魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~ 作:パラレル・ゲーマー
日曜日の朝。
水野拓海は、アラームが鳴る数分前に自然と目を覚ました。
薄手の掛け布団を押しのけ、少しだけひんやりとした秋の空気を胸いっぱいに吸い込む。窓の向こうからは、遠くを走る車の微かな走行音や、名も知らない野鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。
ベッドの上に身を起こし、拓海は寝ぼけ眼をこすりながら、部屋の片隅に鎮座する飼育ケージへと視線を向けた。
家庭での飼育環境適応試験が始まってから、この朝の確認作業は完全に拓海のルーティンとして定着していた。
ケージ側面に設置されたデジタル温湿度計の液晶画面を確認する。
温度、二十五・二度。湿度、六十一パーセント。
横に並べたマナ簡易測定器のインジケーターも、正常な緑色のランプを点灯させている。
そして何より重要な、主の姿。
アクリルガラス越しに目を凝らすと、先日拓海が手作りした『高所休息棚』の屋根の上に、赤銅色の小さな丸い塊があった。
ルリはすでに目を覚ましているようだった。背中にマントのように畳んだ皮膜翼をわずかに動かし、短い尻尾を器用に巻きつけたまま、こちらをじっと見下ろしている。
昨日、大学の施設で精密な体重計を使って導き出した具体的な数字が、拓海の頭の中でまだ新鮮な驚きと共に響いていた。
「おはよう、三十一・八グラム」
「きゅ?」
ルリが、不思議そうに小首を傾げる。深い瑠璃色の瞳が、朝の微かな光を反射してキラリと輝いた。
「……いや、名前で呼べよ俺。おはよう、ルリ。今日も元気そうだな」
拓海は自分で自分にツッコミを入れながら立ち上がり、ケージの前にしゃがみ込んだ。
日課である水の交換をするためだ。
ケージの床面、ルリが普段昇り降りする太い枝の根元付近には、陶器製の浅い水皿が置かれている。
魔法生物であるルリは、空間の不可視のエネルギーであるマナを吸収して生命活動を維持しているため、物理的な食事や水分補給は必須ではない。それでも、理由は分からないが、ルリは時折この水皿の水を舐める行動を見せていた。
今日も水を替えようとスライド窓に手をかけた時、拓海はふと違和感を覚えた。
水皿の水量が、昨夜確認した時よりもごくわずかに減っているように見える。もちろん、空調による自然蒸発の可能性もあるため、これだけで「水を飲んだ」と断定はできない。
だが、拓海の目を引いたのは水量ではなかった。
「ん……?」
水皿のすぐ横。床材として敷き詰めている天然コルクシートの表面に、かすかな変色があった。
目を凝らしてよく見る。
点、点、点。
それは、コルクに染み込んだ小さな『濡れ跡』だった。
形は、ルリの小さな前脚のサイズとぴったり一致している。微小な爪の形までが、ほんのりと湿り気を帯びてコルクの上にスタンプされていた。
足跡は、水皿の縁から、ルリがいつも行き来する枝の方向へと、三つほど点々と続いている。
「…………濡れてる?」
拓海は視線を上に向け、屋根の上のルリを見た。
注意深く観察すると、ルリの右前脚の先端付近の鱗が、他の部位の赤銅色に比べてほんの少しだけ色濃く、湿っているように見えなくもない。
(もしかして、水浴びでもしたのか?)
