昼休みが終わった。
穂乃果にとっては、非常に不本意な形で。
「……どうしてこうなったの?」
机に突っ伏した穂乃果が、恨めしそうに呟く。
「自業自得です」
その隣で、海未は淡々と答えた。
「ゲームをすること自体を悪いとは言っていません。ですが、昨日の課題を一つもやってきていないというのはどういうことですか」
「だって、ゲームの最後が気になって……」
「最後までやったのでしょう?」
「うん」
「なら、なぜ課題をやる時間がなかったのですか」
「……夜中までやってたから」
「それを自業自得と言うのです!」
「うぇぇ……」
海未の説教は長かった。
それこそ、昼休みの大半を使ってしまうほどに。
ことりはその横で、苦笑いを浮かべながら二人を見ていた。
「まあまあ、海未ちゃん。穂乃果ちゃんも反省してるみたいだし」
「ことりは穂乃果に甘すぎます」
「そうかな?」
「そうです」
「うぇぇ……ことりちゃんまで怒ってる……」
「私は怒ってないよ?」
ことりが笑う。
「ただ、次からはちゃんと宿題しようね」
「……はい」
穂乃果は小さく頷いた。
だが。
「それと、追加の課題です」
「え?」
「当然でしょう」
「えええええ!?」
昼休みが終わる直前まで、穂乃果は追加の課題に追われることになった。
◇
放課後。
「終わったぁ……」
穂乃果は机に突っ伏した。
追加された課題をようやく終わらせたのだ。
海未がその答案を確認する。
「……一応、全部終わっていますね」
「一応って何!?」
「普段からこのくらい真面目にやっていれば、私も何も言わないのです」
「もういいじゃん! それより勇者部!」
「そうでしたね」
海未はため息をついた。
昨日までは、勇者部という名前自体に懐疑的だった。
勇者。
そんなものはゲームの中の存在だ。
現実の学校で、そんな名前の部活動を作る。
最初に聞いた時には、穂乃果らしい思いつきだと思った。
しかし。
穂乃果は本気だった。
ゲームをきっかけに思いついたことは間違いない。
けれど、穂乃果がやりたいことそのものは、ゲームの真似ではない。
困っている人を助けたい。
誰かの力になりたい。
その気持ちは本物だ。
海未には、それが分かっていた。
だからこそ。
「仕方ありませんね」
海未は職員室から受け取ってきた書類を机の上に置いた。
「これが部活動の設立申請書です」
「おおっ!」
穂乃果の顔が一気に明るくなる。
「書いていいの!?」
「条件があります」
「条件?」
「部長は穂乃果です」
「えっ?」
「自分で作ると言い出したのでしょう?」
「うん!」
「なら、最後まで責任を持ってください」
穂乃果は満面の笑みを浮かべた。
「任せて!」
「その言葉を、普段の生活でも聞きたいものです」
「海未ちゃん、それは今関係ないよ!」
「大いに関係あります」
ことりが二人を見て笑った。
「じゃあ、書こうか」
三人で申請書を囲む。
部の名称。
活動目的。
活動内容。
部員名。
穂乃果が勢いよく書き込んでいく。
そして活動内容の欄には、
『人助け等』
と書かれた。
「……」
海未がその文字を見る。
「もう少し具体的に書いた方がいいのでは?」
「でも、人助けするんだよ?」
「それはそうですが」
「困っている人を助ける!」
「……まあ、間違ってはいませんね」
結局、そのままになった。
申請書が完成する。
穂乃果はそれを両手で持ち上げた。
「これで、私たちも部活だね!」
「まだ申請しただけです」
「細かいことはいいの!」
「細かくありません」
「ことりちゃん!」
「うん?」
「海未ちゃんが厳しい!」
「海未ちゃんはいつも通りだよ」
「ことりまで!」
三人で笑いながら、教室を出る。
向かう先は、生徒会室だった。
◇
放課後の校舎は、昼間とは少し違っていた。
運動部が活動する校庭から、掛け声が聞こえてくる。
体育館からも、ボールを打つ音や誰かの声が響いている。
けれど、廊下には人が少ない。
部活動に参加する生徒と、帰宅する生徒。
それぞれがそれぞれの場所へ向かっている。
