魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
これまで掲載した挿絵を、読み込みやすいよう軽量化しました。
画像を開くのに時間がかかっていたことに今まで気づかず、申し訳ありませんでした。
少しでも快適に、魔法生物たちの姿を楽しんでいただけたら嬉しいです。
土曜日の朝、午前八時半過ぎ。
水野拓海は、いつも通りの手順で飼育ケージの点検を行っていた。
デジタル温湿度計の数値を確認し、マナ簡易測定器のランプが正常な緑色に灯っているのを確かめる。
ケージの上部、高所休息棚の屋根の上に目を向けると、赤銅色の小さな身体がちょこんと丸まっていた。
そのすぐ隣の補助棚に固定した宝物箱には、いびつなコルク片と、白い丸石と、どんぐりの帽子の三点が相変わらずきちんと並んでいる。
「おはよう、ルリ」
「きゅ」
屋根の上から、短い声が返ってきた。
昨日の金曜日までは、大学から帰ってくるたびに屋根から顔を上げたり、前の枝までトテトテと歩いてきたりして拓海を喜ばせてくれたルリだ。
「今日は土曜日で大学ないからな。一日家でゆっくりできるぞ」
水皿を新しい水に交換しようとスライド窓に手をかけた、ちょうどその時だった。
机の上に置いていたスマートフォンが、短いバイブレーションとともに通知を知らせた。
手を拭いてから画面を開くと、八咫烏指定の暗号化アプリに榊原教授からのメッセージが届いている。
『水野君、おはよう。今日と明日、少し時間あるかな?』
拓海は首を傾げながら、すぐに文字を打ち返した。
『おはようございます。土日とも予定は空いてますけど、何かありましたか?』
定期的な健康チェックの予定日はまだ先のはずだ。すると、数秒で榊原から思いがけない返信が返ってきた。
『ルリ君の同種接触試験を始めようと思ってね』
『…………同種?』
『うん。ほかの小型竜と会わせて、どういう反応を示すか見てみたいんだ』
『…………』
拓海の指が、スマホの画面の上でピタリと止まった。
一秒、二秒と沈黙が流れ、しびれを切らしたように榊原から追いメッセージが届く。
『水野君? また固まった?』
『先生、ちょっと待ってください!』
『うん?』
『施設に、ほかにもルリと同じ小型竜がいるんですか!?』
思わず画面に向かって声を上げそうになるほど、拓海は一気に興奮していた。
もちろん、生物である以上、ルリがこの世界にたった一匹しか存在しないなどとは思っていなかった。研究施設に第3や第4といった別の飼育室があることも知っている。
けれど、この二か月余り、拓海が毎日間近で見て世話をしてきた小型竜はルリただ一匹だけだ。同じ種類の別の個体が実際にいて、しかも今日会えると聞けば、生物学徒としても飼育員としても興味を抑えられるはずがない。
画面に、榊原からの補足説明が表示される。
『今回はね、施設側で健康確認と受け入れ管理をすべて終えているメスの個体が三匹いるんだ』
『……メス、ですか?』
『そう。先日、施設で保管していたルリ君の生体サンプルの追加解析結果が出てね。記録上、ルリ君は正式にオスの個体として登録されたんだよ』
初めて出会った頃には「普通の動物みたいな雌雄の判定方法が使えないから、まだ分からない」と言われていた項目だ。研究が進み、ようやくはっきりしたらしい。
『年齢や繁殖可能な段階にあるかどうかはまた別の確認事項になるけれど、将来的なつがい形成や複数飼育の可能性も含めて、まずは同種個体と顔を合わせた時にどう行動するかを見ておきたいんだ』
『…………!』
『ただ、あらかじめ釘を刺しておくよ。同じ種類のオスとメスを会わせたからといって、必ず仲良くなるとは限らないからね』
『はい! そこは嫌というほど分かってます!』
人間が用意した寝床や玩具ですら、思い通りには使ってくれないのだ。ましてや生き物同士の相性となれば、人間の都合通りに進むはずがない。
それでも、準備をして施設へ向かう旨を返信し終えた拓海は、高鳴る胸を抑えきれずにケージの方へと振り返った。
「……おい、ルリ」
「きゅ?」
屋根の上で、ルリが不思議そうに首をこてんと傾げる。
「……お前、男の子だったんだな。しかも今日、初めて女の子の小竜と会うらしいぞ」
ルリは当然、何のことやらさっぱりという顔でぱちりと瞬きをしただけだった。
当の本人はいつも通りマイペースにくつろいでいるというのに、拓海の方がなぜか落ち着かず、部屋の中で一度深呼吸をした。
「…………いや、お見合いに行くわけじゃないんだから、俺が緊張してどうするんだ」
自分にツッコミを入れながら、拓海は指定キャリーケースの準備へと取り掛かった。
***
午前十時前。
指定キャリーを遮光カバーに収めて提げた拓海は、大学キャンパスの北端にある研究施設へと到着した。
今日は屋外馴化区画へ出るわけではなく、施設内の完全に管理された室内で試験を行うため、ハーネスや安全索は装着していない。
二重扉を抜け、靴の履き替えと消毒、エアシャワーを済ませて廊下へ出ると、白衣姿の榊原が記録用のタブレットを片手に待っていた。
「おはようございます、先生」
「おはよう、水野君。早かったね」
「……あの、本当にルリと同じ小竜が三匹もいるんですか?」
