深夜二時三十三分。
部屋の中を照らしているのは、机の上に置かれた小さなスタンドライトと、穂乃果の手元にある携帯ゲーム機の画面だけだった。
ベッドの上に座った穂乃果は、ほとんど身動きせず画面を見つめている。
画面の中央では、長い旅を続けてきた勇者が、最後の敵と向かい合っていた。
仲間たちは倒れている。
残された勇者は一人。
それでも剣を握り直し、最後の一撃を放つ。
巨大な魔王が崩れ落ちた。
画面いっぱいに「FIN」の文字が表示される。
「……」
穂乃果はしばらく黙っていた。
そして。
「やったぁぁぁぁ!」
勢いよく立ち上がった。
危うくゲーム機を放り出しそうになり、慌てて両手で抱え込む。
「やった! やったよ! クリアした!」
誰もいない部屋に声が響く。
当然、返事はない。
それでも穂乃果は満足そうに笑った。
今回遊んでいたのは、いわゆる王道のファンタジーゲームだった。
平凡な少年が勇者に選ばれ、仲間と出会い、いくつもの町を巡り、旅の途中で出会った人々の頼みを聞きながら成長していく。
そして最後には魔王を倒し、世界を救う。
何度も使われてきたような物語だ。
けれど、穂乃果はそういう話が好きだった。
特に好きなのは、勇者が強いことではない。
魔王を倒せることでもない。
旅の途中で出会った名もない人の頼みを聞く。
困っている人がいれば助ける。
自分が危険になると分かっていても、誰かのために剣を抜く。
そういうところが好きだった。
「……勇者、かぁ」
穂乃果はゲーム機を膝に置き、スタッフロールを眺めた。
壮大な音楽が部屋の中を満たしている。
その音を聞きながら、穂乃果は天井を見上げた。
「勇者って、すごいよね」
当たり前のことを口にする。
もちろん、現実には魔王なんていない。
剣を持って世界を旅する必要もない。
困っている人を助けたからといって、経験値が増えるわけでもない。
それでも。
穂乃果は少し考えた。
「でも……勇者みたいなことなら、できるんじゃないかな」
例えば、道に迷っている人を案内する。
重そうな荷物を持っている人がいたら手伝う。
困っている友達がいたら、話を聞く。
大きなことじゃなくてもいい。
誰かが困っているなら、その人を助ける。
それなら自分にもできる。
「……あれ?」
そこで、ふと一人の少女が頭に浮かんだ。
長い髪。
真っ直ぐな姿勢。
何をするにも真面目で、曲がったことが嫌い。
少し融通が利かないところもある。
けれど、誰かが困っていると放っておけない。
「海未ちゃん……」
穂乃果の顔に笑みが浮かんだ。
「なんか、勇者って海未ちゃんみたい」
そう思った瞬間、次々と理由が出てくる。
海未は運動が得意だ。
勉強もできる。
弓道を続けているせいか姿勢も綺麗で、何をやらせても妙に様になる。
それに、幼い頃から知っているからこそ分かる。
海未は厳しい。
かなり厳しい。
でも、それは誰かを困らせたいからではない。
穂乃果がだらしないことをすれば注意する。
約束を破れば叱る。
危ないことをすれば止める。
全部、穂乃果のことを放っておけないからだ。
「うん。やっぱり海未ちゃんだ」
穂乃果は一人で納得した。
そして、もう一人の幼馴染の顔も浮かぶ。
「ことりちゃんも……」
ことりは海未とは違う。
穂乃果が無茶をしそうになれば、海未ほど強く止めるわけではない。
けれど、その前に穂乃果の気持ちを考えてくれる。
三人でいる時には、いつも自然と二人の間に入ってくれる。
「三人なら、できるかも」
穂乃果はゲーム機を置いた。
ベッドの上で正座する。
「勇者……」
小さく呟く。
「勇者部」
もう一度。
「勇者部!」
今度は少し大きな声になった。
妙にしっくりくる。
勇者になる部活。
困っている人を助ける部活。
ゲームの中の勇者みたいに、誰かから頼まれたことを解決する。
学校には運動部も文化部もある。
なら、勇者をする部活があったっていい。
「うん! いい!」
穂乃果は両手を握った。
「明日、海未ちゃんとことりちゃんに話そう!」
今すぐ二人に伝えたい。
そう思ってスマートフォンへ手を伸ばす。
画面を見る。
「…………」
午前二時三十三分。
「……明日、学校」
現実が戻ってきた。
しかも平日。
「……寝なきゃ」
穂乃果は慌ててゲーム機の電源を切った。
充電器を繋ぎ、スマートフォンも机に置く。
電気を消して布団へ潜り込む。
「勇者部……」
目を閉じても、その言葉が頭から離れない。
「絶対、海未ちゃん喜ぶよね」
きっと海未なら付き合ってくれる。
ことりも笑ってくれる。
三人で誰かを助ける。
それは、きっと楽しい。
「……楽しみ」
そう呟いて、穂乃果は眠りについた。
◇
翌朝。
「穂乃果!」
「うぇっ!?」
目覚まし時計より先に聞こえた声に、穂乃果は飛び起きた。
