魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
これまで掲載した挿絵を、読み込みやすいよう軽量化しました。
画像を開くのに時間がかかっていたことに今まで気づかず、申し訳ありませんでした。
少しでも快適に、魔法生物たちの姿を楽しんでいただけたら嬉しいです。
月曜日の夕方、午後五時半過ぎ。
講義を終えた水野拓海は、肩にかけたバッグの紐を握り直し、大学近くのアパートへと続く帰り道を歩いていた。
十二月も半ばを過ぎ、日が暮れるのがすっかり早くなっている。
ほんの少し前まで夕焼けが残っていた空はもう濃い藍色に沈み、通り沿いの街灯が白い光を落としていた。息を吐くたびに、冷たい空気の中で白く濁って消えていく。
「……寒いなあ」
拓海はコートの襟元を少し引き寄せ、自然と歩く速度を上げた。
早く帰って、まずは暖かい部屋で一息つきたい。手洗いうがいを済ませて、ケージの環境とルリの状態を確認して、それから夕食の準備をして、夜になったらルリが外へ出たがるようならいつもの机上探索をする。
誰に言われるでもなく、頭の中では帰宅後の段取りがごく自然に組み立てられていた。
考えてみれば、十月の半ばに榊原教授から声をかけられ、ルリを自宅へ迎えてからもう二か月余りが経つ。
最初の数週間は、外から帰ってくるたびに「室温が下がっていないか」「留守中に怪我をしていないか」と、ドアを開ける瞬間まで緊張していたものだ。
もちろん今でも安全管理や環境確認の手を抜くことはないが、あの頃のような張り詰めた感覚はもうない。
むしろ最近の帰り道で頭に浮かぶのは、もっと単純なことだった。
「……今日も、元気にしてるかな」
昨日、日曜日の夜には、自作した小さなトンネルの左右の出口からひょっこりと顔を出して拓海を散々振り回してくれたルリだ。
今はきっと、いつもの高所休息棚の屋根の上で丸くなっている頃だろう。そんな見慣れた光景を思い浮かべながら、拓海はアパートの階段を上った。
***
自分の部屋のドアの前に立ち、鍵を開けて中へと入る。
外気が流れ込まないよう素早く扉を閉め、確実に施錠してチェーンまでかけた。
玄関で靴を脱ぎ、肩からバッグを下ろしながら、居室へのドアを開ける。
「ただいまー」
一人暮らしを始めてから、なんとなく癖で口にしている言葉だった。
以前は、どれだけ声に出しても静まり返った部屋が迎えてくれるだけで、返事などないのが当たり前だった。
今は部屋の奥のケージにルリがいるから、一応声をかける相手はいる。ただ、相手は人間の言葉を話すわけではない魔法生物だ。声をかけたからといって毎回反応があるわけではなく、拓海自身も、何か返事を期待して言ったわけではなかった。
バッグを机の横に置こうとしながら、何気なくケージの方へと視線を向けた、その時だった。
「きゅ?」
「…………ん?」
静かな部屋に、小さな高い声が響いた。
拓海が足を止めてケージの中を見ると、高所休息棚の屋根の上で丸くなっていたルリが、ちょこんと小さな頭を持ち上げていた。
背中に畳まれた翼も、折りたたまれた四本の脚も、屋根の上から動いてはいない。
ただ、赤銅色の小さな顔だけがすっと上がり、大きな瑠璃色の瞳がアクリルガラス越しに真っ直ぐ拓海の方を向いていた。
「……お?」
拓海が立ち止まったまま見ていると、ルリは屋根の上で身体を低くしたまま、ほんの少しだけ首の角度を変えた。
「きゅ」
「…………」
もう一度、短い声が聞こえた。
冷たい外気で少し強張っていた拓海の頬が、ふっと緩んでいく。
「……お前、今、俺に返事してくれたのか?」
もちろん、ルリが「おかえり」という意味で鳴いたのかどうかは分からない。扉が開いた音や、拓海の声の振動に反応して頭を上げただけかもしれない。
それでも、外から帰ってきて部屋に入った途端に、あの小さな顔が上がって声が聞こえたというのは、思いがけない出来事だった。
「……ただいま、ルリ」
