「アリス……そんなに緊張しなくても大丈夫だと思うけど……。
ご挨拶だけで疲れちゃうよ?」
「……うう、そうだねぇ……」
私の隣、ソファに腰掛けたクロードお兄様の場違いに思える呑気な言葉に私は思わずため息をつく。
……わざと緊張感のない言い方をしているのは、お兄様なりの気遣いだとはわかっている。
それはね、わかるんだけどね……。
「まあ……、緊張してないと言ったら嘘になるけど……。
それでも、私は自分の意志でここへ来てるから大丈夫。
お兄様はお兄様で、自分のできることをしっかりしてね」
「そうだね。僕は王城での勤めもあるから領地にかかりっきりで、とはいかないけど……それでも、アリスの分まで領地を立て直そうとがんばってる父様と母様の力になるつもりだから。
こっちのことは心配しないでね」
お兄様は私を気遣うように、その若葉色の瞳を揺らした。
「わかった、無理はしないでね。
でも……お兄様はティナお義姉様のためにもがんばらなくちゃいけないんだもんなあ」
「そうなんだよね……!
ティナさんを花嫁として胸を張って我が家に迎えられるように……。
そこは僕としても地道にやらなきゃいけないと思ってるからね」
ティナお義姉様の名前を出すやいなやお兄様の表情がふわっと柔らかくなる。
お兄様がお義姉様のことをとにかく大好きなのは、こちとらもう重々承知ですよ~。
我が兄ながら、この件に関してはほんとにわかりやすいんだよね……。
若干呆れながらお兄様へ視線を送ったところでコンコンという控えめなノックの音が耳に飛び込んできて、私達兄妹はハッと顔を上げた。
「お客様。アインホルン公爵ヤーコブ様ならびに夫人カロリーナ様がご到着なさいました」
執事に引かれた扉からまずは品のある紳士が、そしてその夫人らしき女性が入室してきた。
私たちは慌ててソファから立ち上がる。
「旦那様、奥様。こちら、フィッシャー伯爵家ご子息クロード様、ならびにご令嬢アリス様です」
「アインホルン公爵閣下と奥様にはお初にお目にかかります。
クロード=フィッシャーと申します。
こちらは妹のアリス=フィッシャーにございます」
「アリス=フィッシャーです。
この度は、公爵閣下と奥様には大変ありがたいお話をいただきまして、身に余る光栄です」
お兄様の立礼に釣られて頭を下げかけて、慌ててスカートの裾を摘まんで膝を折る。
私は立礼じゃなくてカーテシーだよ! 緊張しすぎか?
……うう……私の付け焼刃のお貴族マナーがどこまで通用するかなぁ……!
絶対に失礼なこととかやらかさないようにしないと……!
このご夫妻は、今日から私の雇い主となるお方……アインホルン公爵のヤーコブ様と、その奥様であるカロリーナ様。
短く切りそろえた濃紺の髪が印象的な公爵様はあまり表情を変えずにひとつ頷くと、私達にソファを勧めた。
すぐに侍女がお茶を運んで来る。
湯気とともに、ふわりといい香りが広がった。
「クロード君、アリス君。
君たちのお父上のフリード殿には、昔からとても世話になっている。
彼とは、お互い若かりし頃に共に文官として勤めていた頃からの付き合いだ。
だからこそ、今回のフィッシャー領地が厄災に見舞われたことについては私達もとても心を痛めているのだよ」
厄災、か。ちょっと仰々しい言い方にも感じるけど、まあ確かにそう表現するのが適当かもしれないね。
二年連続の台風の被害と、それからそれに伴う領地の経営悪化までの一連のことを指して言うならね。
「勿体ないお言葉です。
父も公爵閣下に直接ご挨拶したいと申しておりましたが、生憎領地を離れられず……」
「そうですわね、ご領地が大変な折でしょう。
致し方ありませんわ」
「フリード殿のことだ、きっと領地内をご自分の足で東奔西走しているのであろう」
夫人の言葉に、公爵様も深く頷いて応えた。
そうなの、自分で馬に乗って行ってしまうんです、あの人……。
それにしても、公爵様ってお父様のことフリードって名前で呼んでいるし、今の言葉自体もお父様のことをよく知る人からしか出ない言葉だよなぁ。
二人には、本当にそれなりの付き合いがあるんだねえ……。
私はほとんど王都に来たことがなくて公爵様とも初めてお会いするから、なんだか私の知らないお父様の姿を見るようで少し不思議な気分だけど。
「フィッシャー伯爵家として、公爵閣下のご恩に報います。
どうかよろしくお願いいたします」
我が領の窮地に手を差し伸べてくださった、このアインホルン公爵ヤーコブ様。
彼は最近宰相の座を退いたばかりの国の重鎮、超大物。
ご自身も仰っていたが、お父様とは若い頃文官として一緒に働いたことがあるらしい。
