高坂穂乃果は勇者である(再編版)   作:ZENSUN

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第六話

 放課後。

 

「……あっ」

 

 昇降口まで来たところで、穂乃果は足を止めた。

 

「どうしたんです?」

 

 隣を歩いていた海未が尋ねる。

 

「宿題のプリント、机の中に忘れてきちゃった」

 

「……またですか」

 

「えへへ」

 

「笑って誤魔化さないでください」

 

「すぐ取ってくるから!」

 

 穂乃果は言うが早いか、駆け出していた。

 

「穂乃果!」

 

 背中に向かって海未が何か言っていた気がしたが、穂乃果は構わず下駄箱で靴だけ脱ぐと、上履きに履き替えることもなく階段を駆け上がった。

 

 しんと静まり返った廊下に、穂乃果の足音だけが響く。

 

 いつも大勢の生徒が行き交っている学校なのに、放課後の校舎はまるで別の場所のようだった。

 

「なんか、こういうのってちょっとワクワクするなぁ」

 

 誰もいない廊下を走る。

 

 それだけなのに、妙な高揚感があった。

 

 二年生の教室にたどり着くと、穂乃果は自分の机の中を探った。

 

「あった!」

 

 適当に折り畳まれた宿題のプリントを見つけると、鞄に押し込む。

 

「よし、帰ろっと」

 

 教室を出る。

 

 廊下を歩いていると、ふと穂乃果の耳に音が届いた。

 

 ピアノの音だった。

 

「……?」

 

 穂乃果は立ち止まった。

 

 静かな校舎の中に、柔らかな旋律が響いている。

 

「誰が弾いてるんだろう?」

 

 音に惹かれるように、穂乃果は廊下を進んだ。

 

 やがて、その音が音楽室から聞こえていることに気がついた。

 

 扉の前で立ち止まる。

 

「ピアノ?」

 

 そっと扉の窓から中を覗く。

 

 そこには、一人の少女がいた。

 

 赤い髪。

 

 一年生のタイ。

 

 ピアノの前に座り、鍵盤を叩く姿には、同年代とは思えないほどの落ち着きがあった。

 

 穂乃果は、いつの間にかその場から動けなくなっていた。

 

 音楽室に響く音は、どこまでも美しかった。

 

 やがて最後の音が消える。

 

 少女が小さく息を吐いた。

 

「ふぅ……」

 

 その瞬間だった。

 

 少女――真姫は、何となく入口へ視線を向けた。

 

「うえぇぇ……」

 

 思わず変な声が出る。

 

 そこには、ドアの向こうから拍手を送る穂乃果がいた。

 

「すごい……!」

 

 真姫は目を瞬かせた。

 

 いつから見られていたのだろう。

 

 それよりも。

 

 向けられている視線が妙だった。

 

 真姫は幼い頃から、人に見られることには慣れている。

 

 祖父は大きな製薬会社を率いる人物。

 

 両親も病院を経営している。

 

 西木野家の名前を知らない者は、この街ではほとんどいない。

 

 だから真姫に向けられる視線には、いつも何かしらの感情が混じっていた。

 

 羨望。

 

 警戒。

 

 嫉妬。

 

 畏怖。

 

 そして、家柄に対する打算。

 

 けれど、今の少女から向けられているものは違った。

 

 ただ純粋な賞賛。

 

 それだけだった。

 

「……ま、それも今だけでしょうけど」

 

 真姫はそう思いながら立ち上がる。

 

 入口の鍵を開けた。

 

 扉が開く。

 

「すごい! すごいよ!」

 

 穂乃果が目を輝かせる。

 

「ピアノも上手だし、とってもかわいいし!」

 

「ちょっと……」

 

「私、高坂穂乃果!」

 

 言いながら、穂乃果は真姫の前へ回り込む。

 

「一年生……だよね?」

 

「そうだけど……」

 

「お名前なんていうの?」

 

「西木野真姫」

 

「真姫ちゃん!」

 

「……うん」

 

「すっごくかわいいよね! アイドルみたい!」

 

「はぁ……?」

 

 いきなり手を握られ、真姫は戸惑った。

 

「ねえねえ、真姫ちゃんはいつからピアノやってるの?」

 

「別に……昔からよ」

 

「すごいなぁ!」

 

「だから、そんなに褒めなくても……」

 

「だって本当にすごかったんだもん!」

 

 真姫は困ったように眉を寄せる。

 

「あなたねぇ……」

 

