魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~   作:パラレル・ゲーマー

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【挿絵の軽量化について】
これまで掲載した挿絵を、読み込みやすいよう軽量化しました。
画像を開くのに時間がかかっていたことに今まで気づかず、申し訳ありませんでした。
少しでも快適に、魔法生物たちの姿を楽しんでいただけたら嬉しいです。


第21話 手のひら小竜が初めて俺の肩へ乗ったら、俺の方が固まったらしい

 日曜日の夜、午後七時を少し回った頃。

 夕食の片付けと皿洗いを終えた水野拓海は、濡れた手をタオルで拭きながら自室の机へと戻ってきた。

 

 窓の施錠とサッシの補助ロック、遮光カーテンの完全な閉鎖、キッチン側を仕切るパーティション、そして高所の進入防止カバーと安全着地点の固定具合。ケージ外探索を始める前の点検は、すでに一通り済ませてある。

 机の中央には、今夜見直す予定の講義ノートとプリントの束。

 そしてその右脇には、十八センチ×十四センチの小さなマットが、上になにも載せられないまま綺麗に空けてあった。

 

「よし。今日もここ、ちゃんと空けといたからな」

 

 拓海は机の右脇を指先で軽く撫でながら、ケージの中へ視線を向けた。

 もちろん、こうして場所を用意して声をかけたからといって、ルリが必ずそこへ来ると決まっているわけではない。使うかどうかも、いつ来るかもルリの自由だ。それでも、ここ数日の夜と同じように、自分のノートの隣を空けて待つのはすっかり拓海の自然な習慣になっていた。

 

 机の端に据えた認可撮影端末の録画ボタンを押し、定点記録を開始する。

 スライド窓のロックを外して開け放ち、ケージと机を繋ぐ短い固定足場をカチャリとはめ込んだ。

 

 屋根の上にいたルリが顔を上げ、枝を伝って降りてくる。

 入口で一度だけ外の空気を確かめるように鼻先を動かしてから、固定足場をトテ、トテと歩いて机の上の観察マットへと降り立った。

 

 最初は机の端まで歩いて周囲を見回し、椅子の背もたれの方を一瞥する。

 それからくるりと向きを変えると、迷いのない足取りで机の右脇へと向かってきた。

 小さなマットの縁に前脚を乗せ、続いて後脚も乗せる。その場で半回転して角度を整えると、四脚を折りたたむようにして身体を低く沈めた。背中の翼がきっちりと畳まれ、短い尻尾がマットの内側に収まる。

 

「……はい、本日も出席確認っと」

「きゅ」

「これで六日連続だな。真面目な学生よりよっぽど出席率いいぞ、お前」

 

 拓海は思わず口元を緩めながら、静かに椅子を引いて腰を下ろした。

 少し前までは、そこへ来てくれるだけで息を止めて見守るような出来事だったのに、今ではこうして隣に小さな赤銅色の塊がある景色が、夜の机の当たり前になっている。

 拓海はルリを驚かせないようゆっくりと講義ノートを開き、ペンケースからシャープペンシルを取り出した。

 

 ***

 

 探索開始から、十分ほどが経過した。

 静かな部屋の中に、時折ページをめくる紙の音と、芯がノートを滑る微かな音だけが響いている。

 

 右脇のマットの上では、ルリがしばらくの間、顎を低くした姿勢のまま落ち着いていた。拓海の手元を見ているようでもあり、ただぼんやりとデスクライトの明かりが落ちる机面を眺めているようでもある。

 しかし、拓海がノートの二ページ目を書き終えて一息ついたところで、隣の小さな影がふっと動いた。

 

 ルリが四脚に力を込め、すっと身体を起こしたのだ。

 背中の翼を一度だけ小さく開閉して伸ばし、また綺麗に畳む。

 

「お、休憩終わりか?」

 

 拓海はすぐに筆記を止め、持っていたシャープペンシルを机の左奥、ルリの動線から遠い安全な場所へと置いた。

 ルリは専用席のマットから降りると、トテ、トテと軽快な足取りで机の上を歩き始めた。

 