「いるよ。どの子も全長十センチ前後の、同じ小型竜だ」
「…………」
「ずいぶん楽しみにしてきた顔だね」
「……はい。めちゃくちゃ楽しみです」
隠しても仕方がないので正直に白状すると、榊原は面白そうに目を細めて笑った。
歩きながら、今回の『同種接触試験』の具体的な手順と安全ルールについて説明を受ける。
初めて顔を合わせる個体同士を、いきなり一つの狭いケージへ一緒に入れるような乱暴な真似は絶対にしない。万が一、縄張り意識や警戒心から攻撃行動に出たり、パニックになって衝突したりすれば怪我につながるからだ。
「今日は接触試験専用の中立的な区画を使う。どちらの普段の縄張りでもない場所だ」
案内されたのは接触試験専用の部屋だった。その中央には、いつもの飼育ケージよりもずっと広い、幅一メートル五十センチほどの観察用区画が設置されていた。
周囲と天井は安全に閉鎖され、床には滑りにくいマットが敷かれている。内部には低い枝や足場、そして視線を遮って隠れられる退避用のシェルターが左右対称にいくつも配置されていた。
そして区画の真ん中には、透明なアクリル板と、お互いの匂いや声だけが通る細目の安全なメッシュパネルを切り替えられる『可動式の仕切り』が設けられている。試験室の隣には大きな観察窓を備えた小部屋があり、拓海と榊原は試験中そこから区画内を見守る。仕切りの操作は試験室側の施設職員が担当する。
「まずは仕切りを閉じた状態で、お互いの姿や気配を確認させて反応を見る。双方に強い警戒や威嚇がなく、落ち着いた様子が続いて、さらに自分から仕切りの方へ近づく行動が見られた場合だけ、短い時間、仕切りを開けて直接接触できる状態にする」
「もし途中で嫌がったり、逃げようとしたりしたら?」
「その時は即座に仕切りを戻して終了する。無理に引き合わせることはしないし、いつでも自分から物陰やキャリーへ退避できるようにしてある。健康管理や介入の判断は、相手側の個体を担当している施設の職員と私で行うから、水野君は普段のルリ君をよく知る協力者として、動きの違いを観察してほしい」
「分かりました」
また、ルリへの負担や刺激の重複を避けるため、三匹を一度に会わせるようなことはしない。
土曜日の午前中に一匹目、午後に十分な休息を挟んで二匹目。そして、明日の日曜日に三匹目と会わせるスケジュールになっていた。
***
「じゃあ、最初の候補の子を先に見にいこうか」
試験区画の準備が整うまでの間、榊原と施設職員に案内されて、拓海は候補個体が待機する別室の観察窓の前に立った。
ガラスの向こうにあるケージの中へ視線を向ける。
低い止まり木の枝の上に、小さな影がちょこんと座っていた。
全長は十センチほど。ルリとほとんど同じ大きさだ。
四本の短い脚に、背中に畳まれた一対の皮膜翼。頭には二本の小さな角。
ただ、その全身を覆う細かな鱗の色は、ルリのような赤銅色ではなかった。
深みのある、落ち着いた『青緑色』。翡翠や深い森の湖を思わせるような綺麗な色合いで、透き通った瞳が静かに前方を眺めている。
「…………」
待機室の観察窓の前で、拓海は早くも固まった。
「……先生」
「うん」
「……青緑色です」
「そうだね」
「……一匹目から、めちゃくちゃかわいいんですけど」
「ははは。だろうね」
ルリ以外の小型竜を初めて目にした衝撃と、同じフォルムなのに色が違うだけでこんなにも新鮮に見えるのかという感動で、拓海の目は釘付けになっていた。
候補個体の見学を終え、拓海と榊原は試験室に隣接した観察室へ移った。ガラスの向こうで両個体の準備が整い、一回目の接触試験が始まった。
試験区画の左側にルリのキャリーが接続され、扉が開く。ルリはいつものように入り口で匂いを嗅いでから、トテ、トテと自分の足で中立区画へと出てきた。
同時に、右側の入り口からは、翡翠色のメスの小竜がゆっくりと姿を現す。
中央にはまだ仕切りがある。
ルリが低い足場の上で立ち止まり、仕切りの向こうにいる翡翠色の影に気づいて頭を向けた。
「きゅ?」
すると、向こう側で立ち止まった翡翠色の小竜も、すっと頭を持ち上げて鳴いた。
「きゅぅ」
「…………っ!」
観察室の窓越しに見ていた拓海は、思わず両手で自分の口元を押さえた。
「……声が、二匹分……!」
いつも部屋で聞いているルリの「きゅ」に、少しだけ響きの違う柔らかな「きゅぅ」が重なる。ただ二匹が鳴いただけなのに、破壊力が倍どころではない。
隣で記録端末を持っていた榊原が、楽しそうに肩を揺らした。
「水野君、まだ始まったばかりだけど、今からずっとそんな感じ?」
「……無理です。だって小竜が二匹いるんですよ? かわいいに決まってるじゃないですか」
仕切り越しに数分間観察を続ける。
お互いに背中の翼を逆立てたり、威嚇するような姿勢を取ったりする様子は一切ない。どちらも仕切りから少し離れた場所まで歩いてきて、相手の方へ頭を向けている。
施設職員と榊原がアイコンタクトを取り、安全を確認したうえで、中央の仕切りがゆっくりと開放された。
境界線がなくなる。
拓海が息を詰めて見守る中、ルリがトテ、トテと数歩前へと歩み出た。
翡翠色の小竜も、落ち着き払った足取りで中央付近へと歩いてくる。
二匹の距離が、二十センチほどまで縮まった。