今度は部屋の空気に向かってではなく、屋根の上の小さな竜に向かって、少しだけ柔らかい声で言い直した。
ルリはそれ以上は鳴かず、一度だけぱちりと瞬きをして、そのまま屋根の上で静かに過ごしている。
拓海は小さく笑いながら洗面所へと向かい、いつもより少しだけ弾んだ気分で手洗いを済ませた。
***
翌日の火曜日。
この日も夕方、同じくらいの時刻に大学から帰宅した拓海は、玄関の鍵を閉めて居室へと入った。
「ただいまー」
昨日と全く同じように声をかけ、バッグを下ろしながらケージへと目を向ける。
正直に言えば、心のどこかで「今日も鳴いてくれるかな」と少しだけ耳を澄ませていた。
ケージの中、高所休息棚の屋根の上には、昨日と同じようにルリの赤銅色の姿があった。
拓海が部屋に入ってくると、ルリは丸めていた身体から、ひょこっ、と小さな頭だけを上げた。
大きな瑠璃色の瞳が、こちらを向く。
「…………」
拓海は立ち止まり、ルリを見つめた。
「…………」
一秒。二秒。三秒。
ルリは静かに拓海の方を見ているだけで、今日は一声も鳴かなかった。
そして数秒ほどこちらを見たあと、ふっと顎を下ろし、また屋根の上で元の丸い姿勢へと戻ってしまった。
「…………」
拓海はバッグを持ったまま、少しだけ首を傾げた。
「……あれ?」
昨日はここで「きゅ?」と可愛い声が飛んできたはずなのだが、今日は見事なまでの無言である。
「……今日は、見るだけで無言なんだな」
拓海は拍子抜けして、それから一人でくすりと笑った。
「いや、そりゃそうだよな。毎日必ず返事しなきゃいけない決まりなんて、どこにもないもんな」
相手は気まぐれな生き物だ。昨日鳴いたからといって、今日から毎日「ただいま」「きゅ」の挨拶が成立するわけではない。
むしろ、鳴かなかったことで、拓海は自分自身の変化に気づかされた。
「……なんだよ。俺、昨日のあれ、思った以上に嬉しくて期待してたんじゃん」
コートを脱いでハンガーに掛けながら、苦笑いする。
声は出さなかったけれど、部屋に入った時に一度ちゃんと顔を上げてこちらを見てくれたのは確かだ。
「……まあ、無言でも今日も普通にかわいいから、それで十分か」
拓海はケージに歩み寄り、いつものように温湿度計の数字をチェックした。
***
水曜日の夕方。
その日も冷たい北風の中を歩いて帰ってきた拓海は、玄関で靴を脱ぎ、居室のドアを開けた。
「ただいま、ルリ」
昨日まではただの「ただいまー」だった言葉の後ろに、今日は最初からごく自然にルリの名前が付いていた。拓海自身、自分がそう呼んだことにすら気づいていないほど自然な一言だった。
部屋に入りながらケージを見ると、ルリはいつもの高所休息棚の屋根の上にいた。
「……お、今日も起きてたか」
昨日みたいに顔だけ上げるかな、と思いながら、拓海が肩からバッグを下ろして机の脇へ置こうとした、その瞬間だった。
屋根の上で丸くなっていたルリが、四本の脚にぐっと力を入れ、身体を起こしたのだ。
「……ん?」
拓海の手が止まる。
ルリは立ち上がると、そのまま屋根の縁へとトテ、と歩を進めた。
小さな右前脚を屋根の端から伸ばし、すぐ隣に通っている既存の太い枝へと掛ける。続いて左前脚、後ろ脚。
「……お?」
拓海はバッグを床に置き、その場で足を止めた。
ルリが屋根の上から、枝へと降り始めたのだ。
滑らかな赤銅色の身体。背中にきっちりと畳まれた一対の皮膜翼。バランスを取るようにわずかに動く短い尻尾。
四本の小さな脚が、木の枝の表面をしっかりと捉えながら、一歩ずつ降りてくる。
とて、とて。
「…………」
飛翔するわけではない。いつもの慎重で確かな足取りで枝を伝い、ケージの中央を横切る一番太い枝の上まで降りてきた。
そして、ちょうどケージの真ん中あたりでピタリと足を止める。
枝の上で、右の前脚の位置を、ふみっ、と一度だけ踏み直して姿勢を安定させた。
それから顔をすっと上げ、大きな瑠璃色の瞳を拓海へと向ける。
「きゅ?」
「…………っ」
