放課後。
音ノ木坂学園の校舎には、昼間の喧騒が少しずつ消えていく時間が訪れていた。
教室から出てくる生徒たちの姿もまばらになり、廊下には部活動へ向かう足音や、友人同士の話し声が断続的に響いている。
そんな中を、穂乃果は一人で歩いていた。
向かっている場所は、音楽室。
目的は決まっている。
「真姫ちゃんいるかなぁ」
昨日も、その前の日も、穂乃果は音楽室を覗いていた。
別に約束をしているわけではない。
ただ、真姫があそこにいることが多いと知ってから、なんとなく足が向くようになっていた。
音楽室の前まで来る。
扉の向こうから、ピアノの音が聞こえてきた。
「いた!」
思わず声が漏れる。
穂乃果は扉を少しだけ開けると、中を覗き込んだ。
ピアノの前に座っている真姫が、鍵盤へ指を走らせている。
あの日と同じ姿だった。
けれど、今日は以前のように演奏が終わるまで黙って見ているつもりはない。
「真姫ちゃん!」
「……っ!」
指が止まった。
聞き慣れ始めた声に、真姫が振り返る。
「……また来たの?」
「うん!」
「何しに?」
「真姫ちゃんにお願いがあるの!」
「嫌」
「まだ何も言ってないよ!?」
「どうせろくでもないことだから」
「ひどい!」
穂乃果は頬を膨らませながら音楽室へ入っていく。
真姫はそんな穂乃果を見て、わずかに眉を寄せた。
この少女は、本当に遠慮というものを知らない。
最初に会ったときもそうだった。
西木野という名前を聞いても態度を変えず、ピアノを褒め、勝手に手を握り、友達になりたいと言ってきた。
それから何度か顔を合わせるようになった今も、その距離感はほとんど変わっていない。
普通なら、もう少しくらい相手の反応を見るものではないのか。
「それで?」
仕方なく真姫が尋ねる。
「曲を作ってほしいの!」
「……は?」
「曲!」
「聞こえてるわよ」
真姫は呆れたように息を吐いた。
「なんで私が?」
「真姫ちゃん、ピアノ上手だから!」
「ピアノが弾けることと曲を作ることは別でしょう」
「でも真姫ちゃんならできるよ!」
「できるできないの話じゃないの!」
真姫は椅子から立ち上がった。
「そもそも、なんで私なのよ」
「真姫ちゃんのピアノを聴いたから」
「……」
「すっごく綺麗だったから!」
真姫は言葉に詰まった。
あの日と同じだった。
穂乃果の言葉には、計算がない。
西木野家だからでもない。
自分の成績やピアノの実績を知っているからでもない。
ただ、自分の演奏を聴いて、そう思った。
それだけ。
「……無理」
真姫は視線を逸らした。
「私、そんなの作ったことないし」
「じゃあ初めて作ってみようよ!」
「簡単に言わないでよ!」
「お願い!」
「無理!」
「お願い!」
「だから無理だって!」
「お願い!」
「……しつこい」
真姫は額を押さえた。
こういうとき、どうすればいいのか分からない。
大人相手なら、いくらでも対応できる。
祖父の仕事関係者。
両親の知人。
家の付き合いで顔を合わせる人々。
そういう場では、相手が何を求めているのかを考えて、それに合わせた受け答えをすることができる。
けれど。
同年代の女の子に、ただ「お願い」と言われたときの正しい答えなど、真姫は知らなかった。
「……穂乃果」
「なに?」
「そういうの、誰にでも頼んでるの?」
「ううん」
「じゃあ、なんで私なのよ」
「真姫ちゃんだから」
「……」
まただ。
この子は時々、真姫が一番困る答えを平然と返してくる。
「……ムリムリ」
「えー」
「絶対無理」
「じゃあ、考えておいて!」
「考えるだけならね」
「やった!」
「やったじゃないわよ」
穂乃果は満足そうに笑った。
「じゃあまたね、真姫ちゃん!」
「はいはい」
穂乃果は手を振ると、そのまま音楽室を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻った。
