魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
これまで掲載した挿絵を、読み込みやすいよう軽量化しました。
画像を開くのに時間がかかっていたことに今まで気づかず、申し訳ありませんでした。
少しでも快適に、魔法生物たちの姿を楽しんでいただけたら嬉しいです。
金曜日の夜、午後九時過ぎ。
大学のレポート課題にようやく一区切りをつけた水野拓海は、閉じたノートを脇へ寄せ、机の上を片付けていた。
すでに夜の短いケージ外探索は終わっており、ルリはケージの中へと戻っている。机の右脇にある十八センチ×十四センチの専用席も、今夜はもう空席だ。
拓海は引き出しにしまう前のペンケースを持ちながら、ふと自分の右肩と、引き出しの奥にある保管箱を交互に見た。
日曜日の夜には、ルリが自分で袖を登って肩までやってきた。翌日の月曜日には、保管箱から出した木の球を机の上で何度も転がし合った。
それからの火曜、水曜、木曜、そして今日と、ルリはまた普段通りの落ち着いた生活を送っている。あれ以来、肩に登ってくることもなければ、木球を出していないのでキャッチボールもしていない。毎晩、時間になればトテトテと机の右脇の席へやってきて、静かに過ごして帰っていくだけだ。
それでも、あの二日間の出来事を思い出すたび、拓海の口元は勝手に緩んでしまうのだった。
そんな時、机の上に置いていたスマートフォンが短く震えた。
八咫烏指定の暗号化アプリからの通知だ。画面を開くと、榊原教授からのメッセージが表示された。
『水野君、明日の屋外馴化だけど、今のところ予定通り実施できそうだよ』
拓海は椅子に座り直し、すぐに返信を打ち込んだ。
『本当ですか! ありがとうございます』
『ただ、最終判断は明日の朝、現地の気温と地表面の状態を確認してからになる。十二月に入って冷え込む日も増えているからね。少しでも条件が合わなければ無理はしないよ』
『了解です。いつでも出られるように準備だけしておきます』
スマホを置いた拓海は、ケージの方へと視線を向けた。
明日は、少し久しぶりとなる三度目の屋外探索だ。
初めて研究センターの屋外区画へ連れて行った時は、キャリーの入口に生えていた雑草一本に夢中になって、五分で三十センチしか進まなかった。二度目の時は行動範囲が一気に広がり、白い丸石とどんぐりの帽子を拾って帰ってきた。
ケージの中、高所休息棚の横に設置した宝物箱には、今もその時の戦利品がいびつなコルク片と一緒に並んでいる。
屋根の上で丸くなっているルリに向かって、拓海は小さく声をかけた。
「……明日は外だってさ。今度は何するんだろうな、お前」
「きゅ?」
ルリが顔を少しだけ上げ、瑠璃色の瞳をぱちりと瞬かせる。
「いや、別に毎回何か拾ってこなくてもいいんだけどさ」
二度目の外出の帰り、検疫と洗浄を終えた小さな袋を二つ抱えて帰ったことを思い出し、拓海は思わず笑ってしまった。
「前はずいぶん大事そうに運んで、帰りの荷物が増えたもんな」
もちろん、明日は新しい宝物を探させようとしているわけではない。ただ、室内の机やマットの上とは違う、外の空気や土や草に触れる機会をもう一度作り、ルリがそこで何を選んでどう過ごすかを見るだけだ。
***
翌朝、土曜日の午前八時過ぎ。
拓海は机の上に広げた外出用の装備一式を、一つずつ指差しで確認していた。
指定キャリーケースに遮光カバー、特注の超軽量ハーネスと細い安全索、認可撮影端末、記録用の紙バインダー、それに温湿度計とマナ簡易測定器。念のため、前回と同じく小型の密閉サンプル袋も数枚だけ忍ばせてある。
三度目ともなると、準備の手順はすっかり手慣れたものになっていた。初回のように何十分も前から玄関先でそわそわと待機するようなこともない。
「よし、忘れ物なし。準備完了っと」
ケージの屋根の上にいたルリに声をかけ、スライド窓を開けて机の上へと出てもらう。
「今日はまた、広い外へ行くぞ」
「きゅ」
拓海はわずか〇・七グラムしかない細い繊維のハーネスを手に取り、擦れやほつれがないかを目視で確かめてから、いつもの手順でルリの身体へと装着した。首には帯を通さず、背中の翼の付け根にも干渉しないよう、小さなバックルをカチリと留める。
装着を終えたルリが、机の観察マットの上をトテ、トテと数歩歩いた。
「……うん、今日も完全に普通の歩き方だな」
