魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~   作:パラレル・ゲーマー

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第3話 手のひら小竜の名前を決めるだけで一日かかったらしい

 スマートフォンから設定したアラームが鳴るよりも少し前。

 水野拓海は、薄暗い部屋のベッドの中で、ぱちりと目を覚ました。

 時刻は午前六時少し過ぎ。日曜日の朝にしては、ずいぶんと健康的な起床だ。

 毛布にくるまったまま、数秒だけぼんやりと天井の木目を眺める。冷え込み始めた秋の朝特有の、ひんやりとした空気が鼻腔をくすぐった。

 どこにでもある、一人暮らしの大学生の朝。

 しかし次の瞬間、拓海の脳裏に昨日の信じられない出来事が鮮明に蘇ってきた。

 

(……そうだ)

 

 ばっ、と勢いよく上半身を起こす。

 真っ先に視線を向けたのは、部屋の奥、壁際に設置された縦型の飼育ケージだった。

 直射日光は当たらず、エアコンの風も避けた、拓海の生活空間から最も視認しやすい一角。

 薄明かりの中、アクリルガラスの向こう側を凝視する。

 

 いた。

 

 ケージの中央を横切るように設置された、太めの止まり木の上。

 そこに、小さな赤銅色の塊がちょこんと乗っている。

 身体のサイズに対して大きめの皮膜翼を、マントのようにきっちりと背中に畳み込み、短い尻尾を身体の側面に添わせて、見事なまでに丸くなっている。

 規則正しい、微かな呼吸の上下運動。

 間違いなく、眠っている。

 

「…………いる」

 

 拓海は、無意識のうちに止めていた息を静かに吐き出した。

 夢ではなかった。

 自分の部屋に、手のひらサイズの竜がいる。

 その事実を改めて噛み締めると、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、妙な高揚感が湧き上がってくる。

 

 実は昨晩、拓海は熟睡などまったくできていなかった。

 消灯してベッドに入ったものの、午前零時、午前三時前、そして空が白み始めた明け方と、都合三回も目を覚ましている。

 そのたびに、抜き足差し足でケージに近づき、

『ちゃんと呼吸しているか』

『寝ぼけて枝から落ちていないか』

『室温は下がっていないか』

『実はケージの隙間から逃げ出していないか』

 と、懐中電灯アプリの光を極限まで絞って確認作業を行っていたのだ。

 初めての『家庭飼育適応試験』。しかも相手は未知の魔法生物。責任感と、単なる心配性が入り交じり、精神は完全に過覚醒状態だった。

 

 夜中にふと不安になり、榊原教授の言っていた『夜間専用の緊急連絡先』に発信しかけたこともあった。

 しかし、発信ボタンを押す直前で、別れ際の教授の言葉が頭をよぎった。

『小竜が寝てるんですけど大丈夫ですか、みたいな内容で午前三時に電話してこないように』

 拓海は静かにスマホを置いた。

 何より、ケージの中の小竜は、拓海が心配でウロウロしている間も、枝の上で至極平和そうに眠りこけていたのである。

 

(起こさないようにしないと)

 

 せっかく起きているのだから、もっと近くで見たい。声をかけて反応を見たい。

 そんな欲求が喉の奥まで出かかったが、拓海はぐっと呑み込んだ。

 人間の都合で、睡眠中の動物を叩き起こすなど、飼育者としてあるまじき行為だ。

 拓海はベッドから音を立てずに降りると、カーテンを一気に開けることはせず、部屋の照明もつけないまま、静かに自分の朝の支度を始めることにした。

 

 洗面所へ向かい、顔を洗い、歯を磨く。

 タオルで顔を拭きながら部屋に戻り、ケージをちらりと見る。

 小竜は、まだ丸まったままだ。

 

「よく寝るな……」

 

 小声で呟き、スマホで時刻を確認する。

 七時を回っていた。

 カメラアプリのアイコンが目に入る。

 撮りたい。めちゃくちゃ写真を撮りたい。この無防備な寝姿をあらゆる角度から激写し、高画質で保存したい。

 だが、私物のスマートフォンでの撮影は、八咫烏が定める管理規定で固く禁じられている。記録用端末は後で貸与される予定だが、今は手元にない。

 