拓海の口元が、どうしようもなく緩んだ。
「……お前、今日は屋根からそこまで降りてきたのか?」
もちろん、ルリが普段からケージの中の枝を登ったり降りたりすること自体は珍しくもない。水皿へ行く時も、ケージ外探索で外へ出る時も、毎日使っている経路だ。
けれど、拓海が外から帰ってきて部屋に入った直後に、わざわざ屋根から起きて中央の枝まで降りてきたのを見たのは、これが初めてだった。
枝を掴んでいる小さな爪先と、こちらを見上げている丸い顔。
「……あのちっちゃい脚で、ちゃんと枝を掴んで降りてきたんだよなあ」
当たり前の動作なのに、自分が入ってきたタイミングで動いてくれたというだけで、なんだか特別なものを見たような気分になってしまう。
「……そうかあ。ただいま、ルリ」
嬉しくなって思わずもう一度声をかけてから、拓海はハッと気づいて自分で笑ってしまった。
「……って、俺、部屋に入ってからもう二回も『ただいま』って言ってるな」
中央の枝の上で、ルリは不思議そうに首を少しだけ動かしていた。
***
その日の夜。
夕食と、いつもの短いケージ外探索を終えたあと、拓海は机に向かって講義ノートを広げていた。
探索の時間はもう終わっているので、右脇の専用席は空いており、ルリはケージの中の高所休息棚の屋根へと戻って静かに休んでいる。
ノートにペンを走らせていた拓海は、ふと手を止め、今日帰宅した時の光景を思い返した。
「……今日は、枝まで降りてきたんだよなあ」
拓海は、その時にバッグを持ったまま立ち止まったことを思い出した。
上着も脱がず、荷物も置かず、ただ枝を降りてくるルリの姿を見ていた。あの時は、それ以外のことがすっかり頭から抜けていたのだ。
あの小さな足取りを思い出すだけで、拓海の口元が緩んだ。
そこで拓海は、最近の自分自身の『帰宅直後の動き』をふと振り返ってみた。
アパートに着く。玄関の鍵を開けて入り、閉めてロックをかける。
靴を脱ぐ。居室へ入る。
以前は、そこからまず机にバッグを置き、コートを脱いでハンガーに掛け、洗面所で手を洗ってから、ケージの前へ行って温湿度計とルリの様子を確認していたはずだ。
だが、今週はどうだ。
居室のドアを開けた瞬間、バッグを置くよりも、コートを脱ぐよりも先に、まずケージの屋根の上へ視線が向かっている。
「…………」
拓海はペンを持ったまま、ケージの屋根で丸くなっているルリを見た。
「……俺、いつの間にか、帰ったら真っ先にお前の顔を探すようになってるな」
「きゅ?」
静かな声に反応して、屋根の上でルリが片目だけを少し開けた。
「……まあ、帰ってきてすぐこんなにかわいいのが見られるなら、誰だって探すか」
これは研究上の大発見でもなければ、緊急の報告事項でもない。だから今夜は、榊原教授にわざわざメッセージを送ることもなかった。
ただ、自分の部屋の日常が、二か月前とは少しずつ変わってきているのを感じる静かな水曜日の夜だった。
***
木曜日。
この日は午後からの実験実習と、その後のグループでのレポート整理が予定以上に長引き、拓海が大学を出た時にはすでに午後六時半を回っていた。
アパートの前に着いた頃には午後七時を過ぎ、外はすっかり真っ暗で、昼間よりも一段と冷たい風が吹きつけていた。
「……うわ、さすがに疲れたな……」
重いバッグを肩に食い込ませながら、アパートの階段を上る。
頭の中は先ほどまで書いていた実験データの計算と、これから急いで夕食を作らなければならないという段取りでいっぱいになっていた。
玄関の鍵を開けて中へ入り、扉を閉めて施錠する。
冷え切った手で靴を脱ぎ、そのまま居室のドアを開けて中へと入った。
いつもならここで口をついて出るはずの「ただいま」という言葉が、今日は疲れと考えばかりが先行して、うっかり抜け落ちていた。
拓海が居室の照明のスイッチをパチリと入れ、重いバッグを下ろしてコートを脱ごうとした、その時だった。
「きゅ?」
「…………ん?」
部屋の奥、ケージの方向から、小さな声が聞こえた。