「今日はまだ、あちこち見て回る気分なんだな」

 

 椅子の背へ飛ぶのか、それとも安全着地点の棚へ向かうのか。

 拓海が視界の端でその行方を追っていると、ルリは開かれたノートのすぐ下側の端をトテトテと通り過ぎ、机の手前側──拓海が置いていた右手のすぐ近くへとやってきた。

 

 立ち止まり、鼻先を拓海の指先へ近づけて、すん、と匂いを嗅ぐ。

 拓海はルリの進路を塞がないよう注意しながら、いつものように右手の掌を上に向けて、机の表面スレスレの低い位置へと開いて提示した。

 

「……乗るか?」

 

 強制はしない。ただの足場の一つとして、そこに手を置くだけだ。

 ルリは開かれた掌と拓海の顔を一度ずつ見比べると、ためらう様子もなく右の前脚を掌の縁へと乗せた。

 続いて左の前脚。少し遅れて、右後脚、左後脚。

 小さな爪の硬い感触と、じんわりとした微かな温もりが皮膚に直接伝わってくる。全長十から十二センチ、以前の健康チェックでは三十一・八グラムだった身体が、すっぽりと片手の中に収まった。

 

「はい、いらっしゃい。今日も軽いな」

 

 ここまでは、ルリを家に迎えてから何度も繰り返してきた、見慣れたやり取りだった。

 いつもなら、このまま掌の上で少し匂いを嗅いだり、くるりと向きを変えたりしてから、また机のマットへと降りていく。

 拓海もそのつもりで、ルリが満足して降りるまで右手を動かさずに待っていた。

 

 ところが。

 

 掌の中央に立ったルリは、机の方へ向き直らなかった。

 そのまま、拓海の親指の付け根をかすめ、手首の方向へと真っ直ぐ顔を向けたのだ。

 

 とて。

 

 一歩、小さな前脚が前に出る。

 

「……ん?」

 

 さらにもう一歩。

 とて。

 

 ルリの右前脚が、掌の皮膚を越え、拓海が着ている濃紺のパーカーの袖口へと乗った。

 リブ編みの少し厚みのある布地を、小さな爪先がふみっ、と捉える。

 

「……あれ、そっち行くの?」

 

 拓海が着ているのは、フードの紐を抜いてあるシンプルな綿のパーカーだ。金具や装飾など、ルリの爪や翼膜が引っ掛かるような危険なパーツはついていない。

 ただ、今の拓海はノートを読んでいた姿勢のまま少し前屈みになっており、机に置いた右手から肘、そして右肩にかけて、腕が緩やかな上り坂のような角度になっていた。

 

 ルリは袖口の段差を気にする様子もなく、左前脚もパーカーの布地へと乗せた。

 滑らかな赤銅色の鱗と、濃い紺色の布地。いつもなら袖口をちょんと触る程度で終わるのに、今日はその後脚までが完全に掌から離れ、前腕の上へと乗り移っていく。

 

 とて。とて。

 

「…………」

 

 拓海は、ノートの端を押さえていた左手の動きをピタリと止めた。

 ルリが、腕を歩いている。

 手首から前腕の中ほどへ。布地のわずかな皺を踏みしめながら、一歩ずつ、確かな足取りで登ってくるのだ。

 

(……あれ? 待てよ、これ)

 

 ルリが肘の内側のすぐ近くまで到達したところで、一度立ち止まった。

 そこで首を少し持ち上げ、高い場所を見上げるように鼻先を上へ向ける。

 その瑠璃色の瞳が捉えている先にあるのは、拓海の上腕。そして、そのさらに上にある右肩だった。

 

「…………まさか、お前」

 

 拓海の喉の奥が、ごくりと小さく鳴った。

 掌に乗るだけじゃない。机の上を歩くだけでもない。このまま、自分の腕を伝って上まで登ろうとしているのか。

 

