音ノ木祭り当日。校内は朝から普段とは違う賑わいに包まれていた。校舎のあちこちには祭りに合わせた飾り付けが施され、普段は授業や部活動のために使われている場所にも、人の声や音楽が絶えず響いている。神樹への感謝を表す祭りということもあって、学校だけの行事という雰囲気ではない。近隣から訪れた人々の姿も多く、普段の音ノ木坂を知る穂乃果にとっても、少しだけ違う場所に来たような感覚があった。
その中で、アイドル研究部の出番も近づいていた。
「……本当に大丈夫かな」
ステージ袖から客席を覗き込みながら、穂乃果が小さく呟く。
昨日まで何度も練習した。
何度も間違えた。
海未に動きを直してもらい、ことりに位置を教えてもらい、にこには何度も「そこ違う!」と怒られた。それでも、今日になってみれば、覚えた振り付けが頭から抜けてしまうような気がしてならない。客席には思っていた以上に人がいる。ステージの前だけではなく、その周囲にも祭りを楽しんでいる人々が集まっていて、少し離れた場所からこちらを見ている人までいた。
「穂乃果」
隣から海未が声をかける。
「顔が硬くなっていますよ」
「だって緊張するよ!」
「昨日まであれだけ練習したではありませんか」
「それはそうなんだけど……」
穂乃果がもう一度客席を見る。その視線の先には、今日のステージを楽しみにしている人たちがいる。自分たちが失敗すれば、それを見られることになる。
「……ちゃんとできるかな」
「できますよ」
ことりが穂乃果の手を握る。
「だって、昨日よりずっと上手になったもん」
「ことりちゃん……」
「それに、今日は一人じゃないよ」
穂乃果が三人を見る。
海未はいつも通り落ち着いている。ことりは柔らかく笑っている。そして、その少し前ではにこがステージの方を確認していた。
「……何をぼーっとしてるのよ」
振り返ったにこが言う。
「もうすぐ始まるわよ」
「にこちゃん、緊張しないの?」
「するわよ」
「するんだ!?」
「当たり前でしょ。私だって本番は本番なんだから」
そう言いながらも、にこの声には不思議なほど落ち着きがあった。
「でも、緊張してるからって動きまで止めるわけにはいかないでしょ」
にこは衣装を整え、髪を軽く直す。それから三人を見る。
「昨日やったことをそのままやればいいの。余計なことは考えなくていい」
「うん!」
「それから穂乃果」
「なに?」
「私の後ろから勝手に離れないこと。昨日も途中で位置がずれたでしょ」
「あれは……」
「言い訳禁止」
「はい……」
海未が苦笑する。
「本番直前でも相変わらずですね」
「何よ」
「いえ」
ことりも笑っている。
やがて、ステージ側から開始を知らせる声が聞こえた。
「時間よ」
にこが言う。
四人がステージへ向かう。
照明が視界に入った瞬間、穂乃果は思わず息を呑んだ。客席から向けられる視線が一斉にこちらへ集まる。練習していた音楽室とは何もかもが違う。広さも、音の響き方も、人の数も。
それでも、中央へ歩いていくにこの姿を見ていると、不思議と落ち着いてきた。
にこが振り返る。
「行くわよ」
「うん!」
音楽が始まった。
最初の一音が響いた瞬間、にこの表情が変わった。
さっきまでの緊張した少女の顔は消え、ステージの中央に立つアイドルの顔になる。客席へ向けて笑顔を作り、音楽に合わせて身体を動かし、歌声を響かせる。その動きには、音楽室で練習していたときとは明らかに違うものがあった。
「……すごい」
穂乃果は一瞬だけ、にこの背中を見た。
けれど次の瞬間には、自分の動きを思い出していた。
昨日、何度も練習した場所。
サビに入る前に右足を出す。
音を聞いてから動くのではなく、次の流れを予測して身体を動かす。
穂乃果は息を吸い、にこの動きに合わせた。
今度は遅れなかった。
曲が進む。
海未もことりも自然に動いている。四人の距離が少しずつ変わり、立ち位置が入れ替わっていく。その中心にいるにこは、客席の視線を一身に受けながらも、三人の動きを確認する余裕を失っていない。
穂乃果が一瞬だけ足元を気にした。
けれど、にこの声が聞こえる。
歌いながら、ほんの少しだけ穂乃果へ視線を向けていた。
大丈夫。
そう言われたような気がした。
穂乃果は前を向いた。
歌う。