コートの袖に手をかけたまま、拓海が顔を向ける。
すると、ルリが高所休息棚の屋根ではなく、ケージ中央の枝――しかも、水曜日よりさらに手前側、アクリルガラスの前面にかなり近い位置にちょこんと立っていた。
「…………あれ?」
拓海は目を瞬かせた。
いつもこのくらいの遅い時間なら、屋根の上で丸くなって休んでいることが多いはずだ。
しかし今日のルリは、前方の枝の上で四脚を揃えて立ち止まり、大きな瑠璃色の瞳で、電気をつけたばかりの拓海の方をじっと見上げていた。いつ屋根からそこへ降りてきたのかは、拓海が入ってくる前だったので分からない。
「……お前、今日はそんな前の方にいたのか」
拓海が声をかけると、ルリは枝の上で小さな頭を少しだけ動かした。
「きゅ」
「…………」
もう一度、静かな部屋に短い声が響く。
その声を聞いた瞬間、拓海は自分が部屋に入ってからまだ一度もやっていなかったことに、ハッと気づいた。
「……あ」
一拍置いて、自分の間抜けさに小さく息を漏らす。
「……俺、今日まだ『ただいま』って言ってなかったな」
もちろん、言わなければルリが怒るわけでも、飼育規定に違反するわけでもない。
それなのに、前方の枝から「きゅ?」と声をかけられた途端、なんだか一番大事なことを忘れたまま部屋に入ってきてしまったような気持ちになったのだ。
拓海は脱ぎかけていたコートから一度手を離し、ケージの方へと真っ直ぐ身体を向け直した。
「……ただいま、ルリ」
疲れの混じった、いつもより少しだけ静かな声だった。
けれど、その一言を口にした瞬間、張り詰めていた肩の力がすっと抜け、拓海の顔に自然な笑みが戻ってきた。
「……今日はちょっと、大学で遅くなっちゃったんだよ」
「きゅ?」
「実験のデータ整理がなかなか終わらなくてさ。お前は今日、留守中に何してたんだ?」
コートを脱いでハンガーに掛けながら、拓海はつい話しかけてしまう。
もちろん、留守中のケージを四六時中監視していたわけではないから、ルリがいつからあの枝にいたのかも、どんなふうに過ごしていたのかも分からない。
それでも、こうして疲れて帰ってきた部屋の明かりをつけた時、すぐそこに小さな姿があって、自分に声をかけてくれる。
「……お前、もしかして俺が『ただいま』って言うの、待っててくれたのか?」
思わずそんな都合のいい言葉が口をついて出たが、ルリは何も答えず、枝の上で背中の翼を一度だけぴくっと動かしただけだった。
拓海は自分で言って、ふっと笑った。
「……いや。言いたくて待ってたのは、俺の方かもな」
***
洗面所で手洗いうがいを済ませて戻ってきた拓海は、いつもの手順でケージの環境確認を行った。
温度は二十五・〇度、湿度は五十八パーセント、マナ簡易測定器も正常。施錠状態にも異常はない。
帰宅が遅くなったからといって、その埋め合わせみたいに慌てておやつを与えたり、時間をずらして無理にケージを開けたりするようなことはしない。人間側の都合で生活リズムを乱さないことも、大切な管理の一つだ。
確認を終えてバインダーに数値を書き留めてから、拓海はもう一度ケージの中を見た。
ルリは先ほどまでいた前方の枝から、ゆっくりと歩いて奥へ戻り、いつもの高所休息棚の屋根へと登っていくところだった。
「……今日はそんな前の枝にいたんだな」
屋根の上に着いたルリが、くるりと向きを変えて身体を低くする。
「……また明日も、帰ってきたら元気な顔見せてくれよ」
それは何かを期待する命令ではなく、ただ明日も今日と同じ平穏な一日であってほしいという、拓海の自然な気持ちだった。
***
そして、金曜日の午後。
一週間の最後の講義を終えた拓海は、教室の机の上でノートとプリントをバッグへとしまっていた。
窓の外はすでに濃い夕暮れの色に染まっている。
周囲の学生たちが「週末どこ行く?」「バイトだわ」と賑やかに話しながら教室を出ていく中、拓海はマフラーを巻きながら、自然と帰宅後の予定を頭に思い浮かべていた。