「……こういう時に限って、写真撮れないんだよな。セキュリティ厳しすぎだろ」

 

 拓海は恨めしげにスマホをベッドに放り投げ、仕方なく、自らの網膜と海馬にこの可愛らしい造形を焼き付けることに集中した。

 

 それからさらに十数分後。

 ケージの中で、微かな変化が起きた。

 

 丸まっていた赤銅色の塊が、ぴく、と動いた。

 首が少しだけ持ち上がり、小さな瞼が半分ほど開く。しかし、まだ眠いのか、すぐにまた閉じてしまう。

 

 拓海は完全に動きを止め、石像と化した。

 

 数秒後、もう一度瞼が開いた。

 今度はしっかりと、深い瑠璃色の瞳が姿を現す。

 そして、喉の奥から空気が漏れるような、か細い声が響いた。

 

「きゅぅ……」

 

 普段の好奇心に満ちた鳴き声とは違う、少し掠れた、間延びした声。

 ただの生理現象なのか、寝起きの挨拶のようなものなのか、断定はできない。

 しかし拓海の耳には、どう聞いても『まだ眠い』と訴える寝起きの声にしか聞こえなかった。

 

 小竜は立ち上がると、枝の上で踏ん張りを見せた。

 短い前脚を、ぐーっと前方へ突き出す。同時に身体を低く沈め込み、背中を弓なりに反らす。

 さらに、背中に畳んでいた翼を、片方ずつゆっくりと外側へ広げて伸ばし、最後に短い尻尾をぴんと真っ直ぐに立てた。

 犬や猫がやるような、全身を使ったダイナミックな『伸び』の動作だ。

 仕上げに、ぶるっ、と全身の鱗を震わせて毛繕いならぬ鱗繕いをし、元の姿勢に戻る。

 

「…………」

 

 拓海は口を両手で覆い、その場に蹲りそうになった。

 

(何だ、今の伸び。可愛すぎないか。あんな小さな身体のどこに、あんな見事なストレッチ機能が備わってるんだ。神か。進化の神秘か)

 

 脳内で絶賛の嵐が吹き荒れるが、表面上は何とか冷静さを保つ。

 これに見惚れているだけでは、ただのファンだ。自分は飼育担当者なのである。

 拓海は気を取り直し、机の上から『小型竜幼体・個体健康観察記録』のバインダーとペンを手に取った。

 

 朝の健康観察。

 第8飼育室で採用されていた標準条件をそのまま引き継ぎ、ケージ内の温度は二十五度、湿度は六十パーセント。

 マナ簡易測定器の数値は、施設よりわずかに低いものの、小型竜一個体を飼育するには十分な標準範囲内。

 小竜の呼吸リズム、異常なし。

 翼の皮膜の乾燥、なし。鱗の艶、良好。枝を歩く様子にふらつきなし。

 平たい水皿を確認する。昨夜より少しだけ水面が下がっているように見えるが、空調による自然蒸発の可能性もあり、確実に飲水したとは断定できない。

 排泄物、なし。食事、なし(用意していないので当然だが)。

 

 拓海は各項目を埋めていき、用紙の一番上にある記入欄にペンを走らせる。

 

『個体管理番号:DR-JP-0427』

 

 書き終えて、ケージの中の小竜を見る。

 小竜も、ガラス越しにこちらを見返している。

 

「……なぁ。俺、これからずっとお前のこと、『0427』って呼ぶのかな」

 

 囚人番号でもあるまいし、味気なさすぎる。

 いくら国が管理している極秘生物とはいえ、一緒に暮らしていく相手に対して、ただの記号で呼びかけるのはどうにも居心地が悪かった。

 

「きゅ?」

 

 小竜が小首を傾げる。

 

 ***

 

 午前八時半。

 拓海はスマートフォンを取り出し、八咫烏から導入を指示された飼育協力者用の暗号化連絡アプリを開いた。

 宛先は、榊原宗一郎教授。

 日曜日の朝早くから申し訳ないと思いつつも、気になったことはすぐに聞くべきだと判断した。

 

『おはようございます。朝の観察終了しました。異常なしです。ところで先生、この子って名前ないんですか?』

 

