魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
週末の土曜日。時刻は午前九時を少し回ったところだ。
水野拓海は、指定の移動用キャリーケースを遮光用のトート型カバーに収めて肩から提げ、大学のキャンパス内を歩いていた。カバーの側面には通気用のメッシュ部があり、キャリーの通気孔を塞がない構造になっている。
木々が色づき始めた秋の並木道には、部活動やサークル活動に向かう学生の姿がちらほらと見える程度で、平日のような喧騒はない。冷たい秋風が吹き抜け、拓海は無意識に上着の襟を合わせた。
拓海は小さくあくびを噛み殺した。
「……土曜の朝九時に大学に来るって、研究室に配属される前の学部生として正しい生活リズムなのかな」
独り言をこぼしながらも、その足取りは決して重くはない。むしろ、肩に提げたキャリーを揺らさないように、いつもより慎重に、すり足気味に歩くよう心がけていた。
遮光カバーの内側、キャリーケースの中から、くぐもった小さな声が聞こえた。
「きゅ」
「ああ、ごめんな。揺れたか。今日はお前の健康診断なんだぞ。しっかり診てもらおうな」
拓海は足取りを少しだけ緩め、声だけで返した。
家庭飼育を開始してから、今日でちょうど一週間が経過した。
最初の定期健康チェックとして、大学の秘密飼育施設――ルリと初めて出会った、あの第8飼育室へ連れて行くことになっていたのだ。
今朝のキャリーケースへの移動は、驚くほどスムーズだった。
自宅のアパートで、いつものようにケージのスライド窓を開け、キャリーケースの入り口を接続する。
「ルリ、行くぞ」
と声をかけると、ルリはキャリーの匂いをすんすんと確認した後、比較的すんなりと自発的に中へ入ってくれた。
もちろん、拓海は飼育記録に「完全に慣れた!」などという主観的な断定は決して書かない。記録上の文言は、『キャリーへの進入潜時十数秒。強い拒否行動なし』と、あくまで事実のみを記した。
しかし、内心では「……助かる」と密かに喜んでいたのは事実だ。無理やり捕まえて押し込むような真似は、できることなら一生したくない。
***
一週間ぶりの第8飼育室周辺。
カードリーダーへ許可証を通し、二重扉を順番に抜ける。専用の靴への履き替え、念入りな手洗いと消毒、そしてエアシャワー。一連の手順をこなして廊下に出ると、そこにはすでに榊原教授が白衣姿で待っていた。
「おはよう、水野君」
「おはようございます。先生、休日出勤ですか」
「君もね」
「俺、一円も給料出てませんけど」
「飼育用品の実費は出てるでしょ。木材や観察マットの領収書も、ちゃんと申請に回してるよ。そのうち単位になるかもしれないし」
「実費精算と給料は別問題ですし、単位もまだ『かもしれない』なんですか。ブラックな響きですね」
軽口を叩き合いながら、二人はいつもの観察スペースへと入った。
「さて、まずは通常の健康観察からいこうか」
榊原がバインダーを開き、チェックリストにペンを走らせる。
いきなり体重計に乗せるような真似はしない。まずは環境の変化によるストレスがないかを見極める。
キャリーの中で落ち着いているルリの外見を、アクリル越しにチェックしていく。
呼吸のリズムは一定か。赤銅色の鱗に艶はあるか。背中に畳まれた翼膜に乾燥や傷はないか。四肢の動きに不自然な点はないか。
さらに、拓海がこの一週間、専用のアプリに入力し続けてきた家庭での記録との照合が行われる。
排泄の頻度、室内のマナ環境の推移、睡眠位置(相変わらず、手作りした『高所休息棚A』の屋根の上が定位置になっている)。
そして、一昨日の木曜日に行なった『初めてのケージ外探索』についても話題に上った。
「最大探索距離、約三十二センチ。……その後は?」
「昨日の金曜日は、ケージから出していません。初回の翌日に、連続して外へ出す必要もないと思ったので。刺激はなるべく分散させようかと」
「うん。いい判断だね」
榊原は満足そうに頷いた。新しい刺激を毎日重ねないことも、飼育では大切だ。動物には、何も起こらない平穏な時間も必要なのだ。
一通りのチェックが終わり、榊原が顔を上げた。
「じゃあ、今日は基準となる体重も取ろうか」
「……そういえば」
拓海はふと動きを止めた。