踊る。
昨日まで何度も繰り返した動きを、今度は客席の前で繰り返す。
途中で一度だけ、足の動きがわずかに遅れた。
けれど止まらなかった。
海未が自然に合わせ、ことりもその動きを受ける。
そして、にこは何事もなかったように曲を続けた。
最後のサビへ入る。
四人の声が重なった。
穂乃果は、音楽室で練習していたときとは違う感覚を覚えていた。
目の前には大勢の人がいる。
自分たちを見ている。
それなのに、不思議と怖くない。
隣には海未がいる。
ことりがいる。
そして中央には、にこがいる。
だから歌える。
だから踊れる。
最後の音が響き、四人が揃ってポーズを取った。
一瞬の静寂。
その直後、客席から大きな拍手が起こった。
「……!」
穂乃果が目を見開く。
聞こえてくる歓声に、胸がいっぱいになる。
にこが顔を上げる。
その表情には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
四人がステージを降りる。
「やったぁ!」
袖に戻った瞬間、穂乃果が両手を上げた。
「できた! ちゃんとできたよ!」
「ええ。大きな失敗はありませんでしたね」
海未が微笑む。
「穂乃果ちゃん、サビのところもちゃんとできてたよ」
「本当!?」
「うん!」
ことりが頷く。
穂乃果は嬉しそうに二人を見る。
そして最後に、にこへ向き直った。
「にこちゃん、すごかった!」
「当然でしょ」
にこは胸を張った。
「私はアイドル研究部の部長なんだから」
「でも、本当にすごかった! ステージに出たら、にこちゃんが全然違って見えた!」
「……そう?」
「うん!」
穂乃果は心から嬉しそうに笑う。
「私も、もっと上手くなりたい!」
「だったら、今日のことをちゃんと覚えておきなさい」
にこが言う。
「ステージに立ったとき、自分が何を考えてたか。どこで緊張したか。どこが上手くできたか。そういうのを覚えておけば、次はもっと良くできるから」
「うん!」
穂乃果が大きく頷く。
少し離れたところでは、祭りの音がまだ続いている。別の催しを知らせる声も聞こえ、客席からは次のステージを待つ人々のざわめきが聞こえてくる。
ほんの数分前まで、四人はその中心にいた。
にこを中心にして、四人で同じ音楽を聞き、同じ振り付けを踊り、同じステージに立った。
その時間は、確かに楽しかった。
にこもそう思っていた。
だからこそ、ステージを降りた彼女の顔には、いつもの厳しさよりも少しだけ柔らかなものが残っていた。
「……まあ、悪くなかったわね」
「うん!」
穂乃果が笑う。
「すごく良かった!」
にこは照れたように顔を逸らした。
「次はもっと良くするわよ」
「もちろん!」
四人の笑い声が、祭りの喧騒の中へ溶けていった。
◇
最後の音が止まった。
一瞬の静寂のあと、客席から大きな拍手が起こった。
にこはステージの中央で息を整えながら、顔を上げる。
目の前に広がる客席には、笑顔があった。
その中には、音ノ木祭りを楽しみにしていた人たちもいれば、たまたま足を止めてライブを見ていた人たちもいる。けれど、少なくとも今、この場所にいる人たちは自分たちのステージを見てくれていた。
にこは胸を張る。
隣には穂乃果、海未、ことりがいる。
最初はどうなることかと思った。
穂乃果は体力が足りない。海未は動きが妙に固い。ことりは覚えるのが早いとはいえ、こういうステージは初めてだった。
それでも、最後までやり切った。
にこは客席へ向かって一礼する。
穂乃果たちも、それに続いた。
もう一度拍手が大きくなる。
「やったぁ!」
ステージを降りた瞬間、穂乃果が両手を上げた。
「終わったよ、ことりちゃん! 海未ちゃん!」
「ええ。なんとか最後までできましたね」
「うん! すっごく楽しかった!」
ことりも嬉しそうに笑う。
にこはそんな三人を見ながら、肩をすくめた。
「まあ、初めてにしては悪くなかったんじゃない?」
「本当!?」
穂乃果がすぐに食いつく。
「うん。にこちゃんがそう言うなら成功だね!」
「ちょっと、誰が基準よ」
そんなやり取りをしながら、四人はステージの片付けを手伝った。
機材を運び、使った道具を戻し、最後まで残っていた観客が帰っていくのを見送る。