 休日のため、返信には時間がかかるかと思ったが、一分も経たずに画面に通知が表示された。

 

『おはよう。ご苦労様。管理番号ならDR-JP-0427だけど』

『そうじゃなくて、呼ぶための名前です』

『ないよ』

『ないんですか』

『だから、君が付ければ?』

 

 拓海はスマホの画面を見つめたまま、動きを止めた。

 自分が、名前を付ける。

 新種の発見者が学名を決めるような、そんな大それた権利を与えられてしまったような気がして、妙なプレッシャーを感じる。

 

 あまりに返信が遅れたせいか、突然スマホが震え、着信画面に榊原の名前が表示された。

 慌てて通話ボタンを押す。

 

「はい、水野です」

『固まった?』

 電話の向こうから、榊原の面白がっているような声が聞こえた。

「……いや、俺が勝手に付けていいんですか? 国の管理下にある個体なのに」

『家庭飼育担当者が、日常のコミュニケーションのために呼称を設定するのは、ごく普通のプロセスだよ。犬だって保護施設では番号で呼ばれてても、引き取られたら名前をもらうでしょ?』

「それはそうですけど」

『もちろん、君に完全な所有権が移るわけじゃない。公式の書類や研究記録では、引き続きDR-JP-0427として識別される。でも、いざという時に「おい0427番、危ないぞ!」なんて長ったらしい呼び方をしてたら、対処が遅れるかもしれないじゃないか』

「確かに」

 

 拓海はケージの中を歩き回る小竜を見ながら、もう一つの疑問を口にした。

 

「この子本人に、選ばせるんですか?」

『本人に選ばせる? どうやって?』

「いくつか候補を呼んでみて、反応した名前にするとか」

 

 電話の向こうで、榊原が少しだけ間を置いたのがわかった。

 

『……やってもいいけど、それを安易に「本人がその名前を気に入って選んだ」とは決めつけないことだね』

「駄目ですか?」

『ある音に対して振り向いたとしても、その理由はいくらでも考えられる。音の高さ、子音の響き、君の声色、その瞬間の周囲の動き、以前聞いた何かの音に似ていたから、あるいはただの偶然。……「ポチと呼んだら振り向いた! この子はポチって名前が好きなんだ!」なんていう結論は、研究としては零点だ』

「ポチはさすがに犬っぽくないですか」

『あくまで例えばの話だよ』

 

 榊原の声には、研究者としての冷徹さと、飼育者を導く先輩としての温かさの両方が含まれていた。

 

『日常呼称のアドバイスをしておく。なるべく短い方がいい。二音か三音。他の生活音や、よく使う言葉と区別しやすい響き。緊急時でも咄嗟に呼びやすいこと。変に長い正式名や、厨二病みたいな名前を付けても、どうせ後で短縮して呼ぶことになるんだから』

「『紅蓮天翔竜皇(ぐれんてんしょうりゅうおう)』とかは駄目ですか」

『君がどうしてもそういうのが好きなら止めないけど。異常があって獣医の窓口に連絡した時、「紅蓮天翔竜皇がご飯を食べません」って大真面目に言うのは君だよ?』

「……やめます。大人しく短いのにします」

 

 ***

 

 通話を終え、拓海は机に向かった。

 レポート用のルーズリーフを取り出し、一番上に太字で《名前候補》と書き込む。

 ペンを回しながら、ケージに視線を送る。

 小竜は枝の端から端へ、トテトテとマイペースに往復運動をしている。

 

「さて、どうしたものか」

 

 一人きりの、名付け会議の開幕だ。

 

 候補その1。ドラゴン由来。

「ドラ……」

 声に出してみる。

「……猫型ロボットのイメージが強すぎるな。青くないし」

 却下。

「じゃあ、ドラコ」

 小竜に向かって少しだけ声を張ってみる。「ドラコ」

 小竜は一瞥もくれず、枝の端を匂っている。

「……まあ、普通すぎるよな。いかにもって感じだ」

 

 候補その2。色由来。

 ベースは赤銅色から淡い赤茶色。

「赤いから、アカ。……いや、それはそのまんま過ぎるな」

 拓海は一度書いた『アカ』に横線を引いた。

「紅。ベニ」

「ベニ?」

 小竜に向かって呼びかける。

 小竜はピタッと動きを止め、なぜか下にある水皿をじっと見つめた。

「……違うな。音の響きが硬い気がする」

 もちろん、小竜の反応だけで却下したわけではない。単に、拓海の感覚としてしっくりこなかっただけだ。

 