「俺、この子の正確な体重、知らないですね」
手の上に乗せた時の『軽い』という感覚はある。しかし、明確な数値としては把握していなかった。
ルリは八咫烏によって発見・保護されてからのデータがまだ少ない。施設での過去の測定記録はあるものの、家庭飼育という新しい環境に移行した現在の『基準体重』を改めて設定する必要があった。そのデータを、榊原はまだ拓海には見せていない。
「体重は、飼育においてかなり重要なデータだからね」
榊原が準備のために立ち上がる。
「食べなくてもマナで生きられるのに、体重って変わるんですか?」
「当然だよ」
榊原は準備室から、カバーのかかった精密機器を運び出しながら答えた。
「成長すれば身体の骨格も内臓も大きくなる。魔法生物がマナを利用して物理的な物質を構成しているらしいことまでは分かっているんだ。ただ、その不可視のエネルギーから物質への変換プロセスを全部説明できるほど、我々の研究は進んでないけどね」
マナそのものの物理的性質が完全に解明されているわけではない。ただ、魔法生物の身体が物質として存在し、測定可能な質量を持つことは確かだ。
だからこそ、病的な体重減少や、成長に伴う増加、身体を構成する物質量の長期的な変化など、健康状態の推移を見るための重要な基礎データとなる。
榊原がカバーを外した。
現れたのは、小動物用の電子精密体重計だった。
平たいステンレス製の四角い測定台があり、デジタルの表示パネルには0.1グラム単位まで細かく表示されるようになっている。
「……随分と普通ですね」
「竜だからって、魔法の秤に乗せる必要はないよ。質量の測定は物理法則に従う」
「ですよね」
榊原は体重計の電源を入れ、表示がゼロになったことを確認した。
「さて。じゃあ、乗ってもらおうか」
「……どうやって?」
拓海は尋ねた。
「そこから君が考える」
「先生?」
「実践あるのみだよ、水野君。相手の選択を尊重しつつ、必要なデータを取る。それが飼育だ」
榊原は腕を組んで一歩下がった。
***
【第一試行:手から直接測定台へ】
まずは正攻法だ。
拓海はキャリーの扉を開け、自分の右手の掌を入り口に差し出した。
ルリが鼻先を出し、すん、と匂いを嗅ぐ。
そして、右前脚、左前脚、続いて後脚も。すんなりと、四脚全てが拓海の掌に乗った。
「よし」
「掌には本当に乗るようになったね」
「最近は、まあ」
拓海は内心の喜びを隠しつつ、慎重に右手を体重計の測定台のすぐ横まで移動させた。
測定台と掌の高さをほぼ合わせる。
「ルリ、ちょっとこっち乗ってみるか?」
声をかけながら、掌を少しだけ傾ける。
ルリは、目の前の冷たいステンレスの金属面を見た。
すんすん。
そして、右の前脚を一つだけ。
ちょん。
測定台の端に乗せた。
デジタル表示がピコッと動き、『3.8g』という数字を叩き出す。
「おっ」
「まだ前脚一本分だね」
「分かってます」
続いて、ルリが左の前脚も測定台へ。
ちょこん。
表示が『8.7g』に増える。前脚が二本になったから単純に倍、という数字ではない。身体を前へ乗り出したぶん、その荷重も測定台へ移っている。
「よしよし、あと半分……」
拓海は息を詰めた。
ルリが、身体を少しだけ伸ばす。後脚が動きそうになる。
(来い……!)
しかし。
ルリは、くるっ、と金属面の上で軽快にターンを決めると。
そのまま拓海の掌へと完全に戻ってしまった。
「……なんで!?」
「きゅ?」
ルリは拓海の掌の上で、不思議そうに小首を傾げた。
榊原が横で吹き出すのを堪えている。
「別に、彼には測定される義務はないからね」
「健康診断なんですけど!」
【第二試行:コルクシート作戦】
冷たい金属の感触が嫌だったのではないか。
拓海はそう仮説を立てた。
そこで、数日前にケージの中に新しい寝床を作った時に使ったのと同じ、安全な天然コルクシートの端材を測定台の上に敷いた。
シートの重量を『TARE(風袋引き)』ボタンでゼロ点補正する。
再び、ルリを乗せた掌を近づける。
ルリはコルクへ鼻先を寄せて匂いを確認し、そのまま前脚二本をシートの上に乗せた。
さらに、右の後脚も。
「よし、あと一本……!」
拓海の額に汗が滲む。
そして、最後の左後脚が、コルクシートに乗った。
乗った!