ライブが終わってしまうと、さっきまであれほど大きかった音も、人の声も、少しずつ消えていった。
祭りそのものはまだ続いている。
けれど、アイドル研究部の出番は終わった。
「じゃあ、私たちも帰ろうか」
穂乃果がそう言うと、三人が頷いた。
途中までは四人で歩いた。
今日のライブについて話しながら、穂乃果が何度も自分の動きを確認する。
「私、最後のところちゃんとできてた?」
「できていましたよ」
「本当?」
「ええ。ただし、最初の方は少し――」
「海未ちゃん、それはもういいって!」
ことりが笑い、にこも呆れたように笑う。
そんな時間がしばらく続いた。
やがて、それぞれの帰る方向が分かれる。
「じゃあ、また明日!」
「お疲れ様でした」
「またね、にこちゃん!」
「はいはい。気をつけて帰りなさいよ」
穂乃果たちの姿が遠ざかっていく。
にこはその背中を少しだけ眺めてから、自分の帰る道へ向き直った。
さっきまで三人と一緒だった道が、急に広く感じる。
「……今日は、まあまあだったわね」
独り言のように呟きながら歩く。
ライブのことを考える。
穂乃果の動き。
海未の真面目すぎるところ。
ことりの覚えの早さ。
そして、自分自身のステージ。
こうして一人になると、さっきまで隣にいた三人が少し遠く感じた。
「次やるなら、もうちょっと練習させないとね」
そんなことを考えていたときだった。
街中に警報が響いた。
にこの足が止まる。
さっきまで祭りの余韻に包まれていた空気が、一瞬で変わった。
『樹海化警報。付近の住民は係員の指示に従い、速やかに避難してください』
周囲の人々が動き始める。
にこも周囲を見回した。
さっきまで一緒にいた穂乃果たちは、もうここにはいない。
連絡を取る必要はない。
というより――。
「……私が行けばいいだけでしょ」
にこは人の流れから外れた。
避難する人々とは逆方向へ向かう。
街の明かりが遠ざかっていく。
そして、世界が変わった。
建物が七色の光に包まれ、街路も空も現実とは違う色へ変わっていく。
樹海。
にこは足を止めた。
先ほどまでの祭りの音は、もう聞こえない。
人の声もない。
隣に誰もいない。
にこは右手を前へ伸ばした。
光が集まり、一本の槍へと形を変える。
柄を握る。
その表情から、さっきまでのアイドルとしての笑顔が消えた。
「……行きましょ」
樹海の奥から、何かが動いた。
木々が揺れる。
重い足音が近づいてくる。
にこは槍を構えた。
そして、その姿が木々の間から現れた。
にこは槍を構えたまま、その方向を見つめていた。先ほどまで街を包んでいた祭りの喧騒は、もうどこにもない。七色に染まった世界の中で聞こえるのは、遠くの木々が揺れる音と、こちらへ近づいてくる重い足音だけだった。
木々の間から姿を現したものを見て、普通の人間なら足を止めるだろう。
それは獣の形をしていた。
熊を思わせる巨大な胴体に、狼のような頭部。四本の脚は大型の肉食獣を思わせる一方で、前脚だけは異様に長く、その先には腕と爪の境界が分からないほど大きな鉤爪が伸びている。背中には骨とも角ともつかない突起が並び、全身を覆う硬質な外殻が七色の光を鈍く反射していた。
どの部分も、見覚えのある生き物に似ている。
なのに全体として見ると、自然界には決して存在しない。
頭部が持ち上がり、口が大きく開いた。獣のものとは思えないほど奥行きのある顎の向こうから低い唸りが漏れ、にこへ向けられた視線には生き物らしい感情すら感じられなかった。
ただ、目の前にいるものを獲物として認識している。
人間の身体は、こういうものを本能的に恐れる。
近づいてはいけない。
逃げなければならない。
そう判断するように作られている。
けれど、にこは槍を構えたまま動かなかった。
「……怖がらせるつもり?」
獣が身体を低くする。
にこはその動きを見て、槍をわずかに引いた。
「悪いけど、今さらそんなので怯えないわよ」
獣が地面を蹴った。
巨体が一気に迫る。
その速度は、見た目から想像するより遥かに速かった。四本の脚が地面を強く蹴るたびに距離が縮まり、巨体が視界いっぱいに広がっていく。
にこは動かない。
獣がさらに近づく。
前脚が持ち上がり、巨大な爪が振り下ろされる。
届く直前、にこは身体を横へ滑らせた。