 そして、ふと思った。

 

「私の名前を聞いて、なんとも思わないの?」

 

「うん?」

 

「西木野よ」

 

「西木野……」

 

 穂乃果は首を傾げる。

 

「西木野……あっ」

 

 何かを思い出したように顔を上げる。

 

「そういえば、大きな病院も西木野さんだった!」

 

「……そうよ」

 

「すごい偶然だね!」

 

「えぇ……」

 

 真姫は思わず頭を抱えた。

 

「そこ、私の家」

 

「ええっ!?」

 

 穂乃果の顔が驚きに染まる。

 

「真姫ちゃん、どっか病気なの!?」

 

「違うわよ!」

 

「え?」

 

「私の両親が経営してるって意味!」

 

「あぁ、なんだぁ」

 

 穂乃果は心底安心したように胸を撫で下ろす。

 

「真姫ちゃんが病気じゃなくてよかったよぉ」

 

「……あなた、本当に変な子ね」

 

 真姫はため息をついた。

 

「これで私が西木野の娘って分かったんだから、もういいでしょ?」

 

「ん?」

 

「なによ、その反応」

 

「何が?」

 

「何がって……」

 

 真姫は少しだけ表情を曇らせる。

 

「西木野の家の人間とは、あまり関わらない方がいいって言われてないの?」

 

「言われてないよ」

 

「……え?」

 

「うちは、真姫ちゃんに近づくなって言われてない」

 

 真姫は黙った。

 

 そんなことを言う人間は、これまでほとんどいなかった。

 

「私、頭悪いからさっきまで忘れてたけど、お母さんに聞いたことがあるよ」

 

「何を?」

 

「西木野さんの病院は、とってもいい人なんだって」

 

「……え?」

 

「詳しくは覚えてないんだけどね。でも、お母さん、悪くなんて言ってなかった。むしろ感謝してるみたいなこと言ってた気がする」

 

「……そう」

 

「でも、そんなことは関係なく」

 

 穂乃果は笑った。

 

「私は真姫ちゃんと仲良くなりたいって思うよ」

 

「はぁ?」

 

「私に近づくと変な噂を立てられるかもしれないって言ったけど」

 

 真姫は穂乃果を見る。

 

「それ、真姫ちゃん自身が嘘だって言ったわけじゃないでしょ?」

 

「……」

 

「だったら、私は真姫ちゃんを信じる!」

 

「意味わかんない」

 

 真姫は本当に意味が分からなかった。

 

 西木野という名前を知ってなお、この子は何も変わらない。

 

 これまでも、自分に声をかけてくる同年代の子はいた。

 

 けれど、最初だけだった。

 

 西木野という名前を知った瞬間、距離を置かれる。

 

 それがいつものことだった。

 

「それにね」

 

 穂乃果は続ける。

 

「真姫ちゃんのおじいちゃんはすごい人なんだと思うよ。お父さんもお母さんも病院を経営してるなんて、すごいことだと思う」

 

 穂乃果は真姫をまっすぐ見る。

 

「でも、さっきの真姫ちゃんの演奏が素敵だと思ったのは、それとは関係ないもん」

 

「……」

 

「私は、あんな素敵な演奏ができる真姫ちゃんと仲良くなりたいの!」

 

 穂乃果は少しだけ首を傾げた。

 

「……それじゃ、だめ?」

 

 その眼差しには、畏れも侮蔑も哀れみもない。

 

 ただ、純粋な感情だけがあった。

 

「……なにそれ」

 

 真姫は小さく呟いた。

 

「イミワカンナイ」

 

 本当に意味が分からない。

 

 初対面なのに、どんどん距離を詰めてくる。

 

 しかも、西木野という名前を教えたあとですら。

 

「あなたみたいな人、初めてだわ」

 

「やっぱり迷惑かな……」

 

「そんなこと言ってないでしょ」

 

 真姫は振り返った。

 

「ほら。もうじき完全下校時刻なんだから、ぼーっとしてないで帰るわよ……穂乃果」

 

「え?」

 

 一瞬、穂乃果がぽかんとする。

 

 次の瞬間。

 

「やったぁ!」

 

 穂乃果が両腕を広げて真姫に抱きついた。

 

「ヴぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 

 真姫の顔が一気に赤くなる。

 

 そのときだった。

 

 真姫の鞄から、聞き慣れないメロディが鳴り響いた。

 

「え?」

 

「っ!?」

 

