放課後。
「……あっ」
昇降口まで来たところで、穂乃果は足を止めた。
「どうしたんです?」
隣を歩いていた海未が尋ねる。
「宿題のプリント、机の中に忘れてきちゃった」
「……またですか」
「えへへ」
「笑って誤魔化さないでください」
「すぐ取ってくるから!」
穂乃果は言うが早いか、駆け出していた。
「穂乃果!」
背中に向かって海未が何か言っていた気がしたが、穂乃果は構わず下駄箱で靴だけ脱ぐと、上履きに履き替えることもなく階段を駆け上がった。
しんと静まり返った廊下に、穂乃果の足音だけが響く。
いつも大勢の生徒が行き交っている学校なのに、放課後の校舎はまるで別の場所のようだった。
「なんか、こういうのってちょっとワクワクするなぁ」
誰もいない廊下を走る。
それだけなのに、妙な高揚感があった。
二年生の教室にたどり着くと、穂乃果は自分の机の中を探った。
「あった!」
適当に折り畳まれた宿題のプリントを見つけると、鞄に押し込む。
「よし、帰ろっと」
教室を出る。
廊下を歩いていると、ふと穂乃果の耳に音が届いた。
ピアノの音だった。
「……?」
穂乃果は立ち止まった。
静かな校舎の中に、柔らかな旋律が響いている。
「誰が弾いてるんだろう?」
音に惹かれるように、穂乃果は廊下を進んだ。
やがて、その音が音楽室から聞こえていることに気がついた。
扉の前で立ち止まる。
「ピアノ?」
そっと扉の窓から中を覗く。
そこには、一人の少女がいた。
赤い髪。
一年生のタイ。
ピアノの前に座り、鍵盤を叩く姿には、同年代とは思えないほどの落ち着きがあった。
穂乃果は、いつの間にかその場から動けなくなっていた。
音楽室に響く音は、どこまでも美しかった。
やがて最後の音が消える。
少女が小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
その瞬間だった。
少女――真姫は、何となく入口へ視線を向けた。
「うえぇぇ……」
思わず変な声が出る。
そこには、ドアの向こうから拍手を送る穂乃果がいた。
「すごい……!」
真姫は目を瞬かせた。
いつから見られていたのだろう。
それよりも。
向けられている視線が妙だった。
真姫は幼い頃から、人に見られることには慣れている。
祖父は大きな製薬会社を率いる人物。
両親も病院を経営している。
西木野家の名前を知らない者は、この街ではほとんどいない。
だから真姫に向けられる視線には、いつも何かしらの感情が混じっていた。
羨望。
警戒。
嫉妬。
畏怖。
そして、家柄に対する打算。
けれど、今の少女から向けられているものは違った。
ただ純粋な賞賛。
それだけだった。
「……ま、それも今だけでしょうけど」
真姫はそう思いながら立ち上がる。
入口の鍵を開けた。
扉が開く。
「すごい! すごいよ!」
穂乃果が目を輝かせる。
「ピアノも上手だし、とってもかわいいし!」
「ちょっと……」
「私、高坂穂乃果!」
言いながら、穂乃果は真姫の前へ回り込む。
「一年生……だよね?」
「そうだけど……」
「お名前なんていうの?」
「西木野真姫」
「真姫ちゃん!」
「……うん」
「すっごくかわいいよね! アイドルみたい!」
「はぁ……?」
いきなり手を握られ、真姫は戸惑った。
「ねえねえ、真姫ちゃんはいつからピアノやってるの?」
「別に……昔からよ」
「すごいなぁ!」
「だから、そんなに褒めなくても……」
「だって本当にすごかったんだもん!」
真姫は困ったように眉を寄せる。
「あなたねぇ……」
そして、ふと思った。
「私の名前を聞いて、なんとも思わないの?」
「うん?」
「西木野よ」
「西木野……」
穂乃果は首を傾げる。
「西木野……あっ」
何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば、大きな病院も西木野さんだった!」
「……そうよ」
「すごい偶然だね!」
「えぇ……」
真姫は思わず頭を抱えた。
「そこ、私の家」
「ええっ!?」
穂乃果の顔が驚きに染まる。
「真姫ちゃん、どっか病気なの!?」
「違うわよ!」
「え?」
「私の両親が経営してるって意味!」
「あぁ、なんだぁ」
穂乃果は心底安心したように胸を撫で下ろす。
「真姫ちゃんが病気じゃなくてよかったよぉ」
「……あなた、本当に変な子ね」
真姫はため息をついた。
「これで私が西木野の娘って分かったんだから、もういいでしょ?」
「ん?」
「なによ、その反応」
「何が?」
「何がって……」
真姫は少しだけ表情を曇らせる。
「西木野の家の人間とは、あまり関わらない方がいいって言われてないの?」
「言われてないよ」
「……え?」
「うちは、真姫ちゃんに近づくなって言われてない」
真姫は黙った。
そんなことを言う人間は、これまでほとんどいなかった。
「私、頭悪いからさっきまで忘れてたけど、お母さんに聞いたことがあるよ」
「何を?」
「西木野さんの病院は、とってもいい人なんだって」
「……え?」
「詳しくは覚えてないんだけどね。でも、お母さん、悪くなんて言ってなかった。むしろ感謝してるみたいなこと言ってた気がする」
「……そう」
「でも、そんなことは関係なく」
穂乃果は笑った。
「私は真姫ちゃんと仲良くなりたいって思うよ」
「はぁ?」
