世界が、七色に染まった。
窓の外に広がっていた見慣れた街並みは消え、現実とは思えない光景が広がっている。
「……なに、これ……」
穂乃果の声が震える。
真姫は答えなかった。
窓の外を見つめたまま、手の中のスマートフォンを強く握る。
窓から見える景色はいつもの見慣れた光景ではなく、あらゆる部分が変化していた。
――樹海。頭上に広がるのは青ではなく碧。大地は七色の絵の具を、出鱈目にぶちまけたかのような色に染まり、カラフルな蔦と木の根が複雑に絡み合っていた。
そして、その向こうにいる異形の怪物。
「間違いない……」
異形の名は【バーテックス】という。天より遣わされた人類を滅ぼすための災厄だった。
「真姫ちゃん……?」
真姫の反応に穂乃果が怪訝そうな表情を向けていた。
「何でもないわ」
「でも――」
「いいから!」
思わず声を荒らげる。
穂乃果がびくっと身体を震わせた。
「……ごめん」
真姫はすぐに表情を緩めた。
「ごめんなさい。ちょっと驚いただけ」
「う、うん……」
真姫は窓の外をもう一度確認する。
巨大なバーテックス。
そして、その方向から感じる勇者の気配。
ならば真姫が取るべき最適な行動は一つだ。
「こっち!」
真姫は穂乃果の手を掴むと、強く引っ張って動き出した。
「え、ちょっと真姫ちゃん!?」
「ここにいたら危ないわ」
「でも、何が起きてるのか――」
「分からないから逃げるの!」
穂乃果はそれでも何か言いたげであったが、真姫は無視して走った。
廊下を駆け、階段を下り、校舎の奥へ。まずは両者を視界から外すべきだと考えてのことだ。
「真姫ちゃん、どこに行くの!?」
「兎に角、今は隠れるの!」
詳しい説明をするわけにはいかないが何も言わないわけにはいかない。
「あの変なものから、見えない場所って意味よ」
「なるほど!」
穂乃果は疑うということを知らないのか、それ以上の追求はしなかった。
校舎を抜けて、真姫は内心で息をついた。この場所なら建物そのものが盾になる。バーテックスからも、こちらからも視界には入らない。反対側で何が起きているのか正確に知ることは出来ない。
真姫はそこで足を止めた。
「一旦、ここで休みましょう」
「……大丈夫かな?」
「そうね、多分……?」
バーテックスが本気を出せば校舎など盾にもならないだろう。そもそも、バーテックスが視覚を有しているのかも怪しいくらいだ。特別な器官で存在そのものを認識されている可能性もあり得る。
「たぶん!?」
「今は信じましょ……」
その直後――。
轟音。大地が、空間全体が揺れたような衝撃は走り、穂乃果が悲鳴を上げて真姫の腕にしがみつく。
真姫は何も言わず、音のした方向へ目を向けた。
別に彼女にも、校舎の裏側が見えているわけではない、しかし彼女は知っていた。逃げる際に見たスマホの画面に映っていた青色の印。その紋様は真姫の記憶通りなら園田家の家紋だった。
「園田家の勇者さん、頼むわよ」
穂乃果に聞こえないように、真姫は内心で呟いた。
◇
海未は樹海の中を駆けていた。
七色に染まった大地は、現実のものとは思えないほど不規則な起伏を描いている。足元から伸びる木の根は本来の植物とは似ても似つかない鮮やかな色彩を帯び、ところどころで地面そのものが脈打つように蠢いていた。頭上に広がる空も、本来の青ではない。深い碧色に染まった空間の向こう側では、巨大な何かが樹木を薙ぎ倒しながらこちらへ向かっている。
海未は走りながら一度だけ振り返った。
見えた。
樹海の木々の隙間から姿を現したそれは、これまで海未が戦ってきたバーテックスとは明らかに異なっていた。
巨大な胴体を持つ母体。
その表面を覆い尽くしているのは、硬質な鱗のように見える無数の小型バーテックスだった。互いの身体を重ねるように密集し、母体の表皮を隙間なく覆っている。その姿は一個の巨大な生物というより、無数の生物が寄り集まることで一つの生命体を形成しているようにも見えた。
「……群生体、ですか」
海未は呟いた。
もちろん、その呼び名を知っているわけではない。ただ、あれが単独の個体ではないことだけは分かる。
海未は走る速度を落とさず、弓を構えた。
狙うのは母体。