帰ったらまず、ケージの状態を確認する。
それから夕食を作って食べて、夜になったら、ルリが自分で出てくるようならいつものように机の上で少し過ごす。
やることは月曜日から何一つ変わらない、ごく普通の平日の夜だ。
それなのに、バッグを肩にかけた拓海は、ふと廊下の窓ガラスに映る自分の顔を見て、小さく息をついた。
(……今日は、ルリのやつ、どこにいるかな)
月曜日と火曜日は、高所休息棚の屋根の上で顔を上げた。
水曜日は、屋根から中央の枝まで降りてきた。
昨日の木曜日は、最初から前の方の枝にいて鳴いてくれた。
さて、金曜日の今日はどうだろう。屋根の上で寝ているだろうか。また枝の上にいるだろうか。声を出すだろうか、それとも火曜日みたいに無言だろうか。
「…………」
そこまで考えて、拓海は誰もいない階段の踊り場で、思わず小さく笑ってしまった。
(……俺、家に帰るのがめちゃくちゃ楽しみになってるな)
もちろん、ルリを迎えた最初の頃から、家に帰ってルリの姿を見るのは楽しみだった。
けれど最初の頃のそれは、「未知の魔法生物が自分の部屋にいる!」という非日常への高揚感や、「ちゃんと生きているだろうか」という飼育担当者としての緊張感と背中合わせのものだった。
今も担当者としての責任が軽くなったわけではない。
ただ、二か月余りという時間を毎日一緒に積み重ねてきた今、拓海の中にあるのは、もっと静かで、穏やかで、当たり前の日常になった楽しみだった。
拓海はコートのポケットに手を入れ、冷たい夕暮れの風が吹くキャンパスを、いつもより少しだけ早い足取りでアパートへと向かった。
***
午後五時四十分。
アパートへ帰り着いた拓海は、玄関のドアを開けて中へ入り、扉を閉めて施錠した。
靴を脱ぎ、バッグを手に持ったまま居室のドアを開ける。
「ただいま、ルリ」
部屋に入りながら、ごく自然に名前を呼ぶ。
もう、声をかけると同時に視線は真っ直ぐケージの方へと向いていた。
ケージの中、高所休息棚の屋根の上に、赤銅色の小さな丸い背中が見える。
「……お、今日は屋根の上か」
拓海が微笑みながら部屋の奥へ二歩ほど進み、バッグを机の横へ置こうとした、その時だった。
屋根の上で丸くなっていたルリが、ひょこっ、と小さな頭を持ち上げた。
大きな瑠璃色の瞳が、まっすぐに拓海を捉える。
そして――。
とて。
ルリが四脚を立ててすっと立ち上がり、屋根の縁へと歩き出した。
「…………ん?」
バッグを下ろしかけていた拓海の手が、空中で止まった。
ルリは屋根の端まで来ると、迷いのない動きで右の前脚を隣の枝へと掛けた。
続いて左の前脚。後ろの二本の脚も順番に屋根から離れ、枝の上へと乗り移る。
背中の翼はきっちりと身体に沿わせて畳んだまま、短い尻尾で小さくバランスを取りながら、一歩ずつ枝を伝って降りてくる。
とて、とて。
「…………」
拓海は声を立てず、その場で静かに見守った。
ルリは水曜日の時と同じように、ケージの中央を横切る太い枝まで降りてきた。
しかし、今日のルリはそこでは足を止めなかった。
中央の枝から、さらに手前へ伸びている枝の分岐へと向きを変え、そのまま前へと歩き続けたのだ。
とて、とて、とて。
小さな四本の脚が、一歩、また一歩とケージの前面――拓海が立っている側へと近づいてくる。
やがて、アクリルガラスのすぐ内側、ケージの一番手前に近い枝の先端付近までやってくると、ルリはそこでピタリと足を止めた。
そして、枝の上で右の前脚を一度だけ上げ、ふみっ、と位置を整えて姿勢を安定させる。
赤銅色の小さな顔が、ぐっと上を向いた。
すぐ目の前のガラス越しに立つ拓海の顔を真っ直ぐ見上げて――。
「きゅ?」
「…………」
静かな部屋に響いたその小さな声を聞いて、拓海の顔の筋肉が、ゆっくりと、どうしようもないほど柔らかく緩んでいった。
「…………ルリ」
一拍置いてから、拓海はバッグを床にそっと置いた。
「……お前、今日は俺が見てる前で、そんな一番前まで歩いてきたのか」