お互いに立ち止まり、数秒間、相手を見つめる。
しかし、そこからさらに距離を詰めて触れ合うような動きにはならなかった。
翡翠色の小竜はふいと頭を横へ向けると、そのままルリの脇を通り過ぎることもなく、自分の側の奥にある休息用の棚へと静かに歩いていき、そこでぺたんと身体を低くして落ち着いてしまったのだ。
一方のルリも、深追いするような素振りは見せず、くるりと向きを変えて自分側の低い枝へと登り、周囲の床や壁の匂いを嗅ぎ始めた。
「……あれ?」
拓海は少しだけ拍子抜けして呟いた。
喧嘩になるよりは百倍いいが、同じ空間にいるのに、まるでお互い別々の部屋にいるかのようにマイペースに過ごし始めている。
「お互い、相手の存在は認識したうえで、一定の距離を保っているね」
榊原がタブレットにペンを走らせながら言った。
「……これって、相性が悪いってことなんですか?」
「いや、そうとも限らないよ。威嚇も逃避も出ていないから、敵対しているわけではない。ただ、今の段階では無理に近づいて関わる必要を感じていないんだろうね」
その後も数分間見守ったが、二匹はそれぞれの場所で穏やかに過ごすばかりで、再び接近することはなかった。
予定の時間が来て、一回目の試験は静かに終了した。
記録としては、『相互の視認および発声、近距離への接近を確認。ただし継続的な相互行動は観察されず』という結果になった。
別室へ戻っていく翡翠色の小竜のケージを見送りながら、拓海は小さく手を振った。
「……落ち着いた子だったな。かわいかったなあ」
***
昼休みを挟み、ルリに十分な休息と体調確認の時間を取ってから、午後の試験準備が始まった。
ルリに疲労やストレスの兆候がないことを獣医と榊原が確認し、二匹目の候補個体と対面する。
拓海が再び候補個体の待機室の観察窓から見た二匹目の女の子は、午前中の翡翠色の子とはまた全く違う魅力を持っていた。
全身を覆うのは、明るい陽だまりのような『淡い黄金色』の鱗。
しかも、じっと落ち着いていた一匹目の子とは対照的に、ケージの中の枝から枝へと、とてとてと軽快に歩き回っているのだ。
枝の端で立ち止まったかと思うと、背中の翼を少しだけぱっと広げ――。
ぴょん。
飛翔というよりは軽やかなジャンプに近い動きで、隣の低い足場へと飛び移った。
「…………」
拓海の目がキラキラと輝いた。
「……先生。今度の子、めちゃくちゃ元気ですね!」
「うん、普段からよく動く活発な個体だよ」
拓海たちが試験用の観察室へ戻ると、先ほどと同じ手順で、試験区画の左右からルリと黄金色の小竜が入場する。
仕切り越しの段階から、黄金色の子は仕切りの近くをトテトテと左右に歩き回り、ルリの姿を興味深そうに見ていた。ルリもその動きを目で追っており、威嚇などの異常は見られない。
やがて安全が確認され、中央の仕切りが開けられた。
ルリがゆっくりと一歩前へ出る。
すると、向こう側から黄金色の小竜が、トテトテとかなりの速さで近づいてきた。
二匹の距離が三十センチほどになったところで、黄金色の子がふいに横方向へと小さく跳ねた。
ぴょん。
「おっ」
着地してすぐ、さらにもう一回、反対側へ。
ぴょん。
「……すごい、動きが軽いですね」
一方、目の前で急にぴょんぴょんと跳ねられたルリはといえば。
その場でピタリと足を止め、目を丸くしたように黄金色の子の機敏な動きを見つめていた。
そして、黄金色の子がさらに一歩、元気よく前へ詰めてきた瞬間。
ルリが、とて、と一歩後ろへ下がった。
黄金色の子がくるりと向きを変えて横へ歩く。
するとルリは、相手を追いかけるのではなく、そのまま自分の後ろ側にある低い足場の方へとトテトテと歩いて戻り、一段高い場所へ登って距離を取ってしまった。
「…………」
観察室で、拓海は少し首を傾げた。
「……なんか、お互いの動くテンポが噛み合ってない感じですね」
「今はそう見えるね。相手の子が悪いわけじゃないけれど、ルリ君の普段のマイペースな動きからすると、少し刺激が強すぎたのかもしれない」
ルリが自分から距離を取る行動を見せたため、榊原の判断で無理に時間は引き延ばさず、そこで仕切りを閉じて二回目の試験は終了となった。
もちろん、どちらの個体にも怪我や異常はない。結果は『接近を確認したが、ルリ側に距離を取る移動が見られたため短時間で終了』と記録された。
片付けをしながら、自分のケージへ戻っていく黄金色の小竜の姿を眺めて、拓海はぽつりと呟いた。
「……元気で、あの子もすごくかわいかったなあ」
すると、横で書類をまとめていた榊原が、呆れたようにくすりと笑った。
「水野君、午前中の翡翠色の子が終わった時も、まったく同じことを言ってたね」
「……いや、だって実際、どっちの子も本当にめちゃくちゃかわいかったじゃないですか」
「その調子だと、明日の三匹目の子を見ても同じことを言うんじゃない?」
「…………」
拓海は一拍だけ真面目に考えてから、きっぱりと頷いた。
「……たぶん、開始三秒で言うと思います」
「ははは。まあ、それだけどの子も魅力的だということだから、いいことだけどね」
夕方、二匹との試験記録を整理する。
同じ小型竜という種でありながら、翡翠色の落ち着いた子、黄金色の活発な子、そして慎重でマイペースなルリと、並べてみることでそれぞれの個体差がはっきりと浮かび上がってきた。