距離は十分にある。弓を使う海未にとって、この距離ならば狙いを外すことはない。
弦を引き絞る。
矢尻の先端へ神樹の力が集まり、淡い光が周囲の空気を震わせた。
「――そこです!」
放たれた矢は、母体の中心へ向かって一直線に飛んでいく。
だが、その瞬間だった。
母体の表面を覆っていた小型種が一斉に蠢いた。
数体が鱗のような身体を剥がすようにして母体から離れ、そのうちの一体が、まるで矢の軌道を理解しているかのように進路へ割り込んだ。
海未の矢が小型種を捉える。
命中した。
――そう思った直後、小型種の身体が大きく膨張した。
次の瞬間、凄まじい爆発が起きた。
「なっ――!」
爆風によって矢が弾き飛ばされ、海未の身体にも衝撃が届く。咄嗟に腕で顔を庇ったものの、身体が数歩後退した。
巻き上げられた土と七色の木の葉が視界を覆う。
海未はその場から動かず、煙の向こう側を見つめた。
やがて煙が晴れる。
母体には、ほとんど傷がない。
「……自爆……」
海未は目を細めた。
先ほどの一連の動きを思い返す。
小型種は矢を防いだのではない。
矢を受け止める直前に、自ら爆発することで攻撃そのものを破壊したのだ。
ならば、あの小型種は母体にとって生きた装甲ということになる。
海未は再び弓を構えた。
今度は母体ではなく、その表面を覆っている小型種の一体を狙う。
放つ。
矢が小型種を貫いた。
しかし――またしても爆発。
「……!」
海未は反射的に横へ飛んだ。
直後、先ほどまで立っていた場所が爆風によって吹き飛ぶ。地面が抉れ、七色の土塊と光の粒が周囲へ飛び散った。
海未は着地すると、すぐに敵の動きを確認した。
そこで、さらに悪いことに気付いた。
母体を覆っていた小型種の一体が、海未へ向かって飛び出してきたのだ。
「――!」
海未は弓を引く。
放つ。
命中。
爆発。
その爆風を避けた直後、今度は左右から二体。
さらに上空から一体。
海未は身体を低くして一体を躱し、そのまま反転しながら矢を放った。
命中した個体が空中で爆発する。
その爆風に押し出された別の個体が軌道を変え、海未の横を掠めていく。
「くっ……!」
髪が数本、宙へ舞った。
海未は足を止めない。
小型種は母体から飛び出すと、自在に飛行しながら海未へ接近してくる。直線的な動きではない。左右へ大きく膨らみ、急激に高度を変え、時には別の個体の陰へ隠れるようにして接近してくる。
しかも厄介なのは、海未が攻撃することそのものが危険だということだった。
矢が命中すれば爆発する。
接近を許しても爆発する。
そして一体を撃ち落とした直後には、別の個体がその爆煙を利用するようにして飛び込んでくる。
「これは……」
海未は一度大きく後退した。
息が乱れる。
頬には浅い傷が走り、制服にも爆風によって焦げた跡が残っている。
しかし、それ以上に問題なのは敵の数だった。
いくら撃ち落としても、母体の表面にはまだ無数の小型種が残っている。
海未は視線だけを母体へ向けた。
そして、一体の小型種が母体へ戻っていくのを見た。
飛行していた個体が母体の表面へ触れる。
すると、その身体がまるで溶け込むようにして表面へ張り付いた。
直後。
別の個体が、その場所から押し出されるようにして飛び出してきた。
「……そういうことですか」
海未の表情から、僅かに余裕が消えた。
小型種は単純な群れではない。
母体を覆う装甲であり、同時に母体から供給される攻撃端末でもある。
母体から離れて海未を攻撃し、破壊されれば、別の個体がその役割を引き継ぐ。
これでは、数を減らしてもきりがない。
「ならば……」
海未は弓を構えたまま、敵の群れを見つめた。
これまでの経験からすれば、敵の弱点を見つけてそこを射抜く。それが最も確実な戦い方だった。
しかし、この敵にはそれが通用しない。
母体を狙えば小型種が盾になる。
小型種を狙えば爆発する。
一体ずつ処理している間にも、別の個体が襲ってくる。
ならば、発想そのものを変える必要がある。
海未は一歩後ろへ下がった。
小型種が反応する。
さらに一歩。
また一歩。
海未が距離を取るにつれて、母体から小型種が次々と剥がれていく。
「……来なさい」
海未は小さく呟いた。
まるで誘うように。
