魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
翌朝。
秋の空気が凛と冷える午前七時二十分。
水野拓海は、大学の敷地の北の端、『動物実験・飼育研究施設附属棟』の前に立っていた。
他の学生の姿はもちろん、教職員らしき人影すら見当たらない。木々の間から差し込む朝日が、灰色のコンクリート壁を白々と照らしている。
拓海はスマホの画面を確認した。
時刻は七時二十二分。
昨日、榊原教授が指定した時間は「朝八時」である。
つまり、三十八分も早い。
「…………早すぎたな、さすがに」
自分でも十分わかっている。昨夜、帰宅後には榊原から『家庭飼育候補者・事前準備事項』という長いメールも届き、賃貸契約書の写し、間取り、室内写真などを用意するよう指示されていた。準備を終えても落ち着かず、遅刻するよりはマシだと早々に家を出た結果が、この三十八分前到着である。拓海はそのまま建物の前で待機し、リュックの紐を無意識に握りしめながら、時折、二階の窓を見上げた。
あの中に、本当に『竜』がいるのだ。
昨日の出来事が、まだどこか現実離れした夢のように感じられる。しかし、手のひらに残るあの小さな前脚の感触は、確かに現実のものだった。
それから数分後。
予想外に早く、榊原教授が姿を現した。片手にコンビニのコーヒーカップを持っている。
教授は建物の前に立つ拓海に気づくと、一度立ち止まり、腕時計を見た。そしてもう一度拓海を見た。
「水野君」
「はい」
「八時って言ったよね」
「はい」
「今、七時半前なんだけど」
「知ってます」
「……楽しみだった?」
教授の眼鏡の奥の目が、面白そうに細められた。
拓海は少しだけ間を置いて、正直に答える。
「……まあ」
「正直でよろしい」
榊原は笑いながら、カードキーを取り出した。
入室手順は昨日と同じだ。二重扉を抜け、靴を履き替え、念入りな手洗いと消毒を行う。エアシャワーの風圧を浴びながら、拓海は昨日よりもスムーズに手順をこなせたことに少しだけ安堵した。
「もう覚えた?」
歩きながら榊原が尋ねてくる。
「昨日一回やりましたから。生き物の飼育施設に出入りする基本ですよね」
「偉い偉い。その基本が疎かになる人間は、この仕事には向いてないからね」
廊下を進み、昨日の『第8飼育室 標準環境区画』の前に立つ。
拓海は小さく深呼吸をした。
昨日は、単なる「見学者」だった。しかし今日は違う。
今日は、「飼育実習者」としてこの扉を開けるのだ。
榊原がロックを解除し、中へ入る。拓海も後に続いた。
四畳半ほどの室内。温度管理されたケージ。
拓海の視線は、真っ先にケージの中央に組まれた太い枝へと向かった。
いた。
手のひらサイズの、瑠璃色の瞳を持つ小竜。
すでに起きていたようで、拓海たちが入室した気配に反応し、ゆっくりとこちらへ頭を向けた。
じっと、拓海を見る。
「きゅ?」
拓海は、思わず口元が緩むのを抑えきれなかった。
「……おはよう」
「おはようが通じてるとは限らないからね」
横からすかさず榊原が口を挟む。
「分かってます。俺の自己満足です」
「顔が嬉しそうだけど」
「それは別にいいでしょう。……先生、この子、俺のこと覚えてますかね?」
当然の疑問だった。昨日一度会っただけの人間を、果たして認識しているのか。
榊原は即断しなかった。
「可能性は高い」
「高い?」
「昨日の匂いや姿、声を記憶している可能性は十分にある。ただ、人間の言葉で言うところの『水野拓海という個人を昨日から明確に記憶し、区別している』とまで断言できる行動データは、まだ不足しているかな」
「慎重ですね」
「研究者だからね。勝手な擬人化や、人間の都合のいい解釈は禁物だ」
この施設の、そして榊原の徹底したスタンスだ。
動物の行動を、安易に人間の感情や言葉に翻訳しない。
それでも、拓海がケージの前にしゃがみ込み、少し右へ移動すると、小竜の顔もそちらへ向いて追ってきた。
それだけで、拓海は十分に嬉しかった。
***
最初の仕事は、餌やりでも掃除でもなかった。
榊原から渡されたのは、分厚いバインダーに綴じられた書類だ。
表紙には『小型竜幼体・個体健康観察記録』と印字され、その下には『DR-JP-0427』という管理番号が記されていた。