初めてハーネスを着けた日に見せた、四本の脚をいちいち大げさに高く持ち上げるあの奇妙なロボット歩きは、もう欠片も見られない。
少なくとも今朝の確認では、装具を着けたことによる目立った歩き方の変化は見られない。拓海はそれだけで十分にほっとした。
「いや、普通に歩いてくれる方がいいに決まってるんだけどさ……あの歩き方、ちょっとだけ懐かしくなるな」
勝手なことを呟きながら、机の上に置いた指定キャリーの扉を開ける。
ルリは入り口の匂いをすんと嗅いだだけで、ためらう様子もなく自発的に中へと入っていった。扉を閉めて確実にロックをかけ、上から遮光用のトート型カバーを被せる。
アパートの外へ出ると、冬の澄んだ空気の中、いつもの大学の研究用ワゴンがすでに停まっていた。運転席から降りてきた榊原が、軽く手を挙げる。
「おはよう、水野君」
「おはようございます、先生」
「準備の手つきがずいぶん落ち着いてきたね。ルリの様子はどう?」
「はい、ハーネスの装着もキャリーへの移動も、今のところ普段通りです」
「よろしい。じゃあ、行こうか」
後部座席の固定ベースにキャリーケースをしっかりと固定し、車は静かに走り出した。
***
市街地を抜け、山裾にある《野生動物行動・環境適応研究センター》へと到着したのは、午前十時少し前だった。
太陽が昇りきって気温が上がるのを待ってからの開始だ。研究棟の裏手にある認証ゲートを抜け、二重の扉を通って、全面を高強度ネットで覆われた《屋外環境馴化区画》へと足を踏み入れる。
「……おお。前来た時と、結構雰囲気が違いますね」
区画の中を見渡した拓海は、思わず声を漏らした。
十二月も中旬に入り、季節はすっかり冬へと移り変わっている。この日は冬場としては例外的なほど日差しが暖かく、風もほとんどない穏やかな晴れ間だったが、それでも区画内の景色は秋とは違っていた。
以前は青々と茂っていた草地は背が低くなり、色も落ち着いた枯れ色が増えている。地面のあちこちには乾いた落ち葉が溜まり、木々の枝葉が落ちた分だけ、頭上の青い空が前よりも広く見えた。
「季節が進んでいるからね。植物の状態も、匂いも、地面の感触も秋とは違う」
「ルリにも、前と違う場所に見えてるんですかね」
「どうだろうね。それを今から観察していこう」
まずはルリをキャリーから出す前に、人間側で徹底した環境確認を行う。
今回は冬場の実施ということもあり、通常の気温や湿度、マナ濃度の測定に加えて、放射温度計を使って『地表面の温度』も細かく確認した。人間が立っている高さの気温は暖かくても、地面が冷え切っていれば、全長十センチあまりの小さなルリの体温を奪ってしまう危険があるからだ。
さらに安全ネットの張り具合、水場の凍結や異常の有無、危険な植物や異物の混入がないかを、施設の管理手順に従って一つずつ点検していく。
「気温、地表温度、マナ濃度、すべて施設が定めている屋外実施基準の範囲内だね。風も弱風で問題ない」
榊原が記録シートの数値を確認して頷いた。
「ただ、季節を考慮して、今日の屋外活動は前回よりも少し短めの時間で切り上げよう。少しでも体温低下の兆候や動きの鈍りが見えたら、その時点で即座に終了する」
「了解しました」
観察の開始地点に選んだのは、過去二回と同じ、草地と土が露出した裸地の境界付近だった。
日当たりが良く、地面の土には夜露が乾ききらない程度のわずかな湿り気が残っており、カチカチに凍りつくこともなく適度な柔らかさを保っている。
今回は榊原が一台の認可撮影端末を持って記録を担当し、拓海は安全索の管理とルリの直接監視に専念することになった。
***
平坦な地面に指定キャリーをそっと置き、スリットから手を入れてハーネスの背中に細い安全索を接続する。
拓海は安全索の余長を左手でふんわりとまとめ、ルリに重さや張力が掛からないよう態勢を整えてから、キャリーの扉をゆっくりと開け放った。
「……よし」
すぐには手を出さず、一歩下がってしゃがみ込む。
数秒後、キャリーの奥からトテトテと小さな足音が近づいてきて、入り口から赤銅色の頭がひょこりと覗いた。
「きゅ?」
ルリは立ち止まり、小さな鼻先をひくひくと動かす。
冬の澄んだ空気の匂いを確かめるように、右を見渡し、左を見渡し、それから日差しが降り注ぐ上空へと一度だけ視線を向けた。
そして、ためらうことなく右の前脚を一歩、外の地面へと踏み出した。