 急いで肩を低くして差し出したり、逆に右腕を持ち上げて坂を緩やかにしたりといった誘導はしなかった。今ここで腕の角度を動かせば、足元が揺れてルリを驚かせてしまう。

 拓海は前屈みの姿勢をミリ単位で固定したまま、空いている左手を、右腕の少し下──万が一ルリが足を滑らせた時に、いつでも下から受け止められる位置へと静かに構えた。

 

 ***

 

 ルリが一拍置いて、再び動き出した。

 

 前腕から、少し傾斜が強くなる上腕へ。

 よいしょ、とでも言いたげに、小さな前脚がパーカーの布地をしっかりと捉え、後脚がそれに続く。

 もちろん、実際に力んでいるかどうかは分からない。だが、一歩ごとに背中の畳まれた翼がわずかに揺れ、短い尻尾がバランスを取るように左右へ振れる姿は、まるで小さな登山者が斜面を登っているかのようだった。

 

 上腕の真ん中あたりで、ルリがもう一度だけ足を止めた。

 

「……大丈夫か? 滑らないか?」

 

 ルリを驚かせないよう、息を吐くような極小の声で問いかける。

 ルリは頭をほんの少しだけ拓海の顔の方へ向けた。

 

「きゅ」

 

 短く一声だけ鳴くと、そのまま迷わず再び前脚を踏み出した。

 拓海は呼吸を浅くし、自分の胸郭が上下する動きすら最小限に抑え込んだ。

 登りやすいようにと勝手に身体を傾けたりはしない。ただ、ルリが自分の足で選んだその経路が揺れないよう、徹底して『動かない足場』に徹する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

(……いや、待ってくれ)

(本当に来るのか? ここまで?)

 

 距離が詰まるにつれて、視界の下方にいた赤銅色の背中がどんどん大きく、近くなってくる。

 ルリの右前脚が、上腕と肩の縫い目を越え、ついに右肩の平坦な布地へと届いた。

 続いて左前脚。

 小さな身体がぐっと前へ引き上げられ、右後脚、左後脚が順番に肩口へと乗り移る。

 短い尻尾がすっと後ろへ抜け、バランスを取るように少し開いていた翼が、ぱたんと背中に収まった。

 

 とて。

 

 四本の脚すべてが、完全に拓海の右肩の上に乗った。

 

「…………」

 

 部屋の空気が、凍りついたように静まり返った。

 一秒。

 二秒。

 

(…………乗った)

 

 三秒。

 

(……俺の、肩に?)

 

 事実を脳が処理し終えた瞬間、拓海の内側で、声にならない絶叫が爆発した。

 

(乗ったああああああ!! ルリが! 俺の肩に! 自分から登ってきた!!)

(待て待て待て、動くな俺! 今ちょっとでも肩を跳ねさせたら落ちる! 絶対に動くな!)

(でも見たい! 今どんな感じで乗ってるのか、めちゃくちゃ横を向いて見たい!)

(いや向くな! 首を回したら顎が当たるかもしれないだろ! 我慢しろ俺の首!)

 

 表面上は、机に向かってノートを開いたまま、彫像のようにピクリとも動かない真面目な男子大学生である。

 しかしその頭の中は、警報と歓喜のパレードで完全にパンクしていた。

 全神経が右肩の一点に集中している。約三十二グラム。文庫本一冊よりもずっと軽いはずのその重みが、今の拓海にはとてつもない存在感をもってパーカーの布地越しに伝わってきていた。

 

 ***

 

 ルリは拓海の右肩、首筋から数センチだけ外側の位置に四脚で立っていた。

 机の上やケージの中にいる時とは違い、拓海が正面を向いたままでも、視界の右端にその小さな頭と赤銅色の鼻先がちらりと映り込んでいる。

 

「…………近い」

 

 声帯をほとんど震わせない、かすれた囁き声が漏れた。

 

「お前、そこにいると……思ってたより、ずっと近いな」

 

 掌に乗せている時は、どれだけ近づけても目線からは数十センチの距離があった。

 だが今は違う。すぐ真横、自分の頬からほんの数センチのところに、小さな角と、宝石のように澄んだ瑠璃色の瞳があるのだ。微かな体温すら、首筋のすぐそばに感じられる気がした。