「私に近づくと変な噂を立てられるかもしれないって言ったけど」
真姫は穂乃果を見る。
「それ、真姫ちゃん自身が嘘だって言ったわけじゃないでしょ?」
「……」
「だったら、私は真姫ちゃんを信じる!」
「意味わかんない」
真姫は本当に意味が分からなかった。
西木野という名前を知ってなお、この子は何も変わらない。
これまでも、自分に声をかけてくる同年代の子はいた。
けれど、最初だけだった。
西木野という名前を知った瞬間、距離を置かれる。
それがいつものことだった。
「それにね」
穂乃果は続ける。
「真姫ちゃんのおじいちゃんはすごい人なんだと思うよ。お父さんもお母さんも病院を経営してるなんて、すごいことだと思う」
穂乃果は真姫をまっすぐ見る。
「でも、さっきの真姫ちゃんの演奏が素敵だと思ったのは、それとは関係ないもん」
「……」
「私は、あんな素敵な演奏ができる真姫ちゃんと仲良くなりたいの!」
穂乃果は少しだけ首を傾げた。
「……それじゃ、だめ?」
その眼差しには、畏れも侮蔑も哀れみもない。
ただ、純粋な感情だけがあった。
「……なにそれ」
真姫は小さく呟いた。
「イミワカンナイ」
本当に意味が分からない。
初対面なのに、どんどん距離を詰めてくる。
しかも、西木野という名前を教えたあとですら。
「あなたみたいな人、初めてだわ」
「やっぱり迷惑かな……」
「そんなこと言ってないでしょ」
真姫は振り返った。
「ほら。もうじき完全下校時刻なんだから、ぼーっとしてないで帰るわよ……穂乃果」
「え?」
一瞬、穂乃果がぽかんとする。
次の瞬間。
「やったぁ!」
穂乃果が両腕を広げて真姫に抱きついた。
「ヴぇぇぇぇぇぇぇ!?」
真姫の顔が一気に赤くなる。
そのときだった。
真姫の鞄から、聞き慣れないメロディが鳴り響いた。
「え?」
「っ!?」
真姫は穂乃果を押し退けると、慌てて鞄を開いた。
中からスマートフォンを取り出す。
画面には、見慣れた警告表示。
真姫の表情が変わった。
「……」
「真姫ちゃん?」
次の瞬間。
世界が静止した。
窓の外の景色が、七色に染まっていく。
「なに……これ……」
穂乃果がおびえた声を上げる。
真姫は窓の外を見た。
見慣れた街は、もうそこにはなかった。
幻想的で、不気味な色彩に包まれた世界。
そして、その奥。
巨大な異形が蠢いている。
「……やっぱり」
真姫は呟いた。
バーテックス。
間違いない。
しかし、真姫の頭には別の疑問が浮かんでいた。
なぜ。
どうして。
穂乃果がここにいる?
大赦の関係者という可能性は低い。
そもそも、この状況で怯えている時点でおかしい。
「真姫……ちゃん?」
「あ……ごめんなさい」
真姫は穂乃果へ向き直った。
「真姫ちゃん、なんか平気そうだね」
「……」
「もしかして、なにか知ってるの?」
一瞬、真姫は息を呑んだ。
だが、穂乃果の表情を見て、それが偶然の疑問だと判断する。
「私にも何が何だか……」
「そっか……」
真姫は視線を窓へ戻す。
今は考えている場合ではない。
バーテックスが出現した以上、勇者として対処しなければならない。
だが、完全下校時刻。
この時間まで学校に残っている勇者は少ない。
窓から確認したバーテックスの位置。
他の勇者たちの居場所。
そこから考えると、今この場所に最も近いのは――
自分だ。
真姫は拳を握る。
勇者システムを起動すれば、詳細な状況も確認できる。
けれど。
隣には穂乃果がいる。
この短い時間で分かった。
穂乃果は、とにかく距離が近い。
スマートフォンを操作すれば、画面を覗き込まれる可能性がある。
勇者であることは絶対の機密事項。
知られるわけにはいかない。
「私は少し周りの様子を見てくるから、穂乃果はここにいなさい」
「やだよぉ」
「え?」
「一人にしないでよ、真姫ちゃん」
穂乃果は泣きそうな顔をしていた。
真姫は言葉を失う。
その顔を見ていると、胸の奥が痛んだ。
一人ぼっちの寂しさなら、真姫は知っている。
ずっと。
ずっと一人だった。
だから。
「……」
真姫は穂乃果へ歩み寄った。
そして、そっと抱きしめる。
「え?」
「……ごめんなさい」
耳元で囁く。
眠ってもらえばいい。
そうすれば、穂乃果を安全な場所に置いて、自分は戦いに行ける。
真姫が拳に力を込めた、その瞬間だった。
窓の外に、青い光が見えた。
「……!」
勇者。
誰かが、先に戦場へ向かったのだ。
真姫はほっと息を吐き、拳から力を抜いた。
勇者同士は、一人ずつ戦う。
古くから続く、くだらない決まり。
本来なら真姫は、その決まりを嫌っている。
勇者は一人で戦わなければならない。
その仕組みそのものが、真姫には嫌だった。
けれど今だけは。
その決まりが、ありがたかった。
「ま、真姫ちゃん……」
「なに?」
「けっこう……ダイタンだね?」
「……え?」
真姫は自分がまだ穂乃果を抱きしめたままだったことに気づいた。
「っ……!」
顔が一気に熱くなる。
「ち、違う! これは、その……!」
「真姫ちゃん顔真っ赤!」
「うるさい!」
七色に染まった世界の中。
戦場へ向かう青い光を、真姫は窓越しに見つめていた。
その隣では、穂乃果がいつものように笑っている。
そして真姫はまだ知らない。
この少女との出会いが、自分の知る「勇者」という世界を、少しずつ変えていくことを。