静まり返った『留まり木』のカウンターで、アルゼ・ブレーメンは厚手のグラスを指先で弄んでいた。
「美味いな、これ」
ほう、と息を吐きながら呟いた彼の言葉が、魔法ランプの暖かな光に照らされる店内に小さく響いた。酒精の強い酒特有の口を焦がすような熱を感じ、アルゼはもう一度軽く口の中の空気を逃がした。
その反応を受け、カウンターの内側にいる大柄な男は、目を細めて頷いた。
「なかなかいい酒だろう」
低い、よく通る声がカウンターの中から響いた。短い銀髪を几帳面なオールバックに整えた男。この酒場のマスターが、使い込まれたリネンの布でグラスを磨きながら、答える。
五つ並んだカウンター席の中央。濃い茶色の髪を雑に後ろで束ねている青年――アルゼは、椅子の背もたれに体を深く預け、口に残る風味を味わいながら、何気なく目の前を眺めた。大量のボトルが並ぶ酒棚の真ん中には、豪快な笑みを浮かべて酒樽を掲げている、まるまると太った木彫りのバッカス像。
その酒棚の一角に、ぽっかりと空いた余白。そこに元々置かれていた細身のボトルは、今はアルゼの目の前へと引き出されている。簡素な大麦の絵が描かれたラベルを、まるで胸を張るように見せつけていた。
「ああ。度数が高いだろうに、刺々しさが全くない。蒸留酒にしては、後味が妙に甘いな」
アルゼはグラスを傾け、中に残った酒をゆっくりと回した。からり、と音を立てる氷に合わせて液面が揺れ、灯りを歪に反射した。彼はそれを一気に飲み干すのではなく、唇の端から滑り込ませるようにして、ゆっくりと口の中に含んだ。そのまま飲み込むと、液体を追いかけるようにして喉がじわりと熱を帯びる。
「今後の王都で、間違いなく流行ると俺は睨んでいる」
マスターは磨いていたグラスを棚に戻すと、不敵な笑みを浮かべて向き直る。
「ここの蔵元は、元々質のいい大麦を作る農家だという噂は聞いていた。酒を造り始めたと聞いて真っ先に口説きに行ったが、まさかここまでの酒だとは思っていなかったよ」
「農家が酒を造り始めたのか。蒸留酒の設備は金もかかるだろうに、随分奇特な農家もいたもんだ」
感心したようにそう呟いたアルゼは、空になったグラスをマスターへと差し出した。マスターの手元が滑らかに動き、小気味の良い音を立ててコルク栓を抜くと、ボトルから琥珀色の液体が注がれる。トクトクと、静かな水音が店内に響いた。
「相変わらず、あんたの嗅覚には恐れ入るよ。酒に関しては情報屋ですら舌を巻くだろうよ」
「美味い酒を誰よりも早く見つけるのが、俺の生き甲斐だからな」
マスターは丁寧にコルクで蓋をすると、カウンターにボトルを置き直した。アルゼは注がれたばかりの液体を見つめながら、ふと、グラスに映りこんだ背後のテーブル席に視線を走らせた。四人掛けの木製テーブルが二つ。椅子が綺麗に整えられており、その上に人影はない。
「それにしても、今日は安息日の前日だろ? 珍しく人がいないな」
いつもなら、王都のあちこちから集まってくる選りすぐりの酒好きどもの喧噪で騒がしいはずの時間帯だった。
アルゼは窓の外の闇に目を向けた。国教であるエリエス教の安息日は明日だ。本来はその前夜である今夜こそ、店が混雑するタイミングのはずだ。
「ああ、それか」
マスターは少しだけ声を落とし、苦笑を浮かべた。その眉が、どこか困ったように下がっている。
「昨日が大分荒れたんだよ」
「荒れた? ここで誰かが暴れたのか? あんたに店から蹴り出されたい奴がいるとは思えないが」
冗談めかして言いながら、アルゼはグラスを指でつついた。マスターが怒れば、どんな大男の冒険者であっても、さらに言えば王族であったとしても、容赦なくつまみ出されることを、この店の常連は身をもって知っている。
「いや、喧嘩じゃない」
マスターは両手を広げ、肩をすくめた。
「常連どもが、随分と機嫌よく飲んでいてな。閉店の時には全員仲良く千鳥足だ。あれは何人か路上で寝てただろうよ」
「なるほどな」
アルゼは思わず息を吐き出し、呆れ顔で口元を緩めた。
「ってことは、いつもの連中は揃ってひどい二日酔いってわけか」
「そういうことだ。今頃はベッドの中で神に懺悔でもしているだろうよ」
「なら今日は、この酒をじっくり味わわせて貰おうかね」
そう言って再びグラスに手を伸ばす。
その時、からんと、入り口のドアに吊るされた真鍮のベルが、乾いた高音を響かせた。夜風が店内に流れ込み、不躾に肌を撫でていく。アルゼが振り返るのと同時に、現れた人影がその場で足を止めた。綺麗な金髪を靡かせ、令嬢が橙色の明かりに満たされた店内に滑り込んでくる。少し垂れ気味の目が、カウンターに座るアルゼの姿を捉えた瞬間、わずかに細められた。
「よう、無職」
アルゼはグラスを持ったまま、軽く手を挙げた。
「うっさい無職。私は無職じゃなくて無所属よ」