 

 その時、ルリが肩の上でほんの少しだけ頭を動かした。

 そして、拓海の右耳のすぐ真横で。

 

「きゅ?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…………っ!」

 

 拓海の背中を、電流のような衝撃が突き抜けた。

 近い。声が、あまりにも近い。

 今までケージ越しや机の上で何十回、何百回と聞いてきたはずの「きゅ」という小さな鳴き声。それが、空気の振動と微かな吐息の気配を伴って、ダイレクトに鼓膜のすぐそばで響いたのだ。

 

「……お前、それ、耳元でやるのは反則だろ……」

 

 絞り出すように呟くが、ルリにその言葉の意味が通じるはずもない。

 ルリは拓海が悶絶していることなどつゆ知らず、肩の上で小さく足踏みをすると、今度は机の上のノートの方へと頭を向けた。

 

 拓海も、首を動かさないまま目線だけを机のノートへと戻す。

 結果として、一人と一匹が、全く同じ高さから、同じ角度で机の上を見下ろす形になった。

 

「……もしかして、お前。そこからだと、机の上がよく見えるのか?」

 

 もちろん、ルリが何を目的に肩まで登ってきたのか、その正確な理由は分からない。

 ただ、いつもの右脇の専用席にいる時よりもずっと高い視点から、ルリが首を少しずつ動かして、広げられたノートや観察マット、さらにはケージの屋根の方まで見渡しているのは確かだった。

 

「……見晴らし、いいもんな。特等席だな、そこ」

 

 そう口にしてから、拓海はハッと気づいた。

 

「いや、待て。そこ、俺の肩だぞ」

 

 数秒の沈黙。

 

「……俺、お前の展望台か椅子になってないか?」

 

 ツッコミを入れてみたものの、返事はない。

 それどころか、ルリは周囲を一通り見渡して満足したのか、拓海の右肩の上で、四脚をゆっくりと折り曲げ始めたのだ。

 

 ぺたん。

 クリーム色のお腹が、パーカーの肩口に柔らかく接地する。

 

「…………」

「…………あの、ルリさん?」

「……そんな、寝床の屋根みたいに落ち着かれても困るんだけど」

 

 言葉では困ると言いつつ、拓海の内心は大歓迎どころか感動で震えていた。

 だが、現実に肩の上で座り込まれてしまうと、人間側は予想以上に何もできなくなる。

 

 ルリが居心地を確かめるように、右の前脚をほんの数ミリだけ踏み直した。

 ふみっ、と衣服の繊維がわずかに押される感触が肩に伝わる。

 

「……今、前脚動かしたな」

 

 続いて、短い尻尾が首筋の後ろあたりを、さらりとかすめて位置を変えた。

 

「……尻尾も当たった」

 

 さらに、背中に畳まれた皮膜翼が一度だけぴくっと持ち上がり、またぴたりと身体に沿わされる。

 

「……翼も動いた」

 

 視覚ではなく、肩口の触覚だけでルリの小さな仕草がすべて分かってしまう。

 その一つ一つの微細な動きが愛おしすぎて、拓海はついに耐えきれなくなり、大きく息を吸い込んでから極小の声で漏らした。

 

「…………めちゃくちゃ、かわいいなあ……」

 

 記録用紙の前ではない。今はもう、無理に我慢する必要はなかった。

 

 ***

 

 ルリが肩の上に乗ってから、一分ほどが経過した。

 拓海は依然として、机に向かって少し前屈みになったまま、左手を右腕の下に浮かせた不自然なポーズを維持し続けている。

 当然、講義ノートの整理など一文字たりとも進んでいない。

 

「……なぁ、ルリ。お前、いつまでそこにいる予定だ?」

「きゅ」

「いや、別にいつまでいてくれてもいいんだけどさ」

 

 一拍置いて、拓海は引きつった笑みを浮かべた。

 

「……俺、そろそろ首と左腕がつりそうなんだよね」

 