爪がすぐ脇を通り過ぎ、地面へ叩きつけられる。砕けた土が舞い上がる中、にこはすでに獣の側面へ回っていた。槍を身体の後ろへ引き、獣が振り向くより先に腰を回して穂先を突き出す。
硬い外殻を槍が削った。
深くは入らない。
にこはそこで無理をせず、槍を引き抜きながら後方へ跳んだ。
獣が振り返る。
そして、また走り出した。
「またそれ?」
今度も突進。
にこは足を止めず、獣の進路を見ながら少しずつ横へ移動する。敵の速度が落ちることはない。正面から受ければ、その重量だけで身体を持っていかれる。
だから、受けない。
獣が跳びかかる。
にこは身体を低くして、その下を抜けた。
頭上を巨体が通過する。
着地する前ににこは振り返り、槍を突き出した。今度は胸元を狙う。穂先が外殻の継ぎ目へ入り、確かな手応えが返ってきた。
獣が身体を捻る。
にこは槍を引き抜いて距離を取った。
追ってくる。
また突進してくる。
獣には複雑な戦い方などない。
目の前の敵へ向かい、爪を振るい、噛みつき、何度でも身体ごとぶつかってくる。
だからこそ、一撃一撃が重い。
にこはそのたびに避けた。
右から来れば左へ。
正面から来れば身体をずらす。
爪が振られれば、その軌道を外れる。
そして、避けた直後だけ槍を突き込む。
攻撃して、離れる。
また攻撃して、離れる。
無理に倒そうとはしない。
一度の攻撃で決めようとすれば、相手の巨体に巻き込まれる。
だから、確実に削る。
槍が外殻を削るたびに傷が増えていく。胸元に一つ、脇腹に一つ、前脚の付け根にも浅い傷が残る。
それでも獣は止まらない。
むしろ傷を負ったことで、さらに荒々しく突っ込んでくる。
「……本当にしつこいわね」
にこは呼吸を整えながら、槍を構え直した。
汗が頬を伝っている。
足にも少しずつ疲労が溜まってきていた。
けれど、獣の動きも最初とは違う。
何度も突進を繰り返したせいで、脚の動きがわずかに重くなっている。
胸元の傷からは、七色の光が漏れている。
「もう少し……」
獣が再び身体を低くする。
にこも腰を落とした。
また来る。
そう分かっていても、恐怖は消えない。
目の前から巨大な獣が迫ってくる。あの爪に捕まれば終わる。あの顎に噛みつかれれば、ただの人間なら耐えられない。
それでも、にこは目を逸らさない。
怖いからこそ、見る。
敵がどこから来るのか。
どこへ逃げればいいのか。
どこなら自分の槍が届くのか。
獣が走り出す。
にこはぎりぎりまで待った。
巨体が迫る。
前脚が伸びる。
爪が届く直前、にこは一歩だけ横へ踏み出した。
獣が目の前を通り過ぎる。
その瞬間、にこは槍を突き出した。
これまで何度も狙ってきた胸元の傷へ、穂先が正確に入り込む。
「ここ!」
今度は深い。
にこは両手で柄を握り、全身を使って槍を押し込んだ。
獣が大きく身体を揺らす。
それでもにこは手を離さない。
数秒の抵抗。
やがて力が抜けたのを感じると、にこは槍を引き抜いた。
獣の身体に広がった亀裂から七色の光が溢れ、巨大な身体そのものが崩れ始める。
最後まで獣はにこへ向かおうとした。
だが、脚が地面を捉えることはもうなかった。
身体が傾き、外殻が光の粒へ変わっていく。
やがて、その異形の姿は完全に消えた。
にこはしばらく槍を構えたまま立っていた。
もう動かない。
敵が消えたことを確認してから、ゆっくりと槍を下ろす。
「……終わった」
息を吐く。
楽な戦いではなかった。
何度か危ない場面もあったし、まともに攻撃を受けていれば無事では済まなかっただろう。
それでも、にこは最後まで逃げなかった。
恐ろしい姿をしていた。
巨大で、速くて、力もある。
人間なら、本能的に恐怖を覚えて当然の相手だった。
けれど、にこにとっては、それだけだった。
怖い。
だからどうする。
槍を握る。
目の前を見る。
そして、倒す。
にこは槍を消した。
静まり返った樹海を一人で歩き始める。
今日のステージでは、隣に穂乃果たちがいた。
歌っている間も、踊っている間も、一人ではなかった。
けれど、勇者として戦うときには誰もいない。
にこの背中を見送る者も、戦いを褒める者もいない。
ただ一人で、来た道を戻っていく。
その足取りは、決して軽くはなかった。
それでも、迷いはなかった。