉を開け放った。

 

 そして。

 待つ。

 

 キャリーの内部では、ルリがじっと奥の方に座ったままだった。

 すぐには飛び出してこない。

 拓海はキャリーの横にしゃがみ込んだ。声をかけて呼んだり、餌を見せて誘導したり、手を入れてお尻を押したりはしない。

 

 一分が経過した。

 

 さわっ。

 風が吹き抜け、区画内の草が微かに揺れる音を立てた。

 キャリーの入り口近くにも、その自然の風が流れ込む。

 

 ルリの頭部が、ピクッと動いた。

 鼻先を少し持ち上げる。

 すん。

 もう一度。

 すんすん。

 

 ルリの背中の翼膜の縁が、流れ込む風を受けてほんのわずかに揺れた。

 

 拓海は無言で見守った。

 家庭でのケージ外探索の時と同じだが、質が違う。

 室内空調で循環された空気ではない、様々な匂いと温度を孕んだ『本物の外の風』に、ルリが初めて触れている時間だ。

 もちろん、「ルリが初めて風というものを知って感動している」などと断定はしない。ただ、家庭飼育開始後、拓海の管理下において初の屋外の空気への接触であるというだけだ。

 

 やがて。

 ルリがゆっくりと前進し、キャリーの入り口までやってきた。

 頭部だけを外に出す。

 小さな角。そして、大きな瑠璃色の瞳。身体はまだ安全なキャリーの中にある。

 

 ルリは首を動かした。

 右を見る。

 左を見る。

 上を見る。

 さらに、上を見る。

 

 そこには、部屋の天井ではない、広大な青空が広がっていた。

 

 それでも、ルリはすぐには踏み出さない。

 数十秒の静寂。

 

 そして。

 ルリの右の前脚が、キャリーの外へ。

 

 ぺた。

 

 地面に直接触れるのではなく、そこにあった『一本の草』の葉の上に着地した。

 

 ルリはピタリと動きを止めた。

 

 その草は、人間から見れば名も知らないただの雑草だ。

 しかし、全長十から十二センチのルリから見れば、胸元の高さまである巨大な植物だ。

 

 ルリは鼻先をその草の葉に近づけ、すん、と嗅ぐ。

 そして、右前脚を少し上げて。

 ちょい。

 軽く触れた。

 

 細い草が、ルリの力に負けてわずかに倒れる。

 ルリが前脚を離す。

 ぴょこんっ。

 弾性で、草が元の位置に戻る。

 

 ルリは再び静止した。

 そして、もう一度。

 ちょい。

 草が倒れる。

 離す。

 ぴょこん。

 

 ちょい。戻る。

 ちょい。戻る。

 

 それを五回ほど繰り返したところで、拓海はたまらずツッコミを入れた。

「…………ただの草だぞ、それ」

 背後で、榊原が肩を揺らして笑っている。

「いや、お前の周り、全部その草だらけだからな!?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 一本の草の反発力を確かめるだけで、すでに一分以上が経過している。

 大自然への第一歩にしては、あまりにもスケールが小さい。

 

 その後、ルリがようやく左の前脚を外へ出し、続いて後脚、短い尻尾と、完全にキャリーの外へ出た。

 

 記録上、『家庭飼育開始後、初の屋外環境への自発的退出を確認』。

 拓海も少しだけ胸が熱くなったが、口に出たのは「……出たな」という短い感想だけだった。

 

 ***

 

 五分が経過した。

 

 ルリは、キャリーの入り口から、約三十センチの地点にいた。

「…………三十センチ」

 拓海は呟いた。

 

 思い出す。

 初めて自宅でケージから机の上に出した時。

 あの日も、五分ほどで約三十二センチ進み、そして自発的に帰っていった。

 

「お前、最初の冒険はだいたい三十センチって決まってるのか?」

「たまたまだと思うよ」

 榊原が即座に否定する。

「分かってますよ!」

 