 ルリが無理強いしているわけではない。拓海が万が一の落下や急な移動に備えて、勝手に全身の筋肉をガチガチに固めているだけだ。

 ふと気づけば、ルリが乗っている右肩にまで、無意識のうちにグッと力が入っている。

 

 肩口の布地に感じる重みは、ほんのわずかだ。

 その上でルリは、落ち着いた様子でまた机の方へ頭を向けていた。

 

 そんなのんきな姿がおかしくて、拓海は思わず鼻から小さく息を漏らした。

 

「……三十グラムに肩へ乗られて、人間の方が肩こるって、どういう仕組みだよ」

 

 身体を揺らさないよう、喉の奥だけで静かに笑う。

 ルリは拓海のその微かな振動に反応したのか、低くしていた頭を少しだけ持ち上げたが、すぐにまた何事もないように前を向いた。

 

 拓海は、自分の右肩に伝わる小さな重みと温もりを、改めて静かに噛み締めた。

 自分は今、ルリを捕まえてもいないし、撫でてもいない。食べ物で釣ったわけでもない。

 ただ机でノートを開いて座っていたら、ルリが自分で掌へ乗り、自分の足で袖を登り、こうして顔のすぐ隣までやってきて、そこで落ち着いている。

 

(……なんだこれ)

(ただ乗られて動けなくなってるだけなのに、信じられないくらい嬉しいぞ)

 

 ルリを迎えてから、机の上をほんの三十センチ進んだ日も、初めて短く飛んだ日も、隣に小さな席ができた日もあった。その積み重ねの先にいるルリが、今こうして自分の肩の上に乗っている。そう思うと、腕の疲れなどどうでもよくなるほど、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 ***

 

 肩へ乗ってから、およそ一分半が過ぎた頃だった。

 それまで座り込んでいたルリが、ふいに四脚を立ててすっと立ち上がった。

 

「お……?」

 

 拓海が息を呑むと、ルリは肩の上で小さく向きを変え、先ほど登ってきた拓海の右上腕の方へと頭を向けた。

 どうやら、肩から直接机やケージへ飛び降りるのではなく、歩いて戻るつもりらしい。

 

「……降りるか? よし、ちょっと待てよ、今そのままにするからな」

 

 拓海は声をかけながら、少しだけ強張っていた右腕の角度をそのままに保ち、左手をいつでも下から支えられる位置へと構え直した。

 ルリが肩口から、一歩、右前脚を上腕へと踏み出す。

 

 とて。

 

 下り坂になるため、登ってくる時よりも慎重な足取りだ。小さな爪でパーカーの布地を確かめるように捉えながら、前脚、後脚の順に少しずつ高度を下げていく。

 上腕から、肘の曲がり角へ。

 拓海はルリが歩きやすいよう、呼吸を整えて一切の揺れを殺し続けた。

 

 肘を越え、前腕の中ほどへ。

 そして袖口のリブを跨ぎ、開いたまま机の上に置かれていた拓海の右の掌へと、四脚すべてが戻ってきた。

 さらにルリは掌の上でも止まらず、そのまま指先を越えて、机の上の観察マットへとトテトテと降りていった。

 

「…………降りた」

 

 右肩から、そして掌から、あの小さな重みが完全に消えた。

 ルリが安全な机の平面に戻ったのを確認してから、拓海はようやく、止めていた息を肺の底から吐き出した。

 

「…………はぁぁぁぁぁ……」

 

 自分でも驚くほど長い、特大の吐息だった。

 浮かせていた左手を机に下ろし、ガチガチに固まっていた首と右肩をゆっくりと回す。バキバキと音が鳴りそうなほど凝り固まっていた。

 

 一方、当のルリ本人はといえば。

 机の上をトテ、トテと何事もなかったかのように横切り、開かれたノートの脇を抜けて、いつもの右隣の専用席──十八センチ×十四センチの小さなマットの上へと戻っていった。

 そして、四脚を乗せてくるりと向きを変えると、先ほどと全く同じように身体を低くして、すっと落ち着いた姿勢に入ったのだ。

 

「…………」

 

 拓海は、肩を押さえたまま、隣の席にいるルリを呆然と見つめた。

 