「ルリも、普段俺と部屋で一対一で過ごしてる時とは、また違って見えました」
「同種個体と向き合うことでしか見えない反応があるからね。今日はこれで終わりだ。三匹目の子は、また明日の朝にしよう」
「はい、楽しみにしてます!」
その日の夕方、アパートへ帰宅したルリは、疲れを引きずる様子もなく自発的にケージの屋根へと戻り、宝物箱の横でいつも通りに丸くなって過ごした。
「……お前、今日は俺の知る限り初めて、同じ種類の女の子と、それも二匹も会ったんだぞ」
「きゅ?」
「……やっぱり、一番緊張してたのは俺だったかもしれないけどな」
拓海は苦笑いしながら、明日の三匹目の出会いに向けて早めに部屋の明かりを落とした。
***
翌朝、日曜日。
再びルリを連れた拓海は、研究施設の試験区画へとやってきていた。
昨日の今日で手順は完全に頭に入っているが、最後の三人目――いや、三匹目の候補と会う日だと思うと、やはり期待で胸が弾む。
「……先生。今日の三匹目の子は、何色なんですか?」
「見てのお楽しみだよ」
「……そういうところ、焦らしますよね」
「ははは。ほら、あっちの観察窓だ」
榊原に促され、拓海は候補個体の待機室にある観察窓の前へと立った。
中にある飼育ケージへと目を向ける。
低い枝。休息用の小さな棚。そして奥にある木製のシェルターの物陰。
しかし、パッと見ただけでは、ケージの中に小竜の姿が見当たらない。
「……あれ?」
拓海はガラスに顔を近づけ、目を凝らした。
「先生、どこにいます?」
「一番奥の、太い枝が交差している下あたりを見てごらん」
「……奥の枝の下?」
言われた場所をじっと見つめると、枝の影になっている薄暗い場所に、小さな丸い輪郭が見えた。
最初は白っぽい色なのかと思った。
だが、次の瞬間、その小さな影が枝の陰から、とて、と一歩だけ明るい場所へと前脚を踏み出した。
「…………」
拓海の動きが、その場で完全に停止した。
照明の光を受けたその小さな身体を覆っていたのは、春の桜の花びらをそのまま集めたような、淡く柔らかな『桜色』の鱗だった。
優しいローズピンクの細かな鱗に、クリーム色のふっくらとしたお腹。
頭にはちょこんと二本の小さな角が生え、背中には一対の皮膜翼が綺麗に畳まれている。体格も構造も、ルリとまったく同じ全長十センチあまりの小型竜だ。
ただ、枝の陰からひょこっと覗いたその小さな顔には、ルリの深い瑠璃色とは違う、澄み切った『青緑色』の大きな瞳が輝いていた。
「きゅぅ?」
ガラスの向こうで、桜色の小竜が慎重に周囲を見回し、小さく首を傾げた。
「…………」
拓海は数秒間、瞬きすら忘れてその姿を見つめたあと、ゆっくりと首だけを回して隣の榊原を見た。
「……先生」
「うん?」
「……ピンク色です」
「そうだね、綺麗な桜色だ」
「…………」
「…………」
「……めちゃくちゃかわいいんですけど!!」
「ははは! 予告通り、本当に言ったね」
「いや、これは誰が見たって絶対言うでしょう!?」
昨日の自分の宣言を三秒で回収してしまったが、恥ずかしがっている場合ではなかった。
淡いピンク色のドラゴン。しかも手のひらサイズ。
枝の陰から少し控えめに周囲を伺っているその仕草は、二か月前、初めて第8飼育室でルリと出会った時の、あの慎重な様子をどこか思い出させた。
「……最初にルリと会った時も、あんなふうに枝の奥から様子を見てたな……」
拓海は懐かしさと愛おしさが混じった声で、小さく呟いた。
***
桜色の個体を見学したあと、拓海と榊原は試験室に隣接した観察室へ戻った。そして、三回目の同種接触試験が始まった。
試験区画の左側から、ルリが自発的にキャリーを出て歩いてくる。
右側の入り口からは、桜色の小竜が、最初は少し慎重に周囲の匂いを嗅ぎながら、とて、とてとゆっくり出てきた。
中央にはまだ仕切りがある。
ルリが自分側の低い足場へと登り、とて、と立ち止まった。
桜色の小竜も、仕切りから少し離れた床面で足を止める。
二匹が同時に、すっと頭を動かした。
ルリの深い瑠璃色の瞳が、仕切りの向こうの桜色の姿を捉える。
「きゅ?」
ルリが短く鳴いた。
すると、桜色の小竜も小さな頭を少しだけ持ち上げ、青緑色の大きな瞳をルリへと向けた。
「きゅぅ?」
「…………っ!」
観察窓の前で、拓海は思わず胸元で両手を握り締めた。
「……先生」
「うん」
「……今、二匹で鳴き合いましたよね」
「鳴いたねえ」
「……赤銅色とピンク色で並ばれると、なんかもう、画面の華やかさがすごいですね」
「昨日も『声が二匹分だ』って感動していた気がするけど」
「昨日とは色の組み合わせがまた違うんですよ!」
自分でも何を言っているのか分からなくなりつつあったが、拓海は大まじめだった。
しかし、本当に違いが現れ始めたのは、その直後からだった。
足場から降りたルリが、とて、とてと歩いて、中央の仕切りのすぐ近くまで近づいていったのだ。
すると桜色の小竜も、一拍置いてから、とて、とてと小さな足取りで仕切りの方へと歩み寄ってきた。
透明な仕切りを挟んで、十数センチの距離で二匹が向き合う。
ルリが仕切りに沿って、一歩、右へと動いた。
すると桜色の小竜の頭が、ルリの動きに合わせてすっとそちらへ動いた。