「まずこれ」
「記録ですか」
「そう。飼育員の仕事の半分くらいは、観察と記録だと思っていい」
「……もっと、こう、直接世話をするものかと思ってました」
「世話をするために、観察するんだよ」
榊原の言葉には、強い説得力があった。
拓海はファイルを開き、記録用紙の項目に目を通す。
日付、時刻、温度、湿度。ここまでは普通だ。しかしその下。
活動性、翼の状態、鱗の艶、歩行の様子、飛行(跳躍)の有無、飲水、食事、排泄、睡眠、そして特記事項。
「犬や猫の飼育記録より、項目が多くないですか?」
「分かっていないことが多い生き物だからね」
「分かってないから、些細なことでも記録するってことですか」
「そういうこと。彼らの正常な状態を知らなければ、異常に気づくこともできない」
拓海は昨日の記録を見た。
榊原が記入したものだ。
食事:なし
飲水:ごく少量
排泄:なし
「……本当に、何も食べてないんですね」
「うん」
「それで、これだけ元気」
ケージの中では、小竜が枝から枝へと軽快に移動し、時折、小さな翼を広げて伸びをしている。生命力に溢れていた。
「すごいな……」
「マナの力だよ。さて、せっかくだから水皿の交換をしてみようか。昨日の記録にある通り、水は少し飲むからね」
榊原の言葉とほぼ同時に、小竜が枝から降りて水皿に近づいた。
鼻先を水面に近づけ、小さな舌を出す。
ぺろ。
ぺろ。
ほんの二、三回、舌先で水を掬うように舐めただけ。
すぐに顔を上げ、また枝の方へと戻っていく。
「飲んだ」
「飲んだね」
「水も、生命維持に必須じゃないんですよね?」
「食事と同じ。必須ではないけど、飲む。湿度調整や、気分転換のような意味合いもあるかもしれない」
「少なっ」
「だから、記録には『少量』と書くんだ」
拓海はペンを取り、真新しい記録用紙に向かった。
今日の日付と時刻を書き込み、『飲水:少量』と記入する。
そこで、少しだけペン先が止まった。
昨日まで、竜はファンタジーの中だけの架空の存在だった。
それが今、大学の施設で、自分がその飼育記録をつけている。
「……なんか、すごいことしてるな、俺」
「そのうち慣れるよ」
「慣れますかね、これ」
「俺は慣れた」
飄々と答える榊原を見て、拓海は苦笑するしかなかった。
その後は、本格的な基礎飼育実習が始まった。
いきなり小竜に触らせてもらえるわけではない。
ケージ内の温度・湿度の確認方法、床材の汚れのチェック、枝や設備の破損がないかの確認。そして何より、小竜の健康状態を目視で確認するポイント。
鱗に傷はないか。翼の皮膜は乾燥していないか。目は澄んでいるか。
「先生、これ、水皿を交換したいんですけど」
拓海がケージのスライド窓から手を入れる準備をしながら尋ねる。
「交換すれば?」
「いや、近くにいるんです。小竜が」
「だから?」
「……追い払っていいんですか?」
榊原は少し笑った。
「必要がなければ、追い払わなくていいよ。彼らにも彼らのペースがある」
「じゃあ、どうすれば」
「別の水皿を用意して、この子が自分で離れるまで別の作業をしていればいい」
拓海は言われた通り、スペアの水皿に新しい水を汲み、小竜が水皿から離れて枝の上でくつろぎ始めるのを待った。数分後、無事に交換を終える。
「……効率、悪くないですか?」
「急ぐ理由、ある?」
「ないですけど」
「なら、いいでしょ」
これもまた、榊原の飼育哲学だった。
人間の都合で、必要のない介入をしない。
ただし、榊原はすぐに補足した。
「もちろん、危険がある時や、治療が必要な時は、人間側が積極的に介入する。何でも本人の好きにさせるわけじゃないからね」
「尊重するのと、放任するのは違うってことですね」
「そう。爪がケージの網に引っ掛かっているとか、誤って有毒なものを口にしようとしているとか、外へ逃げ出そうとしているとか。そういう場合は、嫌がられても止める」
「必要じゃないことまで、人間の都合で強制しない。……そういう感じですね」
拓海は深く頷いた。
***
午前九時。
実習が一段落すると、拓海は別室に案内された。
ここからは、タブレットと資料を使った『基礎講習』だ。
「じゃあ、昨日の続きだね。行政的なルールの話」