「……お前さあ。今、本当に何事もなかったみたいな顔してるよな」

「きゅ?」

「『きゅ?』じゃなくて。こっちは今、人生で一番くらいの大事件だったんだけど」

 

 もちろん、ルリは答えない。ただ大きな瑠璃色の瞳をぱちりと一度瞬かせただけだ。

 自分にとっては心臓が飛び出るほどの一分半だったというのに、ルリにとっては「ちょっと横の坂を登って、上の見晴らしを確かめてから席に戻った」くらいの一回の移動に過ぎないらしい。

 

 そのあんまりな温度差がおかしくて、拓海はついに声を上げて笑ってしまった。

 

「……まあ、いいか。怪我もなかったし、無事に自分で降りられたしな」

 

 肩に乗ったからといって、そのまま立ち上がって部屋の中を歩き回ったりはしなかったし、降りてきたルリに褒美のおやつをやって「また乗れ」と誘導するようなこともしない。

 ルリが行きたい時に行き、戻りたい時に戻った。

 それで、この初めての出来事は十分に完結していた。

 

「……今日は本当に、すごかったぞ」

 

 拓海は隣で丸くなっているルリにそう声をかけると、今度こそ本当に、止まっていたノートの整理へと戻った。

 

 ***

 

 その後、予定していた探索時間を終え、ルリは固定足場を歩いて自発的にケージへと帰還した。

 スライド窓を閉めてロックを確認し、足場を撤去する。ルリの歩行や翼の畳み方、爪の引っ掛かりによる異常がないかも目視でチェックしたが、すべて問題なかった。

 

 安全確保をすべて終えた拓海は、机に向かい直し、記録用の紙バインダーを開いた。

 ペンを握る。しかし、書き出そうとした指先が、まだほんの少しだけ震えている気がした。

 

「…………肩」

 

 白い記録用紙を見つめたまま、ぽつりと呟く。

 

「……本当に、俺の肩に乗ったんだよな」

 

 何度思い返しても、耳元で響いたあの「きゅ?」という声と、肩口の小さな重みが鮮明に蘇ってくる。

 だが、バインダーの正式な記録欄には、いつも通り感情を排した客観的な事実だけを書き連ねていく。

 

『夜間ケージ外探索中、個体が机上より担当者の右掌へ自発的に移乗』

『その後、右掌から手首、前腕、上腕の衣服上を連続して自発的に歩行移動』

『右肩部の衣服上へ四肢すべてを用いて到達し、全身を支持』

『肩部において約一分三十秒滞在。滞在中、頭部の方向転換、発声一回、四肢の位置調整、および身体を低くする姿勢を確認』

『その後、自発的に立ち上がり、上腕・前腕・右掌を経由して机上へ退出。退出後は机上右側の小型マットへ移動し滞在』

『担当者が個体を持ち上げて肩へ乗せる操作は行わず、食物提示や呼びかけによる移動誘導もなし。滞在中は着席姿勢を維持し、落下防止のため下方に左手を待機させた』

『移動および滞在に伴う滑落、衣服繊維への爪等の引っ掛かり、外見上の異常は確認されず』

 

 備考欄には、『家庭飼育開始後、担当者の肩部への自発移動を初観察』と記した。

 

 そこまで書き終えてから、拓海は一息つき、正式記録の枠外にある個人用のメモ欄へペン先を移した。

 榊原教授から「事実と感想を分ければ、個人の感想を持つこと自体は大事にしていい」と言われて以来、拓海が素直な気持ちを残す場所にしている欄だ。

 

『ルリが初めて自分の足で肩まで登ってきた。めちゃくちゃ嬉しかった。顔が想像以上に近くて、乗られている間は緊張でほとんど動けなかった』

 

 書き終えて、拓海は満足そうに頷いた。

 それから机の端の認可撮影端末を手に取り、録画を停止して先ほどの動画データを再生してみる。

 