窓の外には、見慣れた幼馴染が立っている。
「海未ちゃん!?」
「何度呼べば起きるんですか!」
「今起きた!」
「それは見れば分かります!」
穂乃果は時計を見る。
「うわぁぁぁぁ!」
遅刻確定だった。
慌てて着替え、鞄へ教科書を詰め込む。
「昨日も早く寝るように言ったでしょう!」
「昨日はゲームしてたんだよ!」
「何をしていたか聞いているのではありません!」
海未の説教を聞きながら、穂乃果は鞄を抱えた。
そこで思い出す。
「あっ!」
「何ですか!?」
「勇者部!」
「……は?」
「今日、お昼に話そう!」
海未は眉間を押さえた。
「朝から何を言っているんですか」
「大事な話なの!」
「分かりましたから、まず学校へ行きますよ!」
海未に急かされながら、穂乃果は笑っていた。
◇
昼休み。
いつもの場所。
いつもの三人。
幼い頃から一緒にいる三人にとって、昼休みに顔を合わせることは特別なことではない。
穂乃果はパンを片手に、昨夜から考えていた話をようやく切り出した。
「というわけで、勇者だよっ! 勇者!」
「は?」
海未の箸が止まった。
ことりも目を瞬かせる。
「だから勇者!」
「いえ、それは聞こえています」
海未は眉をひそめた。
「問題は、どうして昼休みの冒頭から突然その話題になるのかということです」
「昨日ゲームをしてて思ったの!」
「ゲーム……?」
「うん!」
穂乃果は身を乗り出す。
「勇者って、困っている人を助けるんだよ!」
ことりが小さく頷いた。
「そういうゲーム、多いよね」
「そうそう! それで思ったの」
穂乃果は海未を見る。
「勇者って、なんか海未ちゃんみたいだなって!」
「……私が?」
「うん!」
海未はしばらく黙った。
「なぜですか」
「強いし!」
「それは勇者の条件なのですか?」
「優しいし!」
「……」
「正義感もあるし!」
「……」
「それに、かっこいい!」
「そんなわけないでしょう」
「えー!」
「私は普通の人間です」
海未は淡々と答えた。
穂乃果は頬を膨らませる。
「でも似てるもん」
「似ていません」
「ことりちゃんはどう思う?」
「え?」
突然振られたことりは、少し困ったように笑った。
「うーん……」
海未を見る。
それから穂乃果を見る。
「……ちょっと分かるかも」
「ことりまで……」
海未が肩を落とした。
「それでね!」
穂乃果は待っていましたとばかりに続ける。
「私たちも勇者になろうよ!」
「なれません」
「即答!?」
「勇者というのはゲームの中の存在でしょう」
「じゃあ、勇者部!」
「……部活?」
「そう!」
穂乃果は笑った。
「困っている人を助けるの!」
依頼を受ける。
困っている人のところへ行く。
三人で解決する。
ゲームの中の勇者と同じように、誰かの役に立つ。
「それで、依頼を解決したらクエストクリア!」
「ゲームが基準なのですね……」
ことりが楽しそうに笑った。
「でも、勇者部って面白そう」
「ことり!」
「えへへ」
海未は二人を見比べる。
穂乃果は本気で楽しそうだった。
ことりも、すでに付き合う気になっているらしい。
「……はぁ」
海未はため息をついた。
「部活にする必要があるのですか?」
「ある!」
「理由は?」
「その方が勇者っぽい!」
「……」
海未は何も言えなかった。
あまりにも穂乃果らしい理由だった。
「それで、部長は穂乃果ちゃん?」
「もちろん!」
「では、私は反対です」
「なんで!?」
「あなたが部長では、まともに活動できるとは思えません」
「ひどい!」
ことりが笑う。
海未は呆れながらも、完全に否定する気にはなれなかった。
穂乃果が思いつきで何かを始めるのは、今に始まったことではない。
だが。
今回は少し違う。
ゲームがきっかけなのは間違いない。
けれど、穂乃果がやりたいことはゲームの真似ではない。
困っている人を助けたい。
誰かの力になりたい。
その気持ちは本物なのだ。
海未には、それが分かっていた。
「……分かりました」
「本当!?」
「ただし、条件があります」
「条件?」
「まずは、部活動として成立させることです」
「もちろん!」
穂乃果は勢いよく頷いた。
「それなら、放課後に申請書をもらいに行きましょう」
「うん!」
ことりも頷く。
「三人で行こう」
穂乃果は笑った。
「勇者部、始めよう!」
この時。
三人のうち誰も、その言葉がどんな意味を持つことになるのかを知らなかった。
穂乃果にとっては、ただの憧れから生まれた部活動。
海未にとっては、幼馴染の思いつきから始まった新しい日常。
ことりにとっても、二人と一緒に過ごす時間の延長にすぎなかった。
少なくとも、この時は。
それが三人の人生を変える言葉になるとは、まだ誰も知らなかった。