榊原がスクリーンに資料を映し出す。
「まず、彼らのような生物を、我々は便宜上『魔法生物』と呼んでいる」
「魔法生物」
「そう。ただし、これは生物学的な単一の分類群を意味する言葉じゃない。竜も、もしグリフォンなんかがいたとしても、全員が同じ祖先から進化したわけじゃないからね」
「じゃあ、『哺乳類』とか『爬虫類』みたいな分類じゃないと」
「違う。行政や研究の現場で、『環境マナに依存して生命活動を維持する特殊な生物群』をまとめて扱う時の、総称に近い」
拓海はメモを取った。
「で、昨日言ってた『国も把握してる』っていうのは?」
「日本国内では、こういう魔法生物の保護や管理を専門に行う機関がある。関係者の間では《八咫烏》と呼ばれているよ」
「……八咫烏」
「名前だけ覚えておけばいい。今の君に必要なのは、魔法生物の『飼育者』としての実務的なルールだけだ」
榊原は画面を切り替え、具体的な禁止事項を提示していった。
1.写真・動画の撮影と共有
撮影は、飼育記録用として認可された専用端末のみ。SNSへの投稿は当然禁止。クラウドへの自動同期も設定をオフにすること。友人や家族への送信も厳禁。
2.来客時の対応
原則として、魔法生物の姿を第三者に見せてはならない。家庭飼育中に来客の予定がある場合は、専用の隔離スペース(キャリーなど)へ移し、存在を隠蔽すること。
3.屋外への連れ出し
自由な散歩は禁止。移動が必要な場合は、指定のキャリーケースを使用し、中が見えないようにカバーをかけること。事前の届け出と記録が必須。
4.逃走時の対応
万が一逃走した場合、自分一人で追跡し続けないこと。すぐに専用の緊急連絡先へ通報し、指示を仰ぐこと。
5.異常時の対応
体調不良、怪我、異常行動が見られた場合。
「普通の動物病院へは、絶対に連れて行かないこと」
「……普通の動物病院じゃ駄目なんですか」
「受付で『竜です、診てください』って言うつもり?」
「……駄目ですね。即座に通報されますね」
「専門の獣医窓口があるから、そちらへ連絡するように」
そして、最後に榊原は少し声を低くして言った。
「最大の禁止事項。勝手に、他の魔法生物を拾ってこないこと」
「拾う? ……そんな、犬や猫みたいに道端に落ちてるんですか?」
「たまにね」
「いるんだ……」
拓海は遠い目をした。
行政ルールの説明が終わると、次は拓海の自宅、すなわち『家庭飼育環境』についての確認に入った。
「賃貸契約書のコピー、持ってきた?」
「はい。言われた通りに」
拓海がコピーを渡す。
大学の近くにある、築年数はそこそこだが小綺麗な1DKの学生向けアパートだ。
「ふむ……。犬猫などの放し飼いペットは禁止。ただし、水槽やケージ内で飼育する小型魚類、小鳥、小型爬虫類等は、建物や他住戸へ影響を与えない範囲で可、と」
「……竜は?」
「契約書には書いてないね、当然だけど」
「そりゃそうでしょうね」
「まあ、外向きには『大学での研究用に許可を得て飼育している、小型爬虫類に準ずる個体』として処理できる。ケージ飼育が許容されている物件だから、大きな問題はないよ」
次に、拓海が事前に提出していた部屋の写真がスクリーンに映し出された。
ベッド、机、小さなキッチン。窓とベランダ。エアコン。
榊原が真っ先に注目したのは、窓だった。
「ここ」
「窓ですか?」
「網戸だけにして換気するのは駄目だ」
「飛ぶから?」
「飛ぶから。網戸なんて、爪で破られるか、体当たりで外される可能性もある」
完全なリフォームまでは必要ない。今回の小型竜は標準環境に対応しているため、人間が快適に過ごせる部屋なら問題なく暮らせる。
ただし、初期段階は専用のケージを生活拠点にしてもらう。
榊原が準備リストを読み上げる。
高さ九十センチ程度の縦型飼育ケージ。止まり木となる枝。隠れ家になる寝床。水皿。温湿度計。マナの簡易測定器。脱走防止用のロック。見守りカメラ(外部クラウド接続なし)。窓の補助ロック。危険な小物や薬品の片付け。キッチンへの侵入防止策。
「一人暮らしの部屋が、ものすごいことになりそうですね」
「生き物を飼うって、そういうことでしょ」
「正論です」
拓海は一つ気になったことを尋ねた。
「この子、ずっとケージの中なんですか?」