今度は桜色の小竜が、とて、と少し左へ歩く。
するとルリも、そちらへ顔を向けた。
「……お?」
拓海の口元から笑みが消え、観察者の真剣な目になった。
昨日の二匹の時とは、明らかに反応が違う。
一方的に近づくのでもなければ、一度見てすぐ別の場所へ行ってしまうのでもない。
二匹ともが、仕切りのすぐ近くに自発的に留まり続け、相手が動くたびにそちらへ繰り返し頭を向けているのだ。
「……先生、これ」
隣でタブレットを見つめていた榊原も、静かに頷いた。
「うん。少なくとも今の段階では、双方が相手のいる方向へ関心を示して接近を維持しているね」
数分間その安定した状態が続いたのを確認し、施設職員と榊原が合図を交わした。
音もなく、中央の仕切りがゆっくりと開放されていく。
***
二匹の間を隔てていた仕切りが、完全に消えた。
しかし、ルリも桜色の小竜も、開いた瞬間にいきなり飛び出すようなことはしない。
数秒間、その場でじっとお互いを見つめている。
やがて、ルリが先に右の前脚を一歩、前へと踏み出した。
とて。
桜色の小竜が、小さく頭を動かす。逃げて後ずさる様子はない。
それどころか、桜色の小竜の方も、小さな前脚を一歩、ルリの方へと踏み出したのだ。
とて。
観察窓の外で、拓海は呼吸を止めるようにして見守った。
「…………」
一歩、また一歩と、小さな二匹がゆっくりと距離を縮めていく。
艶やかな赤銅色の鱗と、淡く優しい桜色の鱗。
深い瑠璃色の瞳と、澄んだ青緑色の瞳。
十センチ、五センチ、三センチ。
やがて二匹は、区画のちょうど中央付近で向かい合って立ち止まった。
ルリが首を少し伸ばし、小さな鼻先を前へ近づける。
すん。
桜色の小竜も、同じように小さな鼻先をすっと前へ出した。
すん、すん。
そして、次の瞬間。
ちょん。
赤銅色の鼻先と、桜色の鼻先が、ほんの一瞬だけ、軽く触れ合った。
「…………っ!」
拓海は喉の奥まで出かかった歓声を、奥歯を噛み締めて必死に飲み込んだ。今ここで大声を出して驚かせたら一生後悔する。
触れ合ったのは、本当にコンマ数秒の一瞬だけだった。
すぐに二匹はすっと顔を離し、桜色の小竜が右へ一歩動き、ルリも少し身体の向きを変えた。
威嚇も、怯えも、パニックも一切ない。そのままお互いのすぐ近くの床面を、落ち着いた様子でトテトテと歩き始めた。
拓海はガラスから目を離さないまま、極小の囁き声で隣の榊原に確認した。
「……先生、今、鼻先が触れましたよね?」
「うん。明確な鼻先接触が一回あったね。しかも双方が自発的に接近した結果だ」
「…………」
「……めちゃくちゃかわいかったです」
「ははは。よく声を出さずに我慢したね」
***
鼻先の挨拶を終えた二匹は、その後、互いに十数センチほど離れた位置でそれぞれの探索を続けていた。
ルリは低い足場のすぐ近く。桜色の小竜は、その少し斜め前のマットの上だ。
このまま昨日の翡翠色の子の時のように、別々の場所へ散っていくのだろうか。
そう思って見ていた時だった。
マットの上にいた桜色の小竜が、ふいに四脚を少し曲げて、身体を低くした。
「……ん?」
拓海が視線を凝らす。
次の瞬間、桜色の小竜が、右横の方向へと小さく跳ねた。
ぴょん。
飛んだわけではない。ほんの数センチ、軽いステップを踏むように横へ移動しただけだ。
そして着地すると同時に、くるりと首を回して、後ろにいるルリの方を見た。
すると。
それを見ていたルリの頭が動き、そのまま、とて、とて、と桜色の小竜が移動した方向へと二歩ほど歩いて進んだのだ。
「…………」
拓海の目が、ゆっくりと大きく見開かれた。
「……先生」
「うん。見てるよ、録画も回ってる」
ルリが近づいてくると、桜色の小竜はまた少し身体を低くして、今度は左の方向へと小さく跳ねた。
ぴょん。
数センチ先へ移動して、また立ち止まってルリを見る。
するとルリも、くるりと身体の向きを変え、とて、とて、とその後を追うように歩いた。
「…………」
拓海はごくりと唾を飲み込み、小さく呟いた。
「……追いかけてる?」
「今のところは、桜色の個体が移動した方向へ、ルリ君が歩を進めているね」
榊原が慎重な言葉を選びながら答えた、その直後だった。
数歩進んだ先で、桜色の小竜が立ち止まった。
ルリも、そこから数センチ手前のところでピタリと足を止める。
二匹が、至近距離で顔を向け合った。
「きゅ?」
「きゅぅ」
短い声が二つ重なる。
そして今度は――桜色の小竜が動くより先に、ルリの方がくるりと横を向き、とて、とて、と少し離れた足場の方向へと先に歩き出したのだ。
すると、その場に残された桜色の小竜が、ぱちりと目を瞬かせ。
とてっ、とてとて。
今度は桜色の小竜の方が、ルリが歩いていった方向へと小走りに追いかけていった。
「…………!」
拓海は思わずガラスの縁に両手をついた。
今、追いかける側と、追いかけられる側が、はっきり入れ替わった。
***
そこからの光景は、拓海にとって夢を見ているかのような時間だった。
ルリが左へトテトテと動く。
桜色の小竜が、その後ろをトテトテと歩いて追う。
ルリが立ち止まって振り返ると、桜色の小竜も少し手前でピタリと止まる。
すると今度は、桜色の小竜が、ぴょん、と横へ小さく跳ねて反対方向へ移動する。