枝の上にちょこんと立っているルリは、手のひらに全身が収まるほど小さい。
二本の短い角に、丸みのある鼻先。枝をしっかりと捉える小さな前脚も、すぐ近くのガラス越しにはっきり見えた。
それなのに、澄み切った大きな瑠璃色の瞳でこちらを見上げているその小さな姿が、今の拓海の目には、この部屋の何よりも大きく、鮮やかに映っていた。
「…………」
拓海はケージの前へ一歩近づき、ルリの目線に合わせるように少しだけ膝を曲げて、嬉しそうに笑った。
「……ただいま」
部屋に入った時に一度言ったばかりなのに、もう一度、自然と口から出た。
今度は部屋の空間にではなく、目の前の枝まで歩いてきてくれた小さな竜に向けて。
「ただいま、ルリ」
ルリは枝の上で、小さな頭をこてんとわずかに傾けた。
「きゅ」
「…………っ」
拓海は小さく息を漏らし、片手で自分の目元を押さえた。
「……ああ、もう」
「……ほんとにかわいいなあ、お前」
帰宅直後の時間だから、ここで焦ってケージのスライド窓を開けたり、手を入れて撫でようとしたりはしない。
ルリはケージの中の枝にいて、拓海はケージの外に立っている。
ただそれだけなのに、それ以上のことは何も要らないと思えるほど、胸の奥が温かいもので満たされていた。
***
その後、手洗いを済ませて戻ってくると、ルリはしばらく前方の枝で拓海が動く様子を眺めたあと、また自分のペースでトテトテと枝を戻り、いつもの高所休息棚の屋根の上へと帰っていった。
もう、ケージの一番前にはいない。
温湿度やマナ濃度の確認を終えた拓海は、キッチンに立って夕食の支度を始めていた。
包丁で野菜を切り、鍋に火をかける。そんな何気ない作業をしながらも、拓海の口元にはさっきからの笑みがずっと残ったままだった。
「……いやあ、今日はすごかったな」
一人で鍋を見ながら呟き、それから自分で少しおかしそうに首を振った。
冷静に考えれば、ルリが今日見せたのは、新しい飛行技術でもなければ、複雑な道具の操作でもない。
ただ、拓海が帰ってきた時に屋根から起きて、枝を歩いてケージの前の方へ来て、一回鳴いただけだ。時間にしてみれば、ほんの一分にも満たない出来事である。
でも、拓海はたまらなく嬉しかった。
「……『ただいま』って言うの、最近ほんとに楽しいんだよな」
フライパンの火加減を調整しながら、ぽつりと口にする。
これまでにルリと過ごした二か月余りの中で、飛び上がるほど嬉しかった瞬間はいくつもあった。
初めて掌に四脚すべてを乗せてくれた日。名前を呼んでこちらを見た日。宝物の白い石を掌に置いていった日。肩まで登ってきた日。木の球を転がし合った日。
今日の出来事は、そのどれとも少し違っていた。
特別なイベントではなく、毎日繰り返す「外から帰ってきて部屋に入る」というただの生活の一場面に、ルリが関わってくれるようになった喜び。
キッチンの仕切りの向こう、ケージの屋根の上を見る。
ルリはもう普段通りの丸い姿勢で落ち着いていた。
「……うん。今日も元気でいてくれて、よかったな」
***
金曜日の夜、すべての予定を終えたあと。
拓海は机に向かい、記録用の紙バインダーを開いて、今週月曜日から金曜日までの五日間の『帰宅直後の観察記録』をまとめて整理していた。
もちろん、これは新しい設備の適応試験ではないし、留守中のケージにカメラを回して監視していたわけでもない。
だから、拓海が部屋に入る前にルリが何をしていたのかは分からないし、見ていない時間の推測は一切書かない。ただ、自分が帰宅した直後に目撃した事実だけを、曜日ごとに淡々と書き並べていく。
『月曜日:担当者帰宅後、個体は高所休息棚屋根上にて頭部を挙上。短い発声を一回確認』
『火曜日:担当者帰宅後、個体は高所休息棚屋根上にて頭部を挙上。発声および移動は確認されず』
『水曜日:担当者が居室へ入室後、個体が高所休息棚屋根より中央の枝へ自発的に歩行移動。短い発声を確認』