 固定カメラの画角は、机の上とケージの前面を中心に合わせてある。

 映像を早送りしていくと、拓海の右の掌に乗ったルリが、とてとてと袖口を越え、紺色のパーカーの腕をよいしょ、よいしょと登っていく姿がバッチリと映っていた。

 そして、画面の左上、フレームの本当にギリギリ端っこのところで、拓海の右肩に到達したルリがちょこんと座り込む。

 その横で、拓海の上半身がまるで一時停止ボタンを押されたかのようにピタリと固まっているのまで、残酷なほど鮮明に記録されていた。

 

「…………うわ。俺、マジで石像みたいに固まってるな」

 

 画面の中の自分のガチガチぶりは少し情けなかったが、肩の上にちょこんと収まっているルリのサイズ感と可愛さは破壊的だった。

 拓海は動画を巻き戻し、腕を登り始めるところからもう一度再生した。

 さらにもう一度。結局、その場で四回も連続で見返してから、ようやく指定システムへのデータ転送ボタンを押した。

 

 ***

 

 転送完了を確認し、拓海はスマートフォンを取り出して八咫烏指定の暗号化アプリを開いた。

 こればっかりは、今日のうちに報告しないわけにはいかない。

 

『先生』

 送信すると、一分も経たないうちに既読がつき、榊原から返信が来た。

『今度は何?』

『ルリが、肩に乗りました』

『肩?』

『はい。俺の右肩です』

 

 数秒の間が空いてから、確認するような短い文面が届く。

『水野君が手で持ち上げて乗せたの?』

『違います! 机の上に出してた右手の掌から、自分で袖を歩いて登ってきたんです!』

『動画の記録番号は?』

『今上げたばかりの最新分です』

 

 そこから、しばらく返信が途絶えた。榊原がシステム上の動画を確認している時間だ。

 拓海は椅子の上でスマホを握りしめ、今か今かと画面を見つめた。

 

 二分後。通知が震える。

『…………ああ、本当だ』

『でしょう!?』

『よいしょ、よいしょって袖を登ってるね。これはかわいいねえ』

『めちゃくちゃかわいかったです!! しかも耳のすぐ横で鳴いたんですよ!』

 

 いつもなら真っ先に研究者としての注意点が入るところだが、今日ばかりは榊原もまず純粋な「かわいい」から入った。映像の中の小さな登山者の姿は、教授の目にもよほど愛らしく映ったらしい。

 

 ひとしきり盛り上がったあとで、榊原の文面がいつもの冷静な指導者のトーンへと切り替わった。

『掌から前腕、上腕を通って右肩まで。全部自発移動だね』

『はい。途中で俺が腕を持ち上げたり、誘導したりはしていません』

『肩の上から直接飛んだりはしなかった?』

『してません。降りる時も、来た時と同じように腕を歩いて机へ戻りました』

 

『なら、今日の対応としては百点だ』

 榊原からの言葉に、拓海はほっと胸を撫で下ろした。

『ただし、一つだけ覚えておいて。人間の肩というのは、机の上や固定した棚とは違って、人間が呼吸したり少し姿勢を変えたりするだけで高さも角度も変わる不安定な足場だ』

『はい』

『しかも机より位置が高い分、もしバランスを崩して落下したり、驚いて変な方向へ飛翔したりした時のリスクも上がる。今日一回登ったからといって、次からも必ず登るとは限らないし、急いで「肩乗りの練習」をさせる必要もないからね』

『分かってます。今日は俺も椅子に座ったまま動かず、下に左手を構えてました』

『うん。動画でもよく分かったよ。見事なまでに微動だにしてなかったね』

 

 最後のその一文に、拓海は思わず苦笑した。

 すると、榊原からさらに面白がるようなメッセージが続く。

 

『で、水野君。初めて肩に乗られた感想としては、どんな感じだった?』

『…………何もできなくなりました』

 拓海は正直に打ち込んだ。

『何も?』

『はい。首を回したらぶつかりそうで動かせないし、左腕は下に構えてるからノートも書けないし。ルリが肩にいる一分半の間、俺だけずっと固まってました』

 

