魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
木曜日の夕方。
大学からアパートへ帰宅した水野拓海は、自室のドアを開けて真っ先にケージの方を見た。
高所休息棚の屋根。そこがルリの定位置だ。
そして、そのすぐ横に増設された小さな浅型容器――拓海の私的呼称では『宝物箱』。
そこには、三つのアイテムが入っている。
いびつなコルク片。白い丸石。どんぐりの帽子。
この三点は、火曜日にルリ自身が屋根の上から宝物箱の中へと移動させて以来、ずっと箱の中に保管され続けていた。
「……今日も、三つともちゃんと入ってるな」
拓海は着替えながらケージ越しに声をかけた。
「きゅ」
屋根の上にいるルリが短く鳴く。
拓海はもう、「綺麗に整理した?」とか「並べ直した?」とは言わない。
確かに、今日箱の中を覗くと、コルク片が奥、白石が手前、どんぐりの帽子が少し横へと、昨日とは微妙に配置が変わっていた。ルリが鼻先や前脚で触れて動かしている証拠だ。
だが、日常会話でならともかく、記録には『容器内三対象の位置変化あり』とだけ事実を記す。
今日の夕方は、何か新しい試験や刺激の提示を行う日ではない。
ただの平日だ。拓海自身も、溜まっている大学の課題を終わらせたい。
いつものように安全確認を行う。窓の施錠、補助ロック、カーテン閉鎖、キッチンのパーティション遮断、危険物の撤去。すべて異常なし。
ケージのスライド窓を開け、固定足場を設置する。
ルリは屋根から降りてきて、固定足場をトテ、トテと歩いて机の上の観察マットへと出た。
「今日もそこは、歩いて出るんだな」
拓海は恒例のツッコミを入れつつ、自分も机の前に座った。
紙のバインダーと、大学のレポート課題を並べる。
机の端には、認可撮影端末がいつもの定点記録モードで静かに動画を回し続けている。
最初の十分間は、本当に平和だった。
ルリは机の上の観察マットを歩き、少しだけ飛翔して椅子の背もたれへ行き、また机に戻り、拓海の近くへ来てはまた離れる。
拓海もルリの安全を視界の端で確認しながら、課題に集中できていた。
「今日は平和だな」
拓海はペンを走らせながら、ふと呟いた。
拓海はそのまま、もう一度レポートへ視線を戻した。
***
探索開始から十五分ほど経った頃。
ルリが机の上から固定足場を歩き、ケージの中へと戻っていった。
「帰る?」
拓海は問いかけたが、スライド窓はすぐには閉めない。
これまでの経験上、ケージへ入ったからといって探索が完全に終了したとは限らないからだ。
ルリは枝を登り、高所休息棚の方向へ。
しかし、自分の定位置である屋根の上には行かず、その横の『宝物箱』の前で立ち止まった。
ルリは箱の縁に前脚をかけ、頭を中へと入れた。
そして。
鼻先を『白い丸石』へと近づけた。
かぷ。
ルリの小さな口が、白石を咥え上げた。
拓海がレポートを書いていたペンが、ピタリと止まった。
「……それ、持ってくの?」
ルリは白石を咥えたまま、箱から出た。
ここで重要なのは、ルリが持ち出したのは『白石一個だけ』だったということだ。
コルク片とどんぐりの帽子は、宝物箱の中に残されたままである。結果として、持ち出されたのは白石一個だけだった。
ルリは白石を咥えたまま枝を降り、再び固定足場をトテトテと歩いて、ケージの外へと出た。
「また出るんだ」
拓海はペンを置いた。
ルリは机の観察マットの上を歩き始める。
拓海の予想としては、以前のように机のどこか安全な場所へ置いて、前脚で転がすのか、あるいは別の場所へ運ぶのか、と思っていた。
しかし。
ルリはマットの中央を突っ切り、真っ直ぐに拓海が座っている方向へと向かってきた。
とて。とて。
「…………こっち?」
拓海は少し身を引いた。
ルリが、拓海の腹部近くの机の端までやってきた。
拓海は、いつものように自分の右手の掌を開き、机の表面スレスレの低い位置へと提示した。
決して誘導して乗せようとしたわけではない。ルリの歩行ルート上に、選べる足場を一つ増やしただけだ。乗るか乗らないかはルリの自由。
ルリは、拓海の掌の縁で立ち止まった。
大きな瑠璃色の目で、拓海の掌を見る。
右の前脚を上げた。
左の前脚も。
そして後脚も。
ルリは、白石を口に咥えたまま、拓海の掌の上に完全に乗り移った。