 だが、同じ三十センチでも、意味合いが全く違う。

 家の机の上なら、三十センチの間にあるのは無地のマットと、少しの木目と、せいぜい消しゴム程度だ。

 しかしここには、三十センチの空間の中に、数種類の違う草、土の感触、小石、風に揺れる枯れ葉、複雑に絡み合う木の根、そして無数の匂いが密集している。

 

 ルリは、ただ進んでいないわけではない。

 足元にあるもの一つ一つで動きを止め、鼻先や前脚を使って接触している。

 

 一本の草の前で止まる。

 鼻先で葉を持ち上げ、その下に潜り込むようにして裏側を見る。

「……葉っぱの裏まで見るの?」

 葉が元に戻り、ルリの顔にペチッと当たる。ルリはビクッと頭を引き、また近づく。

 めちゃくちゃかわいい。

 

 草地の切れ目。土が剥き出しになった裸地。

 ルリが前脚を、ぺた、と土の上に置く。

 止まる。

 もう一脚を置き、小さな爪の先で、土の表面を。

 かりっ。

 土がわずかに崩れる。

 もう一度。

 かりっ。

 穴を掘るというほどの行動ではない。前肢による表層への接触が、数回見られただけだ。

 記録には、『土壌面への自発進入。前肢による表層接触を複数回確認』と記す。

 

 さらに進むと、数ミリから一センチ程度の小石があった。

 ルリが前脚で。

 ちょい。

 石は、コルク片のようには転がらない。重いのだ。ほぼ動かない。

 ルリはもう一度、少し強めに。

 ちょい。

「……コルクとは違うだろ。それは重いぞ」

 二度前脚で接触した後、ルリは鼻先を別の方向へ向けた。

 

 その時。

 さぁっ、と一陣の風が吹いた。

 ルリの少し前方に落ちていた、乾いた小さな枯れ葉が。

 ころ。ころころ。

 風に煽られて転がった。

 

 ルリの頭が、くるっ、とそちらへ向く。

 ころ。

 枯れ葉がまた転がる。

 

 とて。

 ルリが、枯れ葉を追って歩き出した。

 ころころ。

 とてとて。

 

 拓海も、安全索を弛ませたまま、ルリの動きに合わせてしゃがみ歩きでついていく。

 風が止み、枯れ葉が止まった。

 ルリが近づき、右前脚で。

 ちょい。

 

 その瞬間、再び風が吹き、枯れ葉がルリから逃げるようにコロコロと転がっていく。

 ルリが、とてとてと追う。

 

「コルクじゃないんだぞ、それ。生き物でもないし」

「追ってるねぇ」

 榊原が楽しそうに記録端末のカメラを回している。

 正式記録としては『移動する落葉への追従および前肢接触』だが、拓海の目には、どう見ても風で動く葉を追いかけて遊んでいるように見えた。

 

 ***

 

 ルリが枯れ葉を追って、右へと方向を変えた。

 拓海も、安全索が張らないように急いで右へ移動する。

 

 そこには、低いツツジのような低木があった。

 全長十センチのルリは、その枝の下を余裕でくぐり抜けていく。

 しかし、大人の拓海はその下を通れない。

 

「おっと」

 拓海は安全索が枝に絡まないように高く持ち上げながら、低木の周りをぐるっと大きく回り込んだ。

 しかし、拓海が回り込んだ間に、ルリは低木の下でUターンし、逆方向へと歩き出していた。

「あ、こっちか!」

 拓海はまた逆方向へと慌てて戻る。

 

 少し離れた場所から、榊原が言った。

「やっぱり、水野君が散歩させられてるね」

「先生、それ、先週から言いたかっただけでしょう!」

「でも、本当にその通りになってるじゃない」

 

 拓海は反論できなかった。

 室内では、机の周辺だけの限定された空間だった。しかし屋外では、ルリが前後左右、好きな方向へ自由に動く。

 安全索を草に絡ませず、低木の枝に掛けず、ルリの脚や翼の下を通さないように管理する。そのためには、拓海自身がルリの何倍もの距離を動き回る必要がある。

 