「……ねえ、海未ちゃん」
「何ですか?」
「やっぱり緊張する」
生徒会室の前。
穂乃果は扉を見つめたまま動かなかった。
「どうしてです?」
「だって生徒会だよ?」
「悪いことをして呼び出されたわけではありません」
「それでも……」
「穂乃果ちゃん、大丈夫だよ」
ことりが穂乃果の肩に手を置く。
「三人で来たんだから」
「ことりちゃん……」
穂乃果が少しだけ表情を緩める。
海未はそんな二人を見て、呆れたように息を吐いた。
「この程度で緊張する方がおかしいのです」
「海未ちゃんは平気なの?」
「当然です」
「ことりちゃんは?」
「私は……まあ、少しだけ」
「ほら!」
「穂乃果ちゃん、それは穂乃果ちゃんだけが特別緊張してるってことだよ?」
「うぅ……」
穂乃果が肩を落とす。
その様子を見ながら、海未は扉をノックした。
「どうぞ」
すぐに返事があった。
三人は顔を見合わせる。
「失礼します」
海未が扉を開ける。
生徒会室には二人の少女がいた。
一人は柔らかな笑みを浮かべて、三人を迎える。
「どうしたん?」
東條希。
そしてもう一人。
机に向かっていた金髪の少女が、ゆっくりと顔を上げた。
「希、誰?」
「部活動の申請やって」
「そう」
絵里は立ち上がった。
「申請書は?」
「こちらです」
海未が書類を差し出す。
絵里はそれを受け取った。
そして、最初の一行を見た。
「……」
穂乃果は期待した顔で絵里を見る。
「どうですか?」
絵里は答えない。
もう一度、書類を見る。
部活動名。
勇者部。
活動内容。
人助け等。
そして。
「……これは、何?」
「え?」
「この『勇者部』というのは何?」
声が変わっていた。
先ほどまでの事務的な雰囲気とは違う。
冷たい。
いや。
それよりも、何かを押し殺しているような声だった。
「勇者部です!」
穂乃果が答える。
「困っている人を助けるんです!」
「……勇者?」
絵里が、その言葉を繰り返した。
ほんの一瞬。
その目に、明らかな動揺が浮かんだ。
海未は見逃さなかった。
ことりも。
希も。
だが、穂乃果だけは気づいていない。
「はい!」
穂乃果は笑っている。
「昨日ゲームをやってて思いついたんです!」
「ゲーム……」
絵里の眉が僅かに動いた。
「そうです!」
海未が口を挟む。
「穂乃果は、困っている人を助ける活動をしたいと言っています。決してふざけているわけではありません」
絵里は海未を見る。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……ふざけているようにしか見えないわ」
「!」
穂乃果の顔から笑顔が消えた。
「ふざけてなんていません」
静かな声だった。
先ほどまでとは違う。
「私は、本気です」
絵里は穂乃果を見る。
その言葉を聞いても、表情は変わらない。
「そう」
「はい」
「それでも、認めるわけにはいかないわ」
「どうしてですか?」
今度は海未が尋ねた。
「同好会であっても、設立には最低五人の部員が必要なの」
「ですが、現在五人以下でも活動している部はあります」
「そうね」
絵里は淡々と答える。
「でも、設立した時には五人以上いたはずよ」
海未は言葉に詰まった。
確かに正論だった。
規則として決まっているなら、反論は難しい。
「あと二人……」
穂乃果が申請書を見る。
「あと二人いればいいんですよね?」
「最低条件としてはね」
絵里は答える。
「でも、それだけで認められるわけではないわ。活動内容についても審査される。顧問を引き受けてくださる先生が見つかるかどうかも分からない」
「……」
「それに」
絵里は少しだけ目を細めた。
「私は、勇者という名前を部活動につけること自体、賛成できないわ」
穂乃果が絵里を見る。
理由は分からない。
けれど。
少なくとも、ただの校則や部活動規定の問題ではない。
海未にはそう感じられた。
「分かりました」
穂乃果は申請書を受け取った。
「じゃあ、あと二人集めます」
「穂乃果」