全長十から十二センチ。赤銅色の鱗。
拓海の大きな掌の上に、小さな竜がちょこんと立っている。
その口には、宝物箱からわざわざ取り出してきた、一つの白い丸石。
「…………待て」
拓海は、誰に対してか分からない言葉を口にした。自分が何を待っているのかも分からない。
ただ、この後の展開が、自分の心臓に良くないことだけは直感していた。
ルリは、拓海の掌の中央まで歩を進めた。
そして。
少しだけ頭を下げ、小さな口を。
ぽかん、と開いた。
ころっ。
白い丸石が、ルリの口から離れ。
拓海の掌の、ど真ん中。生命線のあたりに、音を立てて転がった。
静止。
石は拓海の手の上で完全に止まった。
拓海も、石像のように完全に停止した。呼吸すら忘れている。
その直後だった。
ルリは白石へ再び頭部を向けることなく、
拓海の掌から、手首の方向へ歩き出し。
とて。
机の上へと降りた。
そして、白石だけを拓海の掌に残したまま。
ルリ本人のみ、とてとてと机の別の場所へと歩き去っていったのだ。
「…………」
拓海は、空気が止まった部屋の中で、自分の右手のひらを見つめ続けた。
数秒経過。
「…………え?」
さらに数秒。
「これ、俺に?」
拓海の口から、信じられないものを見たような声が漏れた。
一秒後。
「いや待て。分からん。落ち着け俺。断定するな」
自動修正機能が猛烈な勢いで働き始めた。
だが、拓海の顔の筋肉は完全に緩みきっており、にやけ面を隠すことはもはや不可能だった。
***
拓海の掌の上。
そこにあるのは、直径八ミリ程度の、白っぽくて滑らかなただの石ころだ。
人間から見れば、道端に落ちていても誰も拾わない、全く価値のない石。
でも。
ルリが屋外環境馴化区画で自ら見つけ、拾い上げ、キャリーまで運び、自宅の宝物箱の中へと大事に収納していた『お気に入りの宝物』の一つだ。
それが今、自分の掌の真ん中にある。
拓海の中では、このちっぽけな白い石は、金貨や宝石の山よりも遥かに重く、価値のあるものに思えた。
「…………これ、やばいな」
拓海は声に出して呟いた。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
拓海はすぐには動かなかった。
白石を握りしめたり、嬉々として自分のポケットにしまったりはしない。
掌を開いたまま、机の上で何十秒もキープした。
ルリが、「やっぱり返して」と戻ってくる可能性があるからだ。
一分経過。
ルリは戻らない。机の端で前脚を舐め、鼻先を鱗へ寄せる身繕いをしている。
二分経過。
ルリは白石の方へ戻る様子を見せなかった。
「…………本当に、置いてった」
拓海はようやく、少しだけ右手を下げた。
紙のバインダーに記録を書かなければならない。
しかし、拓海は右手の平のど真ん中に白石を乗せているため、ペンが持てない。
「書けない」
拓海は一人で苦笑した。
仕方なく、拓海は今の時刻だけを頭に叩き込んだ。
「十八時十七分……」
机の端にある認可撮影端末は、今の光景を一部始終動画で記録し続けている。決定的な証拠はある。
数分間、ルリが白石へ再接近しないことを確認したところで、拓海は左手で、飼育用品として置いてある清潔な浅皿を引き寄せた。
そして、自分の右手から、そのトレーの中へ、白石をそっと滑らせて移した。
ここで重要なのは、拓海がこの石を『ルリの宝物箱へ勝手に戻さなかった』ことだ。
そして同時に、『自分のポケットに入れたり、自分の所有物として机の引き出しにしまったりもしなかった』ことである。
安全上の理由から、とりあえず清潔な場所に『一時保管』しただけ。
「とりあえず、ここは置いとくからな」
誰にともなく言い訳をしてから、拓海はようやくペンを握った。
記録の文章は、どこまでも冷徹でなければならない。
『18時17分。宝物箱内の白色小石一個を個体が自発的に口部保持』
『ケージ外へ運搬し、担当者方向へ移動』
『担当者が低位置に提示した掌へ自発的に移乗』
『掌中央部において、対象を口部より離す行動を確認』
『対象を掌上に残したまま、個体は掌上より離脱』
『その後数分間、対象への再接近・回収行動なし』
『担当者は安全管理上、対象を清潔な観察皿へ移動し一時保管』
そこまで書いて、拓海はペンを止めた。
絶対に、間違っても、『担当者へプレゼント(贈与)された』とは書かない。
