「……で、どうする?」
昼休み。
穂乃果は机の上に広げた一枚の紙を眺めていた。
昨日、生徒会から突き返された部活動申請書。
正確には、申請そのものを拒否されたわけではない。
部員が足りない。
顧問も決まっていない。
正式な活動として認めてもらうには、まだ越えなければならない条件がいくつもある。
だが。
「私は、もう始めちゃっていいと思うんだけどなぁ」
穂乃果が言った。
「何をです?」
海未が尋ねる。
「勇者部」
「……まだ正式に認められていませんよ」
「うん」
「でしたら、部活動として活動することはできません」
「じゃあ、部活動じゃなければいいんだよ」
海未が固まる。
「……どういう意味です?」
「困ってる人を助けるの」
「それは昨日も聞きました」
「だったら、部活として認められるのを待つ必要ないよね?」
穂乃果は笑った。
「勇者部って名前を使わなければいいんだもん」
海未は頭を抱えた。
「屁理屈です」
「そうかな?」
「そうです」
「でも……」
ことりが穂乃果の言葉を受ける。
「私は、いいと思うな」
「ことりまで……」
「だって、困っている人を助けること自体は悪いことじゃないでしょう?」
海未は二人を見る。
確かに、その通りだった。
部活動として認められていなくても。
誰かに頼まれて、その人の手助けをする。
それだけなら、何の問題もない。
「……具体的には何をするつもりですか?」
「それを今から考える!」
「考えていないのですね」
「えへへ」
「褒めていません」
穂乃果は気にせず立ち上がった。
「よーし! まずは学校の中で困っている人を探そう!」
◇
最初の仕事は、拍子抜けするほど簡単なものだった。
「この荷物を運んでくれる?」
教師に頼まれた教材の運搬。
「もちろん!」
穂乃果は二つ返事で引き受けた。
「穂乃果、全部持とうとしないでください」
「え?」
「重いでしょう」
海未が半分を受け取る。
「私はこっち持つね」
ことりも残った荷物を抱えた。
三人で運べば、さほど苦労することもない。
廊下を歩いていると、穂乃果が笑った。
「これって勇者っぽくない?」
「ただの荷物運びです」
「でも、人助けだよ?」
「……まあ、そうですね」
海未は少しだけ笑った。
次は、廊下の掃除だった。
清掃当番の生徒が体調を崩してしまい、その場所だけ掃除ができていないらしい。
「任せて!」
穂乃果は雑巾を手に取った。
「穂乃果ちゃん、そこ濡れてるから気をつけて」
「分かった!」
床を拭く。
窓を拭く。
机を運ぶ。
大したことではない。
誰か一人でもいれば、すぐに終わるような仕事ばかり。
それでも。
「ありがとう」
最後にそう言われると、穂乃果は嬉しそうに笑った。
「どういたしまして!」
それを見ていた海未は、少しだけ考えた。
勇者という言葉には、本来もっと大きな意味がある。
命を懸ける。
敵と戦う。
誰かを守る。
そんなものを想像してしまう。
けれど。
誰かのために何かをするという意味では。
今、穂乃果がやっていることも同じなのかもしれない。
「海未ちゃん!」
「何です?」
「あっち!」
穂乃果が廊下の先を指差した。
一人の生徒が、何かを探している。
「どうしたんですか?」
海未が声をかける。
「あ……えっと、鍵を落としちゃって」
「どんな鍵?」
「家の鍵……」
生徒の顔が青ざめている。
「一緒に探そう!」
穂乃果が即答した。
「え?」
「大事なものなんでしょ?」
「う、うん……」
「じゃあ探そう!」
結局、三人はその生徒と一緒に校舎中を探し回った。
教室。
廊下。
階段。
昇降口。
そして――
「あった!」
穂乃果が声を上げた。
階段の隅。
小さな鍵が落ちていた。
「よかった……」
生徒が胸を撫で下ろす。
「ありがとう!」
「ううん!」
穂乃果は笑う。
「見つかってよかったね!」
その生徒が去っていく。
穂乃果はその背中を見送った。
「……ね?」
海未を見る。
「何です?」
「これ、楽しいよ」
海未は返事をしなかった。
ことりが穂乃果を見る。
「うん」
「誰かが困ってて、それを助けて、ありがとうって言ってもらえる」
穂乃果は嬉しそうだった。
「私、こういうの好きかも」
海未は穂乃果の横顔を見る。
昨日まで。
勇者部という名前が、ただの思いつきに見えていた。
だが今は違う。
穂乃果は本当に、人を助けようとしている。
たとえそれが小さなことでも。
たとえ誰にも知られなくても。
誰かの困りごとを見つけたら、放っておけない。