しかし。
表示される数字が、『26.4』から『30.1』の間で激しく乱高下して、まったく安定しない。
「……先生、数字が固まりません」
「尻尾が、水野君の手に載ったままだよ」
見れば、ルリの身体は確かに測定台に乗っているが、短い尻尾の先だけが、ペタリと拓海の親指の付け根に接着していた。荷重が完全に体重計にかかっていない。
「ルリ」
「きゅ」
「あと、尻尾だけ」
当然、伝わらない。
拓海は掌をゆっくりと数ミリだけ引いてみた。
引けば、尻尾が測定台の上に落ちるかもしれない。しかし、急に支えを抜いて驚かせるのも嫌だ。
じわじわと、数ミリ後退。
すると、ルリは尻尾を残すどころか、身体ごと後退し、再び拓海の掌へフル乗車してしまった。
「あああ……」
拓海は項垂れた。
「焦らない焦らない。まだ二回目だ」
【第三試行:全身乗った、しかし】
少し休憩を挟み、再挑戦。
少し休憩を挟んでから再挑戦すると、ルリはコルクシートの上へ、四脚と尻尾を完全に収めた。
「乗った!」
拓海は目を見開いた。
しかし、表示パネルは荒ぶっていた。
『31.2』
『31.8』
『30.9』
『32.1』
ルリが、体重計の上で、くるっ、くるっ、と方向転換をしているのだ。
その度に荷重のバランスが崩れ、数字が安定しない。
さらに、翼を一度だけ小さく開閉する。表示がまた揺れる。
前脚で測定台の縁を触る。また変動する。
「ルリ、止まって……!」
言いかけて、拓海は自分で突っ込んだ。
「いや、止まれって言って止まれるわけないよな……犬の『待て』も教えてないのに」
「しかも」
榊原が冷静に指摘する。
「止まらせるために上から手で押さえつけたら、君の手の荷重まで測っちゃうしね。0.1グラム精度の計測でそれは致命的だ」
体重計に全身を乗せること自体はできる。
しかし、安定した静止状態を作れない。
数グラムの誤差が常に出続けてしまう。
「じゃあ、この動画を撮って、あとでコマ送りにして平均値を取れば……」
「施設にハイスピードカメラはあるけどね。でも、それだと彼が片足に体重をかけた時の姿勢の偏りもノイズとして混ざる。もっとシンプルで、確実で、彼に負担の少ない簡単な方法があると思うよ」
榊原はヒントだけを出し、答えは言わなかった。
***
開始から、すでに二十数分が経過していた。
無理に連続測定を続けると、ルリにストレスがかかる。拓海はルリを一旦、休息用の仮設区画(いつもの水皿と枝をセットした場所)へ移した。
ルリは前脚で枝の表面を引っかいたり、鼻先を近づけたりしている。
疲労困憊しているのは、拓海だけだった。時計の針は残酷にも進み続けている。
拓海はパイプ椅子に座り、レポート用紙に書き出した。
【失敗理由の候補】
・金属面の感触が嫌だった?(コルクで一部解決)
・測定台の平面が広すぎて落ち着かない?
・周囲に身を隠す壁がないから?
・俺の掌から離れること自体を警戒している?
・単純に、測定台という新しいおもちゃを探索しているだけ?
・『その場でじっと静止する』という要求そのものが不適切?
