穂乃果は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。
「……ピアノ」
昨日のことを思い出そうとすると、最初に浮かんだのは音だった。
静かな音楽室。
窓から差し込む夕暮れの光。
そして、美しいピアノの旋律。
確か、その音を聴いているうちに眠くなってしまったのだ。
「真姫ちゃん……」
名前を呟くと、なんとなく胸が暖かくなる。
昨日出会ったばかりなのに、もう一度会いたいと思っている自分がおかしくて、穂乃果は小さく笑った。
「今日もいるかな?」
そんなことを考えながら、穂乃果は布団から飛び出した。
◇
昼休み。
「はい、今日の依頼はこれ!」
穂乃果が机の上に何枚かの紙を並べる。
「……また増えていますね」
海未が眉を寄せた。
「昨日のうちに終わったものは消したんだけどね」
ことりが紙を覗き込む。
「図書室のお手伝いと、音楽室の備品整理。それから……校内新聞の掲示?」
「そう!」
穂乃果は大きく頷いた。
「新聞部の人が一人で全部やるの大変なんだって!」
「なるほど」
海未は紙を一枚手に取った。
「しかし、これは本当に部活動のようになってきましたね」
「でも、まだ勇者部じゃないよ」
「名前の問題ではないと思います」
ことりがくすくすと笑う。
「でも、困っている人を助けるのは楽しいよね」
「そう!」
穂乃果は嬉しそうに頷いた。
「今日もいっぱい助けるぞー!」
◇
放課後。
三人は図書室の手伝いを終えると、校内新聞を掲示するために廊下へ向かった。
新聞部から預かった紙面を掲示板に貼り付け、曲がっていないか確認する。
「よし!」
穂乃果が一歩下がって眺める。
「綺麗にできた!」
「少し右が下がっています」
「え?」
「ほら、ここです」
海未が指差す。
「ほんとだ」
ことりが端を持って調整する。
「これならどう?」
「完璧です」
「やった!」
作業を終えて三人が廊下を歩いていると、校舎の端から何かを叩くような音が聞こえてきた。
カン、カン。
一定の間隔で響く、小さな音。
「……何の音でしょう?」
海未が足を止める。
「行ってみよう!」
穂乃果は迷わず音のする方へ向かった。
「ちょっと、穂乃果!」
海未とことりも後を追う。
廊下の角を曲がると、そこには一人の少女がいた。
黒い髪。
赤いリボン。
小柄な身体。
少女は脚立に乗り、壁に何かを取り付けようとしている。
その足元には、大量の画用紙や布、それに何本もの棒が無造作に置かれていた。
「……何してるの?」
穂乃果が声をかける。
「きゃっ!」
少女の身体がびくっと跳ねた。
「ちょっと!」
脚立がぐらりと揺れる。
「危ない!」
穂乃果が慌てて脚立を押さえた。
少女は壁に手をついて体勢を立て直す。
「……あんたねぇ!」
少女が振り返る。
「急に声かけないでよ!」
「ご、ごめん!」
穂乃果は素直に頭を下げた。
「でも、大丈夫?」
「大丈夫よ!」
少女は鼻を鳴らす。
「これくらい、一人でできるんだから」
そう言って、また作業に戻ろうとする。
「何作ってるの?」
「音の木祭りの飾り」
「飾り?」
「そうよ」
少女は脚立から降りると、床に置いてあった布を拾い上げた。
「今年のクラス展示に使うの。みんな忙しいから、私がやってるだけ」
穂乃果は周囲を見回した。
確かに、作業道具はかなり多い。
「一人でやるの?」
「だから何よ」
「大変じゃない?」
「別に」
少女は即答した。
「自分でやった方が早いもの」
「そっか」
穂乃果は頷いた。
「じゃあ、手伝うね!」
「は?」
少女の顔が固まった。
「だから手伝――」
「いらない!」
即答だった。
「えぇ?」
「えぇ、じゃないわよ! 誰も手伝ってなんて言ってないでしょ!」
「でも大変そうだよ?」
「大変じゃない!」
「本当に?」
「本当!」
少女は腕を組んで睨みつける。
「私はこういうの得意なの。あんたたちに手伝ってもらわなくても、ちゃんとできるんだから」