ぺた。
続いて左前脚、後脚も順番に外へと出て、短い尻尾までが完全にキャリーの外へと抜ける。
「……お、今日も出るの早いな」
初めての屋外探索の時は、扉が開いてから外へ出るだけでも一分以上かかり、出た直後に出会った一本の草を五分間もつつき続けていたのだ。
しかし今日のルリは、足元に生えていた短い草に鼻先を寄せて、すん、と一度だけ匂いを嗅ぐと、前脚で触ることすらなく、そのままトテ、トテ、トテと軽快に通り過ぎてしまった。
「……あれ。お前、今日はその草、もう気にならないの?」
拓海は安全索を弛ませたまま、しゃがみ歩きで後ろをついていく。
もちろん、ルリは拓海の問いかけには答えない。時折立ち止まっては周囲の枯れ葉や空気の匂いを嗅ぎ、自分のペースで草地の縁へと進んでいく。
やがてルリの足取りが向かったのは、草が途切れ、茶色い土が剥き出しになっている裸地のエリアだった。前回の探索でも近くを通った区域だ。
ルリは草と土の境界線で一度だけ立ち止まり、目の前に広がる柔らかい土の地面をじっと見つめた。
そして、右の前脚をゆっくりと土の上へと乗せた。
ぺた。
残りの三本の脚もそれに続き、小さな身体が完全に裸地の上へと移動する。
「……今日は、土の方へ行くのか」
拓海は安全索が地面の草に引っ掛からないよう少し持ち上げ、ルリから数十センチ離れた位置で静かに腰を落とした。
***
裸地の上へ出たルリは、立ったまま首を下げ、自分の足元の地面へと鼻先をぐっと近づけた。
すん。
わずかに頭の位置をずらし、もう一度。
すん、すん。
日差しに温められた土の匂いを嗅いでいるのか、それとも表面の湿り気を確かめているのか。
四本の脚の下にあるのは、小石の少ない、細かな粒が集まった柔らかい土だ。
ルリは鼻先を地面から少しだけ離すと、右の前脚をひょいと持ち上げた。
そして。
かりっ。
小さな爪先が、土の表面を軽く引っ掻いた。
さらり、と乾いた音を立てて、茶色い土の粒がほんの少しだけ後ろへと動く。
「……お?」
拓海が小さく声を漏らした。
この動き自体は、初めて外へ連れてきた日にも一度だけ見たことがある。あの時も、こうして裸地の表面を爪先で二回ほどかりっと引っ掻いたのだ。ただ、あの時は表面がわずかに崩れただけで、ルリもすぐに別の場所へと歩いていってしまった。
今回も、足元の感触を確かめただけで終わるのだろうか。
そう思って見守っていた、次の瞬間だった。
かりっ。
ルリの右前脚が、もう一度同じ場所を掻いた。
さらに、間を置かず。
かり、かりっ。
「…………ん?」
拓海の目が細まる。
ルリは右前脚を止めたかと思うと、今度は左の前脚を持ち上げ、同じ場所へと爪先を下ろした。
かりっ。
かりっ。
右、左、右、左。
左右の前脚を交互に動かし、同じ一点の土を繰り返し引っ掻き始めたのだ。
一回や二回の接触では終わらない。明らかに継続した動きだった。
「……先生」
拓海はルリから視線を外さないまま、隣でカメラを構えている榊原に小声で呼びかけた。
「うん、見てるよ。しっかり撮れてる」
「これ、一番最初に地面を触った時とは、動きが違いますよね?」
「そうだね。あの時は表層に軽く触れただけだったけど、今は同じ場所を繰り返し掻き出している」
榊原の声にも、静かな興味の響きが混じっていた。
***
ルリの前脚の動きは、止まるどころかますますリズミカルになっていった。
かり。
かり、かり、かり。
体重わずか三十一・八グラムの、手のひらに収まるほど小さな身体だ。犬やモグラのように、豪快に土煙を上げて大穴を掘り進めるようなパワーがあるわけではない。
それでも、小さな爪先が地面を捉えて手前へと引くたびに、細かな土の粒が少しずつ、しかし確実にルリの胸元の下を通って後方へと集まっていく。
右前脚で、かりかり。
左前脚で、かりかり。
一度ピタッと動きを止めて、掻き出した部分に鼻先を近づけて、すん、と匂いを嗅ぐ。
そしてまた少し頭を上げると、前脚を動かし始める。
かり、かり、かりっ。
柔らかい表層の土が崩れ、後ろへと押し出される。
十数秒も繰り返すうちに、ルリの前脚の下にある地面が、周囲よりもほんのわずかに低くへこみ始めた。
「…………」
拓海は思わず目を見開いた。
「……掘ってる」
隣で画面を見つめていた榊原も、小さく頷いた。
「うん。小さいけれど、はっきりとした『くぼみ』ができてきたね」