拓海の脳裏に、そんな推測が瞬時に湧き上がる。
しかし、次の一瞬で、理系の生物学徒としての冷静なストッパーが作動した。
駄目だ。安易な断定は、飼育者として最も避けるべき落とし穴だ。
喉が渇いて水を舐めようとした際、誤って前脚を踏み込んでしまっただけかもしれない。あるいは、水皿の縁を歩いていて足を滑らせた可能性もある。偶然入ってしまったのか、それとも意図的に前脚だけを水に浸す習性があるのか。
現段階の限られた情報では、推測の域を出ない。
拓海は机の上からバインダーを引き寄せ、生真面目な文字で朝の記録を書き始めた。
『午前7時14分、水皿から枝方向へ小型の湿潤跡三点を確認。個体の前肢末端に微細な湿りあり。発生行動そのものは未観察のため、原因は特定できず』
手のひらサイズのドラゴンの、とてつもなく可愛い濡れた足跡を発見したというのに、記録の文章はひたすらに乾燥していて味気ない。
だが、それが正しい飼育記録というものだ。
しかし、その推測の答え合わせは、拓海が思いのほか早く、自らの目の前で体験することになる。
拓海が水皿を新しい水に交換し、元の位置にそっと戻した直後のことだった。
屋根の上から様子を窺っていたルリが、とてとてと歩き出し、太い枝を伝って床面へと降りてきたのだ。
一直線に水皿の近くへと向かってくる。
拓海はケージを閉める手を止め、息を潜めて観察した。
いつものように、ただ水を舐めるだけだろうか。
ルリは水皿の縁に鼻先を近づけ、チロリと小さな舌を出して、水面をぺろりと舐めた。
(やっぱり、飲むだけか)
拓海がそう思い、警戒を解きかけた瞬間だった。
ルリが、右の前脚を少し持ち上げた。
そして、躊躇うことなく水の中へと踏み下ろした。
ちゃぷ。
「……あ」
拓海の口から、間の抜けた声が漏れた。
続いて、ルリは左の前脚も持ち上げ、同じように水の中へ入れた。
ちゃぷ。
二本とも、完全に入った。
ルリは、身体の前半身だけを水皿の中に入れ、後脚はまだコルクの床面に残したままだ。
そのままの不自然な姿勢で、数秒間、じっと静止している。
拓海は完全に硬直していた。
ルリは水面を見つめ、鼻先を水に近づけたり離したりしている。
やがて、ルリは右前脚を水から引き抜いた。
そして、床のコルクへ下ろす。
ぺた。
新たな、小さな湿った足跡が一つ、拓海の目の前で作られた。
(これだ……!)
少なくとも、朝に見つけたものと同じような濡れ跡が生じる過程を、拓海は今この瞬間に自分の目で確認した。
しかし、それでも拓海は「水浴びをした」とは結論づけない。観察できた事実は、あくまで「前脚二本を自発的に水皿へ入れた」ということだけだ。
現在の水皿は、あくまで少量の飲水と、ケージ内の局所的な湿度維持のために置かれている小皿である。
ルリが前脚二本を入れることはできても、全長十センチを超える全身を沈めるには、明らかに面積が狭すぎるし深さもない。
ルリはもう一度、水面に向かって前脚を入れようとした。
ルリは少し身体を低くしてさらに前へ進んだが、ふっくらとした胸元がすぐに陶器の皿の縁に当たり、そこで動きを止めた。
ルリは再び前脚を抜き、首を振って枝の方へと歩いていってしまった。
(もしかして……もっと広いところで、水浴びしたいのか?)
拓海は喉まで出かかったその言葉を、かろうじて飲み込んだ。
「……いや、分からない。決めつけは駄目だ。でも」
もし仮にそうだとするならば、もう少し広い水面を『選択肢』としてルリの環境に与えてみる価値は十分にあるはずだ。
***
拓海は机に戻り、スマートフォンを取り出すと、八咫烏が指定している飼育協力者用の暗号化通信アプリを起動した。
宛先は榊原教授。休日の朝早くから申し訳ないと思いつつも、リアルタイムの行動報告と環境変更の許可申請は必須である。