『木曜日:帰宅時、個体はすでにケージ前方寄りの枝上に滞在(移動開始時点は未観察)。担当者の「ただいま」の発声前に短い発声を確認。その後も発声あり』
『金曜日:担当者が居室へ入室後、個体が高所休息棚屋根より枝を経由してケージ前方部まで自発的に歩行移動。到達後に短い発声を確認』
備考欄には、『今週、帰宅直後の時間帯において頭部挙上、発声、およびケージ前方への移動を複数日観察。帰宅に伴う物音や担当者の発声との直接的な因果関係は未確定』と記した。
書き終えた拓海は、並んだ五日分の記録を見つめて、少しだけペン先を止めた。
「……正式な記録には、やっぱり『お迎え』とは書けないんだよな」
まあ、それは当然だ。
ルリが「拓海が大学から帰ってきたこと」をどこまで理解しているのかも、どういうつもりで前の枝まで歩いてきたのかも、科学的にはまだ何一つ証明できない。
だが、自分が見た事実だけは、こうして確かに紙の上に残っている。
拓海は視線を下げ、枠外の個人用メモ欄へとペンを動かした。
『今週は家に帰ってくると、ルリが顔を上げたり、屋根から枝を降りてきたりする日が続いた。金曜日の今日は、俺が見ている前でケージの一番前まで歩いてきて鳴いてくれた。お迎えしてもらったみたいで、すごく嬉しかった。最近、帰ってきて「ただいま」と言うのが毎日楽しい』
そこまで書いてペンを置き、自分の書いた文字を読み返して、拓海はふっと笑った。
「……よし。こっちは完全に俺の感想だから、これでいいんだ」
書き直そうとはしなかった。客観的な事実の記録と、飼育員としての素直な喜び。その両方が、今の拓海とルリの生活の記録だった。
***
夜もすっかり更けた頃。
拓海は翌日の予習を終えて講義ノートを閉じ、机の上を綺麗に片付けた。
ケージの中では、ルリがいつもの高所休息棚の屋根の上で静かに身体を丸めている。
そのすぐ隣の宝物箱には、いびつなコルク片、白い丸石、どんぐりの帽子の三つ。
机の右脇には、十八センチ×十四センチの小さな専用席。
日曜日に作ったトンネルは保管箱の中だし、木の球も引き出しの中にしまってある。
部屋の中にあるものは、先週の終わりとほとんど何も変わっていない。
けれど、この部屋に帰ってくる拓海の気持ちは、先週よりもさらに少しだけ温かくなっていた。
拓海は立ち上がり、ケージの前へと向かって、屋根の上の小さな背中へ静かに声をかけた。
「……おやすみ、ルリ」
ルリは屋根の上で丸くなったまま、もう頭を上げなかった。返事の声もない。
「…………」
拓海はそれを見て、優しく目を細めて笑った。
「……そうだよな。もう、ぐっすり寝る時間だもんな」
部屋のメイン照明をパチリと落とし、間接照明すら消して暗くする。
温湿度計の小さな緑色のランプだけが灯る薄暗がりの中で、赤銅色の小さな身体が規則正しい呼吸を繰り返しながら休んでいる。
拓海は音を立てないように歩いて、自分のベッドへと潜り込んだ。
ルリをこの部屋に迎えるずっと前から、拓海は外から帰ってくるたびに、習慣で「ただいま」と口にしていた。
一人暮らしのアパートだから、返事がないのは当たり前で、そもそも誰かに聞かせるために言っていた言葉ですらなかった。
けれど今は、冷たい風の中を歩いて部屋へ帰ってくると、いつものケージの中に小さな赤銅色の竜がいる。
ちょこんと顔を上げてくれる日もあれば、鳴かずにそのまま休んでいる日もある。
そして時には、高い屋根の上から小さな四本の脚でとてとてと枝を降りてきて、大きな瑠璃色の瞳を真っ直ぐこちらへ向けてくれることもあった。
ただそれだけのことで、毎日の帰り道がこんなにも楽しみになるのだと、拓海は初めて知った。
明日もきっと、外から帰ってきたら、荷物を置くより先にケージの中を見るだろう。
そして、いつものように声をかけるのだ。
「……ただいま、ルリ」
その何気ない一言を向けたい相手が、この部屋にいる。
今の拓海には、それが何より嬉しかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!