「……本当に、地面を掘ってるぞ……!」
声を押し殺しながらも、拓海の胸の奥で一気に興奮が跳ね上がった。
すごい。ただの気まぐれな引っ掻きじゃない。ルリが今、自分の目の前で、大まじめに穴掘りをしているのだ。
見れば見るほど、その全身の動きは精巧で、そしてたまらなく愛らしかった。
まず短い前脚をぐっと前へ伸ばし、小さな爪先で土の表面を捉える。それを自分の胸元へ向かって引き寄せるように掻く。
その間、後ろの二本の脚は柔らかい地面をしっかりと踏みしめて身体を支え、短い尻尾は地面に擦れないよう、少しだけ浮かせた位置でぴこぴことバランスを取っている。
背中の皮膜翼は邪魔にならないようきっちりと畳まれ、前脚を動かすたびに、赤銅色の小さな背中がよいしょ、よいしょとわずかに上下していた。時折、勢い余って弾かれた小さな土の粒が、ルリの足元でぴょんと跳ねる。
「……お前、そんなこともできるんだな」
拓海はしゃがんだまま、感嘆の息を漏らした。
「いや、四本脚があって立派な爪も生えてるんだから、物理的に掘れても全然おかしくはないんだけどさ……」
ルリは拓海の独り言などまったく耳に入っていない様子で、地面から顔を上げず、ひたすら目の前のくぼみに集中してかりかりと土を掻き続けている。
「……なんか、めちゃくちゃ真剣だな」
その一心不乱な姿を見つめているうちに、拓海の頭の中で、ふと奇妙なギャップが浮かび上がった。
(……ドラゴンって、地面を掘るんだな)
(いや、そもそも俺はドラゴンに何を期待してたんだ?)
目の前にいるのは、空想の中の勇ましい竜とはずいぶん違う姿だった。
冬の陽だまりの中で、全長十センチあまりのルリが、小さな爪を使ってせっせと土を掘っている。
二人が見守る中でも、ルリは顔を上げず、ただ黙々と土粒を後ろへ掻き出していた。
拓海は、少しずつ深くなっていく数センチ幅のくぼみを見つめて、思わず呟いた。
「……これ、掘った先から何かすごいものが出てきたりするんですかね?」
すると、隣でカメラを回していた榊原が、極めて冷静な声で返した。
「この区画の土壌は事前に検査してあるから、特別なものが埋まっている可能性は低いと思うよ」
「いや、それはそうなんですけど」
拓海は一拍置いて、少し照れくさそうに笑った。
「……なんか、こんなふうに一生懸命掘ってるのを見てると、下から何か出てくるんじゃないかって期待しちゃいません?」
「ルリ君が?」
「いえ、俺がです」
「ははは。残念ながら、出てくるのはただの土だけだと思うよ」
宝物も、魔法の鉱石も出てこない。
けれど、何もないただの土をこれだけ真剣に掘っているという事実の方が、今の拓海には何倍も面白くて魅力的だった。
***
しばらくの間、かりかりと前脚を動かし続けていたルリの動きが、ふと止まった。
足元には、幅が三、四センチ、深さが数ミリほどの、可愛らしいサイズ感の浅いくぼみができあがっている。
ルリは前脚を下ろすと、その自分で掘ったばかりの小さなくぼみの中へと、ぐっと頭を下げて鼻先を近づけた。
すん。
掘り返されて少し湿り気を帯びた、新しい土の匂いを嗅いでいるらしい。
すん、すん。
くぼみの底へとさらに顔を寄せた拍子に、ルリの丸みのある小さな鼻先が、盛り上がった柔らかい土へと軽く触れた。
そしてその直後、ルリがふっと顔を上げて、拓海の方を見た。
「きゅ?」
「…………」
しゃがみ込んでいた拓海の動きが、ピタリと止まった。
「…………あれ?」
拓海は目を瞬かせ、ルリの顔を凝視した。
朝の光を反射して輝く、大きな瑠璃色の瞳。
頭部にちょこんと生えた短い二本の角。
滑らかな赤銅色の鱗に覆われた、小さな顔。
そして、その真ん中にある鼻先のてっぺんに。
茶色い湿った土が、ちょん、と丸くくっついていた。
「…………」
拓海は何か言おうとして口を開き、そのまま一度閉じた。
一秒、二秒と静寂が流れ、それからようやく掠れた声が出た。
「……ルリ」
「きゅ?」
「……お前、鼻」
ルリは自分がどうなっているのか全く分かっていない様子で、不思議そうにこてんと首を傾げる。
「……鼻の頭に、土ついてるぞ」
「きゅ」
「…………っ!」
その無邪気な一声に、拓海は思わず片手で自分の口元を覆った。
たまらず隣の榊原を振り返る。
「先生」
「うん」
「……ルリの、鼻」
「見事についてるねえ」