『おはようございます。質問と許可申請です。先ほど、ルリが水皿に前脚二本を入れる行動を二回連続で確認しました。身体を低くしてさらに前進する動作がありましたが、胸部が皿の縁に接触したところで停止し、その後退出しました』
『全身が入れる浅い水皿を、ケージ内に追加設置して反応を見ても問題ないでしょうか?』
できれば今の、前脚を入れた瞬間の決定的証拠写真を添付したかったが、あいにく情報漏洩防止のための認可済み専用撮影端末は、まだ拓海の手元に届いていない。これもまた、非常にもどかしい。
日曜日ということもあり、返信には時間がかかるかと思ったが、数分後にはスマートフォンが短いバイブレーションで通知を知らせた。
『おはよう。報告確認した。追加設置は許可する。ただし、「彼が水浴びしたがっている」と初めから決めつけた目で観察しないこと』
『分かってます。選択肢を与えるだけですよね』
拓海は即座に文字を打ち込んで返信した。
『返事が早いね。大変よろしい』
『先生に三回くらい念押しされてますから』
続く榊原からのメッセージには、水浴び場を新たに追加する際の、非常に細かく厳格な条件が箇条書きで記されていた。
『初回はとにかく浅くすること。溺れる危険を可能な限り排除すること。
足が滑らない底面の材質を選ぶこと。
ルリが自力で容易に出入りできる縁の高さであること。
翼を広げた際に、ケージの壁や他の設備にぶつからない広い位置を選ぶこと。
水温は室温に近づけ、急激な温度差によるショックを作らないこと。
深さは、腹部が完全に沈むほどには絶対にしないこと』
『既存の水皿も撤去せずそのまま残し、ケージ内の動線を潰さないこと。
無理やり水に入れようとしないこと。
手で水をすくってかけたりしないこと。
おもちゃや食べ物を使って水場へ誘導しないこと。
使用後は、体温低下による震えや、行動異常がないか入念に観察すること』
そして、最後の一文には、研究者としての強い警告が込められていた。
『魔法生物だから濡れても一瞬で乾くとか、体温を魔法で維持できるなどと、勝手なオカルトを信じて「濡れても平気」とは思わないこと。ルリという個体について、水濡れがもたらす長期的な健康への影響データはまだ全く揃っていない』
拓海はその文面を何度も読み返し、しっかりと頭に叩き込んだ。
ふと疑問に思い、メッセージを返す。
『そもそも、水って生命維持には必要ないんですよね?』
『必要ないことと、使わないことは別だよ』
それが、榊原の答えだった。
『マナで生きているからといって、物理的な環境との相互作用を断っているわけじゃない。飲む個体もいれば、身体を濡らす行動をする個体もいる。水にほとんど接触しない個体だっている。魔法生物という大雑把な括りだけで、全てを同じ枠にはめることはできない。だから、我々人間側が安全な選択肢を用意して、彼らがどう使うかをひたすら観察するんだ』
拓海は、その哲学に深く納得した。
動物を人間の枠に嵌めるのではなく、動物の行動に合わせて環境を最適化していく。それが飼育だ。
***
拓海は早速準備に取り掛かった。
今回はホームセンターへ買い出しに行く必要はなかった。家庭飼育を開始する初日、榊原から「何かあった時のために」と渡されていた予備の備品箱があったからだ。
消毒用品や温湿度計の予備、隔離用の小さなケースなどが詰まった箱の中から、拓海は目的のものを探し出した。
直径十八センチ前後、深さは二センチ程度の、浅型の樹脂製飼育トレーだ。
本来は別の用途で使うものかもしれないが、底面には細かな凹凸加工が施されており、小さな爪でも滑りにくい構造になっている。
ルリの全長は尻尾まで含めても十から十二センチ。このトレーなら全身がすっぽりと収まり、設置場所の周囲にも翼を広げられる空間を十分に確保できる。
「問題は、水深と水温だな」
拓海は独り言を言いながら、洗面所でトレーを念入りに水洗いした。
「最初は、五ミリくらいで十分だろ。絶対に溺れさせない」