 すぐに返信が返ってくる。

『ははは。動画の左端で、水野君だけ時間が止まったみたいになってたもんね。ずいぶん大人しく飼われてたねえ』

『俺が飼われてたんですか!?』

『だって、ルリ君は自由に登って、景色を見て、好きに降りていったのに、人間の方だけが身動き取れなくなってたんでしょ?』

『……ぐうの音も出ません』

 

 先日、屋外区画で安全索を持って後ろをついて回った時は「散歩させられている」と言われ、今度は自分の部屋で「大人しく飼われている」と言われてしまった。

 

『それで』

 榊原が最後に尋ねてきた。

『そんなに固まって疲れたなら、もう肩には乗ってほしくない?』

 

 拓海は画面を見るなり、コンマ一秒の迷いもなく文字を打ち込んだ。

『いえ、もちろんどんどん乗ってほしいです!!』

 

 送信してから、一拍置いてもう一文だけ付け加える。

『……でも、こっちからは誘導しません。またルリが自分で来たくなった時だけでいいです』

 

 少しして届いた榊原の返信は、とても短いものだった。

『うん。水野君らしいね。お疲れ様』

 

 ***

 

 夜も更け、就寝前の時間。

 部屋のメイン照明を落とし、間接照明だけの薄暗い空間の中で、拓海はベッドの端に腰掛けてケージの方を眺めていた。

 

 ケージの中、高所休息棚の屋根の上では、ルリがいつものように身体を丸めて眠りにつこうとしている。

 そのすぐ横の補助棚にある宝物箱には、いびつなコルク片と、白い丸石と、どんぐりの帽子が三つ仲良く収まっている。

 そして学習机の右脇には、十八センチ×十四センチの小さな専用席。

 部屋にあるものは、昨日の夜と何一つ変わっていない。

 

 ただ一つ、拓海の記憶の中だけに、とんでもない出来事が新しく刻まれていた。

 

 拓海は視線を落とし、自分の右肩を見た。

 すでに部屋着のパーカーからパジャマへと着替えてしまっているが、左手でそっと自分の右肩のあたりに触れてみる。

 

「…………ここか」

 

 ほんの数時間前、約一分半の間だけ、あの小さな四本の脚が確かにここへ乗っていた。

 振り返ってみれば、初めて大学の飼育室で出会った日のルリは、警戒して枝の奥からなかなか出てこず、拓海の掌の縁に前脚をちょんと乗せるだけでも随分と時間がかかったのだ。

 それが、机を三十センチ歩き、三十センチ飛び、隣の席へ毎晩来るようになり、そして今日はついに、拓海の腕を自分の足で登って肩の上にまでやってきた。

 

 もちろん、それが人間で言うところの「懐いた」とか「信頼の証」なのかどうかは、相変わらず分からない。

 単に机の周りにある一番手頃な坂道に見えただけかもしれないし、もう少し高い場所から部屋を見渡したかっただけかもしれない。

 それでも、拓海には十分すぎるほどだった。

 

「……また登りたくなったら、いつでも来てもいいからな」

 

 ケージの屋根の上、丸くなっている小さな赤銅色の背中に向かって、拓海は静かに声をかけた。

 

「ただし、次は俺ももうちょっと落ち着いて、首がつらないくらい余裕を持って対応するから」

 

 すると、屋根の上のルリがほんの少しだけ顔を上げ、半開きの瑠璃色の瞳でこちらを見た。

 

「きゅ」

 

「…………」

 

 その寝ぼけたような小さな声を聞いた瞬間、拓海は先ほど耳元で聞いた「きゅ?」の破壊力を思い出してしまった。

 

「……いや、やっぱり次も無理かも」

 

 自分で言っておいて、拓海は暗がりの中で小さく吹き出した。

 

 机の右脇には、ルリのために用意した小さな席がある。

 今日、ルリはその席から少しだけ足を伸ばして、拓海の腕を登り、初めて肩の上にまでやってきた。

 どうしてその場所を選んだのかは、まだ分からない。

 ただ一つだけ、確実に分かったことがある。

 

 手のひらサイズの小竜に肩へ乗られると、どうやら飼育員の方が動けなくなるらしい。




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