薄紫色の夜の帳が王都を包み込む、宵の口。ぽつりぽつりと、大通りの魔法ランプが目を覚ますように、くすんだ橙色の光を纏い始めていた。
仕事終わりの労働者たちが一日の疲れを忘れようと、王都の街並みに吸い込まれて行く。大通りでは新旧様々な店が、一人たりとも逃がすまいと、威勢のいい呼び声を響かせていた。
そんな喧噪から一本外れたとある路地は、まるで音を切り取られたかのように静まり返っていた。空気に混じる微かな湿り気が、建物の隙間を吹き抜ける風に乗って鼻を
使い込まれてすっかり飴色になった真鍮のノブを握り、ゆっくりと捻ると、扉の隙間から熱を帯びた空気が零れてくる。それは度数の高い酒精の匂いと、そして微かなハーブの香りが混ざり合った、この店特有の匂いだった。
からん。
乾いた、しかし耳当たりの良い金属音が頭上で跳ねる。
『留まり木』の店内、五つ並んだ木製のカウンター席。その最も奥に、当然のような顔をして腰掛けている赤髪の青年がいた。
「やあ、いらっしゃい」
その青年は、テーブルに頬杖をついた姿勢のまま、燃えるような赤髪の間から覗く、特徴的な糸目を緩めると、ひらひらと片手を揺らした。上質なウールで仕立てられた深い紺色の外套が、彼の動きに合わせて静かに衣擦れの音を立てる。
アルゼは扉を背中で静かに閉め、真鍮のベルが完全に静止するのを見届けてから、ゆっくりと歩みを進めた。
「あんたは立場に対して、来る頻度が高すぎやしないか」
アルゼは呆れを隠そうともしない平坦な声調のまま、青年の隣の椅子を引いた。木脚が床と擦れ、低く短い音を立てる。腰を下ろしながら、カウンターの中で洗い物と格闘している大柄な男へと視線を送った。
「マスター、あんまり甘やかしすぎちゃ駄目だぜ? この国の存亡にかかわる」
「いやいや、ディーン第一王子殿下に頼まれたとあっちゃ、一介の店主にはどうしようも出来ないさ」
「君たちは本当に、王族に対する敬意が全くないよね」
ともすれば気分を害しかねない
「これでもちゃんと政務は終わらせてきているんだよ? 労働の疲れをこうして酒で忘れようとするのは、王族にもあっていい権利だと思うけどね」
ディーンは手元にあったグラスを軽く揺らした。仮にもこの国の跡取りである王子が、これほど俗っぽい理由を引っ提げて町で飲み歩いているのは、王都では有名な話だった。
「あんたの護衛が路地裏の影で、冷え込む夜風に吹かれてるのは同情しちまうけどな」
「仕方ないことだ。必要な犠牲ってやつさ」
言い切るが早いか、ディーンはぐいと酒を流し込んだ。ふう、と深く息を吐き出す。本当に美味そうに飲むな、とアルゼはその横顔を眺めながら思う。
同じのを、とディーンがグラスを手渡すと、マスターはカウンターに置いてあった見慣れないボトルを手に取った。
茶色を基調とした、意匠の凝った素焼きのボトル。サトウキビの茎を葉巻のように咥えた、どこか不格好で愛嬌のある亀の姿が中央に彫り込まれている。中身を窺い知ることはできないが、外見同様中身にも相当な手間暇をかけた酒だろうというのは容易に想像出来た。
「随分と珍しい酒を入れたみたいだな。初めて見たぞ、そんなボトル」
「ああ。数年かけてやっと手に入れた酒だ」
「あんたでそんなにかかる酒か。そりゃとんでもない」
酒場『留まり木』に無い酒なら王都には無い、とは一部で陰ながら噂されている程だ。他の追随を許さない知識と伝手を以って、マスターは各地のありとあらゆる酒を収集している。
そのマスターが数年という歳月をかけて手に入れた酒。一人の酒飲みとして、アルゼの興味が刺激されないわけがなかった。
「金を積めば買えるというものじゃない。蔵元が偏屈な男でな。自分が気に入った商人にしか絶対に卸さない。古い伝手を全て叩き起こして、ようやく融通してもらった」
家にも一本飾ってある、とマスターは付け加えた。
「お先に頂いているけれど、これは中々の代物だよ」
ディーンが横から口を挟み、新たに注いで貰った自分のグラスを引き戻した。透明でありながらどこか粘り気を感じさせる独特の軌跡を描いて、液体がグラスの中で揺れる。爽やかな草の香りと、焦がした砂糖のような甘い芳香が、アルゼの方までふわりと広がってきた。
ここまで言われて飲まない選択肢などアルゼの中には最早なかった。
財布に入れてきた金額を思い返しながら、マスターにその酒を一杯頼もうとしたその時、からん、とベルの音が響いた。
「あー、疲れた……」
ベルを鳴らして入って来たリリールは、肩に目に見えない重荷を背負っているかのように背中を丸めていた。金髪のボブカットは丁寧に整えられてはいるものの、何故だか普段よりも煤けて見える。眉間には微かな縦皺が刻まれ、口から漏れ出ているのは凡そ淑女には似つかわしくない声。
しかし、服の襟元や袖口には汚れ一つなく、仕立ての良さが彼女の貴族としてのプライドを静かに主張していた。
「いらっしゃいリリール嬢。随分とお疲れみたいだな」