 候補その3。神話・竜由来。

 拓海はスマホで検索しながら書き連ねる。

 ファフニール。ニーズヘッグ。ヴリトラ。バハムート。リヴァイアサン。

 

 紙に並んだ強そうな文字列を見下ろし、それからケージの中の手のひらサイズの生き物を見る。

「……名前が強すぎる」

「きゅ」

「お前、世界を終わらせたり、海を飲み込んだりしそうな名前、全然似合わないな」

 小竜はあくびをした。

 

 候補その4。小さいから。

「チビ。マメ。コマメ」

 書き出して、すぐに横線を引く。

「いや、今は手のひらサイズだけど、成長したらどうなるかわからないしな。でっかくなったのに『チビ』って呼び続けるのも変だ」

 

 そもそも、小型竜はどれくらい大きくなるのだろうか。

 拓海は、昨日榊原からもらった基礎資料をパラパラと捲った。

『小型竜の成体サイズに関するデータは現在集積中。既存の観察例から推測するに、少なくとも大型犬や馬のようなサイズにまで肥大化するケースは稀である。しかし、現在の手のひらサイズが最終的な完成形であるとも断言できず、長期間の環境マナ濃度や個体差による成長幅の変動が確認されている。ただし、通常の飼育範囲内における小さな濃度差が、直ちに明確な成長差へ結びつくわけではない』

「なるほど、個体差大、か。やっぱり体格に依存する名前はやめておこう」

 成長後の姿が分からない以上、今の体格そのものを名前にするのはやはり避けた方がよさそうだった。

 

 候補その5。目。

 拓海はペンを置き、立ち上がってケージの前に立った。

 小竜がこちらに気づき、枝の上で向きを変える。

 アクリルガラス越しに、じっと目が合った。

 

 全身の赤銅色の中で、ひときわ目を引く、あの深い深い瞳の色。

 初めて見た時には、サファイアの原石のようだと思った。けれど、こうして生活空間の柔らかな光の中で近くから見ると、宝石よりもずっと柔らかく、生き物らしい温度を帯びて見える。

 鮮やかで、どこまでも澄み切った、不思議な色。

 

「……瑠璃」

 

 ポツリと、声に出した。

 

 その音に反応したのか。

 小竜が、首をこてんと傾けた。

 

 拓海は、一瞬だけ心臓が跳ねるのを感じた。

「今、反応した」

 しかし、すぐに思考にブレーキをかける。

「いやいやいや。駄目だ。先生に言われたばかりだろ。一回振り向いただけじゃ、何の証拠にもならない」

 

 とはいえ、『瑠璃』という漢字そのままだと、少し人名っぽすぎる気もする。

 ひらがな? カタカナ?

 日常的に呼びかけ、記録にも書きやすいのは。

 

 ルリ。

 

 二音で短く、濁音も半濁音も含まない。

 性別が未判定であっても違和感がない。成長しても幼すぎない響き。

 ルリ。ルリ、おはよう。ルリ、そこ危ない。ルリ、ご飯……はいらないか。

 どんな場面でも、とても自然に口をついて出そうだった。

 

「ルリ」

 

 もう一度呼んでみる。

 小竜は、瞬きもせずにこちらをじっと見ている。

 

 よし、実験だ。

 拓海の中に眠る、生真面目な生物学徒としての血が騒いだ。

 彼はルーズリーフの余白に、他の候補と『ルリ』をランダムに並べた実験用の表を作り始めた。

 呼ぶ時の声量、イントネーション、立ち位置。なるべく条件を一定に揃える。

 

「ベニ」

 無反応。小竜は自分の前脚を舐めている。

 一分間、時間を置く。

「ドラコ」

 無反応。後脚で頭の横を掻いている。

 一分間、時間を置く。

「ルリ」

 ピタッと動きを止め、こちらを見る。

「…………」

 拓海はメモに正の字の線を一本書き込む。

 また時間を置く。

「マメ」

 枝の表面をカリカリと削っている。

「ルリ」

 顔を上げ、こちらを見る。

 