ルリの脚先と、お腹のクリーム色の鱗の一部がわずかに触れる程度。いきなり深くしてパニックにさせてしまっては元も子もない。
拓海は定規を持ち出し、トレーに水を注ぎながら、ミリ単位で水深を調整した。傍から見れば、水たまりの深さを真剣に測っている異常な光景だ。
次は水温の調整である。
冷たすぎても熱すぎても駄目だ。ケージ内の気温と同じ状態にするため、しばらく部屋に置いて室温に馴染ませる。
拓海は自分の指の感覚だけを頼りにせず、小型の電子温度計のセンサーを水に浸した。
「……25.1℃。ケージ内の気温とほぼ同じ。完璧だ」
異常なほどの慎重さだが、未知の生物を預かっている以上、やりすぎということはない。
ケージに戻り、既存の小さな飲水皿はそのままの位置に残しつつ、少し離れた広いスペースに新しい浅型トレーを設置する。
「よし」
準備は完了した。
しかし、置いたからといって、ルリを捕まえて水の中にぽちゃんと入れるような乱暴な真似は絶対にしない。
拓海は机の前の椅子に深く腰掛け、ただひたすらに待つ態勢に入った。
五分経過。
ルリは屋根の上からこちらを見下ろしているだけだ。新しいトレーには目もくれない。完全に無視である。
十分経過。
ルリが欠伸をした。トレーを使う気配は微塵もない。
(まあ、そうなるよな。知ってる)
これまでの経験で、拓海はすでに学習済みである。「人間が良かれと思って用意した設備=即座に使う」という方程式は、動物には通用しないのだ。
十五分後。
ようやくルリが動き出した。屋根からするすると降りてきて、太い枝を伝い、床面へと着地する。
そして、新しい浅型トレーの近くへと、とてとて歩いてきた。
拓海は息を殺した。
ルリはトレーの縁に鼻先を近づけ、すん、と匂いを嗅いだ。
そのまま外周をぐるりと一周する。水にはまだ入らない。
再び縁の匂いを嗅ぎ、前脚を伸ばして、縁のプラスチックを、ちょい、とつついた。
ズッ。
その信じられないほど小さな力で、浅型トレーがコルクの床の上をほんの少しだけ滑って移動した。
トレーが動いた瞬間、ルリはビクッと身体を縮め、一歩後ろへ飛び退った。
「あ」
拓海は致命的な自分のミスに気づいた。
トレーを床面に固定していなかったのだ。もしルリが中に入った状態で暴れたり翼を広げたりすれば、トレーが動いてしまい、ルリをパニックに陥らせる危険性がある。
拓海はすぐさまケージのスライド窓を開けた。
ルリを大きな動作で追い払うようなことはせず、ルリが警戒して距離を取ったタイミングを見計らって、浅型トレーを一旦ケージの外へ回収する。
すぐさま備品箱から滑り止め用のシリコンマットを取り出し、トレーの底面のサイズに合わせてハサミで切り抜いた。それをしっかりと貼り付け、念のために重量のある陶器製のリングベースにはめ込んで安定性を確保する。
「使う前に気づけよ、俺……」
拓海は一人で反省の言葉を口にしながら、トレーを元の位置に再設置した。
もちろん、紙の記録バインダーにもこの失態は正直に書き残す。
『浅型皿への接触時、皿本体が約1cm移動。固定不足による危険性を考慮し一時撤去。底面に滑り止めを追加し、ベースに固定して再設置』
失敗を隠さないことも、研究協力者としての義務だ。
***
再設置後。今度は拓海が指で押しても、トレーはびくともしない。
再び、果てしない待機時間の開始だ。
数分後。
ルリが再び、慎重な足取りでトレーに近づいてきた。
ルリはトレーの縁まで近づき、水面をじっと覗き込んでいる。
鼻先を水面に近づけ、すん。
舌を一度だけ出して、ぺろ。
そして。
右の前脚が、ゆっくりと持ち上がり。
縁を越えて、水の中へ。
ちゃぷ。
(入った)
拓海は口には出さず、心の中で静かに叫んだ。
続いて、左の前脚も。
ちゃぷ。
ルリはそこで一度動きを止め、水面に鼻先を近づけたり、水中の脚を少し動かしたりした。小さな波紋がいくつも広がる。
そして。
右の後脚が縁を越え、水の中へ入る。
(あと一本……!)
