放課後の音楽室には、何度目かになる音楽が流れていた。壁際には使わなくなった机と椅子がまとめられ、普段より広くなった床の上を、四人が音楽に合わせて動いている。中央に立つにこが全体の動きを確認し、その左右を海未とことりが支え、少し離れたところで穂乃果が二人の動きを追いながら必死についていく。曲そのものはもう何度も聞いている。穂乃果が真姫に頼み込んで作ってもらった音源も、今では四人の練習に欠かせないものになっていた。
「穂乃果、半拍遅れてる!」
曲の途中で、にこの声が飛んだ。穂乃果が慌てて足を止めそうになるが、海未がすぐ横から次の動きを示す。
「次は右足です!」
「右……!」
穂乃果が慌てて踏み出す。どうにか振り付けには戻れたものの、今度は歌の入りが遅れた。
「歌!」
「えっ、歌も!?」
「当たり前でしょ! 踊りだけ覚えてどうするのよ!」
「そんな一気にできないよ!」
「できるようになるまでやるの!」
にこが容赦なく言い切る。その横でことりが小さく笑いながら、穂乃果の動きを確認していた。
「でも、さっきよりは良くなってるよ。最初はサビに入る前から遅れてたもん」
「本当!?」
「うん。今は一回遅れただけ」
「一回だけなら、かなり成長してる!」
「そこで満足しないの!」
にこが音源を止めた。
「もう一度。今のところだけやるわよ」
「はい!」
すぐに音楽が再生される。穂乃果は今度こそ遅れないように、次の動きを頭の中で先回りしながら身体を動かした。音を聞いてから動くのでは遅い。にこに何度も言われた言葉を思い出し、ほんの少しだけ早く足を出す。今度は綺麗に揃った。
「そう、それ!」
にこが声を上げる。
「できた!」
穂乃果が嬉しそうに振り返る。
「今のタイミングを忘れないで。もう一回やって同じようにできたら、本当に覚えたってことだから」
「分かった!」
再び同じ部分を繰り返す。今度も成功する。穂乃果は思わず拳を握った。
「やった!」
「だから、そこで喜んでないで次!」
「はい!」
そのやり取りを何度か繰り返しているうちに、穂乃果の動きは少しずつ形になっていった。最初は海未の動きを追いかけるだけだったのが、今では曲の流れを意識して自分から動けるようになっている。まだぎこちなさは残っているものの、練習の成果は確実に出始めていた。
ただし、それとは別の問題もあった。
「じゃあ、今度は最初から最後まで通すわよ」
にこが音源を再生する。
「最後まで?」
「そう。途中で止めないから、間違えてもそのまま続けること」
「分かった!」
穂乃果は元気よく答えたが、その直後に大きく息を吸った。何度も同じ部分を繰り返したせいで、すでに身体には疲労が溜まっている。それでも本人は気にしていないらしい。
音楽が始まった。
四人が決められた位置につき、曲に合わせて動き始める。にこは中央で歌いながら、時折視線だけを動かして三人の位置を確認していた。海未は正確な動きでそれに合わせ、ことりも無理なく全体の流れに溶け込んでいる。穂乃果はその二人に遅れないよう、必死に身体を動かしていた。
最初のうちは問題なかった。
けれど曲が進むにつれ、穂乃果の呼吸が少しずつ荒くなっていく。歌声が弱くなり、腕の動きもわずかに鈍っていった。それでも穂乃果は止まらない。むしろ遅れを取り戻そうとして、必要以上に大きく身体を動かしている。
海未がそれに気づいた。
「穂乃果、無理を――」
声をかけた瞬間、穂乃果の足がもつれた。
「……っ!」
海未が咄嗟に腕を伸ばす。穂乃果は転倒こそ免れたものの、その瞬間ににこが音源を止めた。
「ストップ!」
音楽が途切れる。
穂乃果はその場で立ったまま、肩を大きく上下させていた。
「……大丈夫」
「その顔で言われても説得力ない!」
にこがすぐに駆け寄る。
「座りなさい!」
「でも、まだ途中……」
「いいから!」
穂乃果は渋々その場に座り込んだ。ことりがすぐに水筒を取りに行き、戻ってくると穂乃果の手に渡す。
「はい。ゆっくり飲んでね」
「ありがとう……」
穂乃果は水を飲みながら、ようやく呼吸を整え始めた。
「……疲れたぁ」
「そりゃ疲れるわよ。何回踊ったと思ってるの」
にこが呆れたように言う。
「でも……海未ちゃんたちは平気そうなのに」
穂乃果が三人を見る。
海未も汗をかいている。ことりも呼吸が少し速くなっている。にこだって疲れている。それでも、自分ほど苦しそうではない。
「私は普段から身体を動かしていますから」
海未が答えた。
「私も、こういう練習には少し慣れてるからかな」
ことりも穏やかに笑う。
「私はアイドル研究部の部長よ? これくらいでへばってたら、ライブなんてできないでしょ」
にこは当然のように言った。
穂乃果は三人を見比べた。
海未は何でもきちんとできる。ことりも自然に周りに合わせられる。にこは厳しいけれど、歌も踊りも自分よりずっと上手い。