「…………これ、かわいすぎません?」
「うん。すごくかわいいね」
初めて研究室のケージの前で出会った日と同じように、教授と学生の二人して、ただの事実確認のようなトーンで「かわいい」と言い合ってしまった。
ほんの米粒の半分にも満たないような、小さな茶色い泥の点だ。
なのに、普段のルリの赤銅色の鱗が綺麗で、瑠璃色の瞳が澄み切っているせいで、鼻の頭についたそのちょこんとした土が信じられないほど目立っている。
「……なんだよそれ。なんで泥つけただけでそんなに似合うんだよ……」
拓海は胸を押さえながら、完全にノックアウトされていた。
同時に、飼育員としての目線で素早くルリの顔周りを観察する。土がついているのは鼻先の先端と、掘っていた両前脚の爪先だけで、大きな両目の中には土粒一つ入っていない。呼吸の音も普段通りで、鼻孔が塞がっている様子もなければ、背中の翼膜が汚れている様子もない。
安全上の問題がまったくないことを確認できたからこそ、拓海は慌てて手を出して拭き取ったりせず、その愛らしすぎる姿を存分に堪能することができた。
***
だが、泥んこ小竜の破壊力は、そこでは終わらなかった。
鼻先に土をつけたままのルリが、少しだけ頭を振るように動かした。鼻の先に何かがくっついている感触が、さすがに少し気になったのかもしれない。
ルリはその場に座り直すような姿勢を取ると、ひょいと右の前脚を持ち上げた。
「……ん?」
そして、その持ち上げた右前脚を、自分の鼻先へと持っていき――。
ごし。
「…………あっ」
拓海が声を上げるよりも早く、ルリはもう一度、小さな前脚で自分の鼻先から頬のあたりを、ごし、ごし、と擦った。
犬や猫が前足で顔を洗うような、ごく自然な仕草だ。
ただ、一つだけ致命的な問題があった。
ルリが今、顔を擦るために使ったその右前脚は、ほんの数秒前まで一生懸命に地面の土を掘っていた前脚だったのである。
結果として、何が起きたか。
鼻先のてっぺんにちょんと乗っていただけだった茶色い土が、前脚で擦られたことで横へと伸びた。さらに、前脚の側に付着していた細かな土までが新たに顔へと移り、鼻筋から右の頬にかけて、見事な茶色い泥の筋が二本、三本と広がってしまったのだ。
ごしごしと擦り終えたルリは、前脚を地面へ下ろし、何事もなかったかのようにすっと顔を上げた。
「…………」
「…………ルリ?」
「きゅ?」
「……土、増えてるぞ」
隣でカメラを構えていた榊原が、ぶふっ、と息を漏らし、慌てて片手で口元を押さえた。レンズを向ける手元が、笑いを堪えるせいでわずかに震えている。
「……水野君」
「はい」
「……今の動き、鼻についた土を拭こうとしたようにも見えるね」
「……そうですね」
「でも、使った前脚にたっぷり土がついていたから」
「…………」
「拭く前より、余計に泥だらけになったね」
「先生、言わないでください! 今それを言葉にされたら俺が耐えられないです……っ!」
必死に我慢していた拓海だったが、教授の冷静な実況中継にとどめを刺され、ついに堪えきれなくなって吹き出してしまった。
声を殺して肩を揺らしながら笑う拓海の前で、ルリは「なんで笑ってるの?」とでも言いたげに、泥模様のついた顔でぱちくりと目を瞬かせている。
両方の前脚は爪先まで茶色い土まみれ。
鼻先から横へは、自分で塗り広げた泥のペイント。
さらに、くぼみに顔を近づけた際についたのか、クリーム色の柔らかい顎の下から胸元のあたりにも、うっすらと土の色が移っている。
「……お前、顔、すごいことになってるぞ」
「きゅ?」
「…………」
「……いや、いいや。めちゃくちゃかわいいから、そのままで百点だ」
拓海は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、もう一度小さく笑った。
本人は至って大まじめに地面を掘り、大まじめに顔を拭いた結果なのだ。その一生懸命さと、出来上がった泥んこ顔のギャップがたまらなかった。
***
しばらくその場で周囲を見回していたルリは、やがて満足したのか、自分が掘った小さなくぼみからトテトテと歩いて離れた。
もう一度同じ場所を掘り返そうとする様子はない。
裸地の土の上を抜け、すぐ近くにあった平たくて白い庭石の方へと向かう。
ルリは石の低い縁に右前脚をかけ、よじっと身体を持ち上げて、平らな石の上へと乗り移った。
ぺた。