仕立ての良い薄青のワンピースを身にまとっている、いかにも良家の子女然とした女性、リリール・トラインは、形の良い眉を歪めてそう返した。彼女は踵を鳴らして歩を進めると、アルゼの隣の席に腰を下ろした。服から微かに紙とインク、そして少し甘い花の匂いが香る。
「マスター、こんばんは……あら?」
挨拶の途中で、リリールの視線がカウンターの上のボトルに留まった。彼女の視線の動きを追うように、マスターが静かに一礼する。
「リリー嬢、いらっしゃい」
「それ、初めて見るボトルね。私にもそれ、頂戴」
「ああ。こいつはいい酒だぞ」
マスターは新しいグラスを取り出し、丸い氷を一つ落とした。からり、と心地よい音が響く。リリールはグラスを手に取ると、白い指先でそれを軽く揺らし、まずは鼻先を近づけた。彼女の鼻腔が小さく膨らむ。
「……いい香り」
リリールはグラスに唇を触れさせ、少量を口に含んだ。喉が小さく上下する。彼女は一度目を閉じ、それからゆっくりと息を吐き出した。
「美味しいわね、これ」
「だよな。俺もさっきから、そればっかり飲んでる」
「後味がなんだか……甘い? それだけじゃなくて香ばしさもあるわね……」
そう呟きながらグラスを光にかざし、首を傾げながら琥珀色の液体をじっと観察した。興味深そうに眉を顰めるその姿は、完全に研究者のそれだった。
「これなら何杯でもいけちゃいそうだわ……昨日の人たちみたいに、深酒をするつもりはないけれど」
「お? 昨日も来てたのか?」
「いいえ。でも、昼間にギルドの近くを通ったら何人か顔見知りが道端で干からびてたから」
リリールはくすくすと笑い、それから一度、両腕を大きく上へ伸ばして背伸びをした。ワンピースの生地が突っ張り、彼女の細い身体のラインが浮き彫りになる。はあ、と深く長い吐息が、彼女の唇から漏れた。その音は、先ほどまでの快活なものとは異なり、随分と重い。
「どうしたリリール嬢。何か悩み事か?」
マスターが問いかける。リリールはグラスの縁を指先でなぞりながら、視線を落としていた。
「開発に、ちょっと躓いててね……計算上は完璧なのに、実際に動かすと魔法陣が熱を持って自壊するの」
「ふうん」
アルゼは頭の中で、ちょうど数日前に読んだ書籍に載っていた、古典的な魔法方程式の図を思い浮かべた。
「熱を持つってことは、エーテルが詰まってんだろ。容量オーバーか、どっかで回路が干渉してるんじゃないか」
アルゼはやる気のなさそうな声を出し、グラスに残ったわずかな酒を飲み干した。彼の頭の中ではすでにいくつかの解決策の仮説が組み上がりつつあったが、実際に現場で魔法陣を見ないことには仮説の域を出ない。
リリールはその返答を聞くと、はあ、と分かりやすい大きなため息をついた。肩ががっくりと落ちる。
「相変わらず、あんたのその無駄に広い知識は頼りになるわね……癪に障るけど」
カウンターに突っ伏しながらリリールは見上げるようにグラスを持ち上げ、氷をカランと鳴らした。そして、まるで独り言のようにボソッと言葉を吐く。
「はあ……本当に、あんたが家にいてくれれば楽なんだけどな……」
静かな店内に、その音だけが溶け残るように漂った。リリール自身は、本当に何気なく、ただ「開発のアシスタントとして近くにいてほしい」という実務的な意味合いで口にしたのだろう。
アルゼは何度か瞬きをしながら、ついとリリールの方を見遣る。彼女はまだ自分が口にした呟きの破壊力に気づいておらず、呑気にグラスの酒を傾けていた。
「お、なんだ。それ、口説かれてるのか、俺?」
その言葉を耳にした途端、グラスを持つ白い指先がピタリと止まった。数秒、時が止まったかのような間。
「……へ、変な勘違いしないで。数式の整理とか雑用を押しつけるアシスタントとして、近くにいたら便利って意味だから」
リリールは、早口で捲し立てるように、言い訳を並べる。綺麗な金髪の隙間から僅かに覗く彼女の横顔は、熟れた果実のように真っ赤だった。
「あーはいはい、分かってる分かってる。分かってるからそんな真っ赤になるな」
「赤くなってない、このお酒の度数が高いだけ」
リリールは必死に顔を隠しながら椅子を引き戻し、座り直した。しかしその横顔は依然として真っ赤に染まったまま。それを見て、アルゼはますます愉快そうに肩を揺らした。彼自身、彼女のこの過剰な反応を見るのが、この酒場に通う楽しみの一つになっている。
二人のやり取りを、カウンターの向こう側からマスターは静かに眺めていた。手元にあるグラスをリネンで丁寧に拭き続けている。何とも言えない笑みを浮かべ、再びグラスの底を覗き込む。その顔は、また今日も始まった、とでも言いたげな、呆れと諦めに満ちたものだった。
10年ぶりに筆を執りました。
のんびりリハビリしていきます。