最後の一行を書きながら、拓海の手がピタッと止まった。
脳裏に、数日前に新しい寝床を作った時の経験がフラッシュバックした。
あの時、拓海はルリに『ドーム状の寝床の中に入ってほしい』と考えていた。
しかし、ルリは中には入らず、屋根の上で寝ることを選んだ。
榊原は言ったのだ。
『飼育設備は、動物に人間の設計図通りに使わせるためのものじゃないよ』
「…………」
拓海は、体重計と、枝の上のルリを交互に見た。
「先生」
「ん?」
「……そもそも、ルリを直接体重計の台の上に乗せようとする必要、ありますか?」
榊原は、眼鏡の奥の目を細めてふっと笑った。
「やっと気づいた?」
「分かってたなら早く言ってくださいよ!」
「最初から答えを渡したら、君の勉強にならないでしょ。相手の選択を尊重することと、必要な健康管理をしないことは別だからね。必要なデータは取る。ただし、できるだけ負担の少ない取り方を考える。それも飼育だよ」
「俺の二十分返してください……」
拓海は立ち上がった。
発想の転換だ。
ルリを、裸の測定台の上で静止させるのは不可能に近い。
ならば、ルリが普段から抵抗なく自発的に乗り、かつ『静止する』もの。
それを丸ごと体重計の測定台に載せればいいのだ。
「何か、周りに縁があって、浅い箱みたいなもの……」
拓海が部屋の中を見回すと、榊原が収納棚から一つの道具を取り出した。
それは、幅十二センチほどの、浅い縁のついた小さな木製のトレーだった。
底面にはコルクが貼られており、ルリの小さな身体がすっぽりと、かつギリギリ収まるくらいのサイズ感だ。
「これは、小鳥や小型爬虫類、もちろん小型の魔法生物の測定にもよく使う汎用トレーだ」
「最初からあるじゃないですか!」
「だから、考えて気づくことが大事なんだってば」
拓海は恨み言を飲み込み、その汎用トレーを体重計の測定台の上に乗せた。
パネルには『84.6g』とトレーの重量が表示される。
拓海は『TARE』ボタンを押し、ゼロ点補正を行った。
表示が『0.0g』に戻る。
【第四試行:測定トレーの導入】
拓海は、ルリがいる休息区画と、体重計の間に、そのトレーを設置した。
ルリが枝から降りてくる。
トレーへ鼻先を寄せて匂いを確認し、前脚をかけ、そのまま中へ入った。
「よし……!」
しかし。
ルリはトレーの中をそのまま歩き続け、反対側の縁を乗り越えて、スタスタと机の向こう側へと降りてしまった。
「……通路じゃないんだぞ!」
背後で、榊原が肩を震わせて笑いを堪えていた。
【第五試行:ついに】
拓海はトレーの位置を変えた。
枝から真っ直ぐに繋がる一本道に設置するから、単なる通り道として認識されてしまうのだ。
動線から少し外れた、ただの『置かれた足場』として配置する。ルリ自身が、そこに留まるか、別の場所へ行くかを選べるように。
数分後。
ルリが再び、トレーに近づいた。
縁を越え、中に乗る。
そして。
止まった。
なぜそこで止まったのかは分からない。コルクの感触や縁の存在が関係している可能性はあるが、それ以上はまだ推測にすぎない。
拓海は『コルクが気に入ったようだ』とは記録に書かない。
ただ、『四脚と尻尾がトレー内に完全に収まり、数秒間静止した』という事実だけを見つめる。
デジタル表示の数字の変動が、ピタリと落ち着いた。
『31.7』
『31.7』
『31.8』
『31.7』
拓海は、完全に息を止めていた。
「今」
榊原が短く言った。
第一安定測定、31.7グラム。
拓海は素早くメモ帳に数値を書き込んだ。
全長約十から十二センチ。幼体らしい丸みがあり、拓海の掌にすっぽりと収まるその小さな命の重さ。
三十一・七グラム。
拓海は、手で持っていた時の『軽い』という感覚が、具体的な数値として確定したことに、静かな驚きを覚えていた。
十分すぎるほど軽い。しかし、羽毛のような非現実的な軽さではない。確かにそこに肉体と骨と内臓が存在する、物理的な質量だ。
「確認のため、もう一度だけ測ろうか」
数分間休ませた後、ルリが再び自発的にトレーに乗ったタイミングを見計らって再測定を行う。
表示は『31.8g』。
誤差わずか0.1グラム。完全に許容範囲だ。
「うん。第一安定測定が31.7グラム、再測定が31.8グラム。平均は31.75。0.1グラム単位に丸めて、今日の基準体重は31.8グラムとして記録しよう」
榊原の許可が出た。
「三十一・八グラム……」
拓海は自分の掌を見つめ直した。
「……軽っ」
「今さら?」
「いや、手に乗せてる時の感覚と、実際にデジタルの数字で見るのとでは、やっぱり重みが違いますよ」
基礎記録。
全長:約10~12cm(既存記録)。
体重:31.8g。
ここで初めて、ルリの『小ささ』が、客観的な数値として拓海の中に完全にインプットされた。
榊原がパソコンを操作し、施設時代の過去記録を呼び出す。
「ええと、ルリが家庭飼育に移行する直前の体重が……31.5グラムだね。今回が31.8グラム」