 これを十回ほど繰り返したところで、拓海はペンを投げ出した。

 

「……いや、母数が少なすぎる。n=10じゃ統計的な有意差なんて出ないだろ」

 

 そもそも、前提条件が間違っている可能性に気づいたのだ。

 小竜は『ルリ』という音韻を名前として認識しているわけではない。単に、『拓海が特定のイントネーションで発する特定の周波数の音』に対して、何か興味を惹かれているだけかもしれない。

 

 拓海は頭を抱え、ベッドに倒れ込んだ。

 

「名前付けるだけなのに、どうしてこんなに難しいんだ……」

「きゅ?」

 ケージの中から、不思議そうな声が聞こえた。

 

 ***

 

 気づけば、時刻は十一時半を回っていた。

 貴重な日曜日の午前中が、完全に潰れてしまった。

 机の上のルーズリーフには、三十個近い名前の候補が並び、その横には『呼びやすさ』『成長後の違和感』『性別不問』『他語との混同リスク』『反応の有無』といった、謎の評価マトリクスが作成されている。

 

「……俺は何をやってるんだ、本当に」

 

 拓海は諦めて、ルーズリーフの写真を撮って送ろうとし……私物端末で飼育関連資料を撮影しないという規定を思い出してやめた。代わりに、候補をテキストデータとして専用アプリから榊原へ送る。

『名前候補一覧です。色々試してみましたが、絞りきれません』

 

 すぐに返信が来た。

『水野君』

『はい』

『君、卒論の研究テーマ決める時より真剣じゃない?』

『そんなことないです。大真面目です』

『ルリでいいんじゃないかな』

『……軽いですね、先生』

 

 拓海の不満げな送信に対し、榊原からの返信は、少しだけ文章が長かった。

 

『君が送ってきた文面や、さっきの電話の様子からして、君自身が一番自然に、無意識に呼べているのが「ルリ」だからだよ。名前は、仮説を証明するための実験データじゃない。君という飼育者と、その子との間で交わされるコミュニケーションの最初の道具だ。君が呼びやすくて、その子に一番似合っていると思うなら、それでいい』

『でも、本人が気に入ってるかどうかは……』

『本人が明確に嫌がっている兆候(威嚇する、逃げ隠れる、ストレス行動を見せる)が出たら、その時は変えればいい。でも今のところ、「ルリ」という音を聞いて、怯えたりはしていないんでしょ?』

『はい。むしろ、よくこっちを見ます』

『なら十分だよ。自信を持ちなさい』

 

 拓海は、大きく息を吐いた。

 教授の言う通りだ。難しく考えすぎていた。

 

 拓海は立ち上がり、再びケージの前に立った。

 少しだけ緊張しながら、真っ直ぐにアクリルガラスの向こうの小竜を見つめる。

 

「じゃあ……」

 

 小竜も、拓海を真っ直ぐに見返している。

 

「今日から、お前のことは『ルリ』って呼ぶからな。よろしく」

 

 小竜はしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて小さく鳴いた。

 

「きゅ?」

 

 拓海は、ふっと笑い声を漏らした。

「うん。ルリだ」

 

 机に戻り、専用の家庭飼育記録のファイルを開く。

 今日のページの最上部。

『個体管理番号:DR-JP-0427』

 そのすぐ下の備考欄に、拓海はしっかりとした筆跡で書き込んだ。

 

『日常呼称:ルリ』

 

 その文字を書いた瞬間。

 今まで「番号で管理された未知の生物」だった存在が、確かな輪郭を持ち、「自分の日常の中にいる一個体」になったような、不思議な感覚が拓海を包み込んだ。

 もちろん、所有物になったわけではない。名前を付けたからといって、完全に心が通じ合ったわけでもない。

 それでも、これから呼びかけるための、大切な『音』が生まれたのだ。

 

 ***

 

 昼。

 拓海はキッチンに立ち、自分のための簡単な昼食を作り始めた。

 メニューは野菜炒め定食。

 当然、まだルリをケージの外に出すわけにはいかない。

 