小型種が一斉に飛び出した。
十体。
二十体。
それ以上。
巨大な群れとなって海未へ迫ってくる。
海未は逃げた。
ただし、闇雲にではない。
一定の距離を保ちながら、群れ全体を自分の後ろへ引き寄せる。
小型種が加速する。
海未も速度を上げる。
その間にも何度か矢を放ち、接近してきた個体を撃ち落とす。
爆発。
爆風。
そのたびに身体を捻り、足場を変え、次の攻撃を避ける。
やがて海未は、ふと後方へ目を向けた。
母体が遠い。
そして、その表面に明らかな変化が生まれている。
小型種の数が減っている。
露出した部分がある。
「……今です」
海未は足を止めた。
振り返る。
迫り来る小型種。
その数は多い。
まともに相手をすれば、また同じことになる。
一体ずつ狙っている時間などない。
海未は弓を構えた。
しかし、今度は特定の一体を狙わなかった。
視線を群れ全体へ向ける。
「一つずつでは……間に合わない」
小型種が迫る。
海未は弦を引き絞る。
その手に神樹の力が集まっていく。
いつものように一本の矢へ力を集中させる。
だが、海未はそこで意識を変えた。
一体を射るのではない。
群れを射る。
目の前に広がる無数の敵、そのすべてを一度に捉える。
「――ならば!」
海未が弦を放した。
矢が飛ぶ。
一本の矢が、途中で二つに分かれた。
「……え?」
海未自身が驚く。
二本になった矢はさらに分かれる。
四本。
八本。
さらにその先で無数の光となって広がっていく。
一本の矢が、扇状に広がる無数の矢へと変わった。
「これは……!」
拡散した矢が群れへ降り注ぐ。
小型種が次々と撃ち抜かれた。
直後、連鎖するように爆発が起こる。
しかし、今までとは違う。
爆発する個体が多すぎるため、互いの爆風がぶつかり合い、空中で大きな衝撃波を生み出していた。
海未は腕で顔を覆う。
熱風が身体を打つ。
だが、その爆煙の向こうに見えたものを確認して、海未は目を見開いた。
母体だ。
表面を覆っていた小型種が大きく失われ、その巨体が露出している。
「……そうか」
海未は理解した。
拡散した矢は、小型種を効率よく撃破するだけではない。
群れそのものを一度に崩すことができる。
そして群れが崩れれば、母体の防御も失われる。
「これなら……!」
海未はすぐに次の矢を番えた。
今度は拡散させない。
一本だけ。
残った力をすべて一点へ集中する。
母体の中心。
そこには、先ほどまで小型種に隠されていた部分が露出していた。
しかし、敵もただ黙っているわけではない。
残った小型種が一斉に母体へ戻ろうとしている。
「させません!」
海未は弦を引き絞った。
そして放つ。
矢は一直線に母体へ向かった。
小型種がその前へ飛び出す。
しかし、数が足りない。
矢はその隙間を抜けた。
母体へ突き刺さる。
巨大な身体が大きく震えた。
「――っ!」
海未は追撃する。
再び矢を番える。
今度は先ほど生まれたばかりの力を意識的に引き出す。
「――散れ!」
放たれた矢が空中で分裂する。
無数の矢が広がり、残っていた小型種を次々と撃ち抜いた。
爆発。
また爆発。
母体を覆っていた防御が、さらに崩れていく。
そして完全に露出した巨体の中心に、一本の亀裂が走った。
海未はそこを見逃さなかった。
最後の矢を番える。
これまでの戦いで消耗した身体に残る力を、すべて弓へ集める。
弦を引く。
指先が震える。
それでも離さない。
「これで……終わりです!」
弦が鳴った。
矢が飛ぶ。
今度は誰もそれを阻むものはいなかった。
一直線に飛んだ矢が、母体の中心へ深々と突き刺さる。
巨大な身体に亀裂が走った。
一本。
二本。
それは瞬く間に全身へ広がっていく。
母体が大きく揺れた。
そして、崩れた。
巨大な身体が七色の粒子へと変わり、周囲を覆っていた小型種も次々と力を失って地面へ落ちていく。
海未は弓を下ろした。
荒い呼吸を繰り返しながら、しばらくその場から動かなかった。
まだ終わっていない可能性を考えている。
最後まで油断するわけにはいかない。
一体の小型種が地面で僅かに動いた。
海未は反射的に弓を構える。
矢を放つ。
小さな爆発。
それきり、動くものはなくなった。
海未はようやく弓を下ろした。
