放課後の校舎には、いつもとは違う音が満ちていた。
廊下を歩けば、どこかの教室から机を引きずる音が聞こえ、別の場所では誰かが大きな紙を広げている。階段の踊り場には普段なら置かれていない箱が積み上げられ、廊下の壁には色紙や案内板が立てかけられていた。
学校そのものが、少しずつ普段とは違う姿へ変わり始めている。
音ノ木祭り。
神樹の恩恵を受けて暮らす人々が、そのことへの感謝を表すために行われる催しの一つだった。
音ノ木坂学園も地域の一員として参加しているため、生徒たちもそれぞれの形で準備を手伝っている。
そんな校内を、穂乃果たちは歩いていた。
「今日の依頼はこれで全部かな?」
穂乃果が手にした紙を確認する。
「たぶんそうですね」
海未が答えた。
「ことりちゃんは?」
「こっちも終わったよ」
ことりが持っていた紙を見せる。
「じゃあ、今日はもう終わりだね!」
穂乃果が伸びをした。
その瞬間だった。
「だから無理だって言ってるでしょ!」
廊下の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。
三人が足を止める。
「……にこちゃん?」
ことりが小さく呟いた。
穂乃果はすぐに声の方へ向かって歩き出した。
「ちょっと、穂乃果!」
「何か困ってるのかも!」
「だからといって、勝手に――」
海未の制止を聞かず、穂乃果は廊下の角を曲がる。
そこには、数人の生徒を前にして腕を組んでいるにこの姿があった。
机の上には何枚もの紙が広げられている。
その中には、ステージの配置図や進行表らしきものもあった。
「だから、この人数じゃ予定通りなんて無理なのよ!」
「でも、もう変更を伝えるには遅すぎます」
「だから困ってるんでしょうが!」
にこの声には苛立ちが混じっていた。
ただ怒っているわけではない。
焦っている。
それが、穂乃果にもなんとなく分かった。
「あの……」
ことりが声をかける。
にこが振り返った。
「……あんたたち」
「何かあったの?」
穂乃果が尋ねる。
「別に。ちょっと予定が狂っただけよ」
「予定?」
「音ノ木祭りのライブ」
にこの後ろにいた部員が答えた。
「出演する予定だった子が急に参加できなくなって、構成を変えないといけなくなったんです」
「それだけ?」
「それだけって……」
部員が困った顔をする。
「ステージって、一人減ったから一人足せばいいってものじゃないんですよ。歌う場所も、立ち位置も、振り付けも全部変わっちゃうから」
「なるほど……」
穂乃果は真剣な顔で頷いた。
にこは机の上の資料を見る。
自分で作った進行表だった。
何度も書き直した。
曲順も。
立ち位置も。
時間配分も。
当日までに準備できることを全部考えていた。
だからこそ、一人抜けただけで全体が崩れてしまうことが分かっている。
「……どうしても、無理なの?」
穂乃果が尋ねた。
「このままじゃ無理」
にこは即答した。
「だったら――」
穂乃果が顔を上げる。
「私たちが手伝う!」
「は?」
「勇者部で!」
にこが固まった。
「……何でそうなるのよ」
「だって困ってるんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、助ける!」
あまりにも迷いのない返事だった。
にこは頭を抱えた。
「……あんた、本当にそればっかりね」
「勇者部だから!」
「便利な言葉にしないでよ」
しかし、にこはそこで断らなかった。
人数が足りない。
時間もない。
そして何より、ライブを中止したくない。
そんな状況で手を貸してくれる人間がいるなら、断る理由もなかった。
「……分かった」
「本当!?」
「ただし、勘違いしないでよ」
にこは指を立てた。
「ライブをやるのはアイドル研究部。あんたたちはあくまで手伝い」
「うん!」
「勝手にステージに上がったりしないこと」
「……え?」
「何よ、その顔」
「いや……」
穂乃果は少し考える。
「ステージに上がるのも手伝いになるんじゃないかな?」
「ならないわよ!」
にこが即座に怒鳴った。
ことりが口元を押さえて笑う。
海未はため息をついた。
「穂乃果。まずは裏方から始めましょう」
「はーい」
こうして、勇者部はアイドル研究部のライブ準備を手伝うことになった。
最初は、単純な手伝いのつもりだった。
荷物を運ぶ。
ステージを整える。
必要なものを揃える。
それだけのはずだった。
だが。
その日の帰り際。
にこが一人で残った資料を整理していると、机の上に置かれた進行表に目が止まった。
予定されていた構成。
変更後の構成。
そして、空白になった一人分の欄。
「……やっぱり、これじゃ足りない」
ライブを成立させるには、まだ何かが必要だった。
しかし、その答えをにこはまだ見つけられていなかった。