「最初はね。環境が変わるストレスを最小限にするためだ」
「じゃあ、慣れたら?」
「環境への順応、君との関係構築、ケージへの帰巣行動、呼び戻しの反応、危険物への認識……それらが確認できたら、監督下で室内での自由行動時間を少しずつ増やしていく。このケージだけで一生暮らすわけじゃない」
「よかった」
拓海は少し安堵した。
「せっかく飛べるのに、一生あの箱の中だけじゃ、さすがに嫌だろうなって思ったんで」
「その感覚があるなら、君に任せても大丈夫だ」
榊原は満足そうに頷いた。
***
昼休み。
拓海は、第8飼育室に隣接する職員用の休憩・観察室で、持参した昼食をとっていた。
飼育室とは壁と密閉された大きな観察窓で隔てられており、衛生区画を分けたままケージの様子を見ることができる。
拓海がコンビニで買ってきたおにぎりの包みを開け、頬張り始める。観察窓の向こうでは、小竜が枝の上でこちらを見ていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、瑠璃色の瞳と目が合った。
正確には、拓海の口元と、手にあるおにぎりを交互に見ているように見える。
「……先生」
「ん?」
コーヒーを飲んでいた榊原が応じる。
「見られてます」
「見てるね」
「腹減ってるわけじゃないんですよね?」
「ないね。マナは十分足りてる」
拓海がおにぎりを飲み込み、食後のデザートとしてタッパーに入れてきた、小さく切ったリンゴに手を伸ばす。
小竜の顔が、すっ、とリンゴの動きに合わせて動いた。
「絶対気になってる」
「気にはなってるかもね。未知の物質が、人間の口に吸い込まれていくんだから」
「これ、リンゴなら?」
「小型竜への既知の毒性はないとされている」
「じゃあ、ちょっとだけ……」
「待って」
榊原が制止した。
「まず昼飯を終わらせて。それから手洗いと消毒をやり直して、飼育室へ入り直す」
「……ですよね」
昼食を片付けた二人は、手洗いと消毒を改めて済ませて第8飼育室へ戻った。榊原はそこで今日の記録を確認する。食事なし。排泄なし。健康状態は正常。その上で、「与えるなら、ほんの少量だ。食べなくてもいいものだからといって、欲しがるだけ無制限にやらないこと」と念を押した。
榊原は拓海のタッパーからリンゴの一欠片を取り出し、清潔な器具で米粒より少し大きい程度に切り分けた。
「小さっ」
「身体も小さいんだから当然でしょ」
手から直接与えるのはまだ早い。
榊原は小さな陶器の小皿にその欠片を乗せ、ケージのスライド窓を開けて、小竜の近くの枝に置いた。
小竜はすぐには飛びつかなかった。
枝を伝ってゆっくりと小皿に近づき、鼻先を寄せる。
すん。
すんすん。
周囲を一周し、舌先でぺろっと舐める。
拓海は息を詰めて見守っていた。
そして。
かぷ。
小さな口が、リンゴの欠片をくわえた。
しゃく。しゃく。
微かな咀嚼音。
(……やばい。可愛すぎて死ぬ)
拓海は心の中で絶叫した。
「……食べた」
「食べたね」
小竜はあっという間に欠片を飲み込み、空になった小皿を見た。それから拓海を見て、もう一度小皿を見る。
「きゅ」
「これ、もう一個くれって意味ですか?」
「分からない」
榊原は即答した。
「でも、追加をどうするかは人間側で決める。今日は初回だ。これでおしまい」
「なんか、かわいそうな気もしますけど」
「そこを我慢するのが飼育員だよ」
拓海は渋々頷き、記録用紙を取り出した。
『食事:リンゴ少量 自発摂取:あり』
特記事項の欄に、『食後、空の皿をしばらく確認。追加を求める行動かどうかは不明』と書き加える。
「……これだけでも、めちゃくちゃかわいいな」
「記録に『かわいい』は書かなくていいからね」
「書きませんよ、頭の中だけです」
***
リンゴを食べた翌朝。
拓海はいつものように施設へ来ると、まず健康観察のためにケージ内を確認した。
すると床材の上に、ごく小さな、本当に米粒の半分ほどの塊が落ちている。
「…………」
「出たね」
「本当に出た。昨日のリンゴの分か……」
「食べたからね。物質を摂取すれば、消化して排泄する」
「リンゴ一欠片で、俺の仕事が増えたわけですね」
「そういうことだね」
拓海は小さなピンセットとスコップを使い、丁寧に排泄物を取り除いた。