ルリがそちらへ向きを変え、とて、とてと追いかけていく。
桜色の小竜が振り返り、ルリが止まる。
そしてまた、ルリが先に別の方向へと歩き出し、桜色の小竜がその後ろをとてとてとついていく。
低い足場の周りを、赤銅色の小さな身体と、桜色の小さな身体が、順番に入れ替わりながら移動していくのだ。
「…………」
拓海は瞬きをするのも忘れて、その光景に完全に見入っていた。
二匹とも、背中の翼はきっちりと畳んだままだ。空中を激しく飛び回っているわけでもなければ、全力疾走しているわけでもない。
全長十センチあまりの小さな四本の脚で、ほんの数歩ずつ、とてとてと歩いたり、ぴょんと数センチ跳ねたりしては、立ち止まって顔を見合わせているだけだ。
けれど、片方が動けばもう片方が反応して動き、止まれば一緒に止まる。そのやり取りが、何度も何度も途切れずに続いていた。
「…………先生」
「うん」
「……これ、もしかして」
「うん?」
「……二匹で、遊んでません?」
拓海の震えるような問いかけに、隣で画面を見つめていた榊原は、少しだけ間を置いてから、ふっと柔らかい声で答えた。
「……そう見えるねえ」
「…………!」
「少なくとも、一方的な追跡や逃避ではなく、お互いの動きに応じて移動方向と役割を交互に変えている。昨日の二匹との試験ではまったく見られなかった反応が出ているよ」
先週の月曜日、机の上で木の球を転がし合った時、拓海は「ルリとキャッチボールをしているみたいだ」と感動した。
いま目の前で起きているのは、人間を挟まない、小さな竜同士の『小さな追いかけっこ』だった。
「……うわあ……本当に、二匹で遊んでるみたいだ……」
拓海が感嘆の吐息を漏らした、その時だった。
数回の往復のあと、桜色の小竜が少しだけ軌道を変え、立ち止まったルリのすぐ横へと回り込んだ。
ルリもそちらへ顔を向ける。
低い足場のすぐ脇で、二匹がぴたりと向かい合った。
赤銅色と桜色の小さな顔。
さっきと同じように、鼻先が触れそうなほどの近い距離だ。
「…………」
拓海は二匹から目を離せず、その場で息を詰めた。
「……先生」
「うん」
「……俺、ちょっと今、限界なんですけど」
「何が?」
「……かわいさの許容量がです」
「ははは、まだ頑張って観察しててくれないと困るよ」
その直後だった。
向かい合った桜色の小竜が、小さな右の前脚を、すっと少しだけ持ち上げた。
ちょい。
何かを突くのではなく、ルリの前脚のすぐ近くの床へと、それをそっと下ろす。
ルリはその足元へ一度視線を落としてから、顔を上げ、自分も右の前脚をほんの少しだけ前へ出して、ふみっ、と踏み直した。
そのまま二匹は、すぐ隣り合った距離で、十数秒間じっと静かに立ち止まっていた。
派手な動きは何もない。ただ赤銅色と桜色の小さな竜が、同じ足場の横でちょこんと並んでいる。ただそれだけの光景なのに、胸がいっぱいになるほど愛らしかった。
やがて、桜色の小竜がゆっくりと歩いて低い足場の上へと登り、ルリも反対側のマットの端へと落ち着いた足取りで離れた。どちらかがしつこく追いかけ続けるようなことはない。
その自然な区切りを見て、榊原が静かに言った。
「うん。今日はここまでにしようか」
拓海はハッと我に返り、名残惜しそうに区画の中の二匹を見た。
「……えっ、もう終わりですか?」
「初回だからね。良い状態で終えるのが一番大事だ。それに、また次の機会に確認すればいい」
「…………」
「水野君?」
「……はい。分かってます、その通りです」
理屈では百パーセント納得しているものの、声にはどうしても未練が滲んでしまった。
仕切りが静かに戻され、ルリと桜色の小竜は、それぞれの入り口に置かれたキャリーへと、誘導されることもなく自分の足でトテトテと戻っていった。
***
試験終了後、記録整理のためのミーティングルームで、拓海と榊原は昨日と今日の二日間の映像を見返していた。
翡翠色の女の子。黄金色の女の子。そして今日の、桜色の女の子。
同じ種類の小型竜でありながら、三匹とも驚くほど反応が違っていた。
画面の中では、ちょうど今日の三回目の試験映像――桜色の小竜がぴょんと横へ跳ね、ルリがとてとてと追いかけ、次にルリが動いて桜色の小竜が追いかける場面が再生されている。
「……こうして映像で見返しても、やっぱり二匹で追いかけっこして遊んでるように見えますね」
拓海が画面を見つめたまま言うと、榊原も深く頷いた。
「そうだね。相互接近、鼻先の接触、そして先導側と追従側が入れ替わる短い相互追従行動。その後に近距離で並んで静止する様子まで確認できた。今後の観察対象として、非常に興味深い結果だよ」
「先生。じゃあ、この三匹の中では、あのピンクの子が一番ルリと相性がいいってことなんでしょうか?」
拓海が尋ねると、榊原は研究者としての丁寧な言葉で整理した。
「今この一回だけで『相性が確定した』とまでは断言できないよ。あくまで初回の短い接触試験だからね。ただ、今回の三匹の中で、ルリ君との間に最も多く双方向の積極的な行動が見られたのは、間違いなくあの桜色の個体だ」
「……なるほど」
「だから、次の段階として継続的に接触観察を行う第一候補としては、十分すぎるほど有力だと言えるね」