それが穂乃果なのだ。
「……では」
海未が言った。
「これからも続けましょうか」
「え?」
「正式な部として認められるかどうかとは別に、です」
穂乃果の顔が明るくなる。
「本当!?」
「ええ」
「ことりちゃんも?」
「もちろん」
「やったぁ!」
穂乃果が両手を上げる。
「勇者部、活動開始!」
「だから、まだ正式な部ではありません」
「細かいことはいいの!」
「細かくありません」
三人の笑い声が廊下に響いた。
◇
その日の放課後。
海未は一人で校舎を歩いていた。
今日は穂乃果たちとは別れた。
少し用事があったのだ。
廊下の角を曲がったところで。
「園田さん」
声をかけられた。
振り返る。
「……絢瀬さん」
そこに絵里がいた。
「少し話せるかしら?」
「はい」
二人は人気のない場所へ移動した。
「勇者部」
絵里が口にした。
海未の表情が少し硬くなる。
「昨日のことですか?」
「ええ」
「穂乃果は、もう活動を始めています」
「そう」
絵里は小さく息を吐いた。
「やっぱりね」
「何か問題が?」
「問題があるから言っているのよ」
絵里は海未を見る。
「止めてほしいの」
「……穂乃果を?」
「勇者部を」
海未は黙った。
絵里の声には、昨日とは違うものがあった。
怒りではない。
嫌悪でもない。
焦り。
あるいは、恐れ。
「どうしてですか?」
「あなたなら分かるでしょう」
絵里はそう言った。
「……何をです?」
「勇者なんてものに、憧れを持つべきじゃないってことを」
海未の目が細くなる。
「私は、そうは思いません」
「あなたも――」
絵里はそこで言葉を止めた。
海未を見つめる。
「あなたも、お姉さんを失っているのでしょう?」
空気が止まった。
海未は何も言わなかった。
園田茜。
海未の姉。
園田家の誇り。
剣聖と呼ばれた少女。
そして――もう、この世にはいない。
「……ええ」
海未は答えた。
「姉は亡くなりました」
絵里は何も言わない。
「だからこそ、あなたも分かるはずよ」
「何がです?」
「勇者になるということが、どういうことなのか」
海未は静かに絵里を見た。
「分かっています」
「なら――」
「ですが」
海未が言葉を遮る。
「姉は、最後まで逃げませんでした」
絵里の表情がわずかに変わる。
「それを私は誇りに思っています」
「……」
「姉が何を見て、何を思い、最後に何を選んだのか。私はすべてを知っているわけではありません」
海未は手を握った。
「それでも、姉が最後まで戦ったことを恥じるつもりはありません」
「海未……」
「だから、穂乃果を止めるつもりもありません」
絵里は黙った。
「穂乃果が何をしようとしているのか、私はまだ分かりません」
海未は続ける。
「ですが、今日の穂乃果を見て分かったことがあります」
「……何?」
「穂乃果は、誰かを助けたいと思っている」
それだけだった。
荷物を運ぶ。
掃除をする。
落とし物を探す。
どれも、命を懸けるようなことではない。
勇者と呼ぶには、あまりにも小さい。
けれど。
「それを、私は否定したくありません」
海未は真っ直ぐに絵里を見る。
「だから協力します」
絵里はしばらく何も言わなかった。
「……そう」
やがて、小さく答える。
「分かったわ」
それだけ言って、絵里は踵を返した。
海未もその背中を見送る。
その向こう。
廊下のさらに先には、誰かの気配があった。
希だった。
いつからそこにいたのかは分からない。
ただ、二人の会話を聞いていたようだった。
海未は気づいていない。
希も何も言わない。
絵里だけが、一瞬だけ希を見る。
視線が交わる。
そして。
何もなかったように、二人はそれぞれ別の方向へ歩き出した。
◇
翌日。
穂乃果の机には、昨日より多くのメモが置かれていた。
「これ、どうしたの?」
ことりが尋ねる。
「昨日助けた子が、友達に話してくれたみたい」
穂乃果が嬉しそうに答える。
「また手伝ってほしいって」
「なるほど」
海未もメモを見る。
荷物運び。
忘れ物探し。
掃除の手伝い。
どれも小さな頼み事だ。
けれど。
穂乃果は嬉しそうに笑っている。
「今日も頑張ろう!」
海未とことりが顔を見合わせる。
「そうですね」
「うん」
三人は教室を出た。
正式な部活ではない。
部員もまだ三人。
名前すら、生徒会には認められていない。
それでも。
穂乃果の周りでは、少しずつ何かが変わり始めていた。
それはまだ、誰にも気づかれないほど小さな変化だった。