彼は条件つきで、私たちフィッシャー家に融資を申し出てくれた。
その条件というのが、他でもないこの私。
私は、ここアインホルン家の王都タウンハウスに使用人として出仕することを求められたのだった。
「いや。我が家としても、ちょうどタイミングのよい話だったのだよ。
よく仕えてくれていた若い使用人が一人、近々退職することが決まっていてね。
彼女から仕事を引き継いでくれる優秀な娘さんが来てくれるのならば、願ってもいない話なのだよ」
ひえっ……私がそんな優秀な方の後任が務まるかどうかはわかんないですけど~……期待が肩にずしっと重くのしかかってきた気がする……。
まあ、できる限りはがんばりますよ……。
「どうか、よろしくおねがいするわ。
それで……実はひとつ、アリスさんに提案があるのだけれど……聞いてもらえるかしら」
カロリーナ夫人は、私とお兄様の顔を交互に見た後なんだか少し歯切れ悪く切り出した。
カロリーナ様って、美人系というより可愛い系だな……。
綺麗な銀髪を少しゆるめに編み込んでまとめてある辺りも、若々しく見える秘訣なのかな。
「その……ね。この
二人の息子は王城に勤めているから、基本的には領地ではなくてこちらの王都のタウンハウスで生活しています」
ふむ、なるほど。ご子息がお二人いらっしゃるんだね。
公爵様と夫人は基本的に領地にいらっしゃって、領地経営に本腰を入れているそうだ。
うちのお父様もお祖父様が引退したタイミングで文官をやめたみたいだから、似たような感じなのかな。
だから普段この邸に住んでるのはその兄弟と、使用人たちだけ……ってことみたい。
「ただ、ね……。二人とも、その……婚約関係にちょっとした問題があって。
わたくしたち夫婦二人とも、とても困っているのよ……」
……んー? 年頃の公爵子息なのに、二人とも婚約者がいないってこと?
それって、ちょっとだいぶレアケースじゃない……?
普通公爵家くらいの高位貴族なら結構早めに婚約者って決まりそうなもんだよねぇ。
なんか……複雑な事情がありそうで、……こう、ひしひしと、嫌な予感がする……。
「これは例えば、の話ではあるが……。
もし、アリス君がイヴァンやゼノンと言葉を交わす中で互いに縁を感じるようであれば、その時は是非我が家への嫁入りを考えてはもらえまいか。
アリス君には、未だ婚約者はいない……と聞いているが、それは間違いないかね?」
「ええ、そうですね……」
まだ一応、そういう話はないですね……この場合幸か不幸か、どっちって言っていいのかちょっと微妙だけどさぁ。
「そうか、それはよかった。
……ああ、息子たちとの件は、まずは第一にアリス君の意思を尊重する。
アリス君にも息子たちにも、決して無理強いをするつもりはない。
どうか、それは覚えていてほしい」
「もしそうなった場合、ですけれど……。
そのときはアリスさんはもうこの家の者になるのですから、今回の融資についても融資ではなく援助という形にさせていただくわ」
……ほーん。なるほど、それは確かにかなり美味しい話だな。
つまり、もし私がその長男だか次男だかに見初められれば、うち……フィッシャー家の借金がチャラになるってことだよね?
「……わかりました。
私がご子息様たちのお眼鏡に叶うとはあまり思えませんが……機会がありましたら、是非ご子息様たちとご交流を深めさせていただきたいと存じます」
ま、機会があればね~、機会があれば。
うんうん。ないかもしれないけどね~。
「そうだねえ……アリスがそれでいいのなら僕は何も言わないけど。
……いや、まあ公爵家のご子息だから、きっときちんとした方たちだよね。
アリスの身に危険が及ぶようなことはないとは思うけど……」
お兄様が私に向かって小声でささやく。
ああ……その子息とやらの性格によっては、使用人相手なんてちょっと強引にことを運ぼうとすればいくらでも方法があるってことだよね?
確かにもし既成事実ができてしまえば、立場の弱い私はその時点で
「……クロード君の懸念ももっともだ。
フリード殿に誓って、アリス君の身に危険が及ぶようなことは決してさせないと約束しよう」
「そうですわね。
フィッシャー伯爵様からお預かりする、大切な娘さんですもの」
あらら、お兄様の囁きがばっちりご夫妻にも聞こえてたみたい……。
ちょっと気まずい気分になった私と違って、お兄様はなんだか呑気に微笑んでいる。
「そうですか、それを聞いて安心しました。
失礼な発言、どうぞご容赦ください。
重ねて、どうか妹をよろしくお願いいたします」
お兄様が立ち上がって頭を下げたのを見て、私はまた慌ててカーテシーをした。