「これ、想像以上に俺が忙しい!」

「だから昨日まで、水野君の練習期間でもあったんだよ」

 拓海は、先日の自分の台詞を思い出して苦笑した。

 しかし、拓海は一度も安全索をピンと張らせてルリにショックを与えることはなかった。

 

 ***

 

 少し離れた場所の木立から。

 ピー……ヒョロ……

 と、野鳥の声が響いた。具体的な鳥の種類までは分からない。

 

 ルリが、ピタリと動きを止めた。

 頭部を真上に向ける。

 大きな瑠璃色の目が、視界の先を捉える。

 

 遥か上空には、細い安全ネット越しに、大きな青空と、白い雲と、周囲の木々の枝葉が広がっている。太陽の光が降り注ぐ。

 

 ルリは、長めに見上げていた。

 拓海は少し離れた横から、その姿をただ見守った。何も言わない。

 

 草の中にいる、小さな小さな赤銅色の魔法生物。

 見上げる先には、果てしなく広い空。

 世界の圧倒的な大きさが、その一枚の絵に集約されているようだった。

 

 ルリが再び歩き出す。

 草地の、日差しが直接当たる日向へ。

 自然光の下で見るルリの赤銅色の鱗は、室内のLED照明とは全く違い、内側から燃えるような鮮やかな色に見えた。

 

「外だと、色、全然違って見えるな……」

 あくまで光源の違いによるもので、カメレオンのように体色変化しているわけではない。しかし、美しかった。

 

 ルリはそのまま少し進み、木陰へと入った。日向から日陰へ。そしてまた日向へ。

 これを「日光浴をした」「日陰を好んだ」と断定するだけのデータはまだない。単なる移動経路かもしれない。

 

 その先に、直径十センチほどの低い倒木があった。

 人間なら跨いで通るだけだが、ルリにとっては自分の身長と同じくらいの高さの壁だ。

 

 ルリは鼻先を倒木に近づけ、前脚の爪をひっかける。

 登るのか。

 しかし、ルリは途中で動きを止め、そこから少し離れた別の低い倒木の切れ端(安全な着地点になりそうな場所)を見た。

 

 ルリの身体が、ふっと低くなる。

 

 拓海は気づいた。

「……飛ぶ」

 ルリの背中の翼が、ぱっ、と開かれた。

 

 風が吹き抜け、開かれた翼の皮膜がわずかに揺れる。

 拓海は即座に安全索の状態を確認した。余長は十分にある。周囲に絡まるものは何もない。

 

「引かないでね」

 榊原が小声で言った。

「はい」

 

 ぱたっ。

 ルリが、草地から飛び立った。

 五十から七十センチ程度先の、別の低い倒木へ向かって。

 時間にして、一秒前後。

 安全索は、終始緩やかな弧を描いたまま、一度もピンと張ることはなかった。

 

 とす。着地。

 

「…………飛んだ」

「うん」

 拓海と榊原の言葉は、それだけだった。

 家で初めて飛翔を見た時のような「うおおお!」という激しい興奮はない。

 しかし、「外の風の中で飛んだ」という、また別の静かで深い感動があった。

 

 拓海はすぐに観察モードに切り替える。

 着地姿勢。ハーネスのずれ。翼の収納。安全索への絡み。着地後の歩行。

 確認した範囲では、装具の明らかなずれ、翼膜への接触、着地後の歩行異常は見られなかった。

 

 記録。

『屋外環境下における自発的短距離飛翔を一回確認。飛翔時、安全索に張力発生なし』

 

「今日は、もう飛翔の確認は追わなくていい」

 榊原が言った。

「一回だけでいいんですか?」

「飛ばせることが目的の外出じゃないからね。外でルリが何を選ぶかを見るのが今日のテーマだ」

 

 ***

 

 それからしばらく後。

 屋外馴化区画のさらに遠く、別棟の方向から。

 

 バサッ、バサッ……。

 と、何かの大型鳥類か、あるいは別の魔法生物の巨大な翼音が響いた。

 