拓海はモニターの中で並んでいる、赤銅色と桜色の小さな二つの影を見つめた。
さっきの試験中は「かわいい!」という興奮で頭がいっぱいだったが、少し落ち着いた今になって、じわじわと別の感情が湧き上がってきていた。
「……かわいかったなあ」
今度は大騒ぎではなく、静かな声だった。
「……ルリが、俺じゃなくて、ほかの小竜とあんなふうに動きを合わせてるの、初めて見ました」
普段、自分の部屋でノートに乗ってきたり、肩に登ってきたり、木の球を転がしてきたりするルリもたまらなく可愛い。
けれど、自分と同じ小さな体格の仲間と向かい合い、鼻先を寄せ、とてとてと追いかけっこをしていたルリの姿は、普段見守っている拓海にとっても胸が温かくなるような新しい発見だった。
「うん。普段のルリ君の行動を毎日細かく見ている君に、今日この場で立ち会ってもらえて本当によかったよ」
榊原はそう言って微笑むと、タブレットを机に置き、少し改まった様子で拓海の方を見た。
***
「ところで、水野君」
「はい?」
「……もし今後、別の日にもう何度か接触試験を行って、あの桜色の個体との関係が引き続き良好だったとしたら、君はどうしたい?」
拓海は少し考えてから、素直に答えた。
「……そうですね。ルリも嫌がっていないどころか自分から近づいてましたし、また施設で会わせて、一緒に遊べる時間を作ってあげたいなと思います」
「うん。それもいい考えだね」
榊原は頷き、それから眼鏡の奥の目を少し細めて続けた。
「実はね、私の方ではもう一歩進んだ計画も考えているんだ」
「……もう一歩進んだ計画、ですか?」
「水野君の自宅で、『二匹目の家庭飼育環境適応試験』を行う可能性についてだよ」
「…………」
拓海の思考が、そこでピタリと止まった。
一秒。二秒。
「…………え?」
目を丸くして固まる拓海に、榊原は分かりやすく噛み砕いて言った。
「簡単に言うと、あの桜色のメスの子も、水野君の部屋で二匹目として預かってみないか、という話だよ。もちろん、必要な条件がすべてクリアできればの話だけどね」
言われた瞬間、拓海の頭の中で、自分の1DKの部屋の景色がぶわっと広がった。
いつもの学習机。右脇にある専用席。高所休息棚と宝物箱。
そこにいる赤銅色のルリの隣に――今日出会ったばかりの、あの淡い桜色の小さなドラゴンが、もう一匹いる光景。
「…………」
「……先生」
「うん?」
「……俺の部屋に、あのピンクの子が来るかもしれないってことですか?」
「正式に審査が通って承認されればね」
「……俺の家に、小竜が、二匹?」
「そう、二匹だ」
「…………」
拓海は椅子の背もたれに身体を預け、天井を仰いだ。
「……ちょっと待ってください、先生」
「うん?」
「……頭の中で想像しただけで、かわいすぎて大変なことになるんですけど」
榊原がとうとう堪えきれずに吹き出した。
「ははは! 重大な打診をしたのに、まず最初に出てくる感想がそれなんだね」
「だってそうでしょう!? 一匹でも毎日こんなにかわいいのに、赤銅色とピンク色で二匹になったらどうなっちゃうんですか!」
だが、ひとしきり興奮したあとで、拓海の頭の中にある『飼育担当者としての冷静な回路』がすっと働き始めた。
可愛いから今すぐ連れて帰りたい、では済まないことを、この二か月余りの経験で拓海はよく知っている。
「……でも、先生。今の俺の部屋って、ケージも安全対策も、全部ルリ一匹だけを前提に作ってありますよね?」
拓海が真顔に戻って尋ねると、榊原は満足そうに頷いた。
「その通り。よくそこに気づいたね。だから、今日明日でいきなり連れて帰るという話ではないんだ」
そこから榊原は、二匹目の家庭飼育環境適応試験へ進むために必要な、具体的かつ厳格な条件を説明してくれた。
まず第一に、施設での追加接触試験を複数回行い、今日見られた良好な反応が一時的な偶然ではないか、双方にストレスが出ないかを改めて確認すること。
第二に、仮に拓海の部屋へ迎えるとしても、最初からルリと同じ一つのケージに同居させることは絶対にしない。まずは桜色の個体専用の『二つ目の飼育ケージ』を部屋に設置し、別々のケージで環境に慣らすところから始める。
第三に、拓海の部屋の温湿度管理や、二匹分になった場合のマナ濃度の推移、さらには賃貸物件としての飼育条件の再確認、そしてケージ外探索を行う際の安全対策の見直し。最初は一匹ずつ順番に外へ出し、家庭内で二匹を同時に出すのはさらに段階を踏んでからになる。記録も当然、二匹分を個別に管理しなければならない。
「今日少し仲良く遊んだように見えたからといって、二十四時間同じ箱の中で一緒に暮らせると決まったわけではないからね。やるべき準備と審査は、ルリ君を迎えた時以上にたくさんある」
「……はい」
ずらりと並んだ条件は、決して簡単なものではなかった。机の配置換えも必要になるし、毎日の観察と記録の手間も単純に増える。
けれど、拓海の中に迷いはなかった。不安よりも、自分がその環境を整えて二匹を迎えたいという気持ちの方がずっと大きかった。
拓海は背筋を伸ばし、榊原の目を真っ直ぐ見て言った。
「……先生。俺、もし審査と試験が通るなら、あの子も預かってみたいです」
榊原が穏やかに微笑む。