だが、拓海はバインダーの下の余白をじっと見つめていた。
ここに、『感想欄』があればいいのに。
プレゼントされた。めちゃくちゃ嬉しかった。
そう書き殴りたかった。
「……書きてぇ」
拓海は誘惑と戦いながら、ペンを置いた。
***
この感情の高ぶりを、一人で抱え込むのは無理だった。
拓海はスマホを手に取り、指定アプリを開いた。
『先生』
すぐに返信が来る。
『今度は何?』
最近、完全にこのやり取りが定型文になっている。
『ルリが、宝物箱から白石を一つだけ持ち出して、俺の掌の真ん中に置いて、そのままどっか行きました』
少しの間。
『動画は?』
『今、システムに上げます』
拓海は急いで認可端末から動画データを転送した。
榊原が動画を確認している間、拓海はスマホを握りしめたまま、そわそわと足を揺らしていた。
まだか。早く見てくれ。
数分後。
『…………』
無言のメッセージが来た。
『なんですか、その間は!』
『いや』
そして。
『……プレゼントに見えるね、これは』
拓海はスマホを両手で強く握りしめた。
『先生が先に言った!!』
自分が言ったら「断定するな」と怒られるから我慢していたのに、教授が先に言ってしまった。
『“見える”って言っただけだよ』
榊原がすかさず訂正してくる。
『プレゼントだ、と断定したわけじゃないからね』
『分かってますけど! でも先生もそう見えたんですよね!?』
拓海のテンションは最高潮だった。
榊原からの返信が、研究者モードに戻る。
『動物行動学的な可能性は複数ある。水野君の掌を、単なる一時的な物置として利用しただけかもしれない。運搬の途中で対象を離しただけかもしれない。特定の場所へ配置する行動の一環かもしれない。対象を共有しようとする行動かもしれないし、その他全く別の理由かもしれない』
『たった一回観察されただけで、これを「贈与行動(プレゼント)」とは呼べないよ』
『はい』
拓海もそこは理解している。
でも。
『とはいえ』
榊原のメッセージが続く。
『既存の宝物箱の中からわざわざ一個だけを取り出して、水野君のところまで運んで、君の掌で口から離して、自分だけその場を立ち去った』
『そこまでは、間違いのない事実だ』
『ですよね!?』
『だから、面白いんだよ。飼育って』
そして、榊原は最後にこう尋ねてきた。
『で、水野君自身は、どう思った?』
拓海は一瞬、キーを打つ手が止まった。
これまでなら、「科学的に正しい、客観的な返答をしなければ」と身構えていたところだ。
しかし今回は、榊原は『事実』ではなく、『感想』を聞いてくれている。
『…………嬉しかったです』
拓海は、静かに文字を打ち込んだ。
『もしあれがプレゼントじゃなかったとしても』
『ルリが自分で拾って、自分で宝物箱まで運んでいたものを、わざわざ俺の掌まで持ってきて置いてくれたのは事実だから』
『それだけで、めちゃくちゃ嬉しかったです』
短い返信なのに、その文面は妙に柔らかく見えた。
『じゃあ、それでいいんじゃない?』
科学的な慎重さと、飼育者としての純粋な喜びは、決して敵対するものではない。拓海はそれを、榊原とのやり取りの中で学びつつあった。
***
さて、残された問題は一つだ。
拓海は、机の上の観察皿に置かれた白い丸石を見つめた。
「…………で。これ、どうすればいいんだ?」
選択肢は三つ。
ルリの宝物箱へ勝手に返すか。
自分のものとしてポケットにしまうか。
そのまま観察皿に置いておくか。
宝物箱へ返せば、人間が勝手に『ルリの所有物』だと決めたことになる。自分のものにすれば、人間が勝手に『もらった』と決めたことになる。
どちらも、人間側が意味を断定してしまう行為だ。
だから拓海は。
「とりあえず、今日はお前の石はここに預かっとくからな」
と呟き、観察皿の上にそのまま置いておくことにした。
榊原からも、『安全な場所なら、とりあえずそのまま置いておけば? 明日ルリがどうするか見よう』というアドバイスをもらっている。
夕方。探索終了の時間。
ルリは机の上の白石には一度も戻らず、自発的に固定足場を歩いてケージの中へと帰っていった。
宝物箱の中には、コルク片とどんぐりの帽子の二点だけが入っている。白石だけが欠けている。
ルリは屋根の上へと登り、いつものように休息の姿勢に入った。
拓海は机の上の白石を見た。