差は、プラス0.3グラム。
「増えてる」
「誤差範囲も考慮しなきゃ駄目だよ」
榊原は研究者としての冷静な顔に戻った。
「0.3グラム増えたからといって、手放しで『家で成長した!』と喜ぶのは早い。測定時の姿勢のわずかな違い、排泄や摂食の有無、測定条件、日内の身体状態。いろんな要因が絡む。今の段階では、『大きな体重減少などの異常なし、現状維持』という評価が正しい」
「マナ環境の違いは影響しますか? うちの部屋、施設よりマナ濃度が少しだけ低いですけど」
「今の範囲なら、一週間で目に見える差が出るようなものではないよ。長期間、極端にマナが枯渇した環境なら成長に悪影響が出るかもしれないけど、君の部屋は十分に正常域だ」
その言葉に、拓海は深く安堵の息を吐き出した。
「はい、測定終了。お疲れ様」
「長かった……」
拓海が時計を見ると、開始からすでに五十五分が経過していた。記録を整理すれば、ほぼ一時間だ。
体重を一つ量るだけで、これほどの時間と労力を要するとは。
だが、拓海が大きく伸びをした、その時。
ルリはまだ、測定用の木製トレーの中にいた。
「ルリ。終わったぞ」
「きゅ?」
ルリはトレーの底に座り込んでいる。
拓海は待った。
三十秒。一分。
降りない。
さっきまで、あれほど「乗ってくれ」と頼み込んでも乗らなかったのに。
今はもう、用済みだから降りてくれていいのに。
全く降りる気配がない。
「ずいぶん、落ち着いちゃったね」
榊原が笑いを堪えきれずに吹き出した。
「測ってる時にそれやってくれれば、五分で終わったんですけど……!」
拓海の抗議も空しく、ルリはトレーの中央で、くるっ、と身体の向きを変えた。
そして、四脚を折りたたみ、翼をきゅっと背中に寄せて、トレーの中央へぺたりと身体を落ち着けた。
その場に、すっぽりと収まる。
「……寝る気か?」
「分からないけど、少なくとも降りる気配はないね」
「このトレー、持って帰っていいですか?」
「大学の備品だから駄目」
「じゃあ言わないでくださいよ……」
拓海はルリの横に、自分の掌を差し出した。
「ルリ、帰るぞ」
ルリは拓海の掌を見た。そして、トレーのコルクの底面を見た。
動かない。
木曜日に初めてケージの外へ出した時とは、見事な逆転現象だった。
あの時は、拓海の掌をスルーして自力で帰宅したのに。
今回は、拓海の掌をスルーして、測定トレーに居座っている。
「一時間前の水野君に見せてあげたいね、この光景」
「本当に……」
結局、無理に引き剥がすことはせず、拓海はさらに数分間待つことになった。
数分後、ルリが自発的に立ち上がり、拓海の掌へ。そこからキャリーへと移動した。
「……タイミング、自由すぎるだろお前」
「きゅ」
拓海はバインダーの紙の一次記録に、今日の数値を書き込んだ。
『基準体重:31.8g。測定器:小動物用電子体重計』
『第一安定測定:31.7g。木製測定トレーを使用。トレー重量はゼロ点補正』
『再測定:31.8g』
『担当者による保定(強制的な押さえつけ)なし。摂食による誘導なし』
『測定後、トレー上に自発的に約五分間滞在』
そこまで書いて、拓海はペンを止めた。
「先生」
「何?」
「“体重測定に一時間かかった”って書く欄、あります?」
「備考欄にどうぞ」
拓海は備考欄に、真面目な文字でこう書き加えた。
『測定手順への馴化および方法検討の試行錯誤を含め、所要時間約55分』
***
夜。
自宅に戻った拓海は、ケージの屋根の上で丸くなっているルリを見ながら、スマホの電子記録を開いていた。
体重:31.8g。
何度見ても、31.8だ。
スマホの検索窓に『30グラム どれくらい』と打ち込みそうになって、やめた。
何か別の物に置き換えて納得する必要はない気がして、検索するのをやめた。
ただ、自分の掌に乗っていたあの小さな命が、明確な一つの『数字』になった。
その感覚だけで、十分だった。
「三十一・八グラム」
拓海は、アクリルガラス越しに呟いた。
「きゅ?」
「お前の重さだ」
当然、ルリは理解しない。
しかし、拓海にとっては大きな変化だった。
出会った日から昨日まで、ルリは『手のひらサイズ』という曖昧な輪郭の存在だった。
それが今日からは、『手のひらサイズ、三十一・八グラム』になった。
また一つ、ルリについて知っていることが増えたのだ。
ルリは屋根の上で、くるっ、と完璧な球体のように丸くなった。
「……三十一・八グラムが、丸くなってる」
拓海はそう言って、自分でもおかしな表現だと思い、一人で小さく笑った。
――余談だが。
体重を量り終えた後日、拓海が家庭での測定用に似た木製トレーを自作してみると、測定する必要のない時に限って、ルリはそこへ何度も自分から乗るようになったらしい。
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