枝の上から、小竜がその様子を不思議そうに見下ろしている。
「お前はいいよな、食べて出して寝てるだけで」
「きゅ?」
「本当に出た。リンゴのカスか……」
小首を傾げるその姿がまた可愛くて、拓海はため息をついた。
その日、つまり飼育実習二日目には、ケージの前にしゃがむと、初日よりも早く小竜が枝の手前へ移動してくるようになった。
翌三日目には、水皿の交換や床材の掃除をしている間も逃げず、少し離れた枝から拓海の作業をじっと見ていた。
それからも、拓海は毎朝と授業の空き時間を使って施設へ通い、飼育実習を続けた。
劇的な変化があったわけではない。拓海の姿を見ただけでスライド窓際まで駆け寄ってくるようなこともなければ、急にべったり甘えるような行動を見せることもない。
「懐いた、とは言えませんけど」
ある日の記録を終えた拓海が言うと、榊原は頷いた。
「うん。少なくとも、水野君が近くにいることへの警戒心は下がっているように見える。それで十分、良い変化だよ」
***
その週の土曜日。
いよいよ、拓海の自宅での『家庭飼育環境適応試験』に向けた最終確認の日がやってきた。
午前中、榊原教授が拓海のアパートを訪れた。本来なら別の担当者が来る予定だったが、今回は榊原の研究の一環でもあるため、自ら足を運んだのだ。
「お邪魔するよ」
「どうぞ」
「……ほう。男子大学生の一人暮らしにしては、思ったより綺麗にしてるね」
「思ったよりって何ですか」
「偏見だよ」
拓海は昨日、四時間かけて部屋を大掃除したのだ。綺麗で当然である。
榊原のチェックは細部に及んだ。
床に落ちている小物(硬貨、輪ゴム、イヤホン)の誤飲の危険性。電気コードをかじる可能性。キッチン周りの刃物や調味料の隔離。窓の補助ロックの作動確認。ベランダへの出入りの制限。エアコンの動作状況。
そして、小型の測定器を取り出し、室内のマナ濃度を測定する。
「うん。問題なし」
「普通の部屋にも、マナってあるんですね」
「あるよ。普通は感知できないだけだ。一匹の小型竜が暮らす程度なら、枯渇することはない」
すでに施設から運び込まれていた、高さ九十センチの縦型ケージも設置済みだ。
中はまだシンプルで、止まり木となる枝、隠れ場所、低い足場、水皿、温湿度計のみ。玩具はまだ入れていない。
「窓際でもなく、エアコンの風も直接当たらない。君の机からも見える位置。完璧だ」
榊原は満足そうに頷いた。
「じゃあ」
「はい」
「迎えに行こうか」
拓海は息を呑んだ。
「今日、ですか?」
「今日。そのために朝から検査したんだから」
榊原は端末で、『家庭飼育環境適応試験』と、この日の施設外移送届が正式に承認済みであることを確認した。それから、急激に心拍数が跳ね上がる拓海と共に大学へ戻った。
第8飼育室。
榊原が用意したのは、小型で頑丈な移動用キャリーだった。通気性は確保されているが、外から中は見えない構造になっている。二重ロック付きだ。
拓海はキャリーの中に、ケージで使っていた寝床の素材を少しだけ入れた。知らない匂いだけの箱にならないための配慮だ。
「これ、どうやって入れるんですか?」
「基本は、入ってもらう」
「入らなかったら?」
「時間を置く。それでも駄目なら、安全に保定して入れるけど、今日は急ぐ理由はない」
榊原はキャリーをケージの入口付近の安定した場所に置き、扉を開けた。
そして、二人とも無言で待機する。
押さない。追わない。餌で釣るような真似もしない。
一分。二分。
小竜は枝の上からキャリーをじっと見ていたが、やがてゆっくりと降りてきた。
キャリーの入口に近づき、匂いを嗅ぐ。
片方の前脚を中に入れ、すぐに戻す。
拓海は息を止めて見守った。
「見るだけ」
榊原が小声で言う。
「はい」
小竜が、拓海の方を向いた。
キャリーを見て、拓海を見て、またキャリーを見る。
その意図は分からない。
だが、拓海は自然と口を開いていた。
「……行く?」
命令ではない。問いかけだった。
声を聞いて、小竜の小さな頭がわずかに拓海の方へ動いた。
そして。
もう一度入口に向き直り、前脚、身体、後脚、最後に尻尾と、自分からキャリーの中へと入っていった。
中の寝床材の匂いを嗅ぎ、くるっと向きを変えて、入口側から拓海を見る。
「きゅ?」