 真姫は穂乃果を押し退けると、慌てて鞄を開いた。

 

 中からスマートフォンを取り出す。

 

 画面には、見慣れた警告表示。

 

 真姫の表情が変わった。

 

「……」

 

「真姫ちゃん?」

 

 次の瞬間。

 

 世界が静止した。

 

 窓の外の景色が、七色に染まっていく。

 

「なに……これ……」

 

 穂乃果がおびえた声を上げる。

 

 真姫は窓の外を見た。

 

 見慣れた街は、もうそこにはなかった。

 

 幻想的で、不気味な色彩に包まれた世界。

 

 そして、その奥。

 

 巨大な異形が蠢いている。

 

「……やっぱり」

 

 真姫は呟いた。

 

 バーテックス。

 

 間違いない。

 

 しかし、真姫の頭には別の疑問が浮かんでいた。

 

 なぜ。

 

 どうして。

 

 穂乃果がここにいる?

 

 大赦の関係者という可能性は低い。

 

 そもそも、この状況で怯えている時点でおかしい。

 

「真姫……ちゃん?」

 

「あ……ごめんなさい」

 

 真姫は穂乃果へ向き直った。

 

「真姫ちゃん、なんか平気そうだね」

 

「……」

 

「もしかして、なにか知ってるの?」

 

 一瞬、真姫は息を呑んだ。

 

 だが、穂乃果の表情を見て、それが偶然の疑問だと判断する。

 

「私にも何が何だか……」

 

「そっか……」

 

 真姫は視線を窓へ戻す。

 

 今は考えている場合ではない。

 

 バーテックスが出現した以上、勇者として対処しなければならない。

 

 だが、完全下校時刻。

 

 この時間まで学校に残っている勇者は少ない。

 

 窓から確認したバーテックスの位置。

 

 他の勇者たちの居場所。

 

 そこから考えると、今この場所に最も近いのは――

 

 自分だ。

 

 真姫は拳を握る。

 

 勇者システムを起動すれば、詳細な状況も確認できる。

 

 けれど。

 

 隣には穂乃果がいる。

 

 この短い時間で分かった。

 

 穂乃果は、とにかく距離が近い。

 

 スマートフォンを操作すれば、画面を覗き込まれる可能性がある。

 

 勇者であることは絶対の機密事項。

 

 知られるわけにはいかない。

 

「私は少し周りの様子を見てくるから、穂乃果はここにいなさい」

 

「やだよぉ」

 

「え?」

 

「一人にしないでよ、真姫ちゃん」

 

 穂乃果は泣きそうな顔をしていた。

 

 真姫は言葉を失う。

 

 その顔を見ていると、胸の奥が痛んだ。

 

 一人ぼっちの寂しさなら、真姫は知っている。

 

 ずっと。

 

 ずっと一人だった。

 

 だから。

 

「……」

 

 真姫は穂乃果へ歩み寄った。

 

 そして、そっと抱きしめる。

 

「え?」

 

「……ごめんなさい」

 

 耳元で囁く。

 

 眠ってもらえばいい。

 

 そうすれば、穂乃果を安全な場所に置いて、自分は戦いに行ける。

 

 真姫が拳に力を込めた、その瞬間だった。

 

 窓の外に、青い光が見えた。

 

「……!」

 

 勇者。

 

 誰かが、先に戦場へ向かったのだ。

 

 真姫はほっと息を吐き、拳から力を抜いた。

 

 勇者同士は、一人ずつ戦う。

 

 古くから続く、くだらない決まり。

 

 本来なら真姫は、その決まりを嫌っている。

 

 勇者は一人で戦わなければならない。

 

 その仕組みそのものが、真姫には嫌だった。

 

 けれど今だけは。

 

 その決まりが、ありがたかった。

 

「ま、真姫ちゃん……」

 

「なに?」

 

「けっこう……ダイタンだね?」

 

「……え?」

 

 真姫は自分がまだ穂乃果を抱きしめたままだったことに気づいた。

 

「っ……!」

 

 顔が一気に熱くなる。

 

「ち、違う! これは、その……!」

 

「真姫ちゃん顔真っ赤!」

 

「うるさい!」

 

 七色に染まった世界の中。

 

 戦場へ向かう青い光を、真姫は窓越しに見つめていた。

 

 その隣では、穂乃果がいつものように笑っている。

 

 そして真姫はまだ知らない。

 

 この少女との出会いが、自分の知る「勇者」という世界を、少しずつ変えていくことを。

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