一歩、前脚を進める。
ぺた。
乾いた白い石の表面をルリが歩いていくその後ろに、何かが点々と残っているのに拓海は気づいた。
「…………あ」
しゃがんだまま少し首を伸ばし、石の表面を見る。
榊原もそれに気づき、カメラのレンズを少し下へと向けた。
「どうしたの?」
「……先生、あれ。足跡です」
白い石の表面に、まだわずかに湿り気を含んだ前脚と後脚の土が転写され、直径一センチにも満たない、小さな小さな茶色い足跡がいくつも並んでいたのだ。
四本の指と小さな爪の形までがわかるような、極小のスタンプ。
ルリが石の上をトテ、トテと歩くたびに、一歩ずつ色が薄くなっていき、石の端へ着く頃にはほとんど見えなくなった。
「……泥んこの足跡まで残していくのか、お前」
拓海は石の上に残った小さな点々の列を見つめて、嬉しそうに頬を緩めた。
「なんか、これを見ると、本当にこの小さな足で外を歩いてたんだなって感じがしますね」
「実際に今、目の前で歩いていたからね」
「理屈ではそうなんですけど! こうして跡が残ると、また実感が違うんですよ」
「ははは、分かるよ。以前、水皿の横に濡れた足跡を見つけた時と同じだね」
石の上を渡り終えたルリは、そこで一度立ち止まり、背中の翼を小さく開いて閉じた。
見れば、先ほどまであれほど活発だった動きが少し落ち着き、探索のペースが緩やかになってきている。予定していた冬季の短い屋外活動時間も、ちょうど目安の時刻に近づいていた。
ここで拓海がルリを抱き上げて、さっきの穴の前に戻し、「ほら、もう一回掘って見せてくれ」などと促すことは絶対にしない。
ルリが石の上から降り、最初から置かれていた指定キャリーケースの方向へと自分で歩き出したのを、拓海は安全索を弛ませたまま静かに見守った。
ルリはキャリーの入り口まで戻ってくると、中を覗き込み、そのままトテトテと自発的に内部へと入っていった。
「……よし。帰還確認」
拓海はゆっくりと近づき、キャリーの扉を閉めてロックをかけた。
それから、数メートル先の裸地に残されたままの、小さな浅いくぼみへと視線を向ける。
「……結局、今回は小石も木の実も、何も拾ってこなかったですね」
「うん。前回とはまた全然違う行動だったね」
榊原が録画を停止しながら微笑む。
「まあ、新しい宝物は増えませんでしたけど」
拓海はキャリーケースのスリットをちらりと覗き込んだ。
「……その代わり、いっぱい掘って、顔にたっぷり土をつけて帰ってきましたけどね」
キャリーの中から、それに答えるように「きゅ」と小さな声が聞こえた。
***
屋外区画から研究棟の内部へと戻り、空調の効いた管理室へと入ってから、まずはルリの身体のチェックと後片付けを行った。
キャリーの扉を開け、低い位置に出した掌へとルリに乗ってもらう。先ほど安全索とハーネスを外す際にも確認したが、明るい室内の照明の下で改めて詳細に観察する。
四本の脚の運び、爪の欠けや割れがないか、背中の翼膜に擦れがないか、そして土が触れた腹部の鱗に異常がないか。さらに、外したハーネスの繊維の隙間に細かな砂粒が入り込んでいないかもチェックする。
確認用のマットの上に降りたルリは、少し身体を低くすると、自分で右の前脚を持ち上げて、ぺろ、と小さく舐め始めた。鼻先を前脚の鱗へ寄せ、身繕いをしている。
「……自分でも綺麗にしてるな」
ただ、前脚や鼻先にはまだ乾きかけた土がいくらか残っている。そのまま放置して土を過剰に舐め取ってしまったり、ポロリと落ちた土の塊が目に入ったりするのは良くない。
拓海は施設で用意されている、ぬるま湯でわずかに湿らせた清潔で柔らかい医療用ガーゼを手に取った。ルリを上から掴んで押さえつけるようなことはせず、ルリが落ち着いているタイミングで、まず前脚の先にそっとガーゼを当て、優しく土を拭い取る。
それから、顔の前へとゆっくり指先を近づけた。ルリが嫌がって頭を引けばすぐに止めるつもりだったが、ルリは逃げることなく、ガーゼが鼻先に触れるのを大人しく受け入れた。
ちょん、ちょん、と優しく拭き取る。
数回撫でるように拭うと、鼻の頭と頬についていた茶色い泥の筋は綺麗に落ち、元の艶やかな赤銅色の鱗が現れた。
すっかり綺麗になったルリの顔を見て、拓海はガーゼを持ったまま、ぽつりと呟いた。
「…………あ」
「どうしたの? 傷でもあった?」
横で記録用紙を整理していた榊原が顔を上げる。