拓海の脳裏に、昨日、体重計の測定台へ乗せようと一時間も苦闘した際の光景がフラッシュバックした。あと一本の脚が入らなくて、何度絶望したことか。
(いや、また心の中でそれやるなよ俺)
自分で自分にツッコミを入れ、緊張感の中で思わず吹き出しそうになるのを必死に堪える。
ルリが、最後の左後脚を持ち上げた。
ちゃぷ。
完全に入水した。
初めて、四脚全てが浅型トレーの中に入ったのだ。
水深は厳密に五ミリに調整されているため、ルリが泳ぐような深さではない。お腹のクリーム色の鱗の一部が、わずかに水面に触れている程度だ。翼は背中にきっちりと畳まれたままで、短い尻尾も浅い水の中に沈んでいる。
「…………入った」
初めて自分の意思でケージの外へ一歩を踏み出した時と同じくらい、拓海の声は極限まで絞り出された微かなものだった。
ルリは水の中で、完全に静止した。
三秒。五秒。
拓海は瞬きも忘れて見守る。
ルリの右前脚が動いた。
ぱしゃ。
水面を一度、軽く前へ向かって掻く。
また、ぱしゃ。
小さな波が立ち、トレーの縁に当たって跳ね返る。
その跳ね返った水滴が一つ、ルリの鼻先にぴちゃっと付着した。
ルリは、ぱちりと瞬きをする。
とてつもなく大きな瑠璃色の瞳。その下にある鼻先に、光を反射する一滴の水滴。水に濡れた赤銅色の鱗は、普段よりも少しだけ色が濃く、鮮やかに発色して見える。
(かわいい……!)
拓海の心臓に直撃弾が着弾したが、歯を食いしばって表情筋の崩壊を食い止めた。声を上げればルリが驚いてしまう。
しかし、ルリの行動は前脚で水を弾くだけでは終わらなかった。
身体を少し低く沈み込ませ、腹面をより広範囲に水に密着させる。
左右に少しだけ身体を揺らす。
そして。
背中に畳まれていた皮膜の翼を、左右に少しだけ持ち上げた。
(また翼!?)
拓海は無意識に身体を強張らせた。これまでの経験上、ルリが翼を広げるたびに「ついに飛ぶのか!?」と極度の緊張を強いられ続けているからだ。
だが、ルリはそのまま飛び立つことはなかった。
持ち上げた片方の翼の先端を、ゆっくりと下ろして水面へと接触させたのだ。
ぺちゃ。
反対側の翼も、同じように水面へ。
ぺちゃ。
そして、次の瞬間だった。
ルリが、両翼を同時に、勢いよく上方へ振り上げた。
ばしゃっ!!
水が、豪快に飛んだ。
用意した浅型トレーは小さく、絶対的な水量はコップ一杯分にも満たない。
しかし、拓海はルリの細かな行動を観察しようと、ケージのアクリルガラスの開口部のすぐそばまで顔を極限まで近づけていたのだ。
細かな水滴のシャワーが、拓海の顔面、無防備な前髪、そして着ていたお気に入りの濃紺のパーカーの胸元に向かって、情け容赦なく降り注いだ。
「うわっ」
拓海は反射的に一歩後ずさった。
だが、咄嗟に大声を上げることは飲み込んだ。自分がパニックになれば、ルリもパニックになる。
ルリは動きを止め、瑠璃色の瞳でじっと拓海を見た。
拓海も、顔を濡らしたままルリを見つめ返す。
「……大丈夫。何でもない。気にするな」
拓海は極力優しく、声を落として言った。自分が動いたことで、ルリが今の行動を中断する可能性を考えたのだ。
ルリは数秒間拓海を見ていた。やがて、再び水面へと向き直った。
第二波が来る。
ばしゃっ、ばしゃっ。
今度は左右の翼を交互に動かし始めた。
その行動の目的までは分からない。ただ、ルリは左右の翼を交互に動かし、その結果として水を自分の身体と周囲へ飛散させていた。
全体の水量は少ないが、全長十センチの手のひらサイズの身体にしては、なかなか派手な水しぶきを発生させている。
水滴があちこちに飛散する。
ケージの内壁のアクリルパネルに。太い枝の表面に。高所休息棚の屋根の一部に。
そして、逃げ遅れた拓海の袖に。またしても顔に。