海未が穂乃果の肩に手を置いた。
「穂乃果。本人がそう言っているのですから、無理に手伝う必要はないでしょう」
「うーん……」
穂乃果は少女を見る。
少女は明らかに「帰れ」と言っている顔だった。
「じゃあ……」
穂乃果は一歩下がる。
「困ったら言ってね!」
「だから困ってないってば!」
少女が怒鳴る。
穂乃果は笑った。
「うん!」
「……何でそこで笑うのよ」
「だって、元気そうだから」
「意味分かんない……」
穂乃果たちが立ち去ろうとした、そのときだった。
少女が再び脚立に乗った。
壁の高い位置に飾りを取り付ける。
片手で棒を押さえ、もう片方の手で紐を結ぼうとする。
だが。
「……届かない」
小さく呟いた。
脚立をもう少し動かそうとする。
その瞬間。
「危ない!」
穂乃果が駆け寄った。
「ちょっと!」
少女が抗議するより先に、穂乃果は脚立を押さえた。
「これなら届く?」
「……」
「ほら、やってみて」
「……」
少女は何も言わなかった。
少しだけ迷った後、再び作業を始める。
今度は安定していた。
紐を結び、飾りを固定する。
「……できた」
「やった!」
穂乃果が嬉しそうに声を上げる。
「だから、別にあんたのおかげじゃないわよ」
「でも、脚立押さえてたよ?」
「……それくらいなら、まあ」
少女は小さく呟いた。
穂乃果は気にせず笑う。
「じゃあ、もう一個も押さえるね!」
「まだやるの!?」
「うん!」
「……ほんとに図々しいわね、あんた」
そう言いながらも、少女は脚立を動かさなかった。
◇
しばらくして。
作業は思ったより早く終わった。
「……終わった」
少女が壁を見上げる。
色とりどりの飾りが並び、殺風景だった廊下が少しだけ華やかになっている。
「すごい!」
穂乃果が目を輝かせる。
「これ、一人で作ったの?」
「まあね」
「すごいよ!」
「……」
少女は少しだけ視線を逸らした。
「これくらい普通よ」
「でも、私はできないよ」
「それはあんたが不器用だからでしょ」
「ひどい!」
「事実じゃない」
少女は笑った。
ほんの一瞬だけ。
それから、すぐにいつもの表情に戻った。
「……じゃあ、私はもう行くから」
「うん!」
「……何よ」
「名前聞いてない!」
「ああ……」
少女は少し面倒そうに答えた。
「矢澤にこ」
「にこちゃん!」
「ちゃん付け?」
「うん!」
「馴れ馴れしいわね」
「よろしくね、にこちゃん!」
「……はいはい」
にこは手を振って歩き出した。
数歩進んだところで、ふと振り返る。
穂乃果たちはまだそこにいた。
穂乃果は笑っている。
海未は呆れたような顔をしている。
ことりはそんな二人を見て笑っている。
にこはしばらくその光景を見つめた。
――変な奴。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
頼んでもいないのに近づいてくる。
断っても勝手に手伝う。
それなのに、こちらが少しでも助かったと言えば、まるで自分のことのように嬉しそうに笑う。
「……ほんと、変な奴」
もう一度呟いて、にこは歩き出した。
◇
「ねえ、穂乃果ちゃん」
帰り道。
ことりが尋ねる。
「にこちゃん、また会えるかな?」
「会えるよ!」
穂乃果は即答した。
「なんで分かるんです?」
海未が尋ねる。
「だって、同じ学校だもん!」
「それはそうですが……」
「それに!」
穂乃果は振り返った。
「にこちゃん、絶対いい人だよ」
「……そうですね」
海未は苦笑する。
まだ出会ったばかりだ。
何を考えているのかも、どんな人間なのかも分からない。
それでも。
今日、穂乃果がまた一人の少女と出会った。
それだけは確かだった。
そしてその頃。
校舎の別の場所では、にこが一人で歩いていた。
「……高坂穂乃果、ね」
小さく呟く。
なぜだか、あの笑顔が頭から離れなかった。
それが何を意味するのか。
にこ自身にも、まだ分からなかった。。