 ルリの頭部が、素早くその音の方向へと向いた。

 全身の動きがピタリと停止する。

 数秒間の沈黙。

 拓海も動かず、安全索を弛ませたままルリの反応を待った。

 

 数秒後。

 ルリが、倒木から静かに降りた。

 草の上を、とて。とて。

 

 向かった先は、拓海が立っている足元。

 拓海の大きめのスニーカーの、すぐ真横。

 そこで、ぴたっ、と動きを止めた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…………そこに来るの?」

 拓海は息を呑んだ。

 

「怖かったから、俺のところに逃げてきた」「俺に安心を求めた」「俺を頼ってくれた」。

 そう思いたい誘惑に強烈に駆られた。

 だが、絶対に記録にはそう書かない。

 観察事実:『外部音刺激後、担当者方向へ移動し、右足付近で停止』。

 それだけだ。

 しかし、拓海の心の中では、ルリへの愛おしさが爆発していた。

 

 ルリは、拓海のスニーカーの匂いを、すん、と嗅いだ。

 そして、右の前脚を、靴の甲の布地の上に、ぺたっ、と置いた。

 続いて左前脚も。

 よじ。

「……登る気か?」

 

 拓海のズボンの裾まで行くと、ルリの爪が引っ掛かったり、安全索が足に絡んだりする危険性がある。

 だから拓海は、無理にルリを靴から引き剥がすことはせず、自分の右手の掌を、ルリのすぐ横の低い位置へと差し出した。

「こっちなら、安全に乗れるぞ」

 

 ルリは、靴の甲と、拓海の掌を交互に見た。

 そして、右前脚を拓海の掌へ。

 続いて後脚も。

 

 ルリが、完全に拓海の掌の上に乗った。

 全長十から十二センチ。専用の超軽量ハーネスを着けた姿。

 屋外の自然光の下。背景には草と空。

 拓海の掌の上で、ルリは身体を少し低くし、翼を身体にきっちりと沿わせた。

 

 数十秒間。

 拓海は微動だにしなかった。

「そのまま」

 榊原が短く言う。

「分かってます」

 拓海は即答した。この数週間の経験で、こういう時はどうすべきか十分に学習している。

 

 ***

 

 屋外観察開始から、およそ二十分が経過した。

「今日はここまでだ」

 榊原が終了を宣言した。

「もうですか?」

「初回としては十分すぎる時間だよ」

 

 拓海は、広い区画の全体を見渡した。

 二十メートル四方もある広い敷地の中で、ルリが実際に使って移動した範囲は、キャリーを置いた周辺のほんの数メートルの一角だけだ。

 

「全然、向こうの方まで行ってないですよ」

「行く必要がないからね」

 榊原は微笑んだ。

「今日は、この環境に出した時、ルリが何をするのかを見る日だから」

「……ほとんど、草を眺めたり倒木に登ったりしてただけですけど」

「それでいいんだよ」

 

 拓海は、掌にいるルリをそっとキャリーの入り口付近まで近づけた。

 扉は開けたままだ。

 拓海はルリを押し込んだりしない。掌をキャリーの底面の高さに合わせて待つ。

 

 ルリはキャリーの入り口を数秒間見つめ。

 とて。

 自発的に、キャリーの中へと入っていった。

 拓海は扉を閉め、ロックをかけた。

 

 そのままキャリーで秘匿区画内の安全な室内へ戻り、そこで扉を開けた。

 ルリが拓海の低く差し出した掌へ自発的に移ったところで、まず安全索を外し、続いてハーネスも取り外す。帰路の車内は一時間弱と長いため、装具を着けたままにする必要はない。

 外した後、帯が触れていた部位の鱗、翼膜、四肢、歩行、呼吸を確認する。外見上、明らかな擦れや接触痕、歩行異常は確認されなかった。

 初回の屋外観察は、大きな問題なく終了した。

 

 ***

 

 施設内の部屋に戻り、拓海は紙のバインダーに詳細な記録を書き込んでいく。

 