「……いえ、傷はまったくないです。ただ」
「ただ?」
「……すっかり綺麗になっちゃったな、と思いまして」
榊原は数秒間、拓海の顔を見つめ、それから呆れたように目を細めた。
「……水野君、まさか泥が落ちて残念がってるの?」
「い、いや! 衛生管理上、ちゃんと綺麗になった方がいいに決まってます! それは大前提です!」
慌てて首を振ったあと、拓海は少しだけ声を落として本音を漏らした。
「……でも、あの鼻の頭に泥をつけた顔、めちゃくちゃかわいかったんですよね……」
「ははは。安心しなさい、最初から最後まで高画質で動画に残ってるから」
「……あ、そっか!」
「家へ帰ってから、画面の中で好きなだけ楽しみなさい」
「はい!」
拓海は現金なほどすぐに元気を取り戻した。
その後、家庭の飼育ケージへ外の土壌や微生物を持ち込まないよう、使用したハーネスやキャリーの底面も施設の手順に従って綺麗に清掃・消毒を済ませてから、二人は帰路についた。
***
帰る前の控え室で、拓海と榊原は今日の映像を見返しながら観察記録の整理を行った。
モニターの画面には、裸地の土の上でルリが前脚を交互に動かしている姿が鮮明に映し出されている。
かり。かり、かり。
小さな前脚が土を掻き、後ろへ押し出し、少しずつ地面に浅いくぼみが作られていく。
「……こうして映像で見返すと、本当にしっかり掘ってますね」
拓海が感心したように言うと、榊原も頷きながらタブレットの記録を呼び出した。
「ルリが離れたあとに計測したデータだと、くぼみの幅が約三・五センチ、長さが約四センチ、一番深いところで約六ミリ。もちろん大きな穴ではないけれど、同じ場所で継続して前脚を動かした結果として、明確に地表の形状を変えている。初回の屋外馴化で見られた『表層への短い接触』とは明らかに段階が違うね」
「先生。これって、ルリとか小型竜には『穴を掘る習性』があるってことなんでしょうか?」
拓海の質問に、榊原はいつものように穏やかだが慎重な口調で答えた。
「まだそこまでは言えないね。今日確認できたのは、『この個体が、今回の土壌条件において、左右の前肢を交互に用いて継続的な掻き動作を行い、浅いくぼみを形成した』という事実までだ」
「理由はまだ分からない、と」
「そう。適度な湿り気のある土の感触そのものが刺激になったのか、土の中の匂いに反応して何かを探そうとしたのか、あるいは休息場所を整えるような行動の一部なのか。それが種としての習性なのか、この個体の癖なのかも含めて、これからの観察課題だね」
「……でも、また新しい一面が見られましたね」
「うん。人間が何も教えなくても、環境が変われば自分からこういう行動を見せてくれる。とても面白い記録だよ」
そう言ってから、榊原はモニターの画面を一時停止させ、ふっと口元を緩めた。
画面には、土を掘り終えて顔を上げ、鼻先にちょんと泥をつけたルリのアップが映っている。
「それにしても」
「はい?」
「本当に、ずいぶん派手に顔を汚したねえ」
「…………」
「そのあと、泥のついた前脚で顔を擦って、さらに被害を拡大させるところまでバッチリ映ってるよ」
拓海はモニターを覗き込み、思わず口元を緩めた。
泥を鼻につけた瞬間だけでなく、前脚を顔へ運ぶ動きまで、画面にはくっきり残っている。
榊原が再生位置を少し戻す。
ついさっき見たばかりの仕草なのに、拓海はまた画面から目を離せなくなった。
映像なら、現場では笑うのに忙しかった細かな動きも後から確かめられる。拓海はそのありがたさを噛み締めながら、ようやく記録をまとめることにした。
拓海は紙のバインダーを開き、今日の正式な観察記録を書き上げていった。
『実施場所:屋外環境馴化区画(草地と裸地の境界付近)』
『当日の気温、地表面温度、湿度、マナ濃度はすべて施設の実施許容基準内』
『個体、キャリー開放後、自発的に退出。草地を短時間で通過し、裸地へ進入』
『地表へ鼻先を接近させた後、右前肢による土壌表面への掻き動作を開始。以降、左右前肢を交互に用い、同一地点にて断続的に掻き動作を反復』
『動作に伴い表層土壌が後方へ移動。終了後、当該地点に幅約3.5cm、長さ約4cm、深さ約6mmの浅いくぼみを確認』
『掘削中および終了後、鼻先、両前肢、腹部下縁に土壌の付着を確認』
『その後、土壌が付着した右前肢を鼻先へ接触させ擦る動作を確認。接触後、鼻先周辺の土壌付着範囲が拡大』