海未が少し驚く。
「今日はこれ以上話しても、たぶん認めてもらえないから」
穂乃果は絵里を見た。
「ですよね?」
絵里は何も答えなかった。
穂乃果は軽く頭を下げる。
「ありがとうございました」
三人は生徒会室を出た。
扉が閉まる。
廊下を少し歩いてから、海未が口を開いた。
「穂乃果」
「うん?」
「怒っているでしょう」
「……ちょっと」
穂乃果は頬を膨らませた。
「人数とかルールのことじゃないよ」
「では?」
「勇者部を、ふざけてるみたいに言われたこと」
海未は黙った。
「きっかけがゲームだったのは本当だよ」
穂乃果は申請書を見る。
「でも、私が誰かを助けたいって思ったのは、本当だもん」
ことりが微笑む。
「うん」
「海未ちゃんも、ことりちゃんも一緒にやってくれるって言ってくれたし」
「……はい」
海未は答えた。
「だから、絶対に作る」
穂乃果の声には、さっきまでの落ち込みはもうなかった。
「でも、まずは部員を二人増やさないといけませんね」
「ううん」
「え?」
穂乃果は首を横に振った。
「いきなり勇者部に入ってくださいって言っても、誰も入ってくれないと思う」
「……まあ、それはそうでしょうね」
「だから先に、勇者部が何をする部なのか知ってもらおう」
海未が少し考える。
「つまり、活動実績を作る?」
「そう!」
穂乃果は笑った。
「困っている人を探そう!」
「なるほど」
海未は納得した。
確かに、先に活動している姿を見せれば、部員を集める際の説得材料にはなる。
ただ。
「問題は、どうやって困っている人を探すかですが」
「……」
「穂乃果?」
「……これから考える!」
「やっぱりそこまでは考えていないのですね」
「でも、困っている人は絶対どこかにいるよ!」
ことりが顎に指を当てる。
「それなら、ポスターとかチラシを作るのはどうかな?」
「それだ!」
穂乃果が手を叩く。
「勇者部、依頼募集中!」
「……校内に貼るには、また生徒会の許可が必要でしょうね」
「部員募集ってことにすれば?」
「依頼募集と書くなら、結局確認されると思いますよ」
「じゃあ、小さく書こう!」
「穂乃果ちゃん……」
ことりが苦笑する。
「でも、できることは何でもやってみようよ」
「うん!」
三人は歩きながら、具体的な方法を考え始めた。
ポスター。
チラシ。
口コミ。
まずは小さなことから。
困っている人がいるなら、その人を探す。
そして助ける。
それだけだ。
「なんか、本当に勇者っぽくなってきたね!」
穂乃果が笑う。
海未も、僅かに笑った。
「そうですね」
ことりも笑う。
「うん」
その時。
ことりのポケットの中で、スマートフォンが震えた。
「……あ」
ことりが足を止める。
「どうしたの?」
「お母さんから」
画面を見る。
母からの着信。
その名前を見た瞬間。
ほんの一瞬だけ。
ことりの表情が消えた。
「……ごめんね。先に帰る」
「え?」
「ちょっと用事があるの」
穂乃果は不思議そうにことりを見る。
「うん。じゃあ、また明日!」
「うん」
ことりは笑った。
いつもの笑顔。
けれど、その笑顔を見送った海未は、何も言わなかった。
ただ。
ことりが去っていった方向を、しばらく見つめていた。
その横で、穂乃果はまだ楽しそうに話している。
「明日はポスター作ろうよ!」
「そうですね」
「あと、依頼箱も作ろう!」
「依頼箱ですか?」
「そう!」
穂乃果は次々と案を出していく。
勇者部を作る。
困っている人を助ける。
誰かの役に立つ。
それは穂乃果にとって、とても単純なことだった。
だからまだ知らない。
自分が口にした「勇者」という言葉が。
この世界では、ただのゲームの主人公を意味する言葉ではないことを。
そして。
その言葉を聞いた瞬間、絵里が見せた表情の意味も。
ことりが母親からの電話を受けた時、一瞬だけ見せた顔の意味も。
海未は何も語らなかった。
ただ三人のうち、誰もがそれぞれの秘密を抱えたまま。
勇者部は、まだ名前だけの部活動として歩き始めた。