「お邪魔するわマスター。昔魔法道具を売った奴からクレームが来てね……ほんとあのクソ客、次来たら一発お見舞いしてやろうかしら……」
リリールはそのまま歩を進めると、アルゼの隣、ディーンとは反対側の席へと沈み込むように腰を下ろす。
「王子に無職、代わり映えしないメンバーね」
「やあリリール嬢。相変わらず貴族とは思えない態度だね」
「初対面の時は敬ってたからいいでしょ……」
あと、と付け加えるようにアルゼを力なく指差す。
「そいつも貴族よ、一応ね」
「え、アル君貴族だったのかい?」
ついと指差されたアルゼは、どうでもいいことだと言わんばかりに、手をひらひらと振る。
「ただの地方の貧乏男爵の次男坊さ。食い扶持稼ぎに王都に来てるから、平民の出稼ぎと変わんねーさ」
実際、家にいても穀潰しになるだけだから、と実家を叩き出された形である。地方の小さな領地を治める貴族の経済事情は、それなりに裕福な平民と大差がない。
そのやりとりを尻目に、リリールは天井に向けた顔に、マスターから受け取ったおしぼりを載せ、死にかけの様相で全身を脱力していた。
「そんなに疲れてんのは珍しいな。知らん人が見たらただのおっさんだぞ、お前」
「もう今日は無理……美味しいお酒でも飲んでないとやってらんない……」
おしぼりをつまみ、憔悴しきった様子の顔をようやく前に向けたリリールは、ふとカウンターの上に置いてある素焼きのボトルを視界に入れた。数秒、彼女は時が止まったかのように動きを止めた。
次の瞬間、彼女の背筋が、まるで見えない糸で引っ張り上げられたかのように、一気に真っ直ぐに伸びた。先ほどまで疲労の色が濃く映されていた瞳が見開かれている。
「そ、それ……!? 嘘でしょう、クラーダじゃない!!」
信じられないものを見るような表情で、唇を戦慄かせるリリール。その反応を待っていた、と言わんばかりに、マスターの口元は不敵な笑みを湛えていた。
「流石だな、リリー嬢。君なら知っていると思っていたよ」
「知ってるに決まっているでしょう! 王族ですら入手が難しいとまで言われるお酒よ……!?」
入店した時の満身創痍の様子はどこへやら。リリールは、すっかり興奮しきった有様で鼻息を荒くしていた。
思わず前のめりになっていた彼女は、そのままクラーダのボトルを見つめている。新しい玩具を買ってもらった子供のように瞳に輝きを
「これがクラーダ……! 熟成工程に門外不出の魔法道具が使われているらしいのよね……ずっと飲みたいと思ってたけど、正直諦めてたわ」
はあ、と感嘆のため息を吐きながら艶っぽい視線を送る。恋する乙女のような色気を醸し出していたが、総合するとただの酒狂いだった。
「マスター、愛してる!」
「はいはい、愛されてる。飲み方は?」
「ストレートで!」
煌めく視線をリリールはマスターへ向けると、無邪気に注文を告げた。挙手する生徒のように高々と掲げられた右手をカウンター上に戻すと、待ちきれないとばかりに小刻みに体を揺らしている。
「マスター、俺もストレートで。手持ちで足りなかったらツケといてくれ」
リリールの入店で有耶無耶になっていた注文を、ちょうどいいやとばかりにアルゼは飲み方を合わせて通す。この店においても有数の酒狂いの一人として知られている彼女と同じ飲み方であれば間違いはあるまい、という考えだった。
「あんたのは私が出してあげるわよ」
「お前はなんで毎度毎度俺に奢りたがるんだよ」
「別にぃー? 持ってる者から持たざる者への施しよ」
「さよか。ならその持ってる物を大事にするんだな」
親切心で言ってあげてるのに、と不満げな表情をするリリール。何故だか彼女はアルゼに対して、定期的に奢りたがるという素振りを見せる。どうやら理由はあるようなのだが、聞いても明確な答えが返ってこないというのが現状だ。理由もわからず奢られるのも落ち着かないので、アルゼは毎回適当に言いくるめて提案をかわしていた。
子供のじゃれ合いのような二人のやりとりを眺めて、ディーンは愉快そうにけらけらと笑い声を上げていた。
「マスター、犬も食わないっていうのはこういうことを言うのかな」
「そこまでにしておいた方がいいですよ王子。下手につつくとこっちに牙が向く」
ディーンが紡いだ
そこに注がれた少量の液体は、ランプの光を浴びて、生きているかのように艶々しく波打っていた。爽やかで青々しい甘香が鼻腔を
「これがクラーダ……『グラスが目の前に置かれた途端に、草原に立っているような錯覚をした』っていう記述、誇張じゃなかったのね……」
ディーンは自分のグラスを手に取ると、更に細めた眼の高さまで掲げた。
「今日という日に」
「乾杯」
「乾杯」
短く、澄んだ和音が店内の空気を心地よく震わせる。
マスターは、楽しそうに常連たちがクラーダのグラスを傾けて賑やかに声を交わすのを、静かに、しかし確かな満足感とともに見届けた。
窓の外では、王都の平和な夜を象徴するように、薄青い月光が静かに石畳を照らし続けていた。