『裸地から近傍の石面へ移動した際、付着土壌による小型の足跡状痕跡を確認』
『探索後、自発的にキャリーへ帰還。屋内にて体表の清拭および装具の状態確認を実施。外見上の損傷・異常なし』
備考欄には、『初回屋外馴化にて土壌表層への短い前肢接触を確認しているが、同一地点への継続的な掻き動作およびくぼみの形成は今回が初観察』と記した。
そして、一番下の個人用のメモ欄へペンを移す。
『ルリが初めて本格的に地面の土を掘った。小さな前脚で一生懸命かりかりと掻いていて、すごくかわいかった。掘ったあとに鼻先についた泥を、土のついた前脚で擦ってしまい、顔がもっと泥だらけになってしまったところが特にかわいかった』
書き終えてから自分の文章を読み返し、拓海はペンを持ったまま少し首を傾げた。
「……短いメモの中に、『かわいかった』って二回も書いてるな」
二秒ほど真面目に考えてから、拓海は小さく頷いた。
「……いや、今日のあれに関しては、二回でも足りないくらいか」
***
夕方、アパートへと帰宅した。
いつものようにキャリーを机の近くに置き、扉を開けると、ルリは自分の足で固定足場を渡ってケージの中へと戻っていった。
枝を登り、高所休息棚の屋根の上へ。
その隣の宝物箱の中には、相変わらずコルク片と、白い丸石と、どんぐりの帽子の三つが収まっている。今日は外から新しい石や木の実を持ち帰らなかったから、中身は朝のままだ。
机の右脇には専用席があり、引き出しの中には木の球がしまってある。
すべてが、昨日までと変わらない見慣れた部屋の景色だった。
夜になり、拓海は机の前に座って認可撮影端末の画面を開いていた。
再生しているのは、もちろん今日の昼間に撮影した屋外での動画だ。
画面の中で、赤銅色の小さなルリが地面に踏ん張り、前脚で、かりっ、と土を掻く。
かり、かり、かり。
少しずつ土が後ろへ動き、小さなくぼみができていく。
そこへ鼻先をぐっと近づけ、ふっと顔を上げた瞬間――。
「きゅ?」
鼻の頭に茶色い泥の点をつけたルリが、大きな瑠璃色の瞳でこちらを見上げる。
「…………」
拓海は頬杖をついたまま、じっと画面を見つめた。
「……いや、何度見てもやっぱりかわいいな、これ」
続くシーンで、ルリが土のついた右前脚を持ち上げ、ごし、ごしと自分の鼻先を擦る。泥が横に伸びて、顔がさらに茶色く汚れてしまう。
「…………ふっ」
静かな部屋で、思わず笑いが漏れた。
すると、その小さな笑い声に反応したのか、ケージの高所休息棚の屋根で丸くなっていたルリが、ひょいと頭を持ち上げてこちらを見た。
「きゅ?」
「……あ、ごめんごめん。うるさかったか? お前の泥んこの顔がかわいくてさ」
拓海は画面から目を上げ、ケージの中のルリに向かって優しく笑いかける。
「今日も外で、新しいこといっぱい見せてくれたな。お疲れ様」
ルリは一度だけぱちりと瞬きをすると、また顎を低くして屋根の上の丸い姿勢へと戻っていった。
今のルリの鼻先には、もう泥は一粒もついていない。赤銅色の鱗はいつも通り滑らかで綺麗だし、瑠璃色の瞳も澄んでいる。
それでも拓海の頭の中には、あの茶色い泥をつけた顔がくっきりと焼き付いて離れなかった。
初めて外へ連れ出した日、ルリは地面の土をほんの二回、爪先で引っ掻いただけだった。
けれど今日は、その同じ土の上で何度も小さな前脚を動かし、自分だけの浅いくぼみを作り、そこへ鼻先を突っ込んで、顔まで土まみれにして帰ってきた。
どうして土を掘りたくなったのか、何を探していたのかは、まだ分からない。
けれど、人間が何も教えなくても、自分の興味の赴くままに小さな身体で懸命に地面を掻いていたあの姿は、きっとこれから先もずっと忘れられないだろう。
拓海はもう一度だけ、一時停止した画面の中の泥んこの小竜を見つめた。
「……ドラゴンが大地を掘るって言ったら、もっとこう、迫力のある格好いい光景になると思ってたんだけどな」
画面の中では、鼻の周りを茶色く汚した手のひらサイズの小竜が、何食わぬ顔でこちらを見上げている。
「……なんでこんなにかわいいんだよ、お前は」
どうやら手のひらサイズの小竜は、ただ地面の土を掘るだけでも、飼育員をすっかり夢中にさせてしまうらしい。
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