「うん。水野君なら、そう言うと思っていたよ」
「もちろん、俺が飼いたいからって無理やり進めるんじゃなくて、ルリやあのピンクの子に負担がないことが大前提ですけど。そのために必要な部屋の片付けや環境準備なら、いくらでもやります」
「よろしい。その姿勢があるなら安心だ。じゃあ、まずは来週以降の追加接触試験のスケジュールと、君の部屋の二匹用レイアウトの検討から始めようか」
「はい! よろしくお願いします!」
***
日曜日の夕方。
すべての予定を終えた拓海は、ルリが入ったキャリーを提げて自分のアパートへと帰ってきた。
いつもの位置でキャリーの扉を開けると、ルリは自分の足で固定足場を渡ってケージへと戻り、枝を伝って高所休息棚の屋根の上へと登っていった。
その隣の宝物箱には、いびつなコルク片、白い丸石、どんぐりの帽子の三つが並んでいる。
机の上には観察マットと、右脇の十八センチ×十四センチの専用席。
二か月以上かけて、ルリ一匹と暮らすために少しずつ整えてきた、見慣れた1DKの部屋だ。
「…………」
拓海は部屋の中央に立ったまま、ケージの横の壁際へと視線を向けた。
もしここにもう一つ、同じ高さ九十センチの縦型ケージを置くとしたら、どこになるだろう。
今のままでは少し手狭だ。本棚の位置をずらすか、学習机をもう少し窓から離れた手前側へ動かす必要があるかもしれない。エアコンの風がどちらのケージにも直接当たらない場所を計算して、マナ測定器の位置も調整しなければならない。
「……二匹かあ」
ぽつりと声に出して呟くと、ケージの屋根の上で丸くなりかけていたルリが、ひょいと頭を上げた。
「きゅ?」
拓海はケージの前に歩み寄り、屋根の上の小さなルリを見て優しく笑った。
「……お前、今日、あのピンクの女の子と追いかけっこして遊んでたよな」
もちろん、ルリにとってあれがどんな意味を持つ時間だったのか、人間の言葉で正確に言い当てることはできない。
けれど、赤銅色の小さな身体と、桜色の小さな身体が、お互いの動きを確かめるようにとてとてと歩き、ぴょんと跳ね、鼻先をちょんと触れ合わせていたあの光景は、拓海のまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
「……ほんとにかわいかったなあ、あれ」
拓海は少しだけ声を落とし、屋根の上のルリに語りかけた。
「……なぁ、ルリ。もしこれからの試験がうまくいって、あの子がうちの部屋にも来ることになったらさ」
大きな瑠璃色の瞳が、ガラス越しに拓海を見つめている。
「……この部屋でも、また今日みたいに一緒に遊んでくれるといいな」
「きゅ」
短い返事のような声が響いた。
意味は分からなくても、拓海は嬉しくなって顔を綻ばせた。
それから机に向かって椅子を引き、ノートを広げる。
今日行った同種接触試験の客観的な観察記録をバインダーに書き上げたあと、拓海は別のルーズリーフを一枚取り出し、これから検討しなければならない部屋の改装メモを書き出し始めた。
『二匹目のケージ設置スペースの確保(机・本棚の移動案)』
『二個体滞在時の室内マナ濃度測定』
『ケージ外探索時の個別スケジュールと安全動線の再確認』
真面目な項目をいくつも並べていったあと、拓海はノートの隅っこに、思わずもう一行だけ書き添えた。
『ピンクの子の名前候補』
「…………」
そこまで書いて、拓海はピタリとペンを止めた。
まだ追加の接触試験も残っているし、正式に家庭飼育が承認されたわけでもない。名前をつけていい段階ですらないのだ。
頭では分かっているのに、ペンを持った指先が勝手にそんな文字を書いてしまっていた。
「……気が早すぎるだろ、俺。名前なんて、本当にうちへ来ることが決まってからでいいのに」
自分で自分にツッコミを入れながらも、ふと、あの淡い桜色の鱗と澄んだ青緑色の瞳を思い浮かべる。
「……でも、どんな名前が似合うかな」
思わず口にしてしまい、拓海は静かな部屋で一人、くすりと笑った。
ほんの昨日の朝まで、この部屋にいる小竜はルリ一匹だけで、これからもずっと一人と一匹の生活が続いていくのだとばかり思っていた。
赤銅色の小さな身体が机の上を歩き、宝物を集め、時には肩へ登ってきて、帰ればケージの前で顔を出してくれる。それだけで、拓海の毎日は十分すぎるほど満たされていた。
けれど今日、初めて見てしまったのだ。
自分と同じ大きさのもう一匹の小竜と向かい合い、その動きを追いかけ、自分からも歩き出すルリの新しい姿を。
その相手は、淡い桜色の鱗を持った、小さな女の子だった。
まだ、あの子がこの部屋へやってくると最終的に決まったわけではない。クリアしなければならないハードルもたくさんある。
それでも、赤銅色と桜色の小さな二匹が、この部屋で並んで過ごしている未来を少し想像するだけで、拓海の口元はどうしようもなく緩んでしまうのだった。
「……本当に二匹になったら、毎日どれだけかわいいんだろうな」
ケージの屋根の上から、ルリが眠そうに小さく鳴いた。
「きゅ?」
拓海はノートを閉じ、屋根の上の小さな背中へ向かって、そっと頷いた。
「……うん。楽しみだな、ルリ」
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