 包丁でキャベツを刻むトントンという音。

 フライパンに油を引いて、肉と野菜を炒める時の、じゅううっ、という激しい音と立ち上る湯気。

 電子レンジが温め完了を知らせる、ピーッ、という電子音。

 

 その全てに、ルリは敏感に反応していた。

 ケージの枝の上から、首を長く伸ばし、キッチンの拓海の一挙手一投足を観察している。

 炒め物の音には驚いたように首をすくめ、レンジの音には翼を少しだけピクッと動かす。

 

 拓海は、作業の合間に何度も振り返った。

 

「ルリ、火使ってるから危ないぞー(ケージの中だけど)」

「ルリ、いい匂いするだろ」

「ルリ、お前のご飯じゃないからな」

 

 呼ぶたびに、ルリの視線がこちらに向く。

 拓海は、ニヤニヤするのを抑えきれなかった。

 

 しかし、十分ほど経った頃。

 

「ルリ」

 ……(無反応。自分の尻尾を追っている)。

「ルリ?」

 ……(枝の裏側の影を見つめている)。

「ルリ、そっち見てんの?」

 ……(あくび)。

「ルリ」

 ……(目を閉じる)。

 

 完全に、反応しなくなった。

 

「……あれ?」

 

 拓海はフライ返しを持ったまま固まった。

 嫌われたか? それとも、この名前がやっぱり駄目だったのか?

 焦って榊原に相談のメッセージを送りそうになったが、寸前で思いとどまった。

 いや、冷静に考えろ。

 

(……単に、俺が呼びすぎただけだ)

 

 料理の間中、意味もなく名前を連呼していれば、それは特別な合図ではなく、ただの『環境音』になってしまう。

 名前が珍しい刺激ではなくなっただけだ。

 それに、呼ばれたからといって、毎回必ず律儀に返事をする義務など、動物にも、人間にもない。

 

「そりゃそうか。名前呼ばれたからって、毎回返事する必要ないもんな。俺だって、オカンに『拓海、拓海』って連続で呼ばれたら無視するし」

 

 変なところで納得し、拓海は一人で昼食をとった。

 

 ***

 

 午後。

 今日は家庭飼育二日目。環境の変化が著しい時期なので、これ以上の急激な刺激は避けるべきだと判断した。

 拓海はケージの前にある机に座り、大学の講義の課題レポートに取り組むことにした。

 ルリは、ケージ内の枝の上で過ごす。

 

 この『何も起こらない時間』を共有することが、信頼関係の構築には重要だ。

 最初は、拓海もルリの様子が気になって、五分に一回は顔を上げてケージを見ていた。

 しかし、ルリが枝の上で翼膜を軽く舐めたり、鱗を整えたり、ただじっと外を眺めたりと、落ち着いて過ごしているのを確認するうちに、拓海自身も次第にレポートの執筆に集中し始めた。

 

 キーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響く。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 

 かりっ。

 かりっ。

 

 非常に微かな、小さな爪が硬いプラスチックを掻くような音が聞こえた。

 拓海はキーボードを打つ手を止め、顔を上げた。

 

 ルリが、いつの間にか枝を降りていた。

 そして、ケージのアクリルガラスに取り付けられた、給餌用・清掃用のスライド窓のすぐ裏側にまでやってきている。

 

 拓海は椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいた。

 

「どうした?」

 

 小声で問いかけるが、すぐには窓を開けない。

 ルリが何を望んでいるのか、分からないからだ。

 水が欲しいのか。外に出たいのか。人間に対する興味なのか。ただ窓という構造物が気になっただけなのか。

 

 ルリはスライド窓の隙間に鼻先を近づけ、すん、と匂いを嗅いだ。

 拓海は、窓の外側から自分の手をそっと近づけてみた。

 ルリは、逃げない。アクリル越しに、拓海の手をじっと見ている。

 

 拓海の脳裏に、研究施設での初めての出会いの記憶が蘇った。

 あの時、拓海は決して自分から手を伸ばして捕まえようとはしなかった。

 ルリの方から、拓海の袖口に触れ、やがて前脚の二本だけを掌の上に乗せてきたのだ。

 後脚はしっかりと枝を残し、いつでも逃げられる体勢を保ったままで。

 

(今回も、選択肢を作るだけにしよう)

 