真姫はしばらくその扉を眺めていた。
「……何なのよ、あの子」
誰も答えない。
真姫は小さく息を吐き、ピアノの前へ戻った。
鍵盤へ手を置く。
さっきまで弾いていた曲を再開しようとした。
しかし。
指が動かない。
「……」
頭の中に、穂乃果の声が残っていた。
――真姫ちゃんだから。
「……馬鹿みたい」
真姫は呟いた。
そして、鍵盤を一つ押した。
音が鳴る。
もう一つ。
さらに一つ。
気がつけば、真姫は新しい旋律を探していた。
◇
それから数日。
穂乃果は毎日のように音楽室へ顔を出した。
「真姫ちゃん、曲できた?」
「まだ」
「そっか!」
翌日。
「真姫ちゃん、どう?」
「まだよ」
「そっか!」
さらに翌日。
「真姫ちゃん!」
「……何よ」
「曲!」
「まだ!」
「そっか!」
真姫は思った。
どうしてこの子は、断られているのに嬉しそうなのだろう。
普通なら、少しくらい落ち込んでもいいはずだ。
けれど穂乃果は、真姫が話してくれたことそのものを喜んでいるようだった。
そして四日目。
穂乃果が音楽室の扉を開ける。
「真姫ちゃん――」
「……これ」
「え?」
真姫は穂乃果の方を見ないまま、机の上に置いてあった小さな記録媒体を差し出した。
「曲」
「……え?」
「だから、作ったの」
穂乃果の目が大きく見開かれる。
「本当に!?」
「声大きい!」
「だって!」
穂乃果は記録媒体を受け取ると、大事そうに両手で握った。
「ありがとう、真姫ちゃん!」
「……別に」
「すごいよ!」
「まだ聴いてないでしょ」
「あっ」
「それに、完成ってわけじゃないから。ちゃんと歌を入れてみないと分からない部分もあるし」
「それでも嬉しい!」
穂乃果は満面の笑みを浮かべていた。
真姫は思わず視線を逸らす。
「……暇だったから作っただけよ」
「うん!」
「本当に暇だっただけだから」
「うん!」
「だから、そんなに喜ばなくても――」
「ありがとう!」
もう一度言われた。
真姫はそれ以上、何も言えなくなった。
自分でも分かっている。
暇だったから作ったわけではない。
最初の日から、ずっと考えていた。
穂乃果の声なら、どんな旋律が合うのか。
明るい曲がいいのか。
少しだけ切ない曲にするのか。
歌う人間が楽しくなれる曲にするにはどうすればいいのか。
そんなことを考えながら、何度も鍵盤を叩いた。
作っている間は、嫌ではなかった。
むしろ――。
「……」
真姫は自分でも気づかないうちに、ほんの少しだけ笑っていた。
「真姫ちゃん?」
「な、何よ」
「今、笑った?」
「笑ってない!」
「笑ってたよ?」
「笑ってない!」
「そっかぁ」
穂乃果は楽しそうに笑う。
真姫は顔を逸らした。
こういう時間が、嫌いではない。
それを認めることには、まだ少し抵抗があった。
けれど。
少なくとも。
穂乃果が音楽室へ来ることを、真姫はもう嫌だとは思わなくなっていた。
「じゃあ、これ使っていい?」
「……ちゃんと聴いてからにして」
「うん!」
「それと、変なところがあったら言って」
「真姫ちゃんに?」
「そうよ」
「じゃあ、また来るね!」
「……ええ」
穂乃果が音楽室を出ていく。
扉が閉まる。
再び静かな音楽室。
真姫は一人、ピアノの前に座った。
そして、先ほどまで穂乃果と話していた時間を思い出す。
「……友達って」
ぽつりと呟く。
その言葉の意味を、真姫はまだよく知らない。
けれど。
誰かに頼られて。
誰かのために曲を作って。
完成したものを渡したときに、あんな顔で喜んでもらえる。
それが悪いものではないことくらいは、分かる気がした。
真姫は鍵盤に指を置く。
穂乃果に渡した曲とは別の旋律を、静かに弾き始めた。
音楽室には、柔らかなピアノの音だけが響いていた。