「ちょ、待っ――」
拓海は言いかけて、やめた。
待つ必要などない。ルリが自分から始め、今も継続している行動だ。安全上の問題がない限り、人間側から中断させる理由はない。
ルリ自身は、浅い水の中に四脚で入って翼を動かしているだけだ。濡れているのは主に四脚、腹面、翼膜の下側、そして尻尾の一部だけである。
一方で、拓海は顔と前髪と胸元に、点々と大量の冷たい水を浴びていた。
やがてルリは、自発的にトレーから出た。
一歩、二歩。コルクの床面に移動する。
そして、全身の筋肉を弛緩させ。
ぶるるるるっ。
犬や猫がやるような激しく大きなストロークではない。小さな身体全体を、翼を身体に沿わせたまま、モーターのように細かく高速で震わせたのだ。
その遠心力で弾き飛ばされた最後の水滴群が、拓海の顔面に見事に命中した。
拓海は、無言でそれを受け止めた。
榊原へ送る報告記録のために、必死に感情を押し殺して冷静さを保とうとする。
ルリは、何事もなかったかのように枝に向かって歩き出した。
ぺた、ぺた、ぺた。
コルクの床に、とてつもなくかわいい濡れた足跡をいくつも残しながら。
拓海は、自分の前髪を指で触った。しっとりと濡れている。パーカーの胸元も、冷たく肌に張り付いている。
枝の上のルリを見る。ルリはすでに、身体の表面の水滴をほとんど落とし終えているように見えた。
「…………俺の方が、濡れてない?」
「きゅ?」
ルリが枝の上から、不思議そうに小首を傾げた。
拓海は深いため息をつきつつ、苦笑するしかなかった。
魔法生物だからといって、一瞬で完全乾燥する魔法が使えた証拠はない。身体が小さいぶん付着する水量そのものが少ないことに加え、鱗の表面が水を保持しにくい可能性もあるが、今の観察だけではそこまで断定できない。
よく見れば、翼膜の端や腹面のあたりには、まだキラキラと水滴が残っている。
拓海は、決してルリを柔らかいタオルで捕まえてゴシゴシと強制的に拭くような真似はしなかった。
ルリが寒そうにしていないか、じっと外から観察する。
身体を異常に震わせ続けてはいない。動きも鈍っていない。翼膜に破れや異常なし。呼吸のリズムも通常通り。
濡れたまま冷えるリスクを過剰に考えて、勝手にケージの温度設定を急上昇させるような真似もしない。通常環境を維持したまま、状態に変化がないかを見守る。必要があればすぐに榊原に連絡する準備だけはしておく。
ルリは枝を伝って、いつもの屋根の上へ……は行かなかった。今回は枝の中央付近に留まり、自分の前脚を舐め始めた。
鱗の表面や翼膜の付け根付近へと鼻先を寄せている。身体を整えているようにも見える動作だった。
ただし、拓海はこれを「身体を乾かしている」と明確な目的まで断定することは避けた。
***
拓海は机に向かい、バインダーを引き寄せた。
びしょ濡れの前髪のまま、ものすごく真面目な顔で一次記録を書き始める。
『10時42分、浅型水皿設置。水深約5mm、水温25.1℃。既存飲水皿は継続設置』
『初回接触時、皿が移動したため固定不足と判断し一時撤去。底面に滑り止めを追加し固定後、再設置』
『10時58分、右前肢を水中へ。続いて左前肢、右後肢、左後肢の順で入水』
『全四肢が水皿内に入った状態を確認。腹面の一部が水面へ接触』
『前肢による水面への接触行動あり』
『翼を左右へ展開し、水面へ複数回接触させる行動あり。飛翔動作はなし』
『自発的に水皿から退出。その後枝上にてグルーミングと思われる動作』
拓海は記録用紙のどこにも、「水浴びをした」という断定的な言葉は使わなかった。
そして、一番下の備考欄でペンの動きがピタリと止まった。
『水滴が担当者へ――』
そこまで書いて迷う。こんな個人的な被害報告は必要なのか?