 拓海は周囲の安全を素早く確認した。

 部屋の窓は完全にロックされている。玄関の鍵も閉まっている。キッチンの入り口には簡易的なパーティションを立ててある。

 万が一ルリが飛び出しても、危険はない。ただ、今日はまだ室内での自由飛行を許可する段階ではない。

 

 拓海はスライド窓のロックを外し、少しだけ隙間を開けた。

 ルリが飛び出さない程度の幅。

 そこから、自分の右手の『掌』だけを、ゆっくりとケージの中へ差し入れた。

 捕まえるためではない。ただの『足場』として、掌を上に向けて差し出したのだ。

 

 じっと、静止する。

 

「ルリ」

 

 一回だけ、静かに名前を呼んだ。

 

 ルリの瑠璃色の瞳が、拓海の目と、差し出された掌を交互に見た。

 そして。

 一歩、前へ。

 右の前脚が、拓海の掌の縁に触れた。

 続いて、左の前脚も。

 

(……同じだ)

 

 ここまでは想定内だ。前脚だけ乗せて、匂いを確認している。

 拓海は絶対に動かない。息を詰めて見守る。

 

 数秒後。

 ルリが、小さな後脚の片方を持ち上げた。

 そして、拓海の掌の中心付近へと踏み出した。

 

 拓海の目が、限界まで見開かれる。

 

 さらに、残っていた最後の後脚も、枝から離れ、拓海の掌の上へ。

 短い尻尾が、手首のあたりに触れる。

 

 全身が、完全に。

 四本の脚、折りたたまれた翼、尻尾の先から鼻先まで。

 およそ十から十二センチほどの、小さな赤銅色の魔法生物が、成人男性である拓海の片手の掌の中に、すっぽりと収まった。

 

 その完全な収まり具合に、拓海は呼吸の仕方を忘れた。

 

 ルリはまだ逃げられる状況にある。

 すぐ後ろにはスライド窓があり、飛び移れる枝がある。

 拓海も、手をケージの外へ引き抜こうとはしなかった。『乗ったから出そう!』という人間のエゴを通せば、この信頼関係は一瞬で崩れ去る。

 

 ルリは拓海の掌の上で、忙しなく鼻先を動かした。

 指の腹の匂いを、すん。

 生命線のあたりを、すん。

 そして、手首に近い場所を、すんすん。

 掌の上で、くるりと一度向きを変える。小さな爪の硬い感触と、微かな、本当に微かな体温が、皮膚越しに伝わってくる。

 

「…………ルリ」

 

 声帯を震わせるかどうかの、極小の声。

 ルリが、顔を上げた。

 見上げるような角度で、瑠璃色の瞳が拓海を捉える。

 

(今、絶対『ルリ』って呼ばれて見た!)

 

 拓海の心の中で、確信に近い喜びが爆発しそうになった。

 しかし、生真面目な理性がそれに待ったをかける。

(いや、それは分からない。声帯の振動や、息の音に反応しただけかもしれない)

 自分で自分を宥める。

 でも、と拓海は思う。

 別に分からなくてもいい。

 今、名前を呼んだ。この子が自分を見た。

 それだけで、胸が一杯になるくらい嬉しいのだ。

 

 そして。

 ルリは拓海の掌の中央で、ゆっくりと後脚を曲げた。

 ちょこん、と。

 腰を下ろすように、座ったのだ。

 翼を体にぴったりと密着させ、短い尻尾を拓海の手首側に巻きつけるようにして。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 拓海は、限界を迎えた。

 

「……え、待って」

 

 動けない。

 指一本動かせば、この奇跡のようなバランスが崩れてしまう。

 

(写真!)

