令和十四年三月。
その日、日本のニュース番組では芸能人の結婚や景気対策法案の話題が流れ、世界中の人々はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。
太平洋を航行する大型コンテナ船「みなと丸」もまた、その一つだった。
船長の佐伯健一は船橋から穏やかな海を見渡していた。
風は弱く、波も低い。
レーダーにも異常はない。
長年海に生きてきた彼の経験から見ても、これ以上ないほど平和な航海だった。
「順調ですね、船長」
隣の航海士がコーヒーを片手に笑う。
「ああ。このまま行けば予定通り横浜だ」
そう答えた佐伯は、ふと海面へ視線を落とした。
黒い。
そう思った。
ほんの一瞬だけ。
海面の下に何か巨大な影が見えた気がしたのだ。
しかし次の瞬間には何もない。
ただ深い青だけが広がっている。
「……気のせいか」
疲れているのかもしれない。
そう結論づけた彼は再び前方へ目を向けた。
それが最後だった。
みなと丸との通信は、その三分後に途絶えた。
遭難信号は発信されていない。
爆発音も記録されていない。
救命ボートも発見されなかった。
二万トン級の大型船が、百名近い乗員ごと海から消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
最初の一件だけなら事故として処理されたかもしれない。
だが、その翌週。
インド洋で原油タンカーが消えた。
さらに北大西洋で貨物船が消えた。
南シナ海ではフィリピン籍の漁船団が丸ごと消息を絶った。
共通点は一つ。
残骸がない。
油膜もない。
生存者もいない。
そして遭難信号もない。
各国の海上保安機関や海軍は捜索を行った。
衛星画像を確認し、海底探査も実施された。
だが何も見つからない。
まるで海そのものが船を呑み込んだかのようだった。
四月。
失踪件数は三十件を超えた。
五月には百件を突破する。
ニュース番組は連日この話題を取り上げるようになった。
専門家たちは原因を議論した。
海賊説。
テロ説。
未知の海底火山説。
巨大生物説。
どの仮説も決定的な証拠を欠いていた。
SNSでは様々な噂が飛び交った。
『宇宙人だ』
『新兵器の実験だ』
『政府が何か隠している』
誰もが好き勝手なことを言った。
しかし世界中の海運会社だけは笑えなかった。
保険料は急騰し、一部航路では運航停止が始まる。
各国の株式市場も敏感に反応した。
物流企業の株価は下落し、原油価格は高騰した。
まだ誰も気づいていなかった。
これは単なる海難事故ではない。
人類史そのものを変える前兆だということを。
六月一日。
アメリカ海軍第七艦隊所属の哨戒機が、フィリピン海で異常な映像を撮影した。
深度不明。
大きさ不明。
海中を移動する複数の巨大物体。
その速度は潜水艦の常識を超えていた。
解析担当者たちは映像を見て沈黙した。
何かの誤作動だと結論づける者もいた。
だが、その三日後。
映像を撮影した哨戒機自身が帰還しなかった。
機体も搭乗員も発見されない。
残されたのは、通信記録の最後に残る短い音声だけだった。
『海面に何かいる――』
そこで記録は途切れている。
その頃、世界中の人々はまだ日常を生きていた。
会社へ向かい。
学校へ通い。
休日の予定を立てていた。
だが海では確実に何かが動いていた。
人類の知らない何かが。
深く暗い海の底から。
静かに。
確実に。
世界の海を奪うために。