「やっぱりみんなすごいなぁ……」
その声に、悔しさや羨ましさはなかった。
本当に、ただ感心している。
自分にはまだできないことを、三人は当たり前のようにやっている。それが穂乃果には純粋に「すごい」と思えた。
「私も頑張らないと!」
穂乃果が立ち上がろうとする。
「だから休憩!」
にこが肩を押さえた。
「えー!」
「えーじゃない!」
「でも、みんなはまだできるんでしょ?」
「できるからって、あんたまで同じようにやる必要はないの。休むのも練習のうちよ」
「……分かった」
穂乃果は大人しく座り直した。
しばらくして呼吸が落ち着いてくると、穂乃果は何気なくスマートフォンへ視線を向けた。そこから流れているのは、真姫が作ってくれた曲だ。
「……やっぱり真姫ちゃん、すごいなぁ」
穂乃果がぽつりと言った。
「何よ、急に」
にこが音源を確認しながら顔を上げる。
「だって、この曲すごくいいじゃん。私、こういう曲を作れるなんて思わなかったもん」
「まあ、それはそうね」
にこも改めて音源へ耳を傾ける。
「テンポも悪くないし、歌いやすい。練習する側のこともちゃんと考えてあるみたいね」
「でしょ?」
穂乃果が嬉しそうに笑う。
「お願いしたときは『ムリムリ』って言ってたのに、ちゃんと作ってくれたんだよ」
「……へえ」
にこが少し意外そうな顔をする。
「あの西木野がねぇ」
「うん!」
穂乃果は何の疑いもなく頷いた。
「だから、ちゃんと頑張らないとね!」
「そういうところだけは、本当に真っ直ぐよね」
にこが呆れたように笑った。
休憩を終えると、今度は曲全体ではなく、細かな部分を一つずつ確認していくことになった。サビへ入る直前の足運び、腕を上げるタイミング、四人の立ち位置、歌いながら移動する場所。にこが全体を見ながら修正し、海未は穂乃果が遅れそうになるとさりげなく次の動きを示し、ことりは四人の間隔が崩れたときに自然に位置を調整する。
「穂乃果、今のは早い!」
「ここ?」
「そう!」
「じゃあ、もう一回!」
「最初から!」
「はい!」
音楽が流れ、四人が動く。
失敗する。
止める。
修正する。
またやる。
同じことを何度も繰り返すうちに、穂乃果の動きが少しずつ変わっていった。
「今の、良かったわよ」
「ほんと!?」
「ええ」
海未も頷く。
「かなり安定してきました」
「ことりもそう思う?」
「うん。最初よりずっと自然になってる」
「やった!」
穂乃果は嬉しそうに笑った。
それから最後に、もう一度だけ曲を最初から通すことになった。
「今度は途中で止めないわよ」
にこが言う。
「うん!」
音楽が始まる。
四人が動き出す。
穂乃果はやはり苦しい。身体は重いし、息も上がる。それでも今度は、ただ海未を追いかけるだけではなかった。次に何をするのかを自分で考え、音楽を聞きながら身体を動かす。
一度だけ足が遅れた。
けれど止まらない。
そのまま次の動きへ移る。
にこも何も言わなかった。
最後の音が消える。
四人がポーズを決めたまま、数秒だけ静寂が続いた。
「……どう?」
穂乃果が息を切らしながら尋ねる。
にこは少し考え、それから頷いた。
「今のなら、最初よりずっといい」
「ほんと!?」
「まだ本番に出すには練習が必要だけどね」
「でも、良かったんだ!」
「そう言ってるでしょ」
「やったぁ!」
穂乃果が両手を上げる。
海未が笑った。
「確かに、かなり良くなりましたね」
「うん。ちゃんと練習した分だけ、できるようになってるよ」
ことりも笑う。
「明日も頑張ろうね!」
穂乃果が三人を見る。
「もちろんです」
「うん」
「当然でしょ」
三人の返事が重なった。
練習を終え、音楽室を片付ける。机を元の位置へ戻し、音源を保存し、忘れ物がないか確認する。穂乃果が最後に鞄を持ち上げたところで、足元が少しふらついた。
「ほら」
海未がすぐに支える。
「無理をしないでください」
「……ごめん」
「謝る必要はありません。今日は十分頑張ったでしょう」
ことりも笑いながら穂乃果の荷物を少し持つ。
「帰ったらちゃんと休もうね」
「うん!」
穂乃果は素直に頷いた。
音楽室を出る。
まだ本番ではない。
曲ができただけで、ステージが完成したわけでもない。穂乃果には覚えなければならないことがまだたくさんあり、四人の動きも完全に揃ったわけではない。
それでも、今日できなかったことが明日にはできるかもしれない。
そのために、また練習する。
穂乃果にとっては、それだけのことだった。
「明日はもっと上手くなるよ!」
廊下に響いた声に、にこが振り返る。
「その前に、ちゃんと寝なさいよ!」
「分かってる!」
穂乃果が笑う。
音楽室の扉が閉まり、静かになった廊下に、四人の足音だけが続いていった。