いや、環境への水分の飛散範囲のデータとして、生物学的には有用かもしれない。
拓海は真面目な顔で書き直した。
『水面への翼接触に伴い、ケージ外約○cmまで水滴飛散』
拓海は自分とケージの距離を目測で測った。
「……俺の顔まで、直線距離で約四十センチか」
測るなよ、と自分で突っ込みつつ、空欄に数字を埋め込んだ。
電子記録として専用アプリに転記し、榊原へ送信する。
数分後、返信が来た。
『入ったんだ』
『入りました』
『全身?』
『四脚全部です。腹面も一部。翼も意図的に水面に接触させて動かしました』
榊原からの返信は、研究者らしからぬ欲望にまみれていた。
『動画欲しいなあ』
『だから、撮影端末、まだ届いてませんってば』
少しの間。
『あ』
『あ、じゃないですよ先生。一番いいところなのに』
出会った初日からの、写真が撮れないストレスがまたしてもぶり返してきた。
『ごめんごめん。明日か明後日には君の手元に認可端末が届くはずだよ。それはともかく』
榊原の文面が研究者のそれに切り替わる。
『現時点では、その行動を人間の言葉で「水浴び」と行動名を確定しないでいい。ただ、自発的に全身を浅い水皿へ入れ、複数回翼を水面へ接触させた。もしこれが今後も再現するなら、ルリ個体の固有の行動パターンとして扱えるね』
『また自分から入るかどうか、見ます。あの、明日も同じように浅い皿を出した方がいいですか?』
『常設はまだしなくていい。水質管理の手間、ケージ内の急激な湿度変化、利用頻度の低下、予期せぬ事故の危険性。まずは限定的な時間だけ提示しよう』
水浴び場をずっとケージ内に置きっぱなしにはしない。
既存の小さな飲水用小皿は常設。浅型皿は、観察時間だけ提供する。
『毎日出しますか?』
『毎日出す必要があるかどうかも、まだ分からない。何日か間隔を空けて、同条件で再提示してみよう。選択肢を選べるようにして観察するんだ』
『了解しました』
***
夕方。
水濡れから何時間経過しても、ルリに体調の異常は見られなかった。
水皿の利用、枝の移動、屋根での休息、呼吸のリズム、翼の張り、鱗の艶。すべてが正常値の範囲内だ。
拓海はほっと胸を撫で下ろした。
しかし、拓海の着ていた濃紺のパーカーの胸元には、小さな水染みが点々と残っていた。すでに乾きかけてはいるが、跡ははっきりと分かる。
拓海はそれを脱いで洗濯カゴへ放り込もうとして、一瞬動きを止めた。
「……ドラゴンの水浴びで飛んできた水で濡れた服って、この世界に何人が持ってるんだろうな」
そして、すぐに一人で小さく付け加えた。
「いや、機密事項だから誰にも言えないけど」
夜。
浅型トレーはすでに洗浄され、完全に撤去済みだ。
ルリはすっかり乾いた身体で、いつもの屋根の上で丸く球体になっている。
拓海は机に向かい、電子記録の画面を見直していた。
昨日覚えた、31.8グラムという具体的な質量。
今日覚えた、水に入るという未知の行動パターン。
『全四肢入水』という真面目すぎる文字列を見つめる。
しかし、拓海の脳裏に浮かぶのは、文章ではなく、実際に見たあの鮮烈な光景だった。
鼻先の水滴。コルクに残ったぺたぺたとした足跡。
ばしゃっ、と翼で水を飛ばす躍動感。
「…………かわいかったな」
ケージの屋根から、ルリが拓海を見下ろした。
「きゅ」
拓海はすぐに、自分の中で訂正した。
「いや、水浴びが好きかどうかはまだ断定できないし、分からないけどな」
「きゅ?」
「かわいかったのは観察事実じゃなくて、俺の個人的な感想だからいいんだよ」
拓海は、自分に言い聞かせるようにそう言った。
相手の行動を観察し、事実と推測を分ける。飼育者としての思考回路が、少しずつ、しかし確実に拓海の中で形作られつつあった。
今日のあれが、ルリにとって真の意味での「水浴び」だったのかどうかは、まだ分からない。
ただし、水を浴びたルリよりも、ケージの外にいた拓海の方がびしょ濡れになったことだけは、紛れもない事実であった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!