「……終わりましたか」
周囲を見回す。
巨大なバーテックスの姿は、もうどこにもない。
海未は自分の手元へ視線を落とした。
先ほどまでとは違う。
一本の矢を放ったはずなのに、それが途中で無数へと分かれた。
自分でも意識していなかった力だった。
「……拡散矢」
海未は、その言葉を口にしてみる。
しっくりくる。
まだ自由自在に扱えるわけではない。どうしてあの瞬間にあの力が発現したのかも、完全には理解できていない。
それでも一つだけ分かることがある。
あの群れを相手に、今まで通り一体ずつ狙っていたなら、自分の方が先に倒れていた。
敵を倒すためには、敵に合わせて自分も変わらなければならない。
海未はそう理解した。
そして遠く、樹海の向こう側へ視線を向ける。
そこには、自分以外の誰かがいる気配があった。
「……皆さんは無事でしょうか」
そう呟いた直後、七色に染まっていた世界が、ゆっくりと崩れ始めた。
◇
校舎の裏。穂乃果は真姫に抱きついたままだった。
時折響く轟音に震えながら、二人は短くも長い時間を過ごしていた。
「真姫ちゃん、怖くないの?」
「怖いわよ」
「そうは見えない」
「強がってるだけ。誰かさんが怖がって、全然離れないからね」
「それって穂乃果のこと?」
「他に誰かいるの?」
真姫は穂乃果に指先を向けて言った。
その時、閃光が瞬いて、轟音が肌を薙いだ。
――静寂。
身構えた二人に、次の音はやってこなかった。
「……」
二人は顔を見合わせた。
「終わった……のかな?」
「たぶん」
真姫はスマートフォンを見る。
警告表示が消えている。
樹海が解除された。
「……終わったわ」
「よかったぁ……」
安心した穂乃果が見るからにしぼんでいく一方で、真姫は小さく息を吐く。
まずは一つ目の問題が片付いた。
だが、もう一つ問題がある。
むしろ、こちらの方が厄介な問題だった。
その問題は穂乃果の記憶だった。
このままでは、樹海を見たことも、バーテックスを見たことも、真姫が何かを知っていたことも残ってしまう。
それは、それだけは絶対に許されない。
「穂乃果」
真姫は気の抜けた穂乃果に寄り添うようにして声を掛けた。
「ごめんなさい」
穂乃果のの意識はその瞬間で途切れていた。
穂乃果の額にそっと手を当てる。
「これは夢。あなたは何も知らなくていい」
勇者システムを起動する。
淡い光が穂乃果を包む。
樹海のこと、バーテックスのこと。
この僅かな時間の記憶を少しずつ消していく。
次に目覚める時、穂乃果は何も覚えてはいない。
穂乃果は音楽室に立ち寄って、真姫と出会い、そのピアノの演奏を聞きながら寝てしまった。
ただそれだけ。
「……ん」
穂乃果が目を開ける。
「あれ……?」
「起きた?」
「私……寝ちゃった?」
「ええ」
真姫は何でもないように答えた。
「ピアノ聴いてたら眠くなったんじゃない?」
「そうだったんだ……」
穂乃果はぼんやりと周囲を見る。
音楽室。
ピアノ。
そして目の前にいる真姫。
「なんか、すごくいい夢見てた気がする」
「そう」
「覚えてないけど……」
「寝たら忘れることもあるわよ」
「そっかぁ」
穂乃果は笑った。
「じゃあ、またピアノ聴かせてね!」
「……気が向いたらね」
「約束!」
「約束なんてしてないでしょ」
「えへへ」
穂乃果は鞄を持って立ち上がった。
「じゃあ、帰るね!」
「ええ」
「また明日、真姫ちゃん!」
「……また明日」
穂乃果が音楽室を出ていく。
扉が閉まる。
真姫は一人になった。
静かな音楽室。
誰もいない。
真姫は窓の外を見る。
「……高坂穂乃果」
先ほどまでそこにあった樹海は、もう消えている。
だが。
疑問だけは残った。
「どうして、あなたが樹海に入れたの?」
真姫には分からない。
普通の人間なら、ありえない。
そして。
今日出会ったばかりの少女の笑顔が、頭から離れなかった。
「……変な子」
真姫は小さく笑う。
この時、真姫はまだ知らなかった。
この日の出来事をきっかけに、西木野家が高坂穂乃果という少女に興味を持つことを。
そして数日後。
真姫自身が、その少女を見張る役目を与えられることになるのを。
――この時の真姫にとって、それはまだ未来の話だった。