拓海は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「閉めていいよ」
榊原の合図で、拓海はゆっくりとキャリーの扉を閉め、ロックをかけた。
「……入った」
「入ったね」
「俺と行くって、分かってるんですかね」
「分からない。でも、少なくとも今の時点で、キャリーに自分から入る程度には、この状況を強く嫌がってはいない。それで十分だ」
榊原は『家庭飼育環境適応試験』の書類を取り出した。
担当者の欄に、拓海は自分の名前を書き込む。
水野拓海。
昨日までただの大学生だった自分が、今日から、竜の家庭飼育担当者になったのだ。
帰路は、榊原の車だった。
後部座席にキャリーをシートベルトで固定し、拓海はその隣に座る。
「水野君」
「はい」
「五秒に一回、キャリーを覗き込むのやめなさい」
「見てませんよ」
「見てる」
だって気になるのだ。
キャリーの中から時折「がさっ」と音がするたびに、拓海は首を伸ばした。
「今、動きました」
「生き物だからね」
アパートに到着し、周囲の人目に注意しながらキャリーを部屋へ運び込む。
ドアを閉め、カーテンを引き、窓のロックを確認する。
玄関に立ち、拓海はキャリーと、部屋の奥にある新しいケージを交互に見た。
「……本当に、来た」
昨日までは自分一人の部屋だった。
今、この部屋に、竜がいる。
「すぐに出さないこと」
榊原が最後の注意を与える。
「移動だけで刺激が多い。ケージに移したら、なるべく静かに環境に慣れさせるんだ。触りたくても我慢」
「それはできます」
「知ってる」
ケージの扉を開け、そこにキャリーの扉を合わせて開く。
小竜はすぐには出なかった。
キャリーの中から、新しい部屋の匂いを嗅ぎ、音を探っている。
拓海は少し離れた床に座り、じっと待った。
数分後。
小竜が鼻先を出し、前脚を出し、新しいケージの枝へと移った。
少し登って周囲を見渡し、翼を広げて小さく羽ばたき、また閉じる。
そして、床に座る拓海を見下ろした。
「きゅ?」
「……今日から、よろしくな」
拓海は静かに声をかけた。
「じゃあ、俺は帰るから」
一通りの確認を終えた榊原が、あっさりと背を向けた。
「えっ、もう帰るんですか?」
「何、飼うのは君でしょ?」
「そうですけど」
急に二人きりになると思うと、謎のプレッシャーが押し寄せてきた。
「何かあれば、渡してある夜間専用の緊急連絡先に電話すること。ただし、『小竜が寝てるんですけど大丈夫ですか』みたいな内容で午前三時に電話してこないように」
「しませんよ、そんなこと」
「本当に?」
「……多分」
玄関のドアが閉まる。
部屋に静寂が訪れた。
拓海と、小竜。
二人きりだ。テレビもつけていない。
「…………」
「…………」
「……えーと、どうすればいいんだ、これ」
当然、返事はない。
拓海は結局、自分の机に向かい、飼育記録をつけることにした。
『移送:問題なし。新規環境進入:自発。呼吸:正常。活動性:正常』
背後で気配がした。
振り返ると、小竜が枝の上から、じっと拓海を見つめていた。
目が合う。
「きゅ」
「……いるんだよな。本当に」
拓海は思わず笑みをこぼした。
今日の特記事項。
『家庭飼育初日。特に異常なし』
と書いてから、拓海は少し迷った。
味気ない。しかし、「かわいい」は健康記録ではない。
拓海はその下に、個人的なメモとして『※めちゃくちゃかわいい』と書きそうになり……ペンの動きを止めた。
「記録にかわいいは書かなくていい」という榊原の言葉を思い出したのだ。
拓海はペンを置いた。
ケージの中を見ると、小竜が用意した寝床ではなく、拓海からよく見える枝の上で、身体を小さく丸め始めていた。翼を畳み、目を細める。
その無防備な姿に、拓海は小さく呟いた。
「……やっぱ、かわいいわ」
今度は、誰もそれを咎める者はいなかった。
昨日までは、一人暮らしだった。
今日からは違う。
まだ名前すら知らない。何が好きで、何が嫌いで、どう遊び、どこで眠るのか。何一つわかっていない。
だからこそ、これから一つずつ、知っていけばいいのだ。
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