「…………マジで、俺のところに残ってる」
その夜。拓海は白石をポケットには入れず、机の上の観察皿に置いたままベッドに入った。
屋根の上にルリ。机の上に白石。距離にして一メートルほど。
「……借りてて、いいのか?」
暗闇の中で小さく問いかけたが、当然返答はなかった。
***
翌朝。金曜日。
拓海が目を覚まし、机の上を確認する。
白石は、観察皿の上にちゃんとあった。
ケージの中のルリも、普段通りだ。
「…………一晩、置いてったぞ」
拓海の中での『プレゼント感』がさらに高まる。
しかし、金曜の朝は大学の講義があるため、室内探索は行わない。白石は安全な観察皿の上に置いたまま、拓海は大学へと向かった。
金曜日の夕方。
大学から帰宅し、いつものようにケージ外探索の準備を整える。
スライド窓を開け、固定足場を設置する。
ルリが外へ出てきた。
最初は、昨日と同じように普通に机の上を探索していた。
しかし数分後。
ルリの頭部が、机の端にある『観察皿』の方向へと向いた。
とて、とて。
ルリが近づいてくる。
拓海の心臓が、ドクンと鳴った。
(来た)
ルリは観察皿の縁に立ち、中にある白い丸石をじっと見つめた。
鼻先を近づけ。
すん。
そして。
かぷ。
小さな口で、白石を咥え上げた。
「…………あ」
拓海は息を吐き出した。
ルリは白石を咥えたまま、方向転換をした。
一直線に、ケージへの固定足場へ向かう。
とて。とて。
固定足場を渡り、ケージの中へ。
枝を登り。
宝物箱の縁へ。
ころ。
白石が、箱の中へと落ちた。
コルク片、白石、どんぐりの帽子。
三つの宝物が、元通りに復活した。
拓海は、完全な沈黙の中でその光景を見守った。
そして。
「…………返却期限、一泊だったの?」
拓海の哀愁漂うツッコミが部屋に響いた。
「きゅ」
ルリが屋根の上から短く鳴く。
「いや、貸してくれたかどうかも分からんけどさ」
拓海は少しだけ肩を落とした。
「プレゼントじゃ……なかったのかな」
少し寂しそうに呟く。
でも。一秒後。
「いや待てよ」
拓海は、白石がなくなった浅皿へ視線を落とした。
昨日は掌の上にあった白石が、今日はまた宝物箱の中に戻っている。
二日間で確認できたのは、その配置と運搬の変化だけだ。
その行動が何を意味していたのかは、やはり分からない。
「…………一泊レンタルだったことにしとくか」
完全に拓海個人の都合の良い感想だったが、それで十分だった。
***
バインダーへの正式記録。
『前日、担当者の掌上に配置された白色小石は、安全管理上、清潔な観察皿上にて一晩保管』
『翌日のケージ外探索時、個体が同対象へ自発的に接近』
『口部保持後、対象をケージ内へ運搬』
『既存浅型容器内へ再配置』
これで、昨日の行動を「贈与(プレゼント)」と断定することはさらに難しくなった。
しかし、「一時的に拓海のところへ持ってきた」という事実は、データとしてしっかりと残った。
拓海はスマホから榊原へ二回目の報告を入れる。
『先生』
『今度は石を持って帰った?』
榊原にはすでにお見通しだったようだ。
『はい』
『じゃあ、プレゼント確定ではなかったね』
『分かってます』
拓海は苦笑しながら文字を打った。
『でも』
榊原からのメッセージが続く。
『昨日、ルリが水野君の掌へ自発的に石を置いたという観察事実は、ちゃんと残っているからね』
拓海はその一文を読み、少しだけ笑った。
『はい』
***
夜。
ケージの補助棚にある宝物箱には、三つのアイテムが綺麗に収まっている。
ルリは屋根の上で、静かに休息の態勢に入っていた。
拓海はベッドに腰掛け、その姿を見つめた。
「白石、戻ったな」
「きゅ」
「昨日はありがとう、って言っとくよ」
一秒後。
「プレゼントだったかは知らんけどな」
白い石は、結局ルリの宝物箱へと戻っていった。
だから、あの行動が拓海への贈り物だったのか、一時的に預けただけだったのか、それともただ単に掌を置き場所として使っただけだったのかは、誰にも分からない。
分からないけれど。 昨日、ルリがその石を自分で咥えて拓海のところまで運び、掌の真ん中へ置いていった。 その事実だけは、誰にも訂正する必要のない、確かな出来事だった。
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