『家庭飼育開始後、初の屋外環境馴化を実施』

『場所:《野生動物行動・環境適応研究センター》屋外環境馴化区画』

『完全閉鎖区画内、ハーネスおよび安全索使用。安全索は一度も進路制御に使用せず』

『キャリー開放後、個体は自発的に屋外環境へ退出』

『退出直後、草本への鼻先接近および前肢接触を複数回確認』

『約5分経過時点で、キャリーからの最大移動距離は約30cm』

『土壌面への自発進入、前肢による表層接触を確認』

『風によって移動した落葉への追従・前肢接触を確認』

『屋外環境下での自発的短距離飛翔を一回確認。飛翔時、安全索に張力発生なし』

『外部音刺激後、担当者方向へ移動し、足元付近で停止。担当者が低位置に提示した掌へ自発的に全身で移乗』

『担当者による食物誘導・強制歩行・強制飛翔なし』

『観察終了後、外見上明らかな異常なし』

 

 拓海は一瞬、ペンを止めた。

『草に強い興味を――』

 そこまで考え、すぐに思考を打ち消す。同じ植物に反復して接触した事実はあるが、「興味を持った」と断定はできない。「興味」という言葉は、日常会話に留めておくべきだ。

 記録にはただ、『草本への接触を複数回確認』とだけ残す。

 

「どうだった?」

 記録を終えた拓海に、榊原が尋ねた。

「思ってたのと、全然違いました」

「何を想像してたの?」

「もっとこう……外に出た瞬間、大空へ向かって飛ぶとか。走り回るとか」

「飛んだじゃない」

「二十分くらい経ってから、一回だけですよ」

「その前に、ルリの目の前には草があったからね」

「……草、強すぎますよ」

 二人は笑い合った。

 

 帰る途中。

 拓海は研究棟の窓から、遠くの別の区画をちらりと見た。

 そこには、もっと巨大なネットで覆われた空間があり、水面のようなものや、別の飼育棟の建物が見えた。微かに、何かの羽ばたくような音が聞こえた気がした。

 

「あっちって……」

「今日はルリの日」

「またそれですか」

 榊原はそれ以上何も教えてくれなかった。次の楽しみにとっておくことにした。

 

 ***

 

 夕方。

 アパートの自室に帰宅した。

 いつもの位置にキャリーを置き、扉を開ける。

 ルリは自分でキャリーから出て、固定足場を歩き、高所休息棚の上へと登っていった。

 お気に入りのいびつなコルク片の横。いつもの、定位置だ。

 

「…………帰ってきたな」

 外の広大な世界のあとで見る、この見慣れた狭い生活空間。その対比が、今の拓海にはなぜかとても心地よかった。

 

 拓海は認可撮影端末で、今日の動画を確認した。

 広がる青空。初めての屋外飛翔。倒木。

 だが、圧倒的に一番長い再生時間を占めていた映像は。

 

 一本の草。

 ルリの前脚が、ちょい。

 草が戻る。

 ルリがまた、ちょい。戻る。

 

「…………結局、これが一番長いじゃん」

 しかも、静止画のベストショット候補も、青空をバックにした飛翔シーンではなく、草を真剣な顔でつついているルリの姿だった。

 

 夜。

 屋根の上で、コルクの横に丸くなっているルリに、拓海は声をかけた。

 

「外、どうだった?」

「きゅ」

 拓海は一瞬だけ待ち、すぐに自分でツッコミを入れた。

「……まあ、分からんよな」

 聞いておいて、答えが出ないことくらい自分が一番分かっている。

 

「でも、お前が入口の草から三十センチ先へ進むまでに五分かかったのは、俺は知ってるぞ」

「きゅ?」

 ルリは不思議そうに首を傾げた。

 

 家の外には、大きな空があった。

 風があった。土も、木も、見たことのないほど広大な空間もあった。

 けれど、この日、拓海の前で初めて屋外環境へ出たルリが、最初に足を止めたのは、入り口に生えていたただの一本の草だった。

 その草の周りから三十センチ先へ進むまでに、五分。

 

 手のひらサイズの小さな竜にとって、外の世界は、人間が思っているよりもずっと、ずっと広いらしい。




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