 

 猛烈な欲求が湧き上がる。

 スマホは机の上だ。目線だけを動かして位置を確認する。

 手を伸ばせば届く。しかし、届かせるためには、ルリを乗せている右手を動かすか、左手を大きく伸ばして身体を捻る必要がある。

 どちらにせよ、振動が伝わる。

 

「撮りてぇ……」

 

 血の涙が出そうなほど撮りたかった。

 だが、拓海はスマホへの未練を断ち切った。

 

「……無理だ」

 

 この瞬間は、記録に残すことよりも、ルリを驚かせないことの方を選ぶ。

 飼育員としてではなく、水野拓海という一人の人間としての選択だった。

 

 ルリが掌の上でくつろいでいた時間は、実際には一分程度だったかもしれない。

 しかし、拓海の体感では一時間にも感じられた。

 やがて、ルリは満足したように立ち上がった。

 前脚を伸ばし、ケージの中の枝へ。続いて後脚、最後に尻尾が、ゆっくりと拓海の掌から離れていく。

 自発的に、自分の拠点へと戻っていった。

 

 拓海の手には、何もない空間だけが残された。

 微かな温もりすら、すぐに空調の風に奪われていく。

 

「…………戻った」

 

 若干の寂しさが押し寄せてくる。

 だが、絶対に追わない。拓海はゆっくりと手を引き抜き、スライド窓を閉めた。

 

 そして、猛然と机に向かい、記録のバインダーを開いた。

 記憶が新鮮なうちに、事実だけを書き留める。

 

『時刻:14時35分。

 自主接触あり。担当者がケージ内に提示した開放掌へ、自発的に全身で乗り移る。

 約一分間滞在し、座るような姿勢を見せた後、自発的にケージ内へ戻る』

 

「懐いた」とは書かない。

「甘えてきた」とも書かない。

 ただ、起きた事象だけを冷徹に記す。

 だが、一番下の特記事項の欄。

 拓海は、またしても『※めちゃくちゃかわいい、死ぬかと思った』と書き殴りたい衝動に駆られた。

 ペンの尻を噛みながら、必死にそれに耐える。

 代わりに、少しだけ筆圧を強くして、こう書き残した。

 

『日常呼称《ルリ》、使用開始』

 

 ***

 

 夕方。

 それからの時間は、初めての『名前付きの生活』だった。

 

 水皿を交換する時。

「ルリ、ちょっと水換えるぞー」

 もちろん、言葉の意味を理解しているわけではないだろう。でも、作業の前に必ず声をかける。

 

 夕方、部屋のカーテンを閉める時。

「ルリ、外暗くなってきたから閉めるぞ」

 

 何かにつけて、名前を呼ぶ。

 名前が、部屋の空気の中に、そして二人の関係の中に、少しずつ馴染んでいく。

 

 ふと、拓海は我に返った。

「俺、一人暮らしでこんなに独り言喋るタイプだったっけ……」

 枝の上のルリが、こちらを見た。

「きゅ」

「……お前がいるからだよ」

 拓海は苦笑しながら即答した。

 

 ***

 

 夜。

 就寝前の最後の確認。

 一つだけ、気になることがあった。

 

「寝床、嫌なのか?」

 

 ケージの中には、身を隠せるドーム状の小さな寝床を用意してある。

 しかし、昨日も今日も、ルリはそこには入らず、拓海からよく見える枝の上で丸まって寝ようとしている。

 それが単に枝の上が好きなのか、寝床の材質や温度、高さが気に入らないのか。現時点では断定できない。

 

 拓海は記録用紙に書き込む。

『二夜連続で、枝上を睡眠位置として選択。用意した寝床は未使用』

 これが、ルリ好みの寝床をどうやって作るかという、明日以降の新たな課題になりそうだった。

 

 部屋のメイン照明を落とし、小さな間接照明だけを残す。

 拓海はベッドに腰掛け、ケージの中を見た。

 ルリは枝の上で、すでに目を閉じかけている。

 

 拓海は、声のボリュームを極限まで絞って、優しく呼びかけた。

 

「おやすみ、ルリ」

 

 ルリは目を開けない。返事をするような鳴き声も出さなかった。

 ただ、ほんの数秒後。

 背中に畳まれた翼が、ピクッと少しだけ動いた。

 それが、名前への反応なのか。それとも、単なる寝返りのような生理的な動きなのか。

 拓海には分からない。

 

 でも、拓海は小さく笑った。

 

「……まあ、毎回返事しなくていいか」

 

 拓海は静かに布団に潜り込んだ。

 疲労感と、それ以上の充実感に包まれながら、目を閉じる。

 

 昨日まで、この部屋にいたのは「小型竜幼体・DR-JP-0427」だった。

 しかし、今日からは